逃走と潜入・2
「……行ってしまいました」
「そうね。こんな形で旅立たせることになるなんて」
ロザリーは自分を支えていた力が抜けたようだった。立ってはいるけれど、体の芯がふにゃふにゃしている。今ソファに座ったら、立ち上がれなくなってしまいそうだ。
「……ふう」
それはカイラも同じだったようで、彼女は部屋に戻るとソファに深く座り、背中を預けると、大きなため息をついた。
「とりあえずひと段落ね。これが正しかったのかは、私には納得しかねるけど」
「そうですね」
それでも、ずっと軟禁されているよりはいいはずだ。
精神の疲弊は、彼を壊してしまう。病んでいた時代を知っているロザリーには、彼の心の安寧が一番大事だった。
「アイザックは行ったんだな」
やがて、国王が顔を出した。
彼は彼で、疲れた顔をしている。
バイロン王子の葬儀後すぐにカイラを呼び戻し、アイザック王子を擁護し続けたことで、アンスバッハ侯爵派の貴族からは批判的な態度を取られている。
一部では、『寵妃の息子を次期国王にするために、王自らが王太子を手にかけたのではないか』などという、不敬極まる噂も流れた。
その時のカイラとの会話は、ロザリーの記憶にはっきりと残っている。
『不思議なものだな。私は昔からバイロンを優遇し続けていたのに、ちょっと状況が変わっただけで、口さがない者たちは直ぐに主張を変える。あの者たちは今まで、なにを見ていたのだろうな』
苦笑するナサニエルの手を、カイラが、気遣うように握った。
ふたりの心温まる光景を見たとき、ロザリーが思い出したのは、アイビーヒルで出会った頃のザックだった。
(きっとあのときのザック様も、こんな風に傷ついていたんだ……)
何を信じればいいのか、分からなくなる。権力に近い場所にいるほど、そんな状況に出会いやすいのかもしれない。
彼はそれで、心を壊した。そしてアイビーヒルに逃げてきたのだ。
けれどいつまでも逃げ続けてはいなかった。この国を立て直したいと、王都に戻っていったのだ。そんな彼が、どうして国の中枢から追われなければならないのだろう。
ロザリーは不思議だった。
国のことを思う人間が集うべきところが王城であり議会だ。なのに今は反対のことが起きている。己の利ばかりを願う人が集まり政治を回すこの国は、正しく国としてあれるのだろうか。
「あら、あなたがアイザックのことを気にするとは思いませんでしたわ」
カイラの声に、ロザリーは我に返る。冷たい言葉で迎えられたナサニエルは苦笑していた。ザックの一件以降、彼らの喧嘩は続いているのだ。
といっても、カイラはもともと主張の強い女性ではない。怒っていてもナサニエルの訪問を断ることはないが、言葉の端々にあの決定に対しての棘がある。
「そう言うな。息子がかわいくないわけないだろう」
「それはそうですわね。あなたの息子はあの子だけではありませんもの」
カイラにしては尖った言い方に、さすがのナサニエルも苦笑する。
「お前に責められるのは堪える。絶対に悪いようにはしないから、いい加減機嫌を直してくれ、カイラ」
「……知りません」
ツンとそっぽを向いたが、カイラの意地が長く続かないことは、長年連れ添っているライザはもちろん、ロザリーにもたやすく分かった。
「私達はしばらく隣室に控えております」
ライザは小さくそう言うと、ロザリーを引っ張って部屋を出た。
「……仲直りなさいますかね」
「そろそろ焦れた陛下が強引にでも仲直りなさいますでしょう」
「ですね」
ロザリーとライザは微笑みあい、自分たちもお茶をいただこうと、テーブルについた。