平陽公主の婿選び
北斉では、高演が政治の実権を握るなか、前王朝の公主である平陽公主は、政治的な復活をとげ大梁から鄴都に戻った。そんな時、長恭と敬徳は、従兄の平陽公主の婿選びの宴に招待された。
侍中として国の機密に近い敬徳は、青蘭の父王琳への勅使の派遣が決まると、いち早く長恭に知らせてくれた。
「王琳将軍への勅書が、まもなく出ることになったぞ」
長恭は、拱手して敬徳の助力に感謝をした。すると、敬徳はあの夜の出来事をすっかり忘れたように磊落に笑った。
「幼馴染の私に、・・・礼なんて、水臭いぞ」
それは、幼き頃より変わらない親友の姿だ。
「そういえば、太原長公主府での宴を知っているか?」
敬徳は侍中府の堂房に向かおうとしたが、急に振り向いた。長公主府の宴は、皇宮でも話題になっているらしい。
「ああ、平陽公主の帰還の祝いと聞いた。・・・実は、私も招待されている」
敬徳は、不審げに目を細めた。
「その宴は、平陽公主の婿選びだとのもっぱらの噂だ。・・・長恭、なぜそなたが?」
まさか、自分が婿候補と言うことは無いであろう。しかし、平陽公主が大梁に脱出した時に協力した経緯まで、敬徳に話すわけにはいかない。
「たまたま、御祖母様の所で顔を合わせたのだ。・・・いとこ同士なので呼ばれたのだろう」
長恭が曖昧に答えると、敬徳は頷きながら腕を組んだ。
「鄴都にいる適齢の若君は、ほとんど招待されているということだ。当然、俺も招待されている」
敬徳は今年二月の政変をきっかけに、婚約を解消している。政情の変容に伴う破談であったが、張氏の令嬢が敬徳に執着して騒ぎを起こしたため、薄情な男子と後ろ指を刺されことになってしまった。
平陽公主は、前王朝の北魏の公主であり、長恭の叔母にあたる太原長公主の娘であった。また、同時に三兄である高孝琬の母は、孝静帝の妹であった。
つまり、長恭と平陽公主は二重の意味で従姉弟同志の関係なのである。母の荀翠蓉の苦労を考えると、心穏やかには思い出せない女人であった。
昔日の恩讐を顔に出せば、苦難の幼少時代を過ごした長恭は、全ての人に敵意を向けなければならなくなるのだ。
「それでは、敬徳、・・・共に参ろう」
長恭は、笑顔で敬徳の肩を軽く叩くと、侍中府の書房に戻って行った。
★ ★
長恭が、未の刻(午後二時ごろ)に長公主府の大門前に馬車を止めると、既に敬徳は、馬車を降りて大門の前で待っていた。
長恭が香色(香木で染めた薄茶色)の長衣と外衣、敬徳が白茶色の長衣に紺青の外衣をまとい、地味ながらも上品で秀麗な装束である。
「長恭、その書生のような装束はなんだ。地味すぎる」
「敬徳、何を言うのだ。香染めは私の素心を表しているのだ。お前こそ学堂の講義に出席するのか?」
二人は、できるだけ目立たないように、派手な装束を避けたのである。
二人は笑顔で垂花門をくぐると、祝品の小櫃を家宰に渡して堂へ通された。
清河王と蘭陵王の位を戴いている二人は、多くの貴公子より上座に近い。
楊令公の屋敷であった太原長公主府は、豪華な屋敷が多いなかでもその財力を誇り華麗な設えであった。
一番首座に近い上座に陣取っているのは、尚書祠部侍郎の元文遙である。高演の岳父である元蛮とともに、元氏大量虐殺から逃れた数少ない生き残りと言っていい。幼き頃より聡明で文宣帝にその才を高く買われていた。もちろん、元氏の長老として呼ばれたに違いない。
その他にも、王叔堰、源文宗など多くの貴公子が、派手な装束で出席していた。そこで共通しているのは、独身か有力な妻がいない貴公子である。
