君の残響
封筒の白さだけが、目に焼き付いていた。
屋上の鍵は開いていた。最悪のシナリオが頭をよぎり、体当たりするように扉を開けて転がり出る。
「先生、どうしたんですか?」
早朝の強い風が彼女の声を運んでくる。いつもの、余裕たっぷりの声だ。
「お前、なあ。心配、かけさせんな、よ」
肩で息をしながらなんとか言葉を吐き出した。即座に状況を確認する。四宮は屋上の周りにある柵の外側に立っていた。そして彼女の傍には、靴下の詰められた上履きが置いてあった。
「あー、疲れた。こんなに走ったの、いつ以来だろうな」
「先生、手紙読みました?」
「一回さらっと読んだだけだ。後でもう一回、ゆっくり読み直すよ」
なんてことないふうに聞くから、俺もなんてことないふうに答える。
握りしめてクシャクシャになった手紙を開いて伸ばしながら、そっと四宮に近づいた。彼女の方をよく見もしないですっと近づくのはもちろんわざとだ。
あと数歩で四宮のもとにたどり着くというそのときだった。
「先生、ストップ。それ以上近づいたら飛び降ります」
すました顔でそんなことを言う。けどそれは、嘘でもハッタリでもないのだろう。
俺は歩みを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……四宮、やめてくれ」
彼女はなぜだか嬉しそうに笑った。
「私ね、先生。私の死によって、一つの波紋が広がればそれでいいんだ。私の言葉が世界に広がって、少しだけこの世を綺麗にする。それで十分なの」
ただの強がりなのか、それとも本心なのかわからない。
でも、どちらでもあるのかもしれない。思えば彼女はいつもどこか矛盾を抱えていた。自分の死によって完結する筋書きを着々と遂行する強い意志があるのに、最後の最後に手紙を残してしまう詰めの甘さもある。
きっとどちらも四宮の一部なのだ。だから、思うのだ。彼女は誰かに止めてほしいと思っているんじゃないかって。
「ごめんね、先生。迷惑かけるし、もしかしたら先生も責任取らされることになるかもしれないけど。ほんとに、それだけが唯一心残りなんだけど」
彼女の目に不安と後悔がよぎる。四宮は本当に申し訳なさそうだった。
だがそんないじらしいことを言われても、ぜったいに引き下がるわけにはいかない。
「ふざけんなよ。生徒が死んで、責任を感じない教師なんているわけないだろ」
「先生、言ってたじゃん。中途半端に賢いだけで、何も変えられないんじゃ、意味がないって。みんな同罪だって」
わざと強い言葉を使ってみた。教師という肩書きに甘えた。俺はいつだって、賢いフリして都合のいい誰かの言葉を吐き出す、ただのウソつきだ。そしてそんな俺を、四宮はちゃんとわかっていた。
「私は、たとえ命に代えても、世界を変えてみせるよ」
彼女はごめんと悲しげに笑った。
どうして教職免許を取るときに、自殺する教え子を止める方法を教えてくれなかったのだろう。顔のない誰かを、無性に責めたくなった。
「先生ってさ、やる気なさそうっていうか、いつもめんどくさそうに見えるのに、じつは熱血だよね。そういうとこ実はかっこいいって思ってたんだ」
――やめてくれ。そんな甘ったるい話し方、四宮らしくない。
「先生、気付いてる? 顔、ひきつってるよ。さっきからずっと。いつもつまんなそうなふてくされた顔してる先生が、今日はオロオロしてる。ちょっと、可愛いよ」
――やめてくれ。俺は結局、自分のことしか考えていなかった。四宮のため、生徒のため、を言い訳にして、自分に酔って、辞める理由を探していただけだ。四宮の抱えているものの深さにも気づかなかった救いようのない俺に、そんな言葉を掛けないでくれ。
言葉はそうやっていくつも頭の中を巡るのに、何一つ口にはできなかった。
四宮がゆっくりとこちらに背を向けた。
「これから死ぬかと思うと、とっても心が安らぐんだ。きっとあの子もこんな気分だったんだろうね」
どうしたら、この歪んだ世界に彼女を繋ぎとめておけるんだろう。
どうしてその答えを、もっと真剣に考えておかなかったのだろう。
先に立たない後悔ばかりが脳裏をよぎり、建設的な思考を阻む。
「先生、ありがとね。いっぱい話聞いてくれて。あんなくだらない話、ちゃんと聞いてくれるのは先生くらいだよ。ほんとにありがと。とっても、幸せな時間だった」
お別れの時間はもう終わりだった。
でも俺は、どうしてもそれを先延ばしにしたくて、なんとか声を絞り出した。
「待ってくれ。他に……方法があるはずだ」
軽く鼻で笑ってから、「ないよ、そんなの」と四宮は小さな声で答えた。
「私ね、去年の担任が保月先生だったらあの子も救われたのかな、なんて、ちょっと思っちゃったんだ。もし保月先生にすべてを打ち明けたら、何か私が思いつかないような解決策を提案してくれるかもしれない、とかもね」
生ぬるく、だけどどこか爽やかな風が屋上を吹き抜ける。ようやく梅雨も終わるらしい。けれど次の夏を、四宮は迎えない。永遠に梅雨が続けばいいと思った。
