~忘れられないあなた~
第一章:出会い
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい!」
平日のしおりの朝は、五歳になる娘優花を送り出す事からはじまる。
“色とりどり”の子供達に混じって、大きめのピンク色のジャケットを着た愛娘が、黄色のスクールバスにのりこむ所を見ていると、いつも目頭が熱くなる。
“キンダー“日本でいう幼稚園に行きはじめたばかりの頃は、行くのが嫌だと毎晩泣きわめいたものだった。
日本人の子供の中でも小柄な方に入る優花は、アメリカ人の子供の中に混じるとひと際小さく見える。その小さな子が、いきなり大きな子供達の、しかも英語の世界に飛び込まされて、不安で泣きわめきたくなるのは致し方ないことだろう。
あまりにも泣き止む事が出来ず、不憫に思った先生から電話で呼び出された事も一度や二度ではない。
学校に行ってみると、職員室で小さくなって下を向いているのだが、しおりの姿を見ると、また堰を切ったように泣きはじめるのだった。
「大丈夫、大丈夫。頑張ったね」
そう言って抱きしめながら背中をさすってあげると泣き声はピークに達し、しばらくすると落ち着きを取り戻しはじめる。
ある日、迎えに行った帰りに、
「どうだった? 先生は優しくしてくれたの?」
と、聞くと、
「ヤッチョッケイ、ヤッチョッケイって言ってくれた」
優花はしゃくりあげながらそう答えたのだが、意味が分からず、学校へ出向いた時に担任の先生に聞いてみると、
「ああ、それは”ザッツ オッケー”って言ったのよ」
そう言いながら笑って答えてくれた。
その時は、なるほど耳で覚える英語とはこういう事かと妙に感心したものだ。
そんなこともあったなあ、と感慨にふけりながら、スクールバスが見えなくなるまで手を振っていると、ふと今日が水曜日である事を思い出した。
大手電子メーカーに勤める夫の憲二に付いて、オレゴン州最大の都市ポートランドの南西に位置する、ここビーバートンという町に来て三年余り。
いわゆる「駐妻」である。
その「駐妻」であるしおりが、単調な毎日の中に何か変化を求めてはじめた事があった。
それは、まず毎週水曜日の午前中に、ノース・ウェスト地区にあるオレゴン最大級の本屋「パウウェル・ブックストア」で本を買い、そのままポートランドの“ノブヒル地区“と呼ばれるエリアを横切る二十三番通り、通称”トウェンティーサード“にあるイタリアンコーヒーショップ「トレパツォーン」へと入る。そしてラテを飲みながら、買ってきた本をゆっくり読む事だった。
本は新書の時もあれば、日本の古本だったりもする。
「パウウェル・ブックストア」には、膨大な数の新書の他に、数カ国の古本まで置いてあるのだ。
水曜日という日に特別な意味はない。
もともとは曜日に関係なく来ていたのだが、まわりに止めやすい駐車場がなく、路上駐車を余儀なくされるこの“ノブヒル地区”で、何故か決まって水曜日にはたやすく駐車スペースが見つかる事から、いつのまにかしおりにとって水曜日がゲンのいい日となっていたのだった。
そして今日も、店の近くにうまく駐車スペースを見つける事が出来たしおりは、買ったばかりの本を片手に店のドアを開けた。
イタリアンコーヒーハウスとうたっているこの店は、トウェンティーサードとラヴジョイと言う通りの角にある。その角に面して入り口が作られており、両通りに面した壁はガラス張りになっているため、店内はとても明るい。そして店内のあちこちに小さな棚が設置してあり、その上には大小様々なコーヒーカップが飾られてある。
これがイタリア風なのか、内装は明るい木目と黄色を主体に統一されており、所々に原色の緑色を使ってあるのが特徴的だ。
更に、窓際のカウンター以外のテーブルには、すべてふかふかのソファーを置いてあるのも魅力的だった。
「ハーイ! 元気!?」
毎週決まった曜日に来ていると、さすがに顔を覚えられているらしい。
毎回声をかけてくれるのはうれしいのだが、しおりの英語力では「元気です」と答える位しか出来ないのがもどかしかった。
しかし、店員も分かっているのか、それ以上無理には話しかけてはこないのもありがたい。今ではしおりが来ると、何も言わなくてもラテが大きめのカップに見た目も美しく出てくる。
この店に最初に来たのは、オレゴンに来てすぐの頃だった。
在留届を出すために、ダウンタウンにある日本総領事館へと、憲二と優花と三人で出向いた事があった。
初めて来たダウンタウンで、せっかくだから少し観光でもと思い立ったしおり達三人は、在留届を出し終えると、ガイドブックを開いた。
ナイキタウン、パイオニアプレイス・ショッピングセンター、市庁舎
正直、これといってどうしても今見ておかなければ、と思える所がない。
中都市のダウンタウンである。無理もない。
もともと観光で栄えている都市ではなく、主な産業は農業や林業であり、観光スポットは限られてくる。
どうしようかと悩んでいると憲二が、
「そういえば、会社の人が、ノース・ウェスト地区の二十三番通りとか言う所にいつか行ってみるといいですよって言っていたなあ。ポートランドで一番おしゃれな所だって」
それを聞いたしおりは、是非行ってみましょうと憲二を誘った。
ガイドブックを見てみると、地図の上ではそれほど離れている訳でもなさそうだ。
そこで少しいい所を見せようと憲二が安請け合いしたのが間違いだった。
ポートランド周辺の都市は、バーンサイドと言う大通りを挟んで南北に、そしてウィラメットリバーという大きな川を挟んで東西に分けられている。
