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蘭陵王伝  夏至の記  (9)  作者: 天下井 涼
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敬徳の復讐

王青蘭の父である王琳将軍は、陳との決戦に敗れて、行方不明になってしまう。

そんな中、高敬徳は、高長恭や蘆思道の協力の下父の仇である高帰彦への復讐を企てる。


六世紀の中頃、黄河流域を中心とする中原では、北周と北斉が、黄河を間に挟んで激しい領土争いを繰り広げていた。

幷州刺史(へいしゅうしし)である斛律光将軍の武威(ぶい)は中原に鳴り響きわたり、北周軍を震え上がらせた。黄河流域での東進を諦めた北周は、戦いの矛先を南方の長江流域に向けたのだ。

そのため、南の長江流域では、その覇権(はけん)をめぐって、北周軍と陳軍、そして王琳率いる梁軍とが激しいつばぜり合いを繰り広げることになった。


北周との黄河流域の汾水での戦闘が一段落し、平穏を取り戻した四月の末、斛律光衛将軍(えいしょうぐん)は一時的に鄴城に帰京した。


五月五日、常山王の屋敷では端午節(たんごせつ)の宴が、多くの賓客(ひんきゃく)を招いて開かれていた。

常山王府の舎殿を繋ぐ回廊には、菖蒲(しょうぶ)(よもぎ)で作った薬玉(くすだま)が軒下に飾られ、そこに垂らされた五色の糸が五月の緩やかな風に揺れていた。

広々とした常山王府の前庭や花園には、卓と座が設けられ招待された勲貴派(くんきは)の将軍たちや、漢人の高官たちが三々五々酒を酌み交わしたり、詩作のために散策していた。


常山王府の睡蓮池に注ぐ小流(おがわ)に掛かる石橋の上に立ちながら、長恭は瞑目して詩想を練る姿を装った。

「青青たり 園中の葵・・・」

「朝露 日を待ちて 晞く」

敬徳が腕を組み、言葉を(つな)ぎながら近づいてきて、長恭の言葉を(さえぎ)った。

「敬徳、それでは『長歌行』になってしまうではないか」

詩作を邪魔された長恭は、笑って敬徳の胸を親指で突いた。


敬徳は周りに視線を配りながら、長恭の耳元に唇を寄せた。

「長恭、あ(やつ)を失脚させる(すべ)を見せてくれるのであろう?」

敬徳が、酔いを装って虚ろな眼差しを長恭に向けた。

「敬徳、そう焦らずに・・・行こう」

長恭は敬徳を促すと、酔った(てい)を装いながら書房を目指した。

若竹色の長衣をまとった敬徳と花浅葱色(はなあさぎいろ)の長衣をまとった長恭は、広い常山王府の後苑でも目立つ存在である。鮮卑族の将軍たちの挨拶をやり過ごしながら、二人は人影のない東殿に向かった。

常山王は、博識で詩経(しきょう)に通じていた。そのため、多くの書物を収集していたのである。常山王府の書庫は、東園の外れにあった。


書庫に到着すると、鍵がすでに外されている。中に入ると書庫は思いの外暗い。東向きの窓に張られた薄絹越しに、柔らかな光が差し込んでいる。

長恭は、書架(しょか)越しに書庫の奥を窺った。

北向きの壁の側で、大柄な男が振り向いた。長恭の同僚の蘆思道(ろしどう)である。すでに三十歳にをとうに過ぎ文人として名高にも拘らず、未だ散騎侍郎に甘んじているのは、反骨の精神が旺盛で不正に直言するためである。

書庫の(くら)さに目が慣れた二人は、無言で思道の近くに寄って行った。

「蘆思道殿、・・・既に来ていたのですね」

長恭は、高名な文人で年上の同僚に挨拶をした。

「これは、清河王、蘭陵王、此度(こたび)は・・・」

思道は、侍中(じちゅう)を務める敬徳を認めると、丁寧に拱手した。青州刺史から侍中に転じた敬徳は、まだ二十代前半とは言え重臣である。

「高帰彦に関する情報があると、長恭から聞いている」

敬徳は、鋭い眼差しで蘆思道を見た。


三人は、さっそく書見台を囲んで座った。

「蘆殿、例の物は手に入ったか?」

盧思道は(ふところ)から一冊の上奏を取り出し、台の上に広げた。

「黄河流域や青州で、洪水が起きたことは知っておろう」

四月の下旬、斉の各地は(いなご)が大発生し麦の収穫を食い尽くした。そして黄河流域では大雨により水害に見舞われ、多くの土地が泥にまみれたのだ。北斉の朝廷は、各地に使者を派遣し、官庫を開放し救済の策を行った。

