脱走・3
馬車が走り出してから何時間たっただろう。カラザは王都を出て北方街道をまっすぐに四時間ほど進んだところにある。早朝に出て、ようやく日帰りが適うような距離だ。
カラザよりひとつ前の街で、朝とも昼ともつかぬ食事をとり、再び馬車に乗り込む。
しばらく走って、ロザリーは緑のにおいに気が付いた。
「なんか、森のにおいがしますね」
「街道沿いには大きな森はないぞ?」
「でも……」
ロザリーの田舎で嗅いだような森のにおい。集中して周りのにおいを嗅いでいく。馬が蹴り上げるときに湧き上がる土のにおい、森の空気を含んだ風。そしてわずかに水のにおいがする。
「水……。このあたりに川はありますか?」
「川は街道からはずいぶんとずれているはずだが。……おい、今はどこを走っている?」
ナサニエルが窓を開け、護衛に問いかける。護衛は馬の速度を調節し、小窓と並ぶような位置につける。
「町からは少しそれた位置に向かうそうです」
「なぜだ? そんなところにアイザックがいるのか?」
「御者の男はそう言っていますが」
警戒すべきかもしれません、と護衛は目で訴える。ナサニエルは無言で頷き、小窓を閉めた。
「ロザリンド嬢は嗅覚がいいんだな」
「はい。毒見に抜擢されたのもこの嗅覚のおかげですから」
「では君に伝えておくことがある」
ナサニエルは居住まいを正すと、ロザリーに顔を寄せ、小さな声で告げる。
「ここから馬車で二時間分ほど川に沿って北に向かえば、ケントリア領に入る。そこに王家の別荘があるのだ。カイラも一度行ったことがあるはずだ」
チラリとカイラに視線を送る。カイラは懐かしそうに目を細めた。
「ええ。イートン伯爵領から戻ったときですね」
あのときはマデリンからの妨害を危惧して遠回りして帰ってきたのだが、その休憩で使った別荘だ。
王が迎えに来てくれるとは予想もしていなかったので、カイラは動揺しつつも感激した。そのとき初対面だったザックはきっともっと驚いただろう。
カイラはあの時の息子の狼狽ぶりを思い出して、クスリと笑った。
「私はこれから、そこに向かうつもりだった。今後何かがあって、私がカイラと離れた場合、カイラを連れてそこまで向かってほしい」
「離れるって……どうしてですか?」
ガタン、と大きく馬車が揺れた。
「……っ、どうした」
「襲撃です。陛下」
護衛が大声を上げた。ナサニエルは咄嗟にカイラを抱き込み、ロザリーを馬車の端に押し込んだ。
脇に差した剣を抜き、二人を守るように構える。
「そんな……やはり罠だったのですか。私はあなたまで巻き添えに……」
青ざめて震えるカイラをギュッと抱きしめ、ナサニエルは落ち着かせるように冷静な声音で言う。
「そなたは騙されたのだ。悪いのは騙された方ではなく騙したほうだろう?」
「ですが。侯爵様が私を邪魔に思うのは仕方ありません。ですがあなたはこの国の王です」
「……傀儡の王だ。中途半端な反抗しかできない……な。世が望むのはもっといい王だろう。ロザリンド嬢、カイラを頼むぞ」
ナサニエルはそう言うと、馬車の戸を開けた。外ではいつの間にこんなにというように盗賊らしき身なりの集団に囲まれていた。
「……数が多いな」
「陛下、中にいてください!」
ふたりの護衛が悲鳴のような声を上げる。
だが、馬車の御者をしている男はアンスバッハ侯爵の手のものだ。ゆさぶりをかけ、ナサニエルを振り落とそうとする。
ナサニエルはカイラをロザリーに預けると、「頼んだぞ」と言って、扉から御者席へと飛び乗った。
護衛は外を囲う追っ手を蹴散らすので精いっぱいである。
「ひっ」
御者は突然現れたナサニエルに驚き、飛び降りようとしたところを押さえられた。
「動くな」
「ひっ」
長剣を首に当てられ、すくみ上る。
「私を殺せと言われてきたのか? それともカイラか?」
「そんな滅相もない……」
「少なくとも、騙したのは事実だろう? どこにアイザックがいる?」
ナサニエルは容赦なく剣をするりと鞘から抜き、鎖骨に沿って刃を動かす。御者の服がはらりと切れた。
「ひいっ。あ、アイザック様は本当は見つかっていません」
「ではやはり騙したということだな」
周囲では護衛と盗賊まがいの剣の打ち合う音がする。
だが、ナサニエルは妙に静かな気分だった。ようやく侯爵が直接自分を追い落とす気になったかと思うと、変に気が楽になる。
利用する気でとはいえ、協力してくれる人間を殺めるのは、ナサニエルには無理だった。
こうして殺意をあらわにされたことで、ようやく自分の中で過去の義兄と決別できる。
「ならば私も、相応の手に出よう。アラン!」
「はっ」
ナサニエルは護衛のひとりを呼ぶ。
精鋭の護衛は、倍以上の人数の敵をすでにあと三人というところまで減らしていた。
「馬車を。安全なところまでカイラを連れて行ってくれ」
ナサニエルは御者を捕まえたまま馬車から飛び降りる。アランは驚いて目を剥いたが、御者を失ったまま走る馬車を追いかけることにした。
中にいたカイラとロザリーは何度も伝わってくる衝撃に、小さな悲鳴を上げていた。
「大丈夫です。カイラ様。陛下は絶対に無事ですとも」
まるで祈りを捧げるようにロザリーは何度もつぶやく。
「カイラ様、ロザリー様、しっかり捕まっていてください」
護衛の声がして、ふたりは体を抱きしめ合う。
うしろから追手が来たようで、剣を打ち合う音もする。その間も止まらない馬車に、気が気ではない。
(でも、なにがあってもカイラ様を守らなきゃ。陛下のためにも、ザック様のためにも)
次の瞬間、ぐらりと馬車が傾いだ。
「カイラ様っ」
車体が何度か回転し、抱きしめ合っていたふたりは開いた扉から放り出される。体に何度か伝わる衝撃に力が緩みそうになったが、ロザリーは必死にカイラを抱きしめた。