ダウンタウンやしおり達の住むビーバートン市などを含むサウス・ウェスト地区、オシャレな通りや画廊などが多く、山の手をイメージさせるノース・ウェスト地区、古くからの住人が多く、アジア系のレストランなどが充実しているサウス・イースト地区、そしてポートランド国際空港のあるノース・イースト地区と、大きくこの四地区に分かれている。
そして各地区を繋ぐフリーウェイやハイウェイも充実しており、車での移動も不自由を感じさせない。
ダウンタウンから二十三番通りへ行くには、ポートランド市を南北に分けている、バーンサイドという大通りを行くのが分かりやすい。しかし大通りとは名ばかりで、片側二車線とはいえ、実際は交通量の多い狭い道を行かされる事になる。
ドキドキしながらとりあえず山の方に向っていくと、次第に十五番通り十六番通りと、交差した通りの頭に付いている数字が増えてきた。という事はこのまま行けばその内二十三番通りにぶつかるはずである。
しかし交差している通りは交互に一方通行にもなっている。
緊張している憲二としおりは、バーンサイド通りから見て、二十三番通りが右に曲がるのか左に曲がるのか確認していなかった。どちらに曲がるのかが予め分かっていれば、前もって走る車線の決め方も違ってくる。
この頃の憲二は、狭く交通量の多いこの通りですぐに車線を変える事が出来るほど、まだ運転に自信がなかった。
「おい、おい、今の通り何番だった!? 左に一方通行だったよな? って事は、二十三番は五本後だから。あ、しまった! 車線変えとかないと!」
急にハンドルを切った憲二に、驚いた後続の車がクラクションを鳴らす。
慌てて運転を誤ってしまいクラクションを鳴らされる事ほど、自尊心を傷つけられる事はない。
真っ赤な顔でハンドルを切る憲二を、はらはらしながら眺めていたしおり達だったが、無事に二十三番通りに入った時は、自分が運転していたのかと思える位に疲れ果てていた。
しかしここからが問題だった。
駐車場がないのだ。
通りの両端に洒落た店舗が並びはじめたのはよかったが、どこにも駐車場らしき所がない。
あきらめて路上駐車をしようにも、どこもかしこもびっしりと車が止まっている。やっとタイミングよく車が出たと思えば、すぐ後に後続の車が来ており、バックでの縦列駐車も出来ないありさまだ。
それならば、交差する通りはどうだろうとハンドルを切ると、住宅地に入ったり急に一方通行だったり。
憲二はイライラのピークに達していた。
「もう帰るぞ!」
車の中は、憲二の吐き出す不機嫌な空気が充満していて、これから楽しくショッピングなどという雰囲気ではなくなっていた。
しかし、その時偶然右端に駐車していた車が、憲二達の車の前に割り込んだ。
慌ててブレーキを踏みかけた憲二だったが、よく見るとその車が出た所は、路上駐車の出来る箇所の一番前で、バックからではなくても縦列駐車が出来る格好の場所だったのだ。
帰るつもりだった憲二が思わずつられるように駐車すると、全員の口からため息がもれた。
体中が固まっているのが分かる。
三人が外に出て深呼吸をすると、たまらなく香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。
そこにトレパツオ―ンの入り口があったのだ。
ふらふらと入って、ふかふかのソファーで飲んだラテは、今でも忘れられない記憶として、しおりの頭の中に残っている。
それから、しおりは一人で運転するようになり、ダウンタウンを通らなくとも、ノース・ウェスト地区へと行ける事がわかると、毎週一人で通うようになった。
初めは英語力のないしおりにとって、一番発音し易かったのが“ラテ”であった為に、毎回それを頼んでいたのだが、実はそれだけが理由ではなかった。
この店では、持ち帰りではない客には、オリジナルのコーヒーカップで出してくれる。
それ自体は大して珍しいサービスではないのだが、この店のコーヒーカップ、これがなんとも言えずしおりの手にフィットするのだった。
細かく言えば、しおりの指の長さ、手の厚さ、唇の大きさや厚さ等、様々な点で相性が良いのであろう。
しおりは出来上がった自分のラテを片手に、空いているテーブルを探した。
窓際の一番好きなテーブルが空いている。
小さくて丸い、白木にニスを塗っただけの木目のテーブルと、それに不釣合いなクッションの効いた大きめの一人用ソファー。しおりはこのソファーがとても気に入っていたのだ。
座ろうかと思ったが、先客の置いていったカップと、食べかけのマフィンが置いてある。
どうしようかと躊躇っていると、ふいに横から、
「今片付けますね」
と、日本語の男の声がした。
「え?」
ビックリしているしおりに、
「たまに日本語の本を読んでらっしゃるから、多分日本の方だと思って」
二十代後半かと思われるその男性は、黒のポロシャツと黒のズボンという、他の店員と同じ服装で、しおりに向かって笑いかけている。
「え、ええ、私は日本人ですけど、あなたは……?」
戸惑っているしおりに、その男性はにっこりと微笑むと
「僕、思いっきり日本人ですよ」
と、答えた。
「え? そうなんですか? たまにここでお見かけしていましたけど、てっきり日系人の方かと思い込んでいました。英語もお上手に見えましたし」
確かに、この店に来る度に見かける顔であったが、日系かアジア系の店員だとばかり思い込んでいた。
「ははは! そんなに英語が上手に見えました? 僕、短いセンテンスならなんとかしゃべれるんですけど、長い話なんて喋らせたら全然だめですよ」
そう言って笑った。
「はい、どうぞ」