この時期、北斉の領地ではたびたび蝗害や水害、旱魃などが発生している。紀元五五七年には、趙・燕など五州では蝗害・水害により大きな被害を出しており、翌年の紀元五五八年には、旱魃(かんばつ)により農地が壊滅状態となっていた。


上奏の中には、頓丘(とんきゅう)や平原、渤海など斉州や徐州などの多くの邑名(こめい)と石高が記されている。

「これは官庫から供出された穀物の石高だ」

蘆思道は、太い指で文字をなぞった。洪水の被害を知っていた長恭であったが、被害の出た地域の多さに言葉を失った。

「今年の水害は、被害が甚大(じんだい)だ。しかし、洪水は天災だ。高帰彦の執政が原因とは言えまい。これだけで、尚書令(しょうしょれい)として高帰彦の責任を問うことはできない」

敬徳は、がっかりして肩を落とした。


「がっかりするのは、早いぞ」

蘆思道は唇を歪めると、もう一つの上奏を懐から出して広げた。

「これは、実際に被災民に配られた穀類の石高だ」

二つの上奏をじっくり見ると、邑名は同じだが石高は微妙に違っている。いや微妙どころではない、配られた石高は明らかに減っている。

「どうしたのだ、供出した石高と配られた石高が多いに違っている」

敬徳は、二つの上奏の石高を指で抑えながら比べた。極端なところでは、半減している邑もある。


「なぜ供出した量と民に渡った量がこれほどちがうのだ」

長恭は、素朴な疑問を口に出してみた。

「そうだな、鼠害(そがい)か、洪水で泥水にやられたか、賊に奪われたとか・・・」

「子供の言い訳か。そんな筈ないだろう」

長恭の言葉に、蘆思道は腕組みをして苦笑した。

「その通り。でも、それが巡察使(じゅんさつし)からの報告だ。まったく馬鹿馬鹿しい」

これが正式の上奏文だという。こんなことが朝廷で通るというのか。

「陛下はともかく、大丞相(高演)は、この事実を知っているのか」

大丞相が政務を執るということになっているが、晋陽にいる高演に回される懸案は、ほんの一部で、ほとんどは鄴都にいる高帰彦により処理されているのである。


「民の穀物を掠め取っている奴は、誰なのだ」

蘆思道は、唇に指を当てた。

「官庫は、空なのに宰相府の蔵は満杯だ。・・・高帰彦は、民の穀をかすめているのだ」

玉座の主が変わっても相変わらず宰相を務めている高帰彦の権力は絶大だ。洪水という民の災害が、反って高帰彦を太らせているのである。

「大丞相は現在鄴都にいる。この機会に、このことを俺が大丞相に訴える」

蘆思道は、拳を作ると書見台を叩いた。

高演が、晋陽の東殿で政務を執っていた頃、上奏文の一字一句を生真面目に確かめていたのを思道は知っている。

「大丞相が、知れば(ただ)してくれるはず。さすれば大丞相の高帰彦への信頼は揺らぎ、失脚(しっきゃく)端緒(たんちょ)になる筈だ」

「そうだ、そのために敬徳の力を借りたいのだ」

長恭は、高帰彦の不正に唇を噛んでいる敬徳を見た。

敬徳は、深く頷くと蘆思道の手を握った。

「高帰彦に仇が打てるなら、何でもやろう」

高帰彦は、敬徳にとって父の仇である。一挙に誅殺することは無理でも、宰相としての地位から引き下ろしたいと、敬徳は蘆思道を見詰めた。


蘆思道は、高帰彦失脚のための綿密な計画を二人に話した。

それは、真実を暴露した上奏文を敬徳が他の上奏に紛れさせることにより、高演の目に留まらせるというものだ。

蘆思道は、名文家として知られており、署名が無くても文体や筆跡で蘆思道の手であると知れるのである。高演に蘆思道が呼ばれて下問されれば、二つの上奏を示し高帰彦の不正を糾弾(きゅうだん)することができるのだ。

