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蘭陵王伝  夏至の記  (9)  作者: 天下井 涼
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王琳将軍の野望

父王琳が斉に亡命し、長く青蘭の心に引っ掛かっていた父との和解がなった。

しかし、斉の朝廷は複雑で、さまざまな思惑が渦巻く伏魔殿であった。


長恭と青蘭が改修された大門を入ると、簡素な垂花門(すいかもん)がある。二人が前庭から邸内を見回すと、会稽郡公府は決して大きい屋敷ではない。


会稽公府として下賜された屋敷は、前王朝の王族であった元氏の旧邸であるため、改修前は放置され荒れ放題であった。勅書で招聘しておきながら、改修が必要な屋敷をあてがうことには、王琳に対する侮りを感じざるを得ない。

王琳は斉の薄情さに落胆(らくたん)したが、鄭家からの助力で屋敷の改修をするしかなかった。

外貌(がいぼう)は最小限の修繕に留め、内装は、住み易さを旨として豪華さを排した簡素なものにしたのだ。


女人の商売が一般的な斉であっても、士大夫の夫人が商賈に関わることは、好ましいとはされていないのである。ゆえに鄭氏が、王琳夫人として公の場に出ることは無かった。


邸内の家人は、侍女よりも家僕(かぼく)が多い。王琳に従って斉に来た梁の旧臣を多く召し抱えているからである。

門衛に案内され、前庭をに進むと、王府の家宰(かさい)である石顕(せきけん)が現れた。石氏は、青蘭が建康にいた頃から、王家の家政を取り仕切り青蘭の世話をしてくれていた家僕である。

「石顕、お前も無事だったの?よかったわ」

青蘭は、思わぬ再会に喜びを露わにした。

石顕は満面の笑みをうかべたが、礼に則って揖礼(ゆうれい)をした。

「将軍と、夫人が四阿でお待ちでございます」


中秋節は過ぎたが、後苑の小径(こみち)の両側には、桔梗の青紫の花が今を盛りと咲き誇っている。睡蓮池沿いに小径を回ると築山(つきやま)があり、喬木(きょうぼく)に隠れて四阿(あずまや)の反り返った屋根が見えた。


長恭と青蘭は、四阿に近づくと(きざはし)を昇り、入り口の前に立った。

「義父上と義母上に、ご挨拶を申し上げます」

長恭と青蘭が挨拶をすると、王琳と鄭佳瑛は笑顔で迎えた。

「おお、堅苦しい挨拶はよい。今日は、家族だけの団らんだ」


王琳は、正面に座る娘婿を見遣った。秀でた鼻梁に清雅な曲線を描く眉の下には、妖艶とも見える瞳が、王琳に控えめにほほ笑みかけている。

鄴都に来てみると、高長恭はその美貌と皇子としての爵位により、予想していたより遥かに注目を集める存在であった。

王琳は、青蘭への悪意に満ちた噂を鄴都で耳にした。青蘭が父親の政治力を笠に着て太皇太后令を出させ、長恭との政略結婚に持ち込んだという根拠のないものだった。また、青蘭が嫉妬深く長恭への付け文を取上げて焼却しているという噂であった。

人並み以上の容貌を持つ自分の娘が、高長恭に嫁いだばかりに嫉妬されて悪意を以て語られていることに、王琳は心穏やかではなかった。王琳は、青蘭に話しかけようとする玲瓏な婿の横顔を見ながら眉を潜めた。


長恭は立ち上がると、屋敷の落成祝いとして朱の漆塗りの櫃を差し出した。

「義父上、王洽(おうこう)の書が手に入りました」


王洽は、書聖である王義之の族従兄(いとこ)で、同時代に活躍した能筆(のうひつ)の文人である。王義之と王洽は、旧来の書体に飽き足らず新しい書体を創出しようとしていた。王洽は、若い時にはむしろ王義之よりも評価が高かったほどだ。