テーブルの上を片付け終えた彼は、しおりのお気に入りのソファーを勧めた。
その時に、少しだけソファーを引いてくれた仕草があまりにも自然で、ちらりとネームタグを見ると“GEORGE”と書いてある。
「あら? お名前ジョージさんっておっしゃるんですか?」
「ああ、僕の名前、譲二って言うんです。だから英語でもジョージ。そのまんまでしょ?」
目尻にシワを寄せながら微笑むと、カウンターの中に戻って行った。
しおりはソファーに腰を下ろし、買ってきた本を開いた。しかし、どうにもいつものように頭に入ってこない。知らず知らずの内に、ジョージを目で追っている。
やはり、日本人というよりは日系人に見える。
日本人と日系人、何が違うというのだろう。
同じ日本人を祖先に持ちながら、アメリカで生まれ育ったのと、日本で育ったのでは、何かが違っていると感じた事はこれまでも何度もあった。生まれ育った環境による服装のセンスなのか、髪型なのか、女性であればお化粧であるとか、それともそれらをすべてひっくるめた上でかもし出す雰囲気なのか。
しおりはジョージを見ながら、そんな事を考えていた。
たまに聞こえてくる彼の英語は確かにネイティブとはいいがたい。うまいとは思うのだが、その鼻にかかった低い声の中には、やはり日本人独特のアクセントが残っている。
背丈も160センチのしおりより少し高いくらいだろうか、大柄な方ではない。そして短めの髪と、黒の上下という服装のせいか、一層細身に見える。
では、何が彼をアメリカ育ちと思わせるのかと考えたしおりは、ふと、“目”だと思った。
アジア人というと想像されがちな、一重で切れ長の目ではなく、どちらかというと、二重で大きな目なのだが、よくよく見ていると、会話をしているジョージの目には、相手をアメリカ人だと意識している“揺らぎ”がない。
例えば、日本人同士で会話をしている時に、相手を日本人だと意識する事はない。
しかし、アメリカに来て間がない人達や、アメリカ人に対して何かしらのコンプレックスを感じている人などは、どうしても会話の時に相手が“外国人”だと意識してしまっている。
その気持ちの揺れが“目“に表れるのであろうか。
ふと気付くと、ジョージがしおりの方を見ていた。というより、しおりが見ているので見返した。という方が正しいのかもしれない。
「何か?」
と、言いたげな表情で、片眉を上げてジョージは微笑んでいる。
しおりは慌てて手を横に振ると、持っていた本に視線を戻したが、自分でも分かるほどに顔が火照っているのが分かった。
視線のやりどころを探して、時計を見ると一時半をとうに回っている。
優花が、幼稚園を終えてスクールバスから降りてくるのが、二時半。だから、常に余裕を持って一時には店を出るようにしていたのだ。
「帰らなきゃ!」
しおりは慌てて立ち上がると、ジョージに少しだけ頭を下げて店を出た。
次の水曜日の朝、しおりはいつものように優花を送り出し、家中に掃除機をかけると、トウェンティーサードへ向かった。
四月に入ったばかりの今年のオレゴンは、そろそろ雨季も終わっていいはずだというのに、いつまでも空がしぶっている。
しおりは、歩道にせり出している大きな松の木の横に駐車スペースを見つけると、車を止めた。
「あ、いらっしゃいませ!」
カウンターの中にジョージがいた。
アメリカのコーヒーショップで、日本語で迎えられるのもおかしなものだ。
「ラテでいいですか?」
ジョージはニコニコしながら聞いてくる。
「は、はい……」
と、答えたものの、なんとなくまわりの目線が気にかかってしまう。
「いいじゃないですか。同じ日本人だもの。日本語でいきましょうよ」
笑うと目じりに数本のシワができ、太目の眉毛と合わせて、人柄の良さを感じさせてくれる。
礼を言って、出来上がったラテを受け取った。しかし、しおりの好きなテーブルには一冊の本が置いてある。誰か既に座っているのではしょうがない、と他のテーブルを探そうとすると、
「ちょっと待っていて下さい」
と、言いながら、そこにあった本をどけてくれた。
「あら、いいんですか?」
「はい。そろそろいらっしゃる頃だと思って、取っておいたんです」
と、悪びれることなく言ってくる。
「え、それは……」
「いいんです、いいんです。さ、座ってください」
ジョージはそう言って、ソファーの上をパタパタと叩くと、
「さあ、どうぞ」
と笑いながらカウンターの中に戻って行った。
何となくこそばゆかったが、ありがたく座らせてもらう事にした。座ってみると、やはりこのソファーは一番くつろげる。
しおりは改めてそう思いながら、今日買ったばかりの本を開いた。
三十分程経った頃だろうか、一息いれようと本を閉じると、それを見計らったようにジョージが声をかけてきた。
「あの、新しいラテ作りましょうか?」
手元のカップの中身は、温かさをとうの昔に失っていた。
このカップは蓋が付いている訳ではないので、保温性は低い。いつもはそういうものだと思って、ぬるくなったものを最後まで飲んでいたのだが、新しく入れましょうかと言われると、とても心が動いた。
「じゃあ、お願いしようかな」
しおりがお金を払いにカウンターに行こうとすると、
「ああ、大丈夫です、これは」
「え? でもお替りってタダでしたっけ?」
「いいんです、いいんです」
と、言ってジョージはカウンターの中に入っていった。
程なくして、新しいラテを持って来ると、しおりの前に置いた。
「はい、どうぞ」
「有難う……?」
ジョージはカップを置いて立ち去る訳でもなく、そこに真面目な顔をして立ち尽くしている。
「あの……何か?」