此度(こたび)は、高侍中の手を煩わせてすまない」

「いいえ、高帰彦は、この国に巣食った害虫だ・・・」

高敬徳は、いつもは晴朗な瞳に青白い炎を宿し、形の良い唇を歪めた。



三人の密談が終わり、長恭と敬徳は書庫を出た。

何気ない風を装って睡蓮池を見遣っていると、青蘭が夏らしい紅鶸色(べにひわいろ)半被(はんぴ)に乙女色の長裙(おとめいろ)をまとって石橋を渡ってくるのが見えた。

「二人とも、どこにいたの。もう私を置き去りにして・・・」

あちこち探したのだろう、満面の笑みを浮かべた青蘭の額に汗が(にじ)んでいる。長恭は、青蘭の肩に手を載せて引き寄せると、手巾で青蘭の汗を拭った。

「探していた?・・・常山王府の美しい庭園に誘われて、散策しながら二人で詩賦を(ひね)っていたのだよ」

いままでの緊迫(きんぱく)した密談があったことを感じさせない清雅な瞳で、長恭がほほ笑んだ。

「え、え?・・・二人で、詩賦を?・・・まあ、どのような詩賦ができたのかしら」

敬徳が作詩が苦手なことを青蘭は知っている。五月の明るい陽光の中、青蘭はおどけた様に指で敬徳の腕を突いた。


         ★              ★


六月、夕刻の蘭陵王府では、涼やかな風が吹き渡り夏の暑さも和らいでいた。

正殿の居房では、食盤の上に青蘭の心づくしの料理が並べられていた。羊の煮込みが湯気を立て、川魚の揚げ煮が飴色(あめいろ)の輝きを放っている。


彭城に滞在する母からの手簡に、父王琳の回復が記されていた。江陵から出て以来、勘当同然で顔を合わせていない父娘であった。父の王琳が同じ斉に来ることを思って青蘭は、胸が高鳴った。


皇宮よりいつもより早く退庁した長恭は、浅葱色(あさぎいろ)の長衣に着替えると食盤に着いた。

「青蘭、今日はいやに御馳走(ごちそう)だな。どうしたのだ」

長恭は、翡翠(ひすい)の飾りのついた杯に香りのよい酒を注ぎながら訊いた。

「今日、母から届いた手簡で、父上の怪我が癒えたという知らせがあったの」


彭城(ほうじょう)の鄭家で静養していた王琳の下には、斉に渡った旧臣はもちろん、陳に降った将軍たちからも帰順を求める手簡が頻繁に届いていた。

しかし、いまだ梁の元帝に対する忠義の心の衰えぬ王琳にとっては、裏切り者である旧臣達の誘いなど唾棄(だき)すべきものであった。しかし、長らく軟調に暮らしていた王琳にとって見知らぬ斉へ行くことは一大決心を要したのだ。

「義父上は、鄴都に来られるのか」

長恭は、めずらしく酒杯を青蘭に勧めた。

「義父上が斉に来れば、君にとって心強いな・・・」

長恭は笑顔を作った。父王琳が、斉に帰順すれば斉にとっては、梁の旧臣を集める良い機会となろう。しかし、もし梁に降れば、青蘭の立場は複雑なものとなろう。


        ★           ★


夜も深まり戌の刻(いぬのこく)(午後八時から十時ごろ)になった頃、慌てた様子で高敬徳が蘭陵王府に現れた。

「長恭、・・た、大変なんだ、聞いてくれ」

長恭が立ちあがり迎えると、皇宮からそのまま来たらしい敬徳は、まだ官服をまとっている。

長恭が酒を勧めると、敬徳は息を整えてまず酒杯を呷った。

「長恭に、知らせたいことが、あるんだ。席を外してくれ」

敬徳が何時になく眉を寄せて、青蘭を見た。

青蘭が長恭を見ると、目くばせをしながら何度も頷いている。

何か、二人で内密の話があるに違いない。どんな士大夫でも、妻に知られたくない秘密の一つや二つはある。


青蘭が居房を出て行くと、敬徳は椅を長恭の方に引き寄せた。

「長恭、・・・蘆思道が、・・・左遷された」

敬徳は、長恭に顔を近づけると小声で言った。震える手で酒杯に酒を満たすと、一機に(あお)った。

「蘆殿は、手筈通り大丞相に訴えたのだろう?・・・それなのに・・どうして」


蘆思道によって書かれた上奏文は、高敬徳の協力により高演の目に触れることになった。そして、思惑通(おもわくどお)り蘆思道は、高演に呼び出され、高帰彦の不正について直訴したと聞いている。