平陽公主は、前王朝の北魏の公主であり、長恭の伯母にあたる太原長公主の娘であった。前皇帝高洋の執拗な猜疑心が、北魏の皇帝であった中山王一家の虐殺を生んだ。その中で、唯一生き残ったのが平陽公主であったのだ。
その年は、すでに二十代半ばである。一般的には、十代半ばで結納を済ませ、十六、七歳で婚儀を挙げるのが通例であった。しかし、北魏から東魏、北斉へと目まぐるしく政治情勢の変動が、公主の女人としての花の時期を空しくさせてしまったのだろう。
弟の高演が政治の実権を握るに従い、多くの犠牲を払い斉の建国に尽力した長公主の政治的な発言力は増して来ている。前王朝の公主の地位と義父である楊令公の残した財産は、立身出世を熱望する貴公子たちにとっては魅力的である。
権力に群がる若君の中から、太原長公主は、公主の附馬(公主の婿)を選ぼうとしているのだ。
「人は、時勢に敏感なのだな」
中山王府が襲われたときは、だれも阻止しなかったのにも拘わらず、戻って来た公主の婿選びにはせ参じてくるのだ。
人々の浅ましさに、長恭は不愉快気に眉をひそめて堂内を見渡した。現在、平陽公主の婿の附馬になれば、立身出世は思いのままであろう。
「長恭は、今頃知ったのか。・・・私は父が亡くなった時に、身を以て知ったよ」
清河王府に日参していた者たちが、父の死を境に掌を返したように去って行ったことを覚えている、敬徳は唇を歪めると、侮蔑するような眼差しで煌びやかな堂内を見回した。
「人の浅ましさを知ることが、・・・大人になるということかも知れん」
秋風が吹けば、人は心をひるがえして強き者に寄って行く。それは、世の常ではあるけれども、何と浅薄なことであろう。
敬徳は、眉を潜めると杯から少し強い酒を飲んだ。
西の壁沿いに居並んだ楽士の奏でていた音曲がやんだ。宦官の甲高い声が響いて長公主母娘の入場を知らせた。
「長公主様、公主様の御成り」
賓客が立ち上がると、二つ並んだ主座に太原長公主と平陽公主がついた。
母親の太原長公主は、四十をいくつか出たばかりであるが前王朝の皇后であったことを思い出させる臈たけた美しさが、貝紫で染めた鮮やかな紫の華麗な豪華な衣装により一層引き立っていた。
平陽公主は、二十代の半ばであるが、一年前より白い頬が少し痩せて、清雅な中にも苦難の道を生き抜いてきた芯の強さを感じさせた。公主は躑躅色の鮮やかな紅で染められた豪華な外衣を着ている。その髪に飾られた手の込んだ簪は、長公主府の財力を表している。
「平陽公主の帰還を祝福して、杯を奉げます」
元文遙が、立ち上がると堂内に響き渡る声で寿いだ。堂内の皆が、杯を奉げ文遙に和唱した。
平陽公主が切れ長の瞳で堂内を見回すと、金色に輝く歩遙が、シャランと音を立てて揺れた。
多くの貴公子が居並んでいる。衣装だけが華やかで容貌と文武に冴えを見せない多くの貴公子の中で、目立つのはむしろ地味な装束をまとった長恭と敬徳の二人である。
敬徳は、年齢が二十三と公主に近く端正な容貌は出色である。
しかし、先の政変で楊令公側に回った張氏を、敬徳は薄情にも直ちに婚約解消している。婚約を解消された張氏は、あまりの衝撃に寝込んでいるという。これなのに婿選びの宴に来るとは、高敬徳は薄情な男であると思う気持ちを公主は抑えられなかった。
一方長恭は、香色の素朴な色目の装束が反って清雅な美しさを引き立てている。
黎陽まで自分を命懸けで逃してくれた時のいたわりの優しさは、ただの義務感からとは思えなかった。大梁では、長恭に再び会えることが、生きる希望だった。しかし、帰郷してみると王青蘭と婚儀を挙げてしまっていた。
