家庭科室にあったゴキブリホイホイを覗いたら
高校二年生の俺は、今日家庭科の授業で調理実習をすることになった。
授業五分前に家庭科室についた俺は、クラスの友人一人と談笑しながら手早くエプロンを身に付けた。
作る料理はミートスパゲッティ。
パスタを茹でて、ミートソースを作るだけ。
レシピ通りにやれば一人でも出来そうなくらい簡単な調理だ。
ちょうど昼食前最後の授業ということもあって、今日は弁当を持ってきてない。
「腹減ったなー」
「そうだな」
友達と俺はそんな会話をしながら、授業が始まるまで家庭科室をウロウロしていた。
正直、家庭科室というのはあまり入る機会が無い。
家庭科の授業といっても、調理実習を毎週やっているわけではないのだ。
そんなわけで俺達にとっては、家庭科室は少し新鮮な空間だった。
「おい、ここにゴキブリホイホイがあるぞ」
突然友人がそう言って肩を叩いてきた。
彼の言う通り、部屋の隅にゴキブリホイホイが設置されていた。
「本当だ。たしか中学の時も家庭科室にゴキブリホイホイがあったな。そんなに出るんだろうか?」
「やっぱり食材を調理するから出るんじゃね? あいつらどこにでもいそうだしよ」
俺の質問に友人はそう答えた。
小中高の学校生活で、俺は校内でゴキブリを何度か目撃したことがある。
ただそれらは極稀な出来事で、そこまで多くゴキブリを見ることはない。
「ゴキブリホイホイって、ゴキブリをおびき寄せるために中にエサが入ってんだろ? ほら、あのふりかけみたいなやつ」
「そのくらい知ってるわ。そんでもって、粘着で捕まえる仕組みなのも知ってる」
「そっか」
友人は少しつまらなそうな顔をした。
ホイホイの仕組みくらいは当然知ってるっての。
「お前、覗いて見ろよ。ゴキブリ好きだろ?」
そんな事を友人が言ってきた。
「いや好きじゃねーよ。ただ、ゴキブリに特別な嫌悪感は無いのは事実だな」
実は俺の趣味は昆虫採取だ。
小学校時代には、クラスに一人はいる昆虫博士だった過去がある。
「もうその発言だけでスゲーわ。俺リアルガチでゴキブリ無理だもん。鳥肌立つもん」
「まあ俺もクモとかは得意じゃないぞ? 八本脚だしな。ただ六本脚の昆虫だけは余裕だ。勿論ゴキブリだって例外じゃない」
話すとドン引きされるから誰にも言ったことないけど、正直ゴキブリ程度なら直接手でも触れられる。
俺の前では所詮は同じ昆虫だ。
クワガタと大差ない。
「さっすが昆虫博士だぜ。そんじゃあゴキブリホイホイのリサーチ頼む。この家庭科室にどれだけゴキちゃんがいるのか気になるからな」
「ヘイヘイ」
少し離れた位置まで遠ざかった友人に呆れながらも、俺はゴキブリホイホイを手に取った。
脳裏に過るのは、この後友人との間に交わされるであろう会話の流れ。
『ゴキブリめっちゃおったw』
『うはっ! マジかw』
『お前も見るか?w』
『これから調理実習なのに見るわけねーだろw つーかお前食欲とか無くならねーの?』
『全然。ただのゴキブリに食欲なんて左右されねーよw』
『マジかw メンタル強すぎだろw』
と、そこまで未来の会話を想像した。
さて、覗くか。
ホイホイは赤い屋根の平屋だった。
この中にゴキブリの家族達が住んでいるのだろう。
俺はそんな事を考えながら、気軽に玄関口を覗き込む。
心の準備も一切せず、単純な好奇心に身を任せて。
――俺は覗いてしまった。
「あ……あ……!」
身体の芯から寒気が電流のように全身を巡った。
自分が出した震え声がまるで別人のもののように聞こえてくる。
ヤバい。
ヤバい。
ヤバい。
脳がショートしたのか思考がホワイトアウトしていく。
暗闇から吹き上がるような危機感。
俺は決して見てはいけないモノを見てしまった。
人生で一番後悔していること。
それはお婆ちゃんにサヨナラを言えなかったことでも、あの娘をフッてしまったことでもない。
それは――このゴキブリホイホイの中を見たことだ。
一匹でも、二匹でも無い。
分からなかった。
ただ事実だけを告げると、貫通している筈のホイホイの向こう側が全く見えなかった。
長い脚がザワザワと動く。
その瞬間、俺はゾクッと震えた。
六本脚なら大丈夫。
けど、八本脚は苦手。
そんな次元じゃなかった。
ザワザワと動くその脚はまるで長いまつ毛のようで、それがホイホイの縁を持つ俺のゆびに触れていた。
ゴキブリホイホイの中には、ゴキブリは見当たらなかった。
その代わりに暮らしていたのは、全く別の存在だった。
長い脚がはみ出るほど大量に、向こう側が見えないほど大量に――
ゲジゲジが溢れていたのだ。
その場で固まった俺の手から、ゴキブリホイホイが滑り落ちた。
脳裏にフラッシュバックしたのは、沢山の長い脚をザワザワと揺れ動かすゲジゲジの姿。
大量のゲジゲジ。ぎっしりと詰め込まれたゲジゲジ。
「ヒェ……」
喉から悲鳴が抜けた。
俺の心は既にこの場から離脱していた。
「おい! 大丈夫か!?」
友人の心配する声が、簡単に耳を通り抜けていく。
授業始めのチャイムが鳴り、これから楽しい調理実習が始まる。
けれども、出来上がったミートスパゲッティには一切味が付いて無かった。
人生には思いがけない落とし穴があります。
人がゴキブリホイホイを覗く時、ゴキブリホイホイもまたこちらを覗いているのです。