高演は、思道が携えた二つの石高を示す文書を見て、大いに心を動かされ『不正は許さぬ』と言っていたというところまでは、侍中府の噂として流れていた。


ところが敬徳によると、次の日、蘆思道の所に届いたのは丞相西閤祭酒(さいこうさいしゅ)への左遷の勅書だったのだ。祭酒とは、位としては低くないが、学問所の学長のような地位であり、散騎侍郎のように政に直接関わることのできない。

つまり、政の第一線から外されてしまったのである。


「なぜ、大丞相(高演)は、不正が明らかな高帰彦ではなく、忠臣の蘆思道を罰したのだ」

政に公正をもたらすと思っていた高演が、高帰彦の不正を握りつぶしたことに、長恭は憤懣(ふんまん)やる方ない様子で言葉を吐き出した。

「今、斉の実権を握っているのは、高帰彦だ。・・・大丞相でも手出しができないということだな」

敬徳は酒杯に再び酒を注ぐと、捨て鉢(すてばち)気味に言った。


高帰彦の罪を暴露しようとした蘆思道は、むしろ、中書省の機密文書(きみつぶんしょ)漏洩(ろうえい)したとの罪に問われ、断罪されてしまったのである。

文人としての名声に免じて、蘆思道を死罪にせず、祭酒という地位を与えたのが温情と言うべきかもしれない。二人に追及の手が伸びなかったのは、蘆思道の口が堅かったからである。

「敵は、巨大だ。侍中になって、彼奴(やつ)の足を(すく)えるかと思った。だが、どうだ。蘆殿を左遷させてしまった。・・・無念だ」

敬徳は、溜息まじりに呟くと、強い酒を酒杯に注ぐと浴びるように飲んだ。


「敬徳、・・・こんな不正が何時までも続くとは思えない」

長恭は、仇を打ち損ね積年の恨みを抱えた敬徳を慰めた。

「なぜなんだ。善人が報われず。・・・・悪人が・・・」

父親の冤罪以来、敬徳は常に敵討ちの機会を狙って来た。しかし、高帰彦の権力はむしろ巨大になるばかりで、陰りを見せない。

敬徳は酒杯を重ねるうちに泥酔し、言葉にならない言葉を呟きながら食盤に突っ伏してしまった。

此度(こたび)糾弾(しだん)に賭けていた敬徳の落胆は目を覆うばかりで、敬徳の痛飲を止めることはできなかった。

長恭は、酔いつぶれて卓に倒れ込むようにしている敬徳を見ると、慰めの言葉を失った。長恭は、敬徳の傾いた肩を撫でた。


「敬徳、敬徳、起きろ・・・」

長恭が声を掛けて揺り動かしても、起きる気配がない。

結局、泥酔した敬徳を客殿に泊めることになった。

「まったく、敬徳の奴、・・・こんなに飲んで」

長恭は肩で支えるようにして、泥酔した敬徳を東殿に連れて行った。 

「何、俺はまだ飲める・・・俺は、悔しい・・・彼奴(あやつ)を葬り去ること・・・」

長恭に抱きかかえられるようにしながら、敬徳は回廊の柱に寄り掛かり訳の分からない言葉を吐いている。

仇を取れなかった無念さに自分を抑えきれないのであろう。こんなに酒で乱れる敬徳を見るのは初めてであった。


東殿に辿り着くと、敬徳は崩れるように榻牀に横になった。

東殿の中は、蝋燭(ろうそく)が灯されているものの薄暗い。蝋燭の光に照らされ敬徳の眉と秀でた鼻梁(びりょう)が深い影を作っている。その男らしい横顔は、幼少の頃より長恭の憧れであった。長恭は、敬徳の官服を脱がせると、衣桁に掛けた。