「いつもこのくらいの時間に来られていますけど、ランチって食べないんですか?」
と、おずおずと聞いてきた。
確かに、しおりが来るのは十一時過ぎ。そして帰るのが一時前だから、一般的にはランチの時間だ。
しおりはいきなりの質問に面食らいながらも、
「普段は軽く食べるんですけど、水曜日はなんとなくコーヒーでおなかがふくれちゃうっていうか、食べる事を忘れちゃうっていうのか……」
それが聞こえたのかどうか、ジョージは唐突に聞いてきた。
「あ、あの、クレープ好きですか?」
「クレープですか……?」
しおりは戸惑った。
クレープは嫌いではないが、とりたてて好きという訳でもない。
日本に居た頃は、娘の優花が欲しがった時などに買ってあげたものを、一口もらった程度だった。
しおりがジョージの真意を測りかねていると
「あの、一度、その、食べてみませんか?」
「私が、ですか?」
怪訝そうに聞き返すしおりに、
「あれ? 何か聞き方間違えちゃったかなあ……」
とボリボリと頭を掻きながら、
「あの、要するに一度ランチを、あのクレープを一緒に食べてもらえないかなあと思って」
紅くなった顔で真剣に聞いてきた。
何故クレープなのだろうとしおりは一瞬考えたが、それよりも自分が誘われているという重大な事実に気が付いた。
まだ、まともに話した事さえないのだ。
「あの、困ります……」
断ろうと口を開きかけたしおりに、
「きっと気に入ってもらえると思うんです」
と、ジョージが懇願するように言ってきた。
しおりは、一度レストランでクレープを食べた事があるのを思い出した。
あれはいつだったか、特に日曜の朝に混み合っている、ファミリーレストラン風のパンケーキハウスに、家族で朝食を食べに行った事があった。
まわりを見てみると、皿に山盛りのパンケーキと、更にオムレツやイタリアンソーセージがこれでもかとばかりに積み上げられている。しおりは、見ただけでおなかが一杯になりそうだったが、ふとメニューに目を通すと、クレープと書いてあった。クレープだったら薄いし、さほどボリュームもないだろうと思ったのが大きな間違いだった。
運ばれてきた大きな皿の上には、数枚の大きなクレープが、たっぷりのジャムやフルーツ、ホイップクリームと共に乗せられていたのだ。
一口目はそこそこ美味しくも感じたのだが、三口目にはもう飽きてしまった。どうにもこうにも、ジャムの味と粉臭いクレープの味がべたべたと口に残って仕方がない。しおりは残りをあきらめると、あらためてコーヒーを頼んだ。そして、その薄いコーヒーで口の中にべたべたと残る甘さを洗い流したのだった。
それ以来、クレープを食べていない。
しかもランチにあの甘くてボリュームのあるクレープをと考えただけで、げんなりする。
いやいやそれよりも、やはり誘われている事自体がもっと問題だ。
やはりここは断るべきだと思った。
「あの、お誘いは嬉しいんですけれど、夫に聞いてみないとご返事できません」
しおりがそう言うと、
「そうかぁ……そうだよなぁ。当然結婚してますよねえ……こんなに美人なんだもの……」
誰に言うでもなく、一人ぶつぶつとつぶやいている。
「すみません。ぶしつけに変な事を言ったりして。でも一度聞いてみてもらえませんか、ご主人に」
あきらめるかと思いきや、鳶色の瞳ですがるように聞いてきた。
しおりは、そうまでして自分にクレープを食べさせたい真意は分からなかったが、なんともその必死さが可笑しくなって、思わず
「ええ」
と、答えていた。
帰りの車の中で、しおりはトレパツォーンでのことを思い起こしていた
アメリカ人の中に混じると、こちらで生まれ育ったかのように溶け込んで見えるジョージの顔が、しおりをランチに誘った時には、日本人の子供のように見えた。
それが可笑しくて、つい微笑んでいた。
「こんなに美人なんだもん……」
ジョージの呟きがふと甦ってきた。
美人だなんて、成人式の日、
「きれいになったわね」
と、母に言われた時以来だ。
夫の憲二とは、高校の時以来の付き合いだったが、美人などと言われた記憶などない。
三十代になってからは、今更ほめ合う事もなく、子育てと慣れない海外生活に追われている内に、化粧っ気さえなくなっていた。
しおりはバックミラーで、自分の顔を見つめ直してみた。
肩まで伸びた黒髪。これはそう悪くはないだろう。艶はいい方だ。肌の白さにも自信がある。ただすぐ顔が紅くなってしまうのだけが気になる所だ。
後は、うりざね顔の真ん中にある決して高いとは言えないが、形だけはいい鼻。その下にある、情熱的と言えるほどに厚い訳でもなく、知的なクールさを思わせる程に薄い訳でもない、何の変哲もない唇。
しかし、顔の中で目だけは気に入っていた。母親似の目は、両目ともに均一にバランスの取れた二重が切れ長に走っている。
とはいえ、客観的に見て美人と言えるかというと……
どこが美人なのよ……
きっとからかわれたのだ、大体いきなりランチに誘うなんて、どうかしている。
そう思いつつも、しおりは心に暖かいものが流れ込むのを感じていた。
そして、ジョージに自分には夫がいる事実を告げてしまった事を、心の片隅で少しだけ後悔している自分に驚いてもいたのだった。
「ねえねえ、知ってる? 高橋さんとこ帰国だって」
律子が右手をちょっとちょっとと前後にはためかせながら口を開いた。
「え~! 子供さん中学校に入ったばかりじゃないの」
答えたのは、佐和子だ。
律子と佐和子は、同じく電子機器関連の会社に勤める夫を持つ“駐妻”だ。
ビーバートン市の西側に隣接しているヒルズボロー市には、大手のコンピュータ会社があり、そこに関連した大小さまざまな会社が軒を連ねている。
