逃走と潜入・3
数日後、ロザリーは久方ぶりにイートン伯爵と連れ立って伯爵家に戻った。
ところが、馬車が玄関前に止まっても見送りが出てこない。
「なにかあったかな。行こうか、ロザリー嬢」
伯爵にエスコートされ馬車を降り、中に入ると屋敷は大騒ぎだった。
「どうしたんですかぁ?」
「あ、ロザリー様、旦那様も。お出迎えが遅れて申し訳ありません」
慌てた執事が持ってきたのは一枚の紙だった。
【大変お世話になったのに、勝手をして申し訳ありません。オードリーを迎えに行きます レイモンド】
レイモンドの書付だ。
「オードリーさんをって……侯爵邸に行ったんですか?」
「何を考えているんだ。全く、どいつもこいつも勝手に動きすぎだ」
イートン伯爵が、珍しく舌打ちをする。
「クリスさんは? 連れて行ったんですか?」
「それが、レイモンド殿はクリスお嬢様と散歩に行くと言って出ていったのです。一時間ほど前になります」
だとすれば、クリスも一緒に連れて行ったというのだろうか。
レイモンドがまだ幼いクリスを危険にさらす道を選ぶとは思えない。違和感がむくむくと沸き上がるが、レイモンドがそれくらい切羽つまっているのは分かっているつもりだ。
切り株亭第一だったレイモンドが、店を放って連れ戻しに来たのだ。
それくらい、彼はオードリーが大切なのだ。せっかく連れて帰れる段になって、今度は警備隊からの拘束。そして行方不明。居場所が分かれば、すぐに飛んでいくかもしれない。
そして、居場所を教えてしまったのは他ならぬロザリー自身だ。
「……どうしましょう、イートン伯爵」
「そうやって私に意向を聞いてくれるのは君ぐらいだ。大事に育てているのに、ケネスもクロエも勝手なものだよ」
その恨み言は分からないでもないが今はいらない。目でそう訴えると、伯爵は再び深いため息をつく。
「こう言っては何だが、レイモンド君があっさり侯爵邸にはいれるとは思えないんだ。侯爵邸は貴族街でも王城に近い位置にある。雇い人もほどんとが住み込みの地域だ。平民がふらふらしているだけで目立って仕方がないと思うんだよ。ましてクリスちゃんもいるなら」
「……探しに行ってみましょうか」
「そうだな。今無茶したってなんにもならない」
ふたりは頷き、貴族街へ馬車を走らせる。
レイモンドとクリスは貴族街に入って間もなく、見つかった。子連れの平民は、貴族街ではひどく目立っていたし、平民街を抜けるまで歩いてきたことで、クリスは疲れ切っていて、ぐずぐずとレイモンドの服の裾を引っ張っていたからだ。
「レイモンドさん、クリスさん」
「ロザリーちゃん!」
真っ先にロザリーに気づいたのはクリスだ。久しぶりに自然に抱き着いてこられ、ロザリーはなぜかホッとした。
まだ誰かに甘える気持ちを失っていない彼女に、安堵したのだ。
「ロザリー」
むしろレイモンドの方が、切羽つまった顔をしている。
「レイモンド君。戻りたまえ。貴族相手に、君ができることはないだろう?」
イートン伯爵の問いかけに、レイモンドは唇を噛みしめる。
「……前もそうでした」
沈痛な面持ちで語り始めたレイモンドの拳は、小さく震えている。
「オードリーが結婚するとき、貴族の男相手に、俺が敵うわけがない。絶対に俺より幸せにしてくれるはずだ。そう思って、オードリーを送り出したんです。……でも実際、オードリーは幸せだったんでしょうか。夫を早くに亡くし、こんな風に拘束されて」
「レイモンド君」
「今度こそ、俺は手を離したくないんです。相手が貴族でも、もうあきらめたくない。だって俺は、誰より彼女を想っている自信がある」
「レイモンドさん、だけど……」
レイモンドは、ロザリーに向かって頭を下げた。
「頼む。どうかクリスを守ってやってくれ。俺ひとりなら、なんとかしてアンスバッハ邸に潜りこむこともできると思うんだ」