長恭は、正体なく横たわる敬徳に(うわがけ)を掛けると榻牀の薄絹の(とばり)を閉じた。


            ★                 ★


湯あみを済ませ長恭が臥内に入ると、青蘭は夜着に珊瑚色の上着を羽織って灯籠の側で書冊を読んでいた。

「青蘭、済まない。敬徳がいきなりやって来て、折角(せっかく)の・・・」

父王琳の回復の知らせがあり、それを二人で祝うために青蘭が心づくしの料理を用意してくれたのだ。ところが、敬徳の来訪により、ささやかな宴は台無しになってしまったのだ。

榻に座ると、長恭は青蘭の手を取った。

「どうせ、何か、政に関わることなのでしょう?」

青蘭は、自分が爪はじきをされた悔しさで長恭の手を払った。二月の政変では、太皇太后を守って長恭と共に昭陽殿まで言ったのである。それなのに、敬徳との話しで自分は蚊帳の外に置かれたのである。

蘆思道の左遷のことは、いずれ青蘭の耳にも入るに違いない。共に難局を乗り越えて来た二人だ。秘密は二人の心を隔てる結果となる。しかし、この企てに深く関われば、青蘭にとばあっちりが行かないとは限らない。


「これは、誰にも言わないでくれ。蘆思道殿が、高帰彦の不正を告発したのだが、左遷の憂き目にあってしまったのだ。敬徳と私も共に動いていた。このことは、内密に」

長恭は、青蘭の耳元に唇を寄せて小声で話した。

「常山王なら、正しい裁きをしてくれるはず」

青蘭は、眉をひそめて長恭を見た。

「それが、・・・常山王に直訴したのだが・・果たせなかった。反って、思道殿は、一人で罪をかぶって左遷の憂き目に合ってしまった」

これ以上言えば、自ずと大丞相高演への批判になってしまう。

「洪水の被害につけ込み、民を食い物にしている高帰彦を倒そうとしたが、果たせなかった」

長恭は、苦し気に深い溜息をついた。


「正しい事が正しいと通らないとは、・・・でも、長恭様を誇りに思うわ」

青蘭は右の肩に回された長恭の手を握った。

長恭は、青蘭の額に顔を近づけた。

「今日は疲れただろう。早く休もう」

長恭の秀麗な瞳は、いつも青蘭の心を熱くしてくれる。

青蘭が珊瑚色の上着をぬいて榻牀(とうしょう)にすわると、長恭は青蘭の書冊を書架に戻しに行った。


その時、敬徳の世話を任せていた侍女が、扉のむこうで声を挙げた。

「申し上げます。敬徳様に酔い覚ましの汁物を持っていったところ、具合が悪いようなのです」

榻牀に入ろうとしていた長恭が、不機嫌な顔で扉を開けた。

今夜の敬徳は、いつになく深酒をしていた。酒のさほど強くない敬徳に深酒は、身体に毒である。

「分かった、見に行く」

長恭は、手近にあった青蘭の外衣を羽織ると溜息をつきながら侍女を伴い東殿に向かった。

いつになく理性を失い、泥酔した敬徳が心配であった。

珊瑚色の外衣からは、夜の闇の中でも青蘭の茉莉花の香りが立ち昇って来る。長恭は、身体を熱くしながら襟に唇を寄せた。


東殿に入ると中は、蝋燭が灯るだけで暗い。

枕元の灯りに照らされて、眠っている敬徳の頭が薄絹越しに見えた。苦し気な敬徳の寝息が切れ切れに聞こえてくる。


「下がれ、私が様子を見よう」

敬徳は大丈夫だろうか。長恭はゆっくりと榻牀の帳を開けると、深まった暗闇のなかで敬徳が影を作って横たわっている。太い眉を寄せて唇は苦し気に開けられている。様子をよく見ようと長恭は枕の横に手を突いて、敬徳の顔に近づいた。