「おう、・・・王洽の書か」

王琳は、櫃から王洽の書を取り出すとじっくりと眺めた。

楷書(かいしょ)が成立する途中の大胆にも勢いのある王洽の手跡である。東晋から梁へと激動の時代を潜り抜け、斉の皇宮まで伝わってきた貴重な書であった。


「ありがたい。書房に飾らせてもらおう」

王琳は、目じりに皺を寄せながら書を櫃の中に仕舞った。

王琳は武人でありながら梁の廷臣らしく、書への造詣(ぞうけい)が深い。梁や晋の能筆家の手蹟は、士大夫にとって玉よりも貴重な品なのである。

青蘭は、安堵(あんど)の笑みを浮かべながら長恭の肩を指で突いた。

「ほらね、父上のお気に召すとおもったわ」

笑みを交わし合う青蘭と長恭の眼差しは温かく、宮中に流布している噂は真実ではないようだ。


鄭佳瑛は、優雅な所作で四つの杯に茶を注ぐと、四人に勧めた。

「陛下のご厚意で、南朝から来た我々が、このように屋敷を構えることができた」

王琳は、手を前で組むと小さく拱手した。

「しかし、(わし)とて、いつまでもここに留まることは、本意(ほんい)ではない」

王琳は、銘茶を口に含むと強い目線を長恭に向けた。

「淮南で梁の再興を望む旧臣は多い。必ず陛下の勅命を得て陳への守りに付けるように働きかけるつもりだ」

王琳は、あくまでも陳への対抗心を捨てていないのだ。


斉の朝廷は、義父上が考えるほど道理が通るところではない。

「義父上、・・・この斉の政を握っているのは、陛下でもなく、大丞相の常山王でもなく、太傅の高帰彦なのです」

蘆思道や高帰彦と共に高帰彦を失脚させる企ての失敗を思い出し、長恭は唇をかんだ。

王琳は一筋縄ではいかぬ斉の朝廷の状況に、険しい顔になった。

帰順の挨拶と会稽郡公の叙爵の時に、王琳は高演と面会をしている。しかし、王琳も何之元も、高帰彦と面識はなかった。

「斉の朝廷は一筋縄ではいかぬな。・・・」

王琳が思案顔で腕を組むと、鄭佳瑛が言葉を差しはさんだ。

「高帰彦の夫人とは取引があるので、様子をさぐってみますわ」

鄭家は、絹や装身具の取引で多くの高官の屋敷に出入りしている。しかし、商賈である鄭家の價主として、鄭佳瑛は、あまり目立った動きはできない。

「義父上、直接高帰彦と面識はありませんが、常山王や御祖母様に近しい者でしたら紹介できると思います」

長恭は、清雅な笑みを浮かべると青蘭を見遣った。


           ★                ★


王琳は、露台の椅に座ると卓に置いた愛用の佩剣(はいけん)を長い櫃の中から取り出した。

水平に構えると、(さや)から剣を抜く。午後の陽光に照らされて刀身(とうしん)の美しい文様が輝いている。

かつて、梁の元帝の側近として召された時、信頼の印として元帝より下賜された剣である。この佩剣は、王琳が溢城(いつじょう)で潜伏していたときも常に身近に置いていた。

しかし、戦闘の中で刃がこぼれ柄も傷ついてしまったため、鍛錬(たんれん)に出していたのだ。その剣が、今日戻って来たのだ。

『陛下、・・・斉に帰順しましたが、この王琳、梁の再興を忘れてはおりません』

王琳は南の蒼空(そうくう)を見上げると、瞑目(めいもく)した。


姉が湘東王(しょうとうおう)簫繹(しょうたく)の妃になったことをきっかけとして、近習として従うようになった。簫繹が元帝となってからは、その命により多くの兵を率いて出征し、江州や巴州で北周の軍を打ち破ってきた。


しかし、元帝は時に酷薄(こくはく)な君主でもあった。輿望を集める王琳を警戒し、たびたび遠ざけたり獄に繋いだりした。王琳が元帝の怒りを買い、南方の広州刺史に追いやられた。

しかし、その間隙(かんけつ)を突いたのが西魏であった。西魏は将兵を南方に急進させ、瞬く間に江陵を包囲した。王琳は、広州から兵を率いて江陵を目指したが、時すでに遅く元帝は刺殺されてしまっていた。

その後、江陵には西魏の傀儡(かいらい)である後梁が建てられ、拠り所を失った梁の旧臣達は各地に割拠(かっきょ)した。その中で輿望(よぼう)を集めたのが王琳であったのだ。


軍閥が各地に割拠する中で、梁の旧都であった建康を占領し、新たに陳を建てたのが陳覇先(ちんはせん)であった。建康での梁の再興を熱望した王琳は、長江に大艦(たいかん)を仕立て東に向かい建康に攻め上ったのだ。