そして、日本からの駐在員の家族も、その周辺を含めたサウス・ウェスト地区に数多く住んでいた。
律子と佐和子とは、プレイグループと呼ばれる、小さな子供達を持つ母親達の集まりで知り合った。
このプレイグループというものは、ポートランド近郊のそれぞれのエリアに存在しており、主に学校に上がる前の子供達を連れた日本人の母親達で構成されている。時に井戸端会議の場になることもあるが、違う州から越して来たばかりの時や、日本から来て間もない人にとっては、貴重な情報収集の場ともなり得るのだ。
細身で背の高い佐和子と、対照的に背が低く、少しぽっちゃりした律子とは、何となくウマが合ったのか、子供達が学校へ行くようになり、プレイグループに参加しなくなった後も、何かしらと口実を作っては会うようになっていた。
律子と佐和子、それにしおりを含めた三人は、ビーバートン市を横切る、キャニオンロードと言う大通りを、一本裏手に入った所にあるコーヒーショップでたまに“お茶”をする。
厳密にいうとコーヒーやエスプレッソ系のドリンクばかりなので、“お茶”ではないのだが、三人で集まる時には、
「久しぶりに、お茶でもしない?」
と誘い合わせて、ここに集合するのだ。
この店は店内が広く、いつでも席を確保出来るのと、何より日本人をあまり見かけないのがいい。
不思議な事に、日本人である自分達が日本人のあまり来ない所をわざわざ探しては、同じ日本人の噂話に興じている。
「そうなのよ~ だから大変らしいのよ。子供さん、やっとこっちの学校に慣れてきた所だって、言ってた矢先だったじゃない」
律子はそう言うと、しおりの方を見た。
「たもつ君も可愛そうに……」
しおりは呟いて眉を曇らせた。
確か、小学校の五年生の時にこちらに来たものの、学校に馴染めず不登校が続き、ついには軽い引きこもりになったと聞いた。
しかし、週に一度の日本人学校や、インターナショナルスクールに通わせたりして、やっと現地の学校に通えるようになったはずだった。
「そう、そう、そのたもつ君の事もあったじゃない。だから高橋さんの奥さん怒り出しちゃって、会社は家族の事を考えてくれないのかって、大分旦那さんと揉めたらしいわ。それで、今度帰国したら、もうどこにも行きませんから、って宣言したらしいのよ」
佐和子が言うと、
「でもまた海外赴任の辞令が降りたりしたらどうするのかしら?」
律子が、人事でもないといった顔で聞いてきた。
「そりゃあ、旦那さん単身赴任って事になるわね」
他人事のように話してはいるものの、実際問題、しおり達駐妻にとっては人事ではないのだ。
海外に営業所を置く会社は、一度帰国しても又違う都市や、違う国に出される事など珍しくない。帰国して数年後に、同じ所に再赴任なんて事もざらだ。会社にはそれなりの理由もあるのだろうが、連れまわされる家族はたまったものではない。
特に子供の教育問題は深刻だ。
物心つく前の子供ならまだしも、思春期において、親よりも友達を一番必要としている時期に、転校。しかも、言葉も通じない外国に連れて行かれるという不安ははかり知れないものがあるだろう。
しおりは、娘の優花も同じような事があっただけに、高橋さんの奥さんの気持ちはよく分かった。優花の場合、幼かっただけに順応するのも早くて助かったのだが。
「うちだっていつ帰って来い、って言われるかわかったもんじゃないわ」
佐和子が不安げにため息をついた。
「ねえ、高橋さんとこ帰国ですって?」
その夜、遅くに帰宅した憲二に聞いてみた。
高橋さんのご主人と憲二は、ゴルフ仲間のはずだ。
「ああ、急に辞令がおりたらしいな」
と、人事のように言う。
「でも、奥さんと揉めているって話を聞いたわ」
「サラリーマンってのは、辞令に逆らう事はなかなか出来ないからなあ」
憲二が自嘲気味に答えた。
「でも、永住権を取って残る人達もいるじゃない。ここは永住するにもいい環境だと思うけど」
「今は、永住権を取るのも昔ほど簡単じゃないんだぞ。それに、永住権を取って、そのままのポジションで居られたらいいけれど、その後営業所が撤退になったりして、その会社から離れる事になったらどうする? また一から現地採用してくれる所を探す事になるんだぞ」
「でも、あちこち行かされる不安も少ないわ。その分、子供の負担も少ないし」
憲二は、そう言うしおりに怪訝な顔をしながら、
「まさか、お前はこんな所に残りたいのか?」
と、言うと、しおりの答えも待たずに続けて言った。
「俺はごめんだね。確かにここは住みやすいよ。へんぴすぎる訳ではないし、都会すぎる訳でもない。ある意味、理想的だよ、子供の教育の事を考えてもな。でも、なんだか、ぬるま湯に浸かっているみたいなんだよ、俺には。そりゃ日本の本社に帰れば、仕事以外の付き合いもあるし、今みたいに家族サービスも出来ないかもしれないけど、働いたっていう実感をじかに感じられるのはやはり本社に居てこそだろう」
そう言うと、コップのビールを飲み干し、
「先に風呂に入るぞ」
と言って、二階に上がっていった。
いつからだろう……
しおりは思った。
元々、憲二は出世欲の強い方ではなかった。
「何で、仕事が終わってんのに課長と飲みに行かなきゃいけないんだよ。こっちには大事な娘にお休みなさいを言う、もっと大事な仕事があるっていうのに」
などと言いながら、帰って来るなり一歳になったばかりの優花にほおずりをしていたものだった。
それが、四年ほど前から急に仕事に打ち込むようになった。
きっかけは、憲二が中学の時の同窓会に出てからだったように思う。
同級生が軒並み出世していたと言って、暗い顔をして帰って来た。