長恭の気配に気づいたのだろうか、敬徳は薄く瞼を開けた。虚ろな虚空を見ていた瞳がいきなり見開かれ、長恭の腕を引き寄せ抱き着いてきた。

「青ら、ん・・・」

敬徳は酔っているとは思えない強い力で長恭を引き寄せると、いきなり唇を合わせて来たのだ。重ねられた敬徳の唇は、何かを探すように狂おしく長恭の唇を求めた。

「う、う・・やめろ」

長恭はそう叫ぶと、思いっきり敬徳の頬を殴り、身体を突き放すと立ち上がった。

「な、な、何だよ敬徳・・」

いきなり頬を打たれ怒鳴られた敬徳は、呆然(ぼうぜん)とした様子で枕から身体を起こした。

「何をするんだ。・・・いきなり抱き着いて・・・俺は男だぞ」

敬徳がおぼろげな意識の中で長恭を見ると、目を怒らせ唇を抑えている。

「長恭、・・・すまん」

頬の痛さと、唇に残った感覚が敬徳に起こった出来事を知らせた。


「まさか、お前に限って、・・・喬香楼の妓女と間違えたのか?」

長恭は、怒りを抑えきれずに唇を歪めて横を向いた。

女人に見紛う容貌のゆえに、男から妙な眼差しを向けられたことは多々ある。しかし、いくら暗いとは言え、女人に間違えられて親友に唇を奪われるとは、あまりにも屈辱的だ。

「すまん、酔っていて・・・馴染の女に間違えたのだ」

敬徳は、肩を落とすと面目なさに横を向いた。

「まったく、やめてくれよ。・・・お前に女に間違えられるとは、・・・ゆっくり休んでくれ」

長恭は、そう言い置くと東殿を跳び出した。


回廊の柱を背にもたれると、天頂には満月の月が煌々と輝いている。長恭は、再び手の甲で唇を抑えた。目を瞑ると、青蘭の外衣から茉莉花の香りが立ち昇る。

青らん?・・・そうだ、敬徳は抱き着いたとき、青蘭という名前を呟いていた。・・・もしや、敬徳は妓女ではなく、・・・青蘭だと勘違いして唇を奪ったのではないか。


元々青蘭は、敬徳との間に縁談があったのだ。青蘭が婚儀を挙げた今も、まだ青蘭に未練を残しているのではないか。酩酊(めいてい)と茉莉花の香に惑わされて、自分を青蘭と勘違いしたのではないか。

敬徳は長恭に友情を示しながら、青蘭への好意を隠していたのか。

長恭は、もやもやとした焦燥感(しょうそうかん)を抱きながら、臥内へ急いだ。一刻も早く青蘭を抱きしめたかった。


     ★            ★


「まったく、やめてくれよ。・・・お前に女に間違えられるとは、・・・ゆっくり休んでくれ」

そんな台詞を残して、長恭は扉から出て行った。唇に残った感覚と、長恭が唇を抑えていたことから考えると、自分が長恭に抱き着いて、唇を奪ったらしい。


蘆思道の失脚を知って、慌てて蘭陵王府に駆けつけた。蘆思道への申し訳なさと父の仇を打てなかった無念に酒量を過ごしてしまった。

何かの気配に気が付いて目を開けると、茉莉花の香とおぼろげな女人の姿が見えた。青蘭の使っている茉莉花の香が近づいて来るのを感じた。

その時、青蘭の存在を感じて自然に手が動いたのだ。青蘭を欲しいと思った。その体に抱き着き、思わず唇を奪ってしまった。

酔いが男女の違いを見分ける理性を失わせたのか。あの青蘭だと思った女人が、親友の長恭だったなんて。

「何ということを、してしまったのだ」

敬徳は蝋燭のほの暗い光の中、拳で頭を打った。

幸い、長恭は妓女と間違えたと思ったようだ。

それは長恭の男としての自尊心を大いに傷つける結果となるが、青蘭と間違えたと知られるよりはましであろう。

「それにしても、長恭、お前は・・・あまりに美しすぎる」

敬徳は、自分の唇を指でなぞった。


          ★                    ★


六月、大暑の強い陽光に百日紅(さるすべり)の花の赤が、青空に揺れている。

長恭は宣訓宮に太皇太后を訪問した。


長恭が前庭に入ると、側仕えの紅衣が長恭を後苑の四阿に案内した。

御祖母様(おばあさま)はどちらに?」

百日紅が赤い花を咲かせる側の四阿(あずまや)に、太皇太后と若竹色の衣を着た女人が座っているのが見える。


四阿の奥を見遣ると、長恭が射術の鍛錬(たんれん)をした矢場の台はすでに取り払われている。幼き頃より十年以上も住んでいた屋敷が、なぜか別の屋敷に感じられる。

長恭が、四阿に近づくと、若竹色の半被(はんぴ)東雲色(しののめいろ)の長裙をまとった女人が立ち上がった。色白な面差しに(ろう)たけた様子の女人は、平陽公主であった。

