1話 僕のゆかりさん。
午後8時の住宅街、並ぶ家々に間借りした電柱が照らす道を愛車でなぞる。市内の食品メーカーに務める僕は 営業担当 永世 真 役職のない36才だ。会社支給の“ポケットがやたらと多い”制服は、自社商品と配送トラックの臭いが丸一日分シミついていた。通り慣れた十字路を左にハンドルを切り、平たい屋根をした我が家にたどり着く。
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玄関をくぐり「ただいま。」と口にすると、暗闇の奥から微かに聞こえる冷蔵庫の運転音が出迎えてくれた。壁を手で探り照明をつけて足下を見ると、婦人物のサンダルが申し訳程度に先を揃えた状態で陣取っていた。今脱いだスニーカーをその右隣に揃えると中敷きの踵があたる部分が丸くへこんでいるのが見えた。靴下を洗濯機に放りこみ、むくんで重くなった素足が床に張り付きヒタヒタと音を立てながら階段を登り、そのまま突き当たりの寝室に向かう。
豆球のオレンジ色の光が注ぐ木製のベッドの真ん中に、クマのぬいぐるみを包み込むように抱いて眠っている僕の妻がいた。
「ゆかりさん、ただいま。」「ゆかりさん、起きてよ。」永世 縁1回り年下の24才、背中まで伸びている髪の毛は先だけに緩く波打つクセがある細い体をした彼女は、何度も呼びかけないと中々目が覚めない。いつもこの調子なので繰り返し声をかけ続けようやく彼女は動き出した。
「ん… おかえり 真くん」欠伸まじりのフワフワした声が返ってくる。「もうちょっと寝たかったのに…タイラ~ご飯食べてくるね」名残惜しげに彼女自身がタイラと名付けたぬいぐるみの頭を撫でながら言い聞かせ、気怠げにベッドから這う様に出てくる。
「ご飯出来てる 温めてくるよ」そう告げながら、半分夢から覚めていない様子で台所に移動しはじめた彼女、つまづいて転ばないかと心配しつつ後を付いて行く。
本日の夕食は、白ごはん、胡瓜の酢和え、玉葱の味噌汁、刻みピーマン入りの厚焼き卵だった。ゆかりさんは食べ物に関心が薄い、加えてコッテリしたものは舌が受け付けないらしく、我が家の食事は概ね質素だ。
「「いただきます」。」
ゆかりさんは1口1口ゆっくり食べ進め、口の中を空っぽしてから色々なことを僕に語りかけてくる。1口の量が多い僕がいつも先に食べ終わるので、おかずとごはんを交互に食べる彼女に、僕が同僚とした話しを聞かせながら2人分のお茶のおかわりを入れる。
「あ 急ぎで頼まれた仕事があるから今日は先に寝てて」ゆかりさんは洋服関係の内職をしている。騒音が少ない夜の方が集中出来るらしく、ゴールデンタイムの番組が終わるくらいから仕事を始める事が多い。
「眠くなったら、無理はしないで寝てね。」僕がそう告げたタイミングで、ゆかりさんの持つお茶碗が綺麗に空になった。
「「ごちそうさま」。」
シンクの前に立つ僕は「お風呂どうする?」と聞きながら食器を洗う、洗剤を流し終わった物を水切り台に置いていく、それらをゆかりさんは乾燥機に仕舞いながら「仕事が終わってから行く」と答えた。
食後の後片付けが終わり、少しして僕は浴室、ゆかりさんは作業部屋に向かう。
僕だけなので簡単にシャワーを済ませたあと、氷を入れた水道水を飲んで風呂上がりで温まった体を休ませてから歯を磨く。あとは寝るだけだ。
「ゆかりさん、先に寝て待ってるよ。」寝室の隣の部屋をのぞき声をかける、既に作業に集中している背中から「ん」の返事。
壁の向こうから聞こえるミシンの音を聞きながらスマホアプリでニュース記事を読みつつ寝室で横になっていたが、ゆかりさんが気になるのでもう一度作業部屋を覗いた。
ゆかりさんは瞬きもせず布を押さえている手元を見ながら、ミシンのペダルを1踏みするたびに息を止めている。
「どうしたよ 眠れないのかね」と僕の方に顔を向けて聞いてきた。
なんだか安心して「ゆかりさんの顔を見にきただけ。」と返事する。「寝坊するよ 早く寝なさいな」微笑みながらゆかりさんが言う。僕が「タイラと待ってるからね。おやすみ。」と返すと「おやすみ」が返ってきた。
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スマホのアラームがなり『止める』もう朝らしい。寝返りをうち横を見ると、タイラのお腹に手を乗せてゆかりさんが寝ていた。
「おはよう、お疲れさま。」ゆかりさんのハリのある指通りの良い髪を撫でながら言うと、真ん中にいるタイラと目が合う。仕事に行く準備のために起き上がり、ほほえみながら「行ってきます。」とベットに残された2人に声をかけた。