それからというもの、上司から飲みに誘われれば必ず付き合い、休みの日でもゴルフ、マージャンなど、家には寝に帰って来るようなものだった。仕事に打ち込む事は、家族としては喜ぶべきなのだろうが、あまりの変貌ぶりに、しおりは次第に憲二との“ずれ”を感じ始めていた。そんな矢先に、このオレゴン駐在の話が舞い込んできたのだった。
しおりは、この話が家族にとって良い方向に向かうきっかけになるのではないかと期待していた。
しかし憲二は、こちらに来た事によって尚更、仕事に打ち込むようになっていった。
日本とオレゴンでは、時差が夏場で十六時間ある。そうすると、日本のリアルタイムに合わせようとすれば、時には夜中までの仕事となる。となれば、いくら次の日が休みであっても、どこかに出かける気力など残っているはずもなく、結局はなんとなく休日を終える事となる。それか、ゴルフだ。
それがしおりには不満だった。
さっきは憲二が家族サービスと言っていたが、実際は家族で出掛ける事など、月に一度あるかどうかだ。もちろん、憲二が一生懸命働いているお陰で、しおりも優花も生活が出来ている事は事実であるし、その事においては感謝しているのだが、しおりは家族との事や自分の趣味を優先させる、欲のない憲二が好きだっだのだ。
元々、人と人というものはジッパーを閉じた時のように、ぴたりと合さるものではない、としおりは思っている。
最初は何もかもがぴたりと合っていたのが、ずれていくのではなく、最初からずれているのだ。ただそれを、愛情、尊敬等といった感情や、子供、家族等といった環境の変化など、様々な接着剤でつなぎ合わせているにすぎない。しかし、その接着剤も時と共に風化していき、少しずつ剥がれ落ちていく。そして剥がれ落ちた箇所が増えていくにしたがって、その本来ずれている断面を見せ始めてしまう。見え始めたズレは、悪い方向へ向ってさらに連鎖反応を引き起こす。これまでは気にならなかった仕草にイラついたり、二人で居る事に息詰まりを感じたりするようになってくるのだ。
しおりは数年前から見え始めたそのズレを、改めてつなぎ止めるための接着剤が見つけられずにいた。
次の日、しおりはトレパツォーンに出かけた。
ドアを開けるといつものエスプレッソの香りが、鼻腔をすり抜けていく。
しおりはその香りの中にジョージを探した
姿が見えない事に、微かな落胆を感じながら、いつものテーブルを見ると本が置いてある。
あきらめて、他のテーブルに向かおうとすると、
「そこのテーブルいいのよ。ジョージがあなたに取っておいてって、電話してきたわ」
カウンターの中の女性がそう言いながら軽く睨んだ。
しおりは、
「サンキュー……」
と言いながらテーブルについたが、なんとも落ち着かない。
ゆっくりラテを飲みながら落ち着いて本を読みたいのに、これじゃ、みんなに見られているみたいで余計に落ち着かないじゃない……
そんな時、カランと音を立ててドアが開いた。
反射的に目を向けたしおりに、目じりを下げて嬉しそうに立っている、ジョージの姿が見えた。
「よかった、その席ちゃんと取っといてくれたんだ、彼女」
と、自分の事のように喜んでいる。
しおりはその目じりのシワを見た瞬間、うかつにもかすかなときめきを感じていた。恥かしさで下を向いたが、慌てて顔を上げ、
「あ、あの……」
と、しおりがテーブルを取っておいてくれた事の礼を言いかけた時、
「お、やばい! タイムカード押さなきゃ!」
と、ジョージはカウンターの奥にかけ込んで行った。
それから三十分ほど客が途切れず、カウンター内の従業員達は、ばたばたと忙しそうに動き回っている。
そんな中、ジョージもきびきびとエスプレッソを作っていた。
他の従業員と会話をしながら仕事をしている姿は、やはり日本人と言うよりも日系人に見えてしまう。それほど自然に、このアメリカ人達の中に溶け込んでいる。
いったい彼はいくつなんだろう……
ふとしおりは思った。
ああやってアメリカ人の中にいると、三十歳のしおりよりも年上に見える。しかし、しおりと話している時の笑顔を見ると五つぐらい若くも見える。
しおりは本を開いたまま、また無意識の内に目でジョージを追っていた。男性として意識して見ているというよりも、なんとなく目が行ってしまうのだ。すると、ふとジョージがしおりの方を見て微笑んだ。
しおりは、ジョージを見ていた事に気付かれたと思い、急にとてつもない恥かしさを覚えて、慌てて本を閉じて立ち上がった。
その時、
「あれ? もう帰るんですか?」
とすぐ横で声がして、しおりは
「きゃ!」
とまたソファーに座り込んでしまった。
「あれれ? す、すみません。脅かしちゃったかな」
ジョージが申し訳なさそうに横に立っている。
「いえ、急に声が近くでしたから……」
自分でもハッキリと分かるほど、顔が紅くなっている。その事実に気付かれないよう下を向いたままでいると、
「あの、ご主人に聞いてもらえました?」
と、ジョージがおずおずと聞いてきた。
「え?」
「いや、その、出来たら一緒にクレープを食べに行ってもらえないかなって事なんですけど……」
「あっ、すっかり忘れてた……」
言いかけながら、でもたった二度話しただけの男性と、食事に行っていいかなんて聞ける訳がないと思い直し、
「あ、いえ……」と答えてしまっていた。
「そっかあ、ひょっとしたらと思って、今日ケニーさんにちゃんと店開けてくれって、頼んどいたんだけどなあ……」
しおりを責める訳ではなく、一人ぼそぼそと呟いている。
「ケニーさんって……?」
