脱走・1
「お待ちしておりましたよ。カイラ様」
待ち構えていたのは、アンスバッハ侯爵だ。
事前の話では、彼は一緒に行かないということだったが、黒の外套を羽織っている。カイラは警戒心を覗かせながらも、おずおずとアンスバッハ侯爵に向き合った。
「侯爵様。お約束通りアイザックのことは誰にも伝えず、外遊してくるとだけ告げて出てまいりました。侯爵の部下は本当にアイザックを目撃したのですか?」
「それを確かめるため、カイラ様にご足労いただきたいのです。もちろん、護衛もこちらで用意させていただきました。道中、危険の無いように手練れを呼んでおります」
ロザリーはふたりの会話を後ろで聞きながら眉を寄せた。侯爵側の護衛など、むしろ危険なだけだからいらないと思う。場所だけ教えてもらって自分たちだけで行ったほうがいいのでは……と思ったところで後ろから声をかけられる。
「カイラ、どこに行くのだ」
カイラとロザリーが揃って振り向くと、そこには不機嫌そうな顔のナサニエルがいた。
カイラの判断で、今回の件はナサニエルに報告していない。だから、彼がここに現れたことが不思議で、ロザリーは言葉を失ってしまった。
一方ナサニエルは不機嫌さを隠そうともせず、カイラを自らの背に隠すように侯爵との間に立った。
「侯爵、私の妻をどこへ連れていく気だ」
侯爵は呆れたように笑って見せる。
「陛下、誤解なさらないでいただきたい。実はアイザック殿の目撃情報を得たのですが、どうも記憶をなくしているようで……。御母堂のカイラ様に確認していただこうとお連れするところです」
「アイザックが見つかったのなら、連れてこれば良かろう」
「本人が望んでいないのですよ。記憶がないことで、助けてくれた人間たちしか信用していないようです」
しれっと答える侯爵をナサニエルが睨みつけると、彼はふっと口もとを緩めた。
「やれやれ、我が妹にもそのくらいの執着をお見せくださればいいのに」
マデリンを引き合いに出され、ナサニエルが軽く反応する。が、一瞥しただけでそれに関してはそれ以上語らなかった。「どこに向かうのだ?」と、カイラに視線を送った後、侯爵に向かって問いかける。
「北にあるカラザの街です。アイザック様の目撃情報を持ってきた男を御者としてつけております。私は執務がありますので、他に護衛ふたりをつけて送り出すつもりだったのですが」
「……私が一緒に行こう。護衛はこちらで用意する。カイラ。出発を一時間遅らせるんだ」
カイラは戸惑っていた。
クロエにはナサニエルにも報告するように言われていたが、カイラは結局、内緒にすることを選んだ。執務で忙しい夫に、心配事を増やさせたくはなかったからだ。
今も、一緒に行くと言われて、素直に頷いていいのか分からない。
ロザリーが、そっと腕に触れ、「陛下のお気持ちをありがたく受けましょう」と言うと、ようやく頭が動き出したように「ええ」と小さく笑った。
その様子を見ていた侯爵は、皮肉気に笑う。
「陛下はカイラ様のことになると過保護ですな。まあいいでしょう。カラザはギリギリ日帰りのできる距離です。一泊される場合はご連絡を。本日の執務の調整は私にお任せください」
「ああ」
ナサニエルはカイラの肩を抱き、一度室内に戻る。三十分もしないうちに護衛の準備が整い、出発となった。
既に侯爵は執務に戻っていて、カラザまでの案内の男だけが待っていた。護衛は騎乗していて、馬車を囲むように配置される。
馬車が走り出してしばらくして、カイラが不審そうに問いかける。
「……あの、陛下はどうして……今日のことが分かったのです……?」
カイラの消え入るような声に、ナサニエルはため息を吐き出した。
「クロエ嬢が教えてくれた。カイラには相談するように進言したが、どうでしたか、とな」
第三王子の婚約者とはいえ、自分から王に発言するのは相当の勇気がいるはずだ。ロザリーは心の中でクロエに称賛を贈った。
「そうでしたか。お怒りですか? 相談もせず、罠かもしれない誘いに乗るなど」
「いや、そなたならばそうするのだろうな、と思っただけだ。だが、私も一応アイザックの父親だ。そなただけに任せるわけにはいかない。たとえ罠でも、息子の無事を知る可能性があるならかけてみたいだろう」
「ですが、陛下になにかあってはこの国が……」
「……国は私がいなくても回るだろう。すでにそのような体制になってしまっている」
御者には聞こえないよう、小声で言う。
「早く失脚したほうが、もしかしたら被害は少ないかもしれん」
カイラは無表情ともとれるナサニエルの横顔に見入った。ロザリーも、かける言葉を見つけることができずに押し黙る。
「陛下……?」
「いや。それに、そなたとこうして出かけることなど、ほとんどなかっただろう。私はいい夫ではなかった。だから一度くらい、こうして馬車で旅を楽しんでみるのも悪くないと思ったのだ」
「楽しめる旅になればいいですけど」
カイラは苦笑して、それでも夫の気遣いに感謝した。
「陛下、もし陛下になにかがあったら、カイラ様は一生今日のことを気に病んでしまうでしょう。どうか御身を大事になさってください」
ロザリーがそう言うと、ナサニエルはちらりとカイラを見て、口もとを緩ませた。
「……そうだな。己を犠牲にして守ったつもりになっても、何もならないのだと、前もそなたが教えてくれたのだったな」
「教えたなんてそんな」
たいそうなことはしたつもりはない。ただ、お互いに思いあっているのにすれ違っている二人を見ていられなかっただけだ。
「私は私の大切な人を守る。ロザリー嬢もだ。君はアイザックの大切な人だからな」
「はい。私も、アイザック様の大切なおふたりを守ります」
「では私も、私の大切な方と息子の大切な人を守りましょう」
まるで誓いの儀式のように、三人は互いにそう言いあった。