(わし)の勇み足であったかもしれん。しかし、有力家臣の離反(りはん)が相次いだあの時、あれが最後の機会であったのだ』

王琳は、陳への決戦を決断した時のことを思い出した。

北周を北へ追い、陳を倒して梁を再興してこそ、元帝の無念を晴らすことができる。

王琳は午後の陽光の中に立ち上がると、剣を鞘の中に納めた。


             ★                    ★


太陽が西に傾く頃、王琳は、屋敷の寝殿の北に造らせた矢場で、射術の鍛錬に汗を流していた。

(えびら)から矢を抜き、弓に(つが)えた。大きく弓を引き絞り的の中央をねらう。

幼少の頃より鍛錬してきた技は、裏切らない。息を止めて矢を放つと、矢は鋭い音を立てて正確に的の中央を射抜いた。

ほっと息をついた王琳は、それからまた息を止め三射続けて素早く矢を放った。しかし、矢は大きく軌道を外れ、赤い印の外にまばらに刺さった。


王琳は、顔をしかめながら左の肩をゆっくりと回した。体の傷は完治しているものの、連射するなど腕を素早く動かすとまだ痛みがある。

『斉の政の混乱は、予想以上だ』

王琳は矢を几に置き射術の鍛錬を終えると、手巾で汗を拭いた。

名目上は大丞相の高演が執政を行っているように見えて、高帰彦が実権を握っている。朝廷の権謀には慣れている王琳であったが、様々な思惑(おもわく)が絡み合った斉の皇宮は、さながら伏魔殿である。


侍従(じじゅう)何之元(かしげん)の来訪を告げた。

「王琳将軍、郡公府の完成をお祝い申し上げます」

何之元が、文人らしく丁寧に揖礼(ゆうれい)をした。


何之元は、元々は梁の史官であった。西魏による建康の陥落の混乱の中、王琳の配下となったのである。王琳が陳や北周と戦う一方、斉の朝廷への働きかけを行うべく、命により鄴都に滞在してたのである。

何之元は斉の朝廷の事情に通じ、多くの高位高官と繋がりがあった。また、顔之推などの儒学者とも交際があり、顔氏門下の学堂に出入りしていた。


「おお、何之元か。迎えもせず・・・」

王琳は、六十歳に近いこの老臣に敬意を払い、露台に誘い茶の用意をさせた。

龍井茶(りゅうせんちゃ)ですかな。さすがにいい香で・・・」

何之元は、銘茶の香に頬を緩ませた。

「そなたには、今般の叙爵では、鄴都での交渉に苦労を掛けた。市井に住まっては何かと不自由であろう。この屋敷に舎殿を用意しよう」

王琳は何之元の苦労をねぎらい、参謀として側に置きたい意向だった。

「今後とも、将軍のお力になりたい。しかし、今まで通り親仁坊の屋敷に住まった方が、いいかと・・・」

皺のよった面長の顔に笑みを浮かべて、手で制した。

何之元は、東市の近くの小邸に住まい、一儒者の顔をして顔之推邸で書経について講義をする傍ら、斉の高官たちに働きかけを行っていたのだ。

「そなたには、今後も、朝廷の様子を探ってもらいたい」


王琳は、手づから茶を注ぐと何之元に勧めた。何之元の意見も聞いてみたかった。

「この斉は、混乱しておる。まず、第一に(よしみ)を通じるのはどこがよいであろう」

茶杯を(たばごころ)で温めながら太い眉を潜めた。

「今上帝高殷は、遅かれ早かれ高演に譲位するでしょうな。しかし、実権を握っているのは高演ではない」

何之元は、白くなった顎髭(あごひげ)をしごいた。


「この斉で押さえるべきは、高演はもちろん、尚書令の高帰彦と婁太皇太后でしょうな」

何之元は、鋭い眼差しを王琳に向けた。

「鄴都で朝廷を(もっぱ)らにしているのは尚書令で宰相の高帰彦(こうきばい)だ。機を見るに(びん)とは、その者の為にあるような言葉だ。楊令公の側近でありながら、二月の政変ではいち早く寝返って、今では当時の勢力を(しの)ぐ勢いなのだ」

どうやら、何之元は、高帰彦を唾棄すべき人物と感じているらしい。

「信義にもとる高帰彦だが、大業の為なら手を結ぶこともやぶさかではない」

王琳は、茶杯を傾けた。


「そして、婁太皇太后でしょうな。・・・東魏の大宰だった高歓の正室で文宣帝高洋、大丞相高演の母である婁昭君は、一度令旨(れいし)を出せば、それに逆らう者はいないほどの力を有する。この二人を抑えることだ」