「あ、ああ、いや、すぐそこで小さなクレープ屋をやっている人なんです。日系人のおじいさんなんですけど、これがすっごく美味しいんです」
しおりはジョージがあまりにも“すっごく”の所に力を込めて言うその熱意に、次第にそのクレープに興味がわいてきた。元々、しおりは新しい事に出会う事が好きなのだ。
そのしおりの心の動きを悟ったのか、ジョージがしおりの顔を覗き込みながら、
「ね、行きません?」
と、目をくりくりとさせながら聞いてくる。
「でも、やっぱり……」
「あ、そうか。どこの誰かも分からない男と二人でいる所を誰かに見られたらまずいんでしょう? じゃ、こうしましょう。別々に行くんです。そして別々にオーダーして、別々に食べる。それだったらいいでしょう?」
まあ、それならば誰に見られても詮索される事もないか、と思っていると、
「じゃ、決まりだ。やった!」
ジョージが小さくガッツポーズをした。
「ほんとにすぐそこなんです。店を出て左に2ブロック行った所です」
2ブロック? そんな所にレストランなんてあったかしらと考えているしおりに、
「しおりさんは食べられない物ってあります?」
と、聞いてきた。
しおりは恥かしくなる位になんでも食べる。
他の動植物を食べる事によってしか生きられないくせに、この地球に何も生み出さない人間には好き嫌いを言う資格などありはしないのだ、と言い訳をしながら目の前に出された物はなんでも食べてきた。
「いえ、別に……」
「じゃあ、大丈夫だ。どうせ、あんまりメニューがないし。僕のおすすめは“ほうれん草とチーズ”なんです。絶対気に入ってもらえると思うんだけどなあ」
あまりハードルを高くしてしまうと、それをクリア出来なかった時の落差は、特に大きく感じる。
それにクレープにほうれん草、チーズ……
全く想像がつかずに、戸惑っていると、
「先に行っててください。僕は五分くらいしてから行きますから。あ、店の名前は“クレープハウス”って言います」
そう微笑むと、ばたばたと店の裏に入っていった。
しおりはどうしようかと考えたが、とりあえず行ってみる事にして店を出た。
ここトウェンティーサードでは、昔ながらの外観を残したままの建物に、さまざまなテナントが店を開いている。個人経営の小さな洋服屋から、老舗のレストランまで、一つ一つ表からのぞいていくだけでも飽きがこない。
水曜日の今日は、通りにあまり人影もなく、しおりはぶらぶらといくつかの店をのぞきながら2ブロック歩いてみた。しかしそれらしき店は見当たらない。どうしようかと迷ったが、もうちょっとだけ歩いてみる事にした。
そしてその店はふいにしおりの前に現れた、
古めかしい建物と建物の間のほんの三メートルほどのすき間に、その店はあった。
店というよりはスタンドだ。
とはいっても、後には開閉式の大きなキャビネットもあり、屋根代わりとなる赤ワイン色のオーニングもある。そしてそのオーニングの前の部分に“クレープハウス”と英語で書かれた、古い木の看板があった。
長い間、雨風にさらされてきたと思われるその木の看板は、元はクリーム色だった痕跡をかすかに残したまま、黒字のクレープハウスの文字だけが、くっきりと残されている。
スタンド前のレンガが敷き詰めてあるスペースには、小さいながらも二つの丸くて黒いスチール製のテーブルとイスが置いてあった。
そしてその店の中にあるカウンターの殆どを占めている、二面式のクレープ焼き機のうしろに、初老の男性が座っていた。
茶色い長袖のシャツを肘の上までまくり上げ、大き目のジーンズにこれまた茶色い頑丈そうな革靴をはいている。
白ではなく、黒いエプロンをしているのが逆にとても清潔感を感じさせてくれる。そしてきれいに禿げ上がった頭も顔もこんがりと陽に焼けていて、フサフサの白髪交じりのひげと銀縁眼鏡のいでたちを見る限り、大農場のオーナーといった感じだ。
しおりがおずおずと店の前に立つと、にっこりと笑いながら、
「ハロー」
と、見事なバリトンを響かせて、英語で挨拶をしてきた。
「ハ、ハロー」
しおりが答えると
「うん? オオ、日本の人でしたか」
と、すぐさま少しアクセントのある日本語が返ってきた。しおりの発音ですぐ日本人と分かったようだ。
「何にしますか? メニューはそこにあるだけですよ」
と、横にかかっているボードを指差した。品数は少ない。
ハム&チーズ、ジョージのすすめてくれた、ほうれん草とチーズ、後はカスタードとイチゴやチョコバナナ等など五品目ほどしかない。
収納スペースが限られているため、あまり品数も増やせないのだろう。
「あの、ほうれん草とチーズのクレープを下さい」
しおりはジョージの言っていたものをオーダーしてみた。
「ほお、日本の人にしては珍しいですね」と、少し驚いている。
「あの、ちょっと人にすすめられて……」
「オーケー、分かりました。今すぐ作りましょう」
そう言って、下に置いてあるクーラーボックスから、クレープの生地が入っている容器を取り出した。
レードルで手早く混ぜると、目の前の二面あるグリルの左の面に生地を乗せた。それを、竹とんぼの羽を丸くしたようなスティックで、くるくると器用に回しながら薄く丸く延ばしていく。
一瞬、間を置くと、木のスパチュラでその薄く広げられたクレープを持ち上げ、右のグリルに生地を裏返しながら乗せた。きれいな焼き目がとても食欲をそそる。
そしてすぐ又裏返すと、その四分の一くらいのスペースに、小さめにちぎった、生のほうれん草を乗せた。そしてモツァレラチーズを半分だけほうれん草にかかるように乗せていく。残り半分は生地の上に。次に薄く切ったトマトを三切れほど乗せると、今度は白いパラパラしたチーズを乗せていった。
