逃走と潜入・1
しばらくは、平和な日々が続いた。
クロエは婚約決定以降、カイラの侍女を辞め、今はマデリンの傍についている。
第一王妃は、第三王子の婚約者をかいがいしく世話しているのだという噂が、ロザリーたちのもとにも聞こえてきた。
昔も今も、国王の公務に随従する妃は、第一王妃マデリンだ。そのため、彼女には専用の衣裳部屋が与えられている。
今日はクロエにも衣裳を仕立ててあげると言われ、彼女の衣裳部屋に呼び出されていた。
中に入り、マデリンからたくさんのドレスを見せられたクロエは、ひそかにため息をついた。
あきれるほど、たくさんの衣裳がある。たしかに王妃に衣裳は必要だろう。王族は国の顔だ。他国からの目もあるし、国内のファッションリーダーになる立場でもある。
けれどマデリンの衣裳は、公務で着るには派手なものが多すぎる。
(ごてごてしたレース、煌びやかな宝石。ひとつひとつは素敵だけど、すべて足し算したら過剰すぎるわ。ただでさえ、マデリン様はお顔も派手なのに)
そう思いながらも、「まあ、上質なレースですこと」とお世辞を言うのは忘れない。
クロエは女同士の交流に慣れている。わざわざ見せるということは、褒めて欲しい気持ちの表れだし、娘を持たないマデリン妃は、嫁に対して娘のように構いたいという欲求があるのだろうということも想像がついた。
(デザインがワンパターンなのよね。スカート部分のふくらみを抑えるだけでも印象が変わるのに)
時々手を止めながらも、ほうとため息をつきながらドレスを検分していくクロエを、マデリンは得意気に見やった。
「どう? 気に入ったデザインはあって? あなたはどんなのが好みなのかしら」
「どれも素敵です。マデリン様の仕立て師はセンスがございますね」
「ええ。腕は確かな仕立て師よ。私が王妃になってからのドレスはみんな彼に作ってもらっているの」
「お呼びですか?」
衝立の奥にいた仕立て師が、ひょこりと現れ、うやうやしく礼をする。
「アーロ、こちら、コンラッドの婚約者よ。クロエ様というの。今後は彼女のドレスも仕立てていただくわ」
「アーロ・ワイルドと申します。お見知りおきを、クロエ様」
「初めまして。よろしくお願いいたしますわ」
クロエは改めて男を観察する。
年の頃は四十代後半くらいだろうか。面長で青の瞳が綺麗だ。うねりのある髪は栗色で、クロエは一瞬既視感に襲われる。
(……どこかで見たことがある?)
しかし、考え直しても思い当たらない。
「アーロ、次の夜会にこの子も連れていきたいの。夜会向けのドレスを作ってくれる? 私のものと部分的にお揃いにしてもらえないかしら」
「お揃いですか。親子のようで素敵じゃないですか。……ではまずデザイン画からお好みのものを選んでいただきましょう。こちらへどうぞ」
膨大な量のデザイン画があるが、これといったものに出会えない。
国のファッションリーダーでもある王妃が懇意にしている仕立て師だから、人気はあるのだろうが、クロエの趣味とは合わないのだ。
面倒になったクロエは、「私はあまりセンスが無くて。……アーロ様はどれが合うと思います?」とやる気がないときの奥の手を使う。
「そうですね……」
ぺらり、と画帳をめくる彼の横顔を見て、クロエはハッとした。
癖のある栗色の髪から覗く、やや傲慢さを感じさせる瞳。彼が似ているのは、コンラッドだった。
*
ザックがグリゼリン領に向かう準備がトントンと整っていく。
ロザリーはカイラのお使いと称してザックと会う時間を設けていたが、あまり長ければ怪しまれる。短い会話時間で確認できたことは、オードリーがアンスバッハ侯爵邸にいるのは間違いはないだろうということくらいだ。
「グリゼリン領についたら手紙を書くよ。カモフラージュで母上あてで書くけれど、君に宛てたものだから」
「はい。あ、もちろんカイラ様にも書いてくださいね」
「分かってるよ。母上のこと、……頼むな」
考えれば寂しさが襲ってくる。
会えなくなって、アイビーヒルから彼を追いかけてきた。せっかくまた会えるようになったのに、彼は捕らえられ、傍にいるのに顔も見られない生活が続いた。そして再び訪れる別れ。
王子様との恋は、なかなかおとぎ話のようにめでたしめでたしとはいかない。寂しさは胸に隠して、ロザリーは微笑んで見せた。
「安心してください。ザック様の代わりに、ちゃんとカイラ様をお守りします」
「頼りにしてる。……それに、離れてもひとりじゃないしな」
ロザリーが渡したジンクスのあるペンダントを、茶目っ気たっぷりに見せてくれ、ロザリーも笑って服の上から自らのペンダントを押さえる。
「君からのプロポーズの記念だ。一生大事にする。……二年後、俺から、ちゃんとプロポーズするから、それまで待っていてほしい」
「……はい!」
これまでの期間に、ザックとの思い出の品はたくさんできた。
今見せてくれた、ロザリーから贈ったペンダントもそうだし、においを嗅ぐときに口元を隠すように、と彼が昔贈ってくれた扇も、大切にとってある。今は、侍女という立場上、なかなか使うことはできないが。
それらを思い出していると、永遠の別れでもないのに、感極まって泣いてしまいそうだ。ロザリーが目尻をそっと押さえるのと同時に、カイラが入ってくる。
「アイザック、時間ですよ」
ザックは今日これから、グリゼリン領へと向かうのだ。馬車で十二時間かかるため、途中一泊する予定である。
領土の半分は山があり、しかもそれは険しい。土地は広けれど街はほんのわずかというグリゼリン領は、外敵の侵入がない土地ではあれど、観光地としての魅力もない。農耕地も少ないため、資源といえるものはわずかだ。
僻地とも言える土地をどうすることもできなかった領主は、三十年前に国に土地を返還し、土地は国預かりとなっていた。
ザックはこれから、そこを自身の王国と思って復興させなければならないのだ。
「……行ってくる」
「はい。お待ちしてます」
ふたりの間にあるのは口約束でしかない。
だがロザリーは、たしかに幸せだった。彼の気持ちを疑うことなど何もない。
今度は命を狙われることもない。苦しくても、生きていてくれるならそれだけで十分だ。
先に下働きの人間は送ってあるため、見送られるのは、騎乗して向かうザックと護衛三人、馬車一台分の荷物だった。
イートン伯爵も見送りに来て、カイラとロザリーが揃って手を振る。
しばらくは馬車から手を振ってくれた彼も、やがて中に入っていく。
見えなくなると、カイラとロザリーどちらが先ということもなく、ため息が出た。