王琳は、何之元の言葉をきいて顔が凍り付いた。婁太皇太后とは、それほどの力を持つ人物であったか。王琳は婁氏の力を知らず、青蘭の婚儀に際して皇太后令を(ないがし)ろにしてしまっていたのだ。

「何之元殿、・・・何ということ。・・儂は、娘と婿の婚姻に際して、皇太后令を蔑ろにしてしまったようだ」

「将軍、・・・そ、それは、蘭陵王と青蘭殿の婚儀でしょうか?」

何之元は、眉を潜めた王琳の顔を見ると、信じられぬというようにかぶりを振った。

「ああ、娘の婚儀に際して感情の行き違いがあってな、・・・」

何之元は、ほっと胸を撫で下ろした。

「王将軍、・・・早く太皇太后と関係の修復を図ることです。高帰彦については、人脈を探しまする」

何之元は、厳しい顔で顎の髭をしごいた。


           ★             ★


鄴都から南西に五十里のところ洹水の辺に、龍山があった。

その太行山脈の一部を形作る龍山の南麓に、雲門寺が建立された。かつて文宣帝が僧稠(そうしゅう)に深く帰依し、都の喧騒(けんそう)を嫌った僧稠のために龍山の南に雲門寺を建立しその住持(じゅうじ)としたものであった。

雲門寺は文宣帝の死後も、斉の皇室の大きな保護をうけていた。特に婁皇太后は信心深く、多くの財物を寄進するとともに、避暑を兼ねて参拝することが多々あった。


この年の六月の半ば、暑さに弱い婁皇太后は、鄴都の暑さを避けるために龍山にある雲門寺に滞在していた。

父王琳の要請を受け、高長恭と王青蘭は、婁氏への暑中見舞のめを名目に、雲門寺を訪ねた。


鄴都を出て安陽に一泊し、南下すると灌木に囲まれた洹水(たんすい)の清い流れが見えてくる。

洹水は林慮山から清水を集めて東進し、清河に合流する河川である。高長恭と王青蘭の一行は、洹水にそって西進すると遥か彼方(かなた)に龍山の青い姿が見えてくる。


長恭と青蘭、そして四人の護衛の一行は、洹水のほとり槐の大木の下で休憩を取った。

中秋節も近い秋の日であるにもかかわらず、日中は真夏を思わせる日差しがある。槐の木の陰は、旅人に安息の木陰を作ってくれた。


青蘭が、馬から降り呼吸を整えていると、長恭が水筒を青蘭に渡した。

「御祖母様は、先帝のころを懐かしんでおいでだ」

雲門寺への長逗留の理由を訊く青蘭に、長恭が答えた。


先帝高洋は、建国時こそ賢帝の呼び声が高かったが、ほどなく酒毒にまみれ多くの廷臣を殺し弟の高演でさえも傷つけるなど乱倫(らんりん)の限りを尽くした皇帝であった。

しかし、母親の婁氏にとっては、大切な我が子なのである。その我が子が建立した雲門寺に滞在し、在りし日の息子を偲びたいに違いない。

「皇太后様は、先帝の早世に心を痛めていらっしゃるのね」

青蘭は、水を一口飲むと手巾で汗を拭いた。龍山の山麓をかなり上って来たせいか、木陰に入ると吹く風は涼しい。

「父上が暗殺され、御祖母様は叔父上に期待をかけていらっしゃったのだ。しかし、叔父上はその期待に応えられず、二人の間には言葉に表すことができないわだかまりがあったのだ」


長恭の父である高澄は、祖父高歓の地を受け継ぎ、武勇の誉れ高く漢籍にも通じた文武両道の美丈夫であった。早くから嫡長子としてその将来を嘱望されていた。宰相となり晋陽に幕府(軍事政権)を樹立し、もう少しで斉の建国に手が届くところに来ていたのだ。

そんな時、梁からの奴婢による暗殺にあったのだ。そして、その仇を討ち政権内を掌握したのが高洋であった。

四兄弟の中で、唯一美貌に恵まれず一番風采が上がらないと言われていた高洋に、ついに権力への道が開けたのだ。


しかし、いつの間にか高洋の心の歯車が狂ってしまったのだろう。母子の感情の行き違いは、苛烈を極め、ついには皇太后殴打事件に至ってしまった。そのごの高洋は、坂を転げ落ちるように酒乱の度を増し、食欲を無くして衰弱しをしてしまったのだ。