長江流域で領土を広げる父王琳の権勢を笠に着て王青蘭は、嫉妬の炎を燃やし恋文を奪って焼いているとの噂が流れていた。格別美女でもなく嫉妬深い王青蘭が、正妻と言うだけで大きな顔をしているのが平陽には許せないことであった。
公主は、思い余って長恭への恋心を母の長公主に打ち明けたのだ。しかし、長公主にとって長恭は、
卑しい女子の生んだ見目麗しいだけの甥であり、婿候補として物の数にも入らない存在であった。
特別に宮中から派遣された官妓の優雅な群舞が終わると、平陽公主が立ち上がった。
「長恭様は、琴の名手と聞きました。・・・ぜひ一曲聴かせてください」
堂内の人々の視線が、長恭に集まった。
長恭はいきなりの公主からの指名に、立ち上がって公主に顔を向けた。内々の宴ならいざ知らず、多くの賓客の面前で琴を披露するのは、むしろ屈辱に感じられた。
「公主、最近は、剣術の稽古ばかりで、琴になど触っておりません。それに先日、・・・射術の鍛錬をして、指を怪我してしまいました。・・・お許しを」
長恭は、手巾を巻いた指を指し上げて示した。
婿選びの宴で、妻のいる長恭が目立つのは、恨みを買うだけである。
「平陽公主、恐れながら、・・・敬徳は、最近・・・琴の稽古をしております」
長恭は、平陽公主から隣の敬徳に目を移すと笑いかけた。
「未熟な私の琴など、・・・公主の御耳汚しで・・・」
思わぬ長恭の言葉に、敬徳は眉を寄せて睨んだ。
二人で言い合いをしていると、向かい側に座っていた源文宗が、救いの手を差し伸べた。
「帯に短し襷に流しでしょうか。・・・私が披露しましょう・・・」
源文宗は、斉でも知られた琴の名手である。早速、香が焚かれ、座の正面に設えた琴の前に文宗が座った。
名手であるとの噂のある長恭の琴を望んでいた平陽公主は、不満げに唇を歪めた。
文宗の流麗な琴の音が堂内に満ちた。伯牙を思わせる幽玄な調べが文宗の指から紡ぎ出され、長恭はしばし憂いを忘れて聞きほれた。
その後、婿候補による剣舞なども披露され、宴はお開きになったが、招待された貴公子たちは、直ぐに帰ることなく、後苑の蓮池や四阿に集まって三々五々話に花を咲かせている。公主が、母親の太原長公主と花園に出て来て、お気に召した貴公子との顔合わせをする手筈になっていた。
「蘭陵王、公主様がお話をしたいとおっしゃっているのですが」
堂の入り口を敬徳と並んで出ようとしているとき、年老いた宦官に声を掛けられた。
ここで残れば、公主にいらぬ誤解を与えるばかりか、叔母である太原長公主に睨まれぬとも限らない。
「申し訳ないが、太皇太后様から呼ばれて行かなければならない。宴のもてなしは、素晴らしいものであった。お礼を言っておいてくれ」
長恭は、満面の笑顔でそう言うと、敬徳と共に足早に前庭に出た。
「公主は、お前にご執心だな。・・・妃持ちなのに」
垂花門のところで馬車を待っていると、敬徳が皮肉な笑顔を見せた。
「敬徳、公主と私の因縁は知っているだろう?余計な災いは、避けるに限る」
長恭は、笑顔を返すと大門に向かった。
「長恭待ってくれ、話がある」
敬徳は、袖を翻して長恭のあとを追いかけた。
「じゃ、茶房に行こう。もう妓楼はこりごりだ」
長恭は、片目で敬徳を睨んだ。
端午節の宴で、斛律蓉児は清雅な貴公子(高百年)に出会い、詩賦を写した紙を贈られる。二人の間に芽生えた恋心は、どのように育っていくのでしょうか。