「御祖母様、・・・平陽公主にご挨拶を」

長恭は、二人に律義(りちぎ)な挨拶をした。

「長恭様、・・・久しぶりですわ」

平陽公主は、優雅に胸の前に手を合わせると熱っぽい視線を送り姿を作りながら挨拶をした。

「公主、いつ、大梁(だいりょう)から戻ったのですか?」

長恭は笑顔を作ると、用意された(いす)に腰かけた。

「ほんの半月前ですわ」

(しゅく)、・・・その節には、世話をかけたのう」

あの時、長恭と青蘭の手を借りて平陽公主を大梁に逃していなかったら、昨年の大逆(たいぎゃく)の折に公主は斬首(ざんしゅ)されていたかもしれないのだ。婁氏は、愛おしそうに平陽公主を見遣った。


「今度、お世話になった方々を招いて長公主府で宴を催したいと思っていますの。長恭様は、ぜひ来てくださいね」

平陽公主は、色っぽい笑みを浮かべながら長恭を見詰めた。

元一族(げんいちぞく)を執念深く狙っていた先帝が崩御し、今上帝高殷が即位をきっかけとして、元氏は名誉回復を果たしていた。生き残った一族の多くは旧位を取り戻している。平陽も前王朝の公主であり太原(たいげん)長公主の娘として、むしろその出自を誇っていい立場となったのである。

中山王の令嬢として日陰の身で生きてきた公主が、今では本来の明るさを取り戻したように生き生きとしている。

「ああ、勿論(むろん)行かせてもらいます」

長恭が承諾(しょうだく)すると、平陽は、安心したように笑顔を作って退出した。


宣訓宮の居房を出ていく平陽公主の後ろ姿を、婁氏は名残惜し気に見送った。

「平陽のように、他の者も逃していれば、元氏も多くの命が助かったものを・・・」

いつもは厳格な太皇太后の瞳に、涙が溢れていた。元氏に連なる多くの人々を、為す術なく斬殺(ざんさつ)させてしまったことは、祖母の大きな悔恨(かいこん)

であったのだ。

「せめて、平陽には幸せになってほしいのだ」

婁氏は、横を向くと手巾で涙を拭った。




侍女の紅衣が、持参した菓子と茶器を運んで来た。

「青蘭様からの菓子でございます」

紅衣は、菓子の皿を置くと茶杯に茶を満たした。

胡桃餅(くるみもち)の蜜掛けは滋養(じよう)によいそうです。御祖母様、ぜひ召し上がってください」

侍女の秀児が長恭に茶杯を勧めると、長恭は言葉を添えた。

「御祖母様、・・・王将軍の探索(たんさく)ではお礼を申し上げます。・・・実は、重ねて御祖母様にお願いがございます」

長恭は、茶杯を置くと、立ち上がった。婁氏は手に持った胡桃餅の皿から目を上げた。

「王琳将軍は、彭城(ほうじょう)養生(ようじょう)しております。王将軍が、面目を保って斉に臣従できるようにご助力をお願いしたいのでございます」

婁氏は、胡桃餅を一口食べると、茶で喉を潤した。

「王将軍の面目が保てるようにのう・・・」


戦闘に敗れて斉にたどり着くのと、望まれて臣従(しんじゅう)するのでは雲泥(うんでい)の差である。要請に応じて朝廷に加われば、臣下としての官位も違ってくる。

「御祖母様、斉からの勅書をお願いいたします。義父上は、勇敢(ゆうかん)輿望(よぼう)のある武将です。必ずや、斉の為になるかと・・・」

青蘭の父琳が万が一陳に帰順すれば、婿である長恭の斉での立場にも影響が出てくるのである。

婁氏は言葉を切り、しばらく目を瞑った。

「王将軍は、梁の遺臣に輿望がある。陳に渡すわけにいかぬな。・・・演に手を打たせよう」

「御祖母様、感謝いたします」

これで、青蘭の望みをかなえることができる。長恭は、祖母の言葉を聞いて笑顔で拱手した。


        ★               ★


侍中府の書房の()だるような暑さの中、几案(きあん)の前に座った長恭は、上奏の山の中から一冊を抜き出すと、ため息交じりに開いた。大丞相の上覧に回す上奏文を弁別(べんべつ)するため、六人の散騎侍郎(さんきじろう)は毎日膨大な量の上奏文と格闘していた。