「ですが……」
ロザリーはクリスを抱きしめる。オードリーがいなくてただでさえ不安なクリスが心配でならなかった。
「……分かった。いいだろう。クリス嬢は私が責任もって面倒見てやろう」
「伯爵?」
ロザリーは目を剥いた。イートン伯爵は感極まったように声を震わせている。
「愛に生きるなんて……素晴らしいなぁ。貴族同士にはないこの情熱。……ふふ」
「は、伯爵ぅ」
どうやらイートン伯爵は感激屋のようだ。
ロザリーだってレイモンドの気持ちは分かるし応援したい。
しゃがんでクリスと目線を合わせ、「クリスさんは待てますか?」と聞いてみる。
クリスの瞳にジワリと涙が盛り上がる。それでも彼女は唇をキュッと結び、レイモンドのところに駆け寄った。
「レイ。ママを助けてくれる?」
「あたり前だろ? だけどそのために、クリスをひとりにしてしまう。ごめんな」
「ううん。だったらクリス頑張るから。絶対に迎えに来てね」
レイモンドはうっすら涙をうかべ、それを見られないようにクリスを抱き上げた。
「……もちろんだ」
「クリス、毎日お祈りするからね。レイに教えてもらったケーキも、毎日作るから。だから、帰ってきたら食べてね」
「ああ。きっと、……最高にうまいだろうな」
掠れた声に、ロザリーはつられて泣いてしまう。
レイモンドとクリスは血は繋がってなくても間違いなく親子だ。信頼し合うその姿に、胸が打たれる。イートン伯爵も馬車に隠れて号泣していた。
「とりあえず、下働きとして入り込もうと思っています。雑用でも何でも、とにかく屋敷にさえ入れれば情報が得られると思うんで」
「あの屋敷に君の顔を知る者はいないだろうから大丈夫だとは思うが。なにかあればすぐ戻ってくるんだ。こちらでもオードリー殿を解放する手立ては考えてみるから」
「ありがとうございます、イートン伯爵。ご恩をこんな形で返すことになって申し訳ありません」
「いやいや。君はまた戻ってくるのだろう? 恩はこれから返してもらうから問題ない」
レイモンドはクリスをロザリーに託すと、深々と頭を下げた。
そして、ひとり、貴族街を歩いていく。
ロザリーと伯爵とクリスは馬車に戻り、そのあたりをしばし巡回した。
泣き止まないクリスを抱きしめながら、ロザリーも決意を固める。
何の罪もない家族を引き離すなんてことが、許されていいはずがない。アンスバッハ侯爵に必ず罪を認めてもらう、と。
そして三人が馬車で屋敷に戻ると、別の報せが待っていた。
「旦那様、ロザリー様、大変です」
「なんだ。クリス嬢なら連れて帰って……」
「アイザック様が行方不明となりました!」
ロザリーも伯爵も、息が止まるかと思った。
冗談であって欲しいともう一度執事を見つめたが、彼は沈痛な面持ちで続ける。
「先ほど、一報が入りました。出立して二日目に、休憩先の宿舎を出てしばらくして山賊に襲われ、ザック様と護衛は散り散りに逃げたそうです。荷物の馬車と一人の護衛は無事にグリゼリン領についたそうなのですが、アイザック様と護衛ふたりが未だに行方不明だと」
執事の声が、頭の奥の方に反響する。
つい先日、前向きに与えられた未来を生きようとする彼を見送ったばかりだ。
なのにまた、さらなる悲劇が彼を襲うなんて。
「嘘です……。どうして?」
「山賊に……? あの辺に賊が住み着いているなんて聞いていないぞ」
さっと顔を青ざめ、イートン伯爵は手早く言いつける。
「ケイティを呼べ。それと早馬を準備しておけ」
「……ロザリーちゃぁん」
クリスが、震えながら抱き着いてくる。彼女のおかげで、ロザリーは取り乱さずに済んだ。ギュッと抱きしめ返し、自分にも言い聞かせるように言う。
「大丈夫です。ザック様が死ぬわけありません」
それでも声が震えるのは止められなかったし、不安を消すこともできなかったのだが。