「皇太后様は、そのわだかまりもあって、常山王の即位をお許しにならないの?」

二月の政変以降、官吏はもちろん皇族や今上帝までも、疑心暗鬼(ぎしんあんき)に陥り斉の政に支障をきたしているのだ。しかし、皇太后の逆鱗(げきりん)に触れることを恐れて、だれも口に出せないのだ。

「それだけではない。御祖母様は、高殷のことを心配しているのだ」

長恭は、青蘭に顔を近づけて来た。

「今上帝の心配?」

青蘭が汗を拭こうとすると、長恭が手巾を取り青蘭の額の汗を拭った。

「君も、『史書』を呼んでいるだろう。廃帝になった者がどんな運命をたどるか」

長恭は、愛を語るように頬を押せて暗い未来を語った。

槐の木の陰を落とした長恭の瞳は、底知れぬ湖の様に憂いの色を帯びていた。譲位を迫られた皇帝は獄に繋がれるか密かに暗殺されるのだ。青蘭は、北魏の皇帝であった中山王の最期を思い出した。

「まっさか、常山王は、仁徳に篤い方です。中山王のようなことは・・・」

青蘭が声高く言おうとすると、長恭は人差し指で青蘭の唇を抑えた。昏い言葉は、昏い未来を呼び込むだけでなく、潜んでいるかもしれない密偵により罪に落とされる恐れもあるのだ。


長恭は、女にしては長身の深翠色の狩衣姿の青蘭の腕を取ると、軽く摩って青蘭の顔を覗き込み話題を変えた。

「山道は険しい。疲れたであろう?馬車で来ればよかったな」

青蘭は城外に出るときは、馬車を好まない。その騎術は並みの男を凌ぐが、体力の不足は如何ともしがたい。自分の体力を過信してやり過ぎるのが唯一の欠点であった。

「こんな山道など大丈夫。私は江陵から・・・」

青蘭は、胸を張り背伸びをするようにして槐の幹に寄りかかった。

「江陵から、鄴都まで馬に乗って来たのだろう?」

長恭は、青蘭の言葉を引き取ると笑みを浮かべた。

「君の勇気に感謝したい。・・・そのお陰で私たちは出会い。夫婦の契りを結べたのだ」

青蘭は、宿を取った安陽での昨夜を思い出して、顔を赤らめた。

「その言葉、・・・ちょと」

「何?夫婦の契りか?・・・婚儀を挙げたということだ。何も恥ずかしがることないだろう?」

長恭は、不敵な笑いを浮かべると、青蘭の方に身体を寄せて抱き着いてきた。士大夫は、夫婦であっても人前では身体に触れたりしないのが普通である。

四人の侍衛は、顔を背けて無関心を装っている。

「長恭、人が見ている。・・・噂になるわ」

「誰もいない。・・・むしろ、噂になってほしいのだ。高長恭は、妻を溺愛していると。そして、要らぬ噂を払拭してやる」


汗と沈香の甘い香りが混ざった野原の草花のような香りに、うっとりと目を閉じると、右耳に香しい息がかかって来た。青蘭は全身を貫く甘い衝撃に体の力が抜け、唇から吐息が漏れた。青蘭が潤んだ瞳で長恭を見上げると、長い睫毛に縁どられた清澄な瞳が下りて来た。