全ての決裁は大丞相(だいじょうしょう)が目を通してから行う(むね)の勅旨が三月に出て以来、斉の政は晋陽の大丞相高演と皇帝高殷の間で、権力が二重構造となってしまった。その間欠(かんけつ)を狙うように、尚書令(しょうしょれい)高帰彦(こうきばい)

が権力を伸長し、政には様々な点で大きな支障が出ていた。

長恭が溜息をつきながら、上奏を盆に載せた。


「長恭、いるのか?」

声の方を見ると、書房の扉のところに敬徳が立っていた。

赤い官服に身を包み、高く結いあげた髷には金の冠が光っていた。侍中としての仕事にも慣れ、若いながらも風格さえ漂っている。

「ちょうど、上奏を運ぶところだ」


長恭は係の宦官に上奏を載せた盆を持たせ、敬徳と一緒に書房の外に出た。侍中府の回廊の角を回ると百日紅の赤い花と芙蓉(ふよう)の白い花弁が風に揺れている。

敬徳は、長恭に目配せをしてくる。二人だけで話がしたいのだ。

「上奏文は、私が高侍中と運ぶ。そなたは戻って他の侍郎を手伝え」

長恭が玲瓏(れいろう)な眼差しで命じると、宦官は短く返事をして戻って行った。

「敬徳、何か用事か?」

長恭は、山と積まれた上奏文の思わぬ重さに眉をしかめた。

「長恭、先ほど王琳将軍の招聘(しょうへい)が決まった。彭城に勅使(ちょくし)が派遣され、王琳将軍に勅書が出される」

敬徳は、御書房(ごしょぼう)での決定を一刻も早く長恭に伝えたくて息せき切って走って来たのだ。

「えっ?敬徳、本当に勅書が?」

長恭は、驚いて上奏文の盆を取り落としそうになった。

「さすが、太皇太后さまの力は絶大だ」


侍中府の正殿に上奏文を届けると、二人は、木槿(むくげ)の咲く花園に入った。

女人と間違えて唇を奪われて以来、敬徳とは顔を合わせることを避けていた。

顔を合わせるとあの夜の感触や敬徳が発した言葉を思い出してぎこちない態度になってしまうのだ。長恭は敬徳から目を逸らすと、青空に映える木槿の白い花を見上げた。


『女子に見紛う容貌』は、武勇を第一とする鮮卑族にとっては、屈辱(くつじょく)以外何物でもない。酒の酔いと暗さの中で間違ったという敬徳の言い訳を信じたい気がした。『青蘭』の言葉も自分の聞き間違いかもしれない。自分は、女人に間違われたことに(こだわ)り過ぎているのかもしれない。

その証拠に、敬徳は、以前と同じように接している。


「敬徳、そなたも口添えしてくれたのか」

長恭は、敬徳の男らしい眉目を眩しげに見詰めた。

「長恭、もちろんだ。王琳将軍は、私の尊崇(そんすう)するところ。斉の臣下となればこれほど喜ばしいことはない」

敬徳は、拘りなく頬を緩ませた。

「敬徳、・・・青蘭に代わって・・・礼を言う」

長恭は、拱手して感謝の意を表した。

「幼馴染の私に、・・・礼なんて、水臭いぞ」

敬徳は、長恭の胸に拳を当てると磊落(らいらく)に笑った。




蘆思道、高長恭、高敬徳の三人で高帰彦倒す計画は、失敗に終わり、蘆思道は左遷されてしまった。

敵討ちに失敗した敬徳は、泥酔するほど酒を飲んだ。

酔った高敬徳に、女人に間違えられ迫られた長恭は、敬徳の青蘭への恋慕を疑うのだった。

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