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蘭陵王伝  夏至の記  (9)  作者: 天下井 涼
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王琳と青蘭 父娘の和解

長恭や敬徳、鄭家の尽力により斉からの勅書が出された。陳への投降も考えていた王琳は斉への帰順を決めた。王琳の帰順は長江沿岸に広まり、多くの旧臣が彭城に集結した。

五月半ば正式な勅使(ちょくし)彭城(ほうじょう)の鄭家を訪れ、斉の今上帝の名による勅書が王琳に届けられた。そして、勅書には大丞相である高演からの手簡が添られていた。

高演からの手簡には、流麗な文章で王琳の功績が書き連ねられ、その忠心に仰敬(ぎょうけい)の念を抱いていると記されていた。聞くところによると梁で官吏として仕えていた多くの漢人が登用され、斉の朝廷で活躍しているという。


王琳は高演からの手簡を閉じると、几案の上に積まれた料紙を手に取った。陳に投降した梁の旧臣たちからの帰順を促す手簡である。

旧臣達は、陳の武帝と激戦を繰り広げたにもかかわらず、陳の朝廷では高官として遇されているという。王琳が臣従すれば陳の中枢に官位を得られるはずであると書いて来ているのである。


梁の元帝に仕える前、妻の鄭佳瑛と一緒に鄴都へ行った時に見た鄴都の情景を思い出していた。

長い戦乱の中で南朝の城邑が破壊され、往時の姿を留めていないのに対して、北斉では領土を広げ鄴都は隆盛を誇っている。

妻の鄭佳瑛の実家である鄭家は、斉でも指折りの商賈である。斉の繁栄に合わせて商売の手を広げ、彭城、大梁(だいりょう)、鄴都、洛陽、長安、晋陽などに支賈(しか)を構えている。行商人を通じて各地の政治状況などの情報も彭城に集まってくるのだ。

斉に戻り鄭家の商売に関わるようになった鄭佳瑛は、鄭家の情報網で得られた各陣営の状況を王琳に伝えてきていた。

また、形勢が不利となり兵糧が尽きたかけた時に兵糧を融通したのは、鄭家であった。


勅書を送って来た斉に帰順するべきか、建康に都を構える陳覇先に投降するべきか。

陳の武帝である陳覇先は、元々は王琳と同じ梁の将軍であった。しかし、西魏に元帝が殺されると、陳覇先はその後の混乱に乗じて陳を建国したのである。

元帝を攻めた西魏はもちろん、梁を裏切った陳への王琳の恨みは深い。斉と合力して北周や陳を破ってこそ、元帝の仇が打てるのである。

しかし、陳が都を置く建康は慣れ親しんだ故郷である。北斉が中原にあるとはいえ、鮮卑族の支配する北斉に降ることは、士大夫としての誇りを失うに等しかった。


扉の方を見ると、長子の王敬(おうけい)が足早に入ってく来た。王琳が彭城に来たのに合わせて合肥に潜伏していた王敬と簫莊も彭城に入っていたのである。

「父上、斉にいる何之元(かしげん)より手簡が届きました」

何之元は、王琳が斉に朝廷に遣わした腹心である。王琳は、一読すると王敬に渡した。

「斉の大丞相である高演は、父上の功績を称えて、高官として遇したい意向だと書いてあります。何之元の政治的工作が効いたのでしょう。朝廷よりの招聘(しょうへい)は何よりです」

王敬は、幾多の苦難を乗り越えてきた元之元の労をねぎらった。

「そなたは、陳に仕官するつもりはないのか」

王琳の長子ともなれば、たとえ庶出とはいえ陳の朝廷はそれなりの地位を用意してくれるはずである。

「私とて、父上の梁への忠義は存じております。高位高官に登ろうと陳への仕官は本意ではありません」

王琳の正妻である謝氏と嫡子の王珩は、長安に滞在している。北周と結んでいる陳に従えば、庶長子である王敬は引け目を感じることになる。


「王敬、斉の朝廷も決して平穏ではない」

王琳は、几案から立ち上がると壁に掛けられた書巻物の前に立った。

王義之が、自分より優れていると評した漢の文人張芝(ちょうし)の書巻きである。南朝では、中原で繁栄を極めた漢王朝からの文化が、戦乱のなかでも連綿と受け継がれてきたのだ。

ところが、鮮卑族の国である斉では、荒くれ者の将軍たちが幅を利かせ皇宮でも血生臭(ちなまぐさ)い謀殺が日常茶飯事(にちじょうさはんじ)であるという。


「斉では二月に政変があり、高演が実権を握っている。しかし、譲位は行われず。政情の行き先は不安定だ」

王琳は、太い指で書巻きの縁をなぞった。不安定な政情の中で、武人として廷臣として生き抜いていくことは生易しいことではない。

王敬は、父親の気持ちを引き立てるように笑顔を作った。

「父上、・・・むしろ、政情が不安定だからこそ、父上の望む大業もできるというものです」

流動的な斉の政治情勢は、北方に本拠地を持つ鮮卑族にとって淮水南岸の防衛は手薄になりがちである。それは、斉の力を借りて陳と対抗したい王琳にとって、(ぎょ)し易い情勢と言える。

「そういえば、鄭家の家人の話では高長恭は、蘭陵郡王(らんりょうぐんおう)叙爵(じょしゃく)されたそうですね」

蘭陵郡と言えば、彭城からほど近い徐州の一郡である。二十歳にしての郡王への叙爵とは皇子としては遅いとはいえ、王家の婿としては十分な身分である。

「父上、高長恭は、太皇太后の秘蔵っ子で、散騎侍郎として執政にも参画しているとか。父上、婚姻に際しては、太皇太后や高長恭と行き違いがあったとか、でも斉の朝廷でやっていくならこの二人こそ父上の力になれる方です・・・」

散騎侍郎は清官であり、皇族の子息としてその将来を嘱望されていると言っていい。


王琳は、長恭と青蘭の婚姻の話が来たときに、長恭についての情報を集めたのだった。

高長恭は文武に優れ、その名は宮中に広く知れ渡っていた。当時は爵位は得ていなかったが、皇子でありながら散騎侍郎として精勤し、軍務に付けば多くの将兵を見事に統率していたという。婿としては、申し分ない経歴であった。

しかし、高長恭の美貌は宮中に広く知れ渡り、多くの令嬢と浮名を流していた。太皇太后の令旨による賜婚であれば、一種の政略結婚と言える。その場合、青蘭の婚儀後の生活は、夫の女性関係で忍従を強いられるのは明らかであった。


王琳にすれば、噂で聞く放蕩者の高長恭より、江陵で会った高敬徳の方に男としての器の大きさを感じ、好感を持ったのだった。

『高長恭は、娘を託せるような男ではない』

噂により形作られた高長恭の放蕩者の人物像は、強固であった。そのため、長恭の美貌に目がくらんだ一時の気の迷いで常軌を逸れてしまった青蘭に腹を立てて許そうとしなかった。婚儀を挙げた後も、贈物はもちろん青蘭から来る手簡にさえ返事をしなかったのだ。

しかし、斉の朝廷を味方につけ、陳を打倒するためには手段を選んであるわけにはいかない。

「・・・斉に帰順しよう。・・・(わし)は斉に臣従しても、陳を打倒する望みは捨ててはいない」

王敬は、日焼けした王琳の顔を見詰めた。  


          ★                ★


王琳の斉への帰順が淮水流域一帯に知れ渡るにつれて、多くの梁の旧臣が南朝の各地から彭城の城内外に参集した。大敗を帰したにも拘わらず、忠義心篤い将軍としての王琳の名声は、衰えず梁の旧臣達の輿望を集めていたのだ。

斉の朝廷に帰順の書簡を認めた王琳は、王琳は梁の旧臣であった将兵を率いて鄴都へ向かうことになった。実際には、数十人の部隊に分かれ、商隊に身をやつして目立たぬように北西への道をたどった。陳留から大梁、そして黄河を渡って安陽郊外までおよそ半月の移動であった。


             ★               ★


「奥方様、王琳将軍が、安陽に到着なされたとの知らせが参りました」

残暑が残る夏の午後、蘭陵王府の書房で、『文選』の手写をしていた青蘭は、顔を上げて筆を置いた。

『とうとう、父上が、到着なされたのね』

安陽は、鄴都に隣接する城邑(じょうこ)で、凱旋の時などはここで装束を改めて鄴都に入城するのである。父王琳は、そこで長旅の疲れを癒すとともに朝廷からの沙汰(さた)を待つのであった。

『父上は、・・・私を許してはくださらないわ』

父王琳は、謹厳実直で知られている。父親の怒りを思うと、青蘭は身のすくむ思いがした。

青蘭は、立ち上がると窓越しに西の空を見上げた。

『あの空の下に、父上のいる安陽がある」

王琳に対する悔恨と恋しさが、青蘭の胸を締め付けた。


       ★                ★


「義父上が、今日安陽に到着なされた。・・・聞いているか?」

皇宮から戻り、着替えのために鏡に向かった高長恭が呟いた。

「ええ、・・・昼に知らせがあったわ」

青蘭は、長恭の後ろから長衣の帯を回した。縹色(はなだいろ)の薄絹の長衣に黒い牛革の帯を締めた長恭は、広い背中がすっきりと清雅な様子である。長恭は、振り向くと青蘭の腕を捉えた。

「明日、安陽で行き・・・義父上に会って来よう」

長恭を見上げていた青蘭が、急に憂い顔になると横を向いた。

「父上に会わせる顔がないの。・・・父上は、お許しにならないわ」

青蘭は、衣桁(いこう)に掛けてあった浅葱色(あさぎいろ)背子(はいし)を手に取ると長恭の広い背中に着せかけた。衣に()()めた沈香の香が、夏の宵闇にゆっくりと流れて行く。


長恭は、青蘭の手を引き後苑の露台に出た。

寝殿や回廊には灯籠が掲げられ、後苑の所々には篝火(かがりび)が明々と焚かれていた。睡蓮池の水面が篝火に照らされて夕闇の中で灯りを反射している。

「義父上とは、何年も会っていないだろう。・・・会いたくないのか?」

長恭は、青蘭の顔を覗き込んだ。


「こたびの大敗を思うと、父上に申し訳ないわ。もし、私が逃げ出さず斉との政略が成っていたら、父上の戦況も違っていたと思えるの。私は、とんだ親不孝な娘だわ。父上に会わせる顔がないの・・・」

青蘭は、睡蓮池の方に顔を背けると肩を落とした。夕闇の睡蓮池に点々と咲く睡蓮の白い花が透明な涙のように見えた。

「青蘭、君は私の力の無さを責めているのか・・・」

長恭が青蘭を背中から抱き締めると、耳元で囁いた。

「そんな、・・・責めるなんて」

青蘭は、振り向いた。

「これは、・・・君のせいではない。自分を責めるな」

長恭は、青蘭の肩に腕を回した。

「あの時、君が敬徳と結婚しても、援軍は出せなかった。前の清河王ならいざ知らず、若い敬徳にはそんな力はなかった。だから、・・・自分を責めるな」

長恭は、小声でそう言うと頬に唇を当てた。


青蘭にとっては、父王琳が一番苦しい時に力になれなかったことが、何よりも心苦しかった。

「でも、何か違っていたはずよ。・・・私に責任が無いとは言えないわ」

「義父上は陳に決戦を仕掛けて大敗をきしてしまった。それまで君の責任か?」

勝敗は、時の運である。時には思わぬ勝利もあるし、理由の分からない敗戦もある。そのため、国の興亡や戦の勝敗は、天の意思であると考えられていた。

「義父上は、梁に忠義の限りを尽くされた。しかし、大きな天の意思には逆らえない。・・・だから、青蘭、自分を責めないでくれ」

長恭は、青蘭の手を握った。青蘭の長くなった髪が、夏の宵の風になびいている。

「もし、君に罪があるとしたら、その罪は私も共に背負おう。・・・君の側にいるのが、私の幸せだからだ」


長恭は、腕に力を入れて青蘭を腕の中に捕らえた。

「私は、父の命に逆らい、敬徳様からの婚姻から逃げたのだわ・・・」

青蘭が自分を許せないのは、幼き頃より教え込まれた規範を破ってしまったことである。

「敬徳から君を奪ったと罵倒されたら、私は甘んじてその(せめ)を負う・・・」

長恭は優しく微笑むと額に唇を当てた。

「君と私の出会いは、天意だと思わないか?・・・もし、君が違った選択をしていたら、私は今でも希望のない世界にいたのだから」

長恭は、抱き締めると後ろに垂らした青蘭の髪を優しく撫でた。


           ★             ★


立秋が過ぎたにも拘らず、午の刻に近くなると真夏のような熱い風が中庸門街に吹いていた。

長恭と青蘭は、安陽に向かって馬車を走らせていた。紫苑色(しおんいろ)の秋らしい外衣をまとった青蘭は、いつもより念入りに装束を整えていた。

「父上は、私に会ってくださるかしら」


三年前、父に逆らって江陵を出奔して以来、初めて顔を合わせる青蘭は、(くら)い顔で俯いた。

王琳将軍は、その忠義と共に謹厳実直(きんげんじっちょく)さでも知られている。青蘭が父親に逆らって江陵を脱出したことは、王琳にとって簡単に許せることではない。昨夜、父親に会う決心をしたにも拘らず、青蘭の心は揺れていた。

「君が、今幸せであることを見せることが、一番の親孝行ではないのか。・・・義父上は、それでもお許しにならないと?」

青蘭は、その言葉に目を潤ませた。 

長恭は、室内の暑さを感じて窓をわずかに開けた。


馬車は、すでに漳水を右に見て南下している。

斉の朝廷は、王琳に会稽郡公(かいけんぐんこう)の爵位を用意していると長恭は昨日敬徳から聞いていた。

「私は、父を幼少のころ亡くした。・・・ゆえに、実は、義父上に、戦について教えを受けることを楽しみにしているのだ」

長恭は、清澄な瞳を潤ませると青蘭の肩を抱き寄せた。


            ★            ★


安陽に着くと、馬車は(まち)で一番大きな客舎の前で止まった。安陽には、彭城に衆参した主だった者が、様々ない装束で分宿している。

青蘭は、長恭に手を取られ馬車を降りると客舎に入った。


父王琳の客坊は、風通しの良い二階である。

侍衛に案内されて扉の前に立った青蘭は息を整えた。助けを求めるように長恭を見ると、右の手を握って頷いた。

侍衛が扉の外から低い声で来訪を知らせると、いきなり扉が開く音がして、懐かしい兄の王敬の顔が目の前にあった。

「せ、青蘭、・・・そなたなのか?」

兄の王敬は、久しぶりに会った青蘭の姿が、大人びて売るのに驚いて目を丸くした。

「中へ、どうぞ・・・」

となりに立つ長恭が威儀を正して拱手をすると、王敬が坊内に招き入れた。


部屋に入ると長恭と青蘭は、そろって王琳に丁寧に揖礼をした。

「父上、・・・お、久し振りでございます」

青蘭はぎこちなく体を起こすと、おずおずと父親に目を遣った。

湓城に潜伏し、やっとのことで彭城にたどり着いたと聞いていたので、青蘭は憔悴した姿を想像していた。しかし、やや痩せしているものの日焼けした面差しには大軍を率いた将軍としての威儀を失っていなかった。


「おお、青蘭か・・・」

王琳は、榻牀に座りすっかり大人になった娘を見遣った。

江陵を出奔してから、およそ三年である。あの当時は、男の髷を結い武芸や学問にのめり込んでいた。しかし、今では王妃然として紫苑色の外衣を優雅に着こなして、髷には歩遙のついた簪を煌めかせてはにかんだ笑顔を見せている。


「義父上、・・・高長恭です」

王琳は、青蘭のとなりに立つ長恭に目を移した。

長恭は、清澄な眼差しを上げて王琳に微笑みかけた。白い頬にすっきりとした眉、清澄な瞳は女子と見紛う秀麗な美貌である。

この笑みで幾人の女子を虜にしたことであろう。多くの令嬢と浮名を流している皇子であるとの噂は本当だと思われた。

『我が娘は、この美貌に心を奪われたのか・・・』

王琳は、ほろ苦く笑った。


「父上、お身体はもう大丈夫なのですか?」

青蘭は心配げに眉を寄せ、一歩前に進み出た。

「ああ、もう大事無い・・・」

王琳は、表情を消した声で左肩を抑えた。

心の棘になっていたことを謝罪しなければならない。

青蘭は、目を瞑り思い切って口にした。

「父上、お許しください」

青蘭は王琳の前に跪くと、涙があふれてきた。

「父上、父上の教えに背き・・・江陵を出ましたこと。・・・申し訳ありません・・・」

斉に来てから、ずっと思い悩んで来たことであった。

「義父上、私たちは義父上のお許しも得ずに婚儀を挙げました。・・・申し訳ありません」

長恭も、拱手をして頭を下げた。


その美貌と斉の皇族としての地位に(おご)り、威権高(いけんだか)な青年だと思っていた長恭が、いきなり頭を下げたので王琳は目を見張った。

「・・・そのような、・・・二人とも、とにかく立ちなさい・・・」

王琳は、長椅子から腰を上げると、二人の腕を支え立ち上がらせた。

「そのように、謝ることはない。・・・すでに過ぎたこと、娘婿に頭を下げさせられぬ」

王琳の言葉に青蘭の瞳に新たな涙が溢れると、長恭が優しく手巾を渡した。その仕草は、想い人を気遣う男の優しさが見えた。

「御祖母様の令旨をいただいたために、様々な誤解を生んでしまったようです。あれは、早く婚儀を挙げるために御祖母様にお願いしたのです。義父上が、気を悪くされたなら・・・申し訳ありません」

御祖母様とは、もちろん今上帝の祖母に当たる婁太皇太后である。結婚のために簡単に皇太后令を出してくれるとは、よほど寵愛を受けているのだろう。

「今は、斉の臣下になった身、・・・太皇太后様その令旨を疎かにはできぬ」

散騎侍郎(さんきじろう)の高長恭には、それほどの力があるとは思えないが、祖母である太皇太后の力は侮れない。

「義父上、義父上が斉にいらしたことは、斉の幸いです。この長恭、できるだけのことをいたします」

王琳は、大将軍の偉容(いよう)と父としての温厚さを示しながら、目を細めた。


「義父上、私は幼くして父母を無くし、祖母に育てられました。父と呼べるのは、王将軍だけなのです。ぜひ、実戦の兵法を教えていただきたいのです」

長恭は想いを吐露(とろ)すると、微笑を見せて顔を赤らめた。

この青年は、笑うと妖艶(ようえん)さが消え、陰が陽に転ずる。子供のような無邪気さと、透明な麗容(れいよう)が清光な温顔を形作っているのだ。


「そなたは、詩経にも通じているそうな。何を学んできたのだ」

高名な学者に弟子入りして(はく)を付けたがる鮮卑族がいるという。

顔之推(がんしすい)師父の門下に入り、『荀子』や『史記』などを学びました」

「父上、私も、顔之推師父に学びました。私たちは、同門の兄弟弟子なのです」

男に交じって学堂で学んでいたことは、父には知らせていなかったのだ。本来、士大夫の令嬢が学堂で男子と共に学ぶなどということは、南朝ではあってはならないことなのである。青蘭は、恥ずかしさに俯いてしまった。

王琳は、青蘭の婚姻に際して顔之推から手簡が届いた訳がようやく分かった。王琳は、溜息をついて眉を潜めた。


「義父上、・・・」

長恭は、清澄な瞳を王琳に向けた。

「顔氏門下で、共に学問をするうち、私たちは生涯を共にする決心をしたのです。青蘭は、はるばる鄴都にやって来てくれた。・・・これは、天が定めた縁であると思います」

江陵からの出奔も運命であり、青蘭の罪ではないと言っているのである。

「ゆえに、青蘭と生涯を共にし、一生守っていくつもりです。・・・義父上」

長恭は、強い眼差しで王琳を見ると、青蘭の手を握った。


王琳は、二人に椅を勧めた。

「私は、娘の育て方を間違えたようだ」

王琳は胸の前で腕を組むと、微笑んだ。

「離れ離れに暮らしていたため、甘やかして男子のように育ててしまった。不束(ふつつか)な娘だ。婿殿には迷惑をかけているのでは?」

王琳は、茶器から茶を杯に注ぐと二人に勧めた。

「そのような懸念はありません。王妃として屋敷の采配(さいはい)などもよくやってくれています」

長恭は、青蘭を見ると満面の笑顔を作った。


六月の下旬、王琳将軍は、永嘉王(えいかおう)簫莊と共に斉に亡命し、会稽郡公に任じられた。王琳は、戚里(せきり)に屋敷を賜ったが、普請(ふしん)が済むまで鄭家に滞在することになった。




父と再会し、青蘭は父との和解を果たした。青蘭の父王琳は、今後斉の波乱を含んだ朝廷で生きていくことになった。

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