「・・・夜まで待ってて」

長恭は、吐息まじりに囁くと青蘭を抱く腕に力を込めた。


            ★               ★


雲門寺の寝殿にあたる文昌閣では、太皇太后による歓迎の宴が開かれた。

「長恭が、龍山まで来てくれるとは、何と喜ばしいことだ」

婁氏は、涼しさのために食欲が出てきたのだろうか、青蘭が持参した李の薄切りに手を付けた。

「本当に、雲門寺は、清々しいところです。このようなところで禅の修行に励めば、我々のような凡人でもきっと悟りを得られるでしょう」

長恭は、笑顔で蜂蜜酒を口に含んだ。

「太皇太后様、いつ鄴都にお帰りになるのですか?皆の者が寂しがっております」

青蘭も酒杯を口に運んだ。

「秋も近い。もう帰らなければならぬのだが・・・」

鄴都にいれば、常山王や長広王などの廷臣が引きも切らずやって来て高殷の廃位の令旨を求めてくるに違いない。ゆえに、鄴都には戻りたくないのだ。


「そう言えば、王琳将軍が江南より鄴都に来たとか。しばらく療養していたのであろう。体は大事ないのか?」

秀児が小豆の粥を運んできてためだろうか、婁氏は話題を変えた。

「はい、陛下をはじめ常山王のお蔭をもちまして、戚里に屋敷を賜り落ち着きました。・・・父は、まだ四十前ですので、ぜひ陛下のお役に立ちたいと申しておりました」

鄴都の屋敷に諾々としているのが、王琳の望みではないことを、婁氏に印象付け、淮南の地域への守備に就かせてもらいたいのが父の願いだった。

「義父上は、淮南ではその指揮に従う者も多くいるといわれます。対陳の対応に当たらせるのも一案かと・・・」

長恭は、熱っぽく語ると、祖母の顔を窺った。

「王琳の武勇と輿望は、聞いておる。必ず、斉の為に働いてもらおう。・・・まず、時期を待て」

婁氏は、笑顔で頷いた。

「御祖母様、ありがとうございます。義父上にそのように伝えます」

長恭は、小さく拱手した。


「そうか、・・・せっかく龍山に来てくれたのだ。実は私にも、話があるのだ。・・・いつなのだ?私に曾孫を抱かせてくれるんは?・・・はやくしないと間に合わなくなるのだ」

婁氏は、いきなり子供を産めと言って来たのである。

婁氏は、最近心臓の具合の悪い時があり、甥を感じるようになってきたのだ。そのとき、長恭について心配なのは、子供がいないことであった。青蘭以外に妻のいない長恭は、すでに二十歳になった。この時代では、一人や二人の子供がいて可笑しくない年齢になっていた。

「そればかりは、・・・何とも・・・神か仏に・・・」

長恭は、明け透けともいえる祖母の言葉に、シドロモドロニなった。

婚儀を挙げてから一年あまり、毎夜、臥所(ふしど)を共にする喜びにかまけて、子供のことは考えられなかった。しかし、愛孫に子供がいないことは祖母にとっては、物足りないのであろう。

「確かにそなたたちはまだ若い。しかし、子の無いことを理由に、妾を推挙(すいきょ)されたら何とする。拒めぬであろう」

青蘭は、婁氏の言葉に肝が冷えた。長恭が、妾を持つということは、あるのであろうか。高官の令嬢であっても、長恭の側室であれば望んでくるものはいるだろうという想像が青蘭の心を締め付けた。

「妾など、持つ気持ちもありません。むりやり妾を持たされるなんて絶対にいやです」

長恭は、心外だというように頬を膨らませた。

「そこで、・・・そなたたちの生年月日から、合歓(ごうかん)によい日を選んでもらった」

婁氏は、そう言うと櫃から料紙を出して、長恭に渡した。料紙には、八月中の多くの日時が、墨で書き込んである。

「長恭よ・・・祖母の期待を裏切るでない。」

婁氏は笑顔でそう言うと、二人を客殿に案内させた。


              ★                 ★


王琳が斉に亡命した後、北周は勢いを得て巴州、湘州を支配するようになった。

一方、勢力を増強した陳は、これを包囲して北周軍の糧道(りょうどう)と援路を遮断(しゃだん)したのだった。北周は、巴州、湘州を救うべく、軍司馬の賀若敦(かじゃくこう)に六千の兵を与え、援軍に向かわせた。

陳の武州刺史である呉明徹(ごめいてつ)は、自軍が劣勢であるため、武州を捨てて巴州に退いた。北周の武将である賀若敦は、勢いに乗じて連戦連勝し、湘州にたどり着いた。

しかしこの時、秋の長雨により長江が氾濫し、北周よりの補給路を断たれてしまったのだ。


九月になり、北周は車騎将軍である独弧盛(どっこせい)を水路より巴州、湘州の援軍に向かわせた。一方陳は、湓城を支配していた候瑱(こうしん)を迎撃に向かわせた。かつて王琳に従った任忠や樊毅(はんき)も今は陳の兵を率いてこれに従った。


このようにして、王琳のいなくなった湘州、羅州一帯の戦いは、北周と陳の勢力が拮抗し混戦の様相を呈した。


父王琳の野望を実現させるために、青蘭と長恭は、本格的に朝廷工作に乗り出していくことになった。

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