「でも同時に、私は怖くなったんだ。もしすべてを話して、保月先生が自己保身に走ったり、現実を見て諦めろって諭したりしてきたらどうしようって」
ひどい話だよね。先生だってただ一人の人間にしかすぎなにのにね。
小さな声でそう言って、自嘲気味に笑う彼女の横顔が堪らなく切なかった。
「でももしそうなったら私はきっと、もっと世界が嫌いになる。保月先生を信じたまま死にたい。できることなら一つくらい、希望を持ったままで死にたいんだ。彼女のために何もしなかった私がこんなことを願うのはズルいけどさ。それでもできることなら、すべてに絶望したまま死にたくはないって、そう思ったんだ」
四宮のつま先がじりじりと前に進み始める。
「私自分勝手だからさ、先生にだけは本当のことを知ってほしいとも思っちゃって、手紙だけ置いていくことにしたんだけど。……また誤算だったな」
俺は彼女の瞳の中に、黒く大きな海と、その真ん中で静かに灯る炎を見た。彼女はほんとうに、命の抗議をしようとしているのだろう。この世界に一つの問いかけをすべく、その命を捧げようとしているのだろう。
わかるはずもない彼女の気持ちが、狂おしいほど流れ込んできた。やっぱり俺は大人になったふりをするだけで、子どものままだったらしい。
「俺は四宮の話を聞くだけで、何もしてやれなかった。何も、できなかった」
喉の奥から絞り出した声はかすれていた。泣いてはいけないと思っているのに目の淵から涙が溢れてくる。感情はもう自分の手を離れていた。
「ううん、そんなことないよ。先生に話を聞いてもらえて、私は救われたよ。だから、泣かないで」
四宮の笑顔はどこか刹那的で、痛々しくて、もう見ていられないとばかりに涙は水のカーテンとなって瞳を覆った。
袖で目を拭って、なんとか彼女の姿を見失わないようにする。
四宮のつま先はすでに校舎の外へ飛び出していて、視線はすっと眼下に注ぎ込まれている。彼女の涙は頬を伝い、グラウンドに音も無く落ちていった。
途端に、身体が動き出した。
「……わかった。じゃあ、俺が死ぬ」
勝手に言葉が出ていた。
彼女がいるのと少し離れたところの柵に近づき、手をかける。金属特有の無機質な冷たさが肌から脳へと伝わった。
「え、センセ?」
「俺は、どうしてもお前が死ぬのが耐えられない。きっとお前が死んだら、俺は自分を許せなくて、自殺する。だから、四宮の代わりに俺が死ぬ」
余白を埋めるために、俺は言葉を継ぎ足し続けた。この広い空の下を埋めることなんてできはしないのに、それでも言葉を紡ぎ続ける。柵は意外と簡単に乗り越えられた。
「なに、それ」
「俺が死ぬから、四宮は死ぬのをやめてくれ」
風が首を撫でていく。眼下に広がる住宅街は見慣れたはずのいつもの景色ではなくて、遠い昔、いつか見た景色を思い出した。でもそれが、いつどこで見たものなのかは思い出せなかった。
「待って。やめてよ」
「生徒一人救えないなら、俺に生きてる価値なんてないさ。いまの俺が四宮にしてやれるのは、代わりに死ぬことくらいだ」
――また同じことの繰り返しなのかもしれない。自分が大嫌いで、誰かのためにかっこよく死ねたら、こんな自分にでもちょっとは価値があるんじゃないかって、そう思いたいだけなのかもしれない。でも、ほんとうに、間違えてばかりのつまらない人生だったんだ。
「バカなこと言わないで。そんなの全然嬉しくない。そんなこと言われても今さら引き下がれないよ。私が先に死ぬから、勝手に死ねばいいじゃない」
――ほんと、バカだってわかってる。だいたい、俺みたいなやつが、人に何かを教えるなんてできるはずがなかったんだ。でも最後くらいは、このつまらない命くらいは、大事な人のために使いたいんだ。
「俺が死ねば、十分大きな事件になるだろ。ニュースでだって取り上げてもらえる。だから、お前が死ぬ理由はなくなるだろ?」
先にやったもん勝ちだろう。少しでも、四宮に迷いがあるうちにと、俺は最後の言葉を吐き出した。
気持ちは言葉にすると嘘になる。でも言葉にしないと伝わらない。飾り立てた嘘でもいい。俺の嘘も、きっと彼女ならぜんぶまとめて、わかってくれるだろう。
ぶわっと強い風が吹きつけて、日差しが燦燦と降り注ぐ。ここで、俺の人生は行き止まり。どこにも行けないし、どこにも戻れない。あるのは空だけ。青い空と小さな雲が俺の終着地点だ。でも、この選択はまぎれもなく、救いだった。
「大人だって、子どもと同じだ。いつだって正解が見つからないって泣き叫んで、誰かに助けてほしいって思ってる。自分のことばっかり考えて、他人なんかどうなったって構わないって思ってる。……でも、やっぱり俺は大人で、先生だからさ。四宮を明るい方へ、連れ出してやらなきゃいけないんだ」
希望のために、死ねるのだ。こんな幸せなことはない。
「生きろっ、四宮」
力いっぱい怒鳴り声をあげる。
空はどこまでも晴れ渡っている。恐怖は微塵もなかった。
青い空へ向かって一歩、踏み出した。
終わり
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