しおりが不思議そうに見ていると、
「フェタチーズっていうんですよ。これがいいんだな」
と笑いながら、
「何か、塩コショウとか、マヨネーズとか入れますか?」
と聞いてきた。
「お任せします」
「じゃ、シンプルにコショウだけにしましょう」
そう言いながら、手早くクレープ上の具の上に振ると、すぐさま半分にたたんだ。
そして上の方から手前にパタパタと折りたたんでいくと、日本でよく見る三角形のクレープが出来上がった。
それをトングで摘み上げると、紙袋に入れた。
「はい、どうぞ」
「あ、有難うございます」
一連の動作に見とれていたしおりは、それを受け取り、お金を払おうとすると、
「いいよ、今日は。久しぶりにきれいな日本人の女性を見たから、なんだかとても気分がいい。はっはっはっ」
と言って、その男性は豪快に笑った。
「え? いえ、それは……」
しおりはとまどったが、手の中のクレープが気になって仕方がない。その紙袋から立ち上る香りは、日本のクレープのそれとは明らかに違う。
しおりが、お金を受け取ろうとしない男に頭をさげ、紙袋を少しだけ破いて、食べようとすると、
「最初の一口目がとても大事なんだよ。もっと、大きく出して食べてみて」
そう言いながら、ニコニコとしおりの事を見ている。
とはいうものの、まじまじと見られている前で、大口を開けて食べるのはさすがにはばかられる。
しかしそんな女性心理を無視した、
「もっと、もっと!」
と言う言葉にのせられた形で、ビリビリと大きく紙袋を破いたしおりは、恥かしさをこらえながら、思い切ってかぶりついた。
「美味しい!!」
しおりはあまりの美味しさに、自分のかぶりついたその食べ口を覗き込んだ。
そこには、ちょうどうまい具合に熱の通ったほうれん草と、焼き上がりから口に入るまでの時間を計算されたかのように、とろりと溶けたモツァレラチーズ。そこに色目もキレイに挟まったトマト、そして白いフェタチーズが美しくたたみ込まれている。
色合いもさることながら、一つ一つの分量、火の通し加減、乗せる順番などが、甘さを殆ど感じさせない生地の中で、どう演技をするべきか緻密に計算されているのだろう。
感動しながら二口目を口に入れた時、
「ひょっとして、ユーはボーイの友達かな?」
と、眼鏡の奥にある、大きな丸い目を嬉しそうに細めながら、カウンターの中の男性がふいに聞いてきた。
「ボーイって……?」
「そこのコーヒー屋の、日本人の男だよ」
「ああ、いえ、でも、まだ二回いや、三回しか話した事がないんです、ですから友達という訳では……」
しおりが言いかけた時、急に
「はっはっはっ! そうか、ユーか!」
と大きな声で笑い出した。
何の事だかわからず、三口目を口に入れたまま、ぽかんとしているしおりに、
「オーごめんなさい。いやね、ボーイが、とても美味しそうに食べる、素敵な日本人の女性を見つけたから、今度ぜったい、つれてくるって言っていたんだよ。そうかあ、ユーの事だったのか」
そう言いながら、また、
「はっはっはっ」
と笑っている。
「確かに、ユーは実に美味しそうに食べてくれる。作ったわしも嬉しいよ」
そう言うと、さらに大きな声で笑った。
そこに、
「やっと抜けられた! まったく、こんな時に限ってお客って続くもんだよなあ。もう」
と言いながら、ジョージが肩で息をしながら走ってきた。
「ケニーさん! 僕、カスタードイチゴ!」
「ヘイ、ボーイ。お前もこの人みたいに上手に食べてくれたら、カスタードを倍にしてやるんだがな」
「あ、また、僕の事ボーイって言ってるよ。ほんとに、いつになったらちゃんと名前を呼んでくれるのかねえ」
ジョージは、そう言いながらしおりの方を見て、ため息をついた。
「あの、私、そんなにいやしそうに見えていたのかしら」
しおりはジョージを軽くにらんだ。
「へ?」
ジョージは何の事なのか分からず、ケニーを見るといたずら小僧のような顔で、器用に口笛を吹きながらクレープを作っている。
「あ! ケニーさん、何か彼女に言った?」
「わしは何も言うとらんわい」
とそ知らぬ顔で答えながら、
「ほれ、出来たぞ」
とジョージにクレープを渡した。
ジョージは受けとると、さっそくクレープにかぶりついた。
「うん! 美味い!」
目尻を下げながら、一口ごとに空を見上げては口を動かしている。
美味しそうに食べるそのジョージの仕草を見ている内に、いつの間にかしおりはその口元に目が吸い寄せられていた。
「はい、デザート。もう一個位食べられるだろう?」
ケニーは、苦笑しながらカスタードとイチゴのクレープを、しおりに差し出した。
「え、いや、私は別に、その……あの、すいません、ありがとうございます……」
ずっとジョージの食べる姿に惹きつけられていたしおりは、恥ずかしさで顔から火が出そうだったが、そんな微かな羞恥心は、一口目を食べた途端どこかに吹き飛んだ。
「美味しい!!」
しおりは目を丸くしてクレープを覗き込んだ。
今まで食べてきたクレープとどこが違うのだろう?
カスタードが美味しいのはもちろんだが、それだけではないような気がする。
一瞬の間をおいて、
「ああ、そうか生地か!」
としおりは思った。
ほうれん草とチーズの時も、このカスタードのクレープも、この生地が上手に全てをまとめあげている。かといって、生地がでしゃばる訳でもない。口の中のものを飲み込んだ瞬間に、かすかにプンとその生地の香りを鼻の奥に残していく。
「はっはっはっ! ユー達は実に面白いな。ボーイは上を向いたまま、こちらのレディは下を向いたまま食べとる。まあ、わしはどっちを向こうