銀河の女と牽牛星
端午節の宴で、斛律蓉児は、清雅な貴公子に出会う。その清澄な姿に蓉児はすっかり惹かれてしまうのだった。
六世紀の中頃、中原では北周と北斉が、黄河を間に挟んで激しい領土争いを繰り広げていた。幷州刺史としての斛律光将軍の武威は中原に鳴り響き、北周軍を震え上がらせていた。そこで、北周は、戦いの矛先を南の長江流域に向けたのだ。
北周が、南方に戦力を集中させたため、黄河流域の汾水での戦闘は、一段落し休戦の様相を呈していた。そこで、幷州刺史の斛律光衛将軍は鄴城に一時的に帰京していた。
五月五日、常山王の屋敷では端午節の宴が、多くの賓客を招いて開かれた。
常山王府の舎殿を繋ぐ回廊には、菖蒲や蓬で作った薬玉が軒下に吊るされ、そこに下げられた五色の糸が五月の緩やかな風に揺れていた。
広々とした常山王府の前庭や花園には、卓と座が設けられ招待された勲貴派の将軍たちや、漢人の高官たちが三々五々酒を酌み交わしていた。
斛律光の長女である斛律蓉児は、父に伴われて端午節の宴のために常山王府を訪れていた。多くの士大夫の令嬢たちが、夏の蝶のように後苑のあちらことらに集まってさざめいている。
蓉児は後苑の喧騒から離れるように、静かな奥の花園に入り込んでいた。睡蓮池の周りには、白い百合の花が植えられ濃厚な香りを撒き散らせていた。
茉莉花の植え込みの中に、瀟洒な四阿が佇んでいるのが見えた。四阿の四方の柱には上から降ろされた白藍色の羅の帳がまとめられている。
蓉児は緋色の外衣を翻すと、四阿に入った。卓の上には上等の料紙が置かれ、文鎮で正しく抑えられている。
迢迢たり牽牛星
皎皎たり河漢の女
纖纖として素手を擢げ
札札として機杼を弄す
遙々とかなたにある牽牛星
皎々と輝く銀河の女
ほっそりとした白い手を振り上げ
さっさっと音を立てて梭を操る
『詩経』にある牽牛と織女の恋物語を借りて悲恋を詠った詩である。流麗な文字で記された牽牛と織女の物語に心惹かれ、蓉児はいつの間にか卓の前に座ってしまった。
武門である斛律家で育った蓉児には、男子の兄弟が多い。兄たちは武勇を誇り、武術の鍛錬に日々を費やしている。詩を詠じ、琴を弾じるなどは、惰弱な者の行いであると断じているのだ。
蓉児は、滑らかな料紙を指でなぞった。青にも見える墨の濃淡が、蓉児の心をなぜか湧き立たせる。
蓉児は、ゆっくりと詩を詠じると溜息をついた。
蓉児は詠じ終わった時、側に立っている長身の少年に気づいた。
「君は、誰なんだ」
蓉児が見上げると、少年と目が合ってしまった。秀麗な瞳の白眉の美少年である。
「あの、・・・私は、・・・」
驚いた蓉児は、立ち上がると俯いてひたすら詩賦の書いてある料紙を見詰めていた。
「君は、どこの子なのだ?新しい・・・?」
黙って動かない蓉児に、少年は気の毒そうに眉を寄せた。
斛律家の兄たちであれば、怒鳴り出す頃である。蓉児は、首をすくめた。ところが、白眉の少年は、怒鳴るどころか、心配顔で蓉児の顔を覗きこんだ。
「ここは、奥だ。君の入る所ではない。・・気を付けなさい」
優しい言葉に、蓉児はますます顔を上げることができなかった。固まったように動かない蓉児に途方に暮れた少年は、笑顔で解決策を出した。
「そんなに、楚の詩賦が好きなら、君に上げよう」
少年は、笑みを浮かべて料紙をたたむと蓉児に渡した。
始めてまじかで見る少年の眼差しは、清美で温かかった。
「ありがとう・・・」
蓉児は、夢見心地で少年から料紙を受け取ると、自分が少年の席を奪っていることに気付いた。少年は、詩賦の筆写をしていて一時的に席を離れていたのだ。そこに蓉児が奪ってしまっていたのである。
『ああ、何と言うこと。恥ずかしい』
蓉児は、胸の料紙を抑え、緋色の袖を翻すと、後苑に向かって駆けて行った。
少年は緋色の蝶のように駆けて行った少女の後ろ姿を、いつまでも眺めていた。
★ ★
鄴城の中庸門街に面して、多くの價商が店を構えていた。
「お嬢様、母上様への贈物でしたら、この唯品閣以外ありませんわ」
侍女の小翠が、斜め前を歩く斛律蓉児に声を掛けた。
蓉児は、明日の母の誕生日の贈物を買い求めるために、鄴都で一番の高級品を扱う唯品閣に出掛けたのだ。
唯品閣に入ると、西域からもたらされた玉の置物や江南の錦でできた香袋、南洋の真珠をあしらった簪など選りすぐりの装飾品が並んでいる。
蓉児は、梨花を模った翡翠の簪を手に取った。
「小翠、母上に似合うかしら」
蓉児は、小翠の髪に簪を当ててみた。金の梨の花の精巧な細工と、深いい翠色の翡翠は、色白の蓉児の母親にはよく似合うに違いない。
「これにするわ、・・・小翠支払いを」
蓉児が、満面の笑みで簪を戻した。侍女の小翠が、預かった巾着から銀子を取り出そうと自分の腰を探った時、叫び声が上がった。
「お嬢様、巾着が、巾着が、・・・ありません。・・・お嬢様どうしましょう」
小翠が、半泣きになりながら外衣の袂の中を探している。蓉児も加わって、小翠のいる周りを探し出した。
「小翠、困ったわ、・・・母上の誕生の宴は明日なのに・・・どうしましょう」
士大夫の令嬢は、簡単に外出することはできない。
「お嬢様、落としたか、盗まれたか・・・申し訳ありません」
小翠が、申し訳なさにべそをかきながら跪こうとした。
そのとき、後ろから思わぬ男の声がした。
「その代金、私が出そう」
蓉児が声のする方に振り向くと、傍らに十代半ばの男子が立っていた。どこかで見たことがある。
秀でた鼻梁に清雅な瞳が涼しげな容貌は、常山王府で会った貴公子によく似ている。
蓉児は、向き直ると孔雀緑の外衣を着た少年の玲瓏な顔を見上げた。
「見知らぬ方に、・・・払っていただく訳には・・・」
「また、会いましたね。・・・」
少年は、花びらのような唇をほころばせて小首をかしげた。
まさしく、花園の四阿で蓉児に詩賦の手習いの料紙をくれた貴公子であった。
迷い込んだ奥の四阿に広げられた詩賦の手蹟のすばらしさに見とれているうちに、側に立っている男子に気付いたのだ。
その涼し気な瞳の優しい貴公子は、立ち尽くしている蓉児に自分が書いた詩賦の手蹟をくれたのだ。
「あの、端午節では・・・・」
蓉児は、予想しなかった若き貴公子の出現に言葉を続けることができなかった。
蓉児は端午節の宴で離れた後、人混みの中で少年の姿を目で探した。屋敷に戻ってからは、もらった料紙を取り出しては溜息をつき、その見事な手蹟を真似ては、たびたび文字の臨書にをしたのだった。
その男子が、こんな近くで自分に声を掛けて来たのだ。
「銀子を無くしたのであろう?・・・ここは、私が支払おう」
高百年は孔雀緑の長衣の袖を払うと、素早く巾着から十両の銀子を取り出し、唯品閣の従人に支払ってしまった。
「そんな、・・・出してもらう訳には」
蓉児は、顔をしかめてかぶりを振ったが、ほどなく明るい顔になった。
「こうしましょう。・・・銀十両の代わりにこれをお預けします」
蓉児は、腰の玉佩を取ると笑顔で高百年に渡した。手渡した玉佩は、明らかに銀十両以上の価値がある上等の白玉である。
『これほどの白玉を付けている令嬢は、何者か?』
高百年は、手の中で玉の造作を確かめながら思案した。
「それほど言うなら、預かる」
これほどの玉佩を簡単に他人に預ける令嬢だ、怪しい者ではないだろう。
「私は高百年と申す。・・・三日後、午の刻に茶楼の月華楼で待っている」
女人に名前を訊くことは、礼儀に反する。百年は玉佩を預かるので自分から名乗ったが、身分は明らかにしなかった。
「あの私は、蓉児と言います」
蓉児が、人懐っこい満面の笑みで名前を告げた。」
「蓉児殿、・・・三日後、・・・午の刻に茶楼の月華楼で待っている」
蓉児が唯品閣の従人から簪の入った赤い漆の櫃を受け取って振り向くと、高百年はすでに店の外に姿を消していた。
★ ★
月華楼は、中庸門街に面した、二階建ての大きな茶楼である。
蓉児は、この日のために真新しい紅鶸色の長裙に、お気に入りの撫子色の外衣をまとった娘らしい装束に身を包んでいた。
二階に上ると蓉児は、すぐに窓の近くに陣取る高百年を発見した。
涼し気な露草色の長衣に、天色の薄絹の外衣をまとった高百年は、天色が顔に映って白い清雅な頬の美しさをいっそう引き立てている。
「早く、いらしゃたのね」
蓉児が横から声を掛けると、百年は笑顔で振り向いた。
「待っていた。・・・どうぞこちらに」
蓉児が、席に着くと百年が茶を淹れ始めた。
卓の上には、小さい蘆と釜が置かれ、新鮮な茶葉が皿に盛られている。百年は茶葉を数枚摘まむと茶器に入れ、湯を注いだ。馥郁たる香りがあたりに漂う。蓋をすると、百年は祈るように目を閉じた。長い睫毛が、夏の陽光の中で深い影を作る。
ほっと溜息をつくと、百年は優雅な手つきで二つの茶杯に茶を注いだ。
蓉児が手に取り、茶杯を傾けると若草と優しい花のような香りが抜けていく。
「いい香です。・・・」
「・・・よかった」
百年は、優し気な笑みを浮かべ蓉児を見遣ると、ゆっくりと頷いた。高百年は、武ばった斛律将軍府の兄弟たちとは、まったく違った種類の人間のようだ。
「先日は、銀子をお貸しいただきありがとうございました。おかげで母に贈物ができましたわ」
蓉児は錦の巾着の中に入れた銀十両を懐から取り出すと、百年の方にすすめた。
「返さなくてもよかったのに・・・」
百年は、蓉児の愛らしい生真面目さが可笑しくて笑顔を作ると小首をかしげた。
「あの玉佩は、亡くなった祖母からの贈物ですの」
「そんなに、大切な物を、何故、私に?・・・」
「百年様なら、信じられると思ったのですわ」
蓉児は、疑うことを知らない無邪気な笑顔で返す。
百年は、形見だという玉佩を懐から取り出し蓉児の前に置いた。
蓉児が手に取ると、冷たいはずの白玉がほんのり温かい。百年の身体の温かさを感じて蓉児は、顔を赤らめた。
「今日は、親しき人を偲ぶ日なのだ。この後、宝国寺に参拝に行く予定だ。もしよかったら、・・・」
茶葉を替えながら幾杯かの茶を喫したのち、高百年は宝国寺への参拝に誘った。ほんのり心を温かくしてくれる蓉児の笑顔と別れるのが惜しかったからである。
「私も、宝国寺に、・・・行きます」
百年の言葉を聞いたとたん、蓉児は童子のような返事をした。
思わぬ蓉児の大きな声に、高百年の清澄な花蓉が破顔した。蓉児の無邪気な笑い声に、百年の凍った心が解けていくのがわかった。
★ ★
「お姉さま、宝国寺の帰りに飴細工を買ってくださいね」
宝国寺の境内入ったところで、妹の瑗児が蓉児を見上げた。
「もちろんよ、参拝が終わったら、街の店を見て回りましょう。・・・でも、これは、誰にも内緒よ」
蓉児は、瑗児に顔を近づけて言った。
「分かった。・・・お姉さま、・・・お兄さまのことも?」
「もちろんよ。言ったら、もう一緒に来られない。飴細工も買えなくなるかも・・・」
瑗児は、大好きな飴細工が食べられなくなると聞いて、何度も頷いた。
五月に再会して以来、蓉児は道灌への参拝や親類への訪問など用事を作っては、高百年との密会を重ねていた。密会と言っても、道灌の境内の庭を共に散歩したり、街の市をぶらついたりするだけである。
しかし、未婚の男女が二人だけで会うことは、許されることではない。そこで、八歳になる妹の瑗児に口止めをして同行させるようにしたのである。
拝殿に入ると中には黄金に覆われた廬舎那仏が鎮座している。側仕えの小翠を扉の外に待たせると、二人は拝殿内に入った。線香を備えると座の上に跪き、手を合わせた。
『百年兄上が好き。・・・でもこうやって何時までえるかしら。もし、母上に知られたら・・・」
百年の好意を確かめたわけではなかった。しかし、百年は、小翠を通じて会う機会を知らせてくるようになった。
親に知られたら、もう決して屋敷の外には出られないであろう。そして、知らない誰かに嫁がされるのはだ。
手を合わせ瞑目した蓉児は、しばらく動けなかった。
「お姉さま、どうしたの?涙が・・・」
涙?気づいた蓉児は、頬をおさえると立ち上がった。
百年は、すでに参拝を済ませ境内の庭園で待っているはずである。蓉児は、瑗児を小翠に任せると庭園に急いだ。
蓉児が庭園に入ると、槐の木の下で百年が待っていた。縹色の長衣をまとった長身の百年は、清雅な微笑みを浮かべながら蓉児を迎えた。
唯品閣で再会した蓉児と百年は、寺院への参拝などの口実を設けて、度々会うようになっていった。蓉児は、兄たちと違う百年に、しだいに惹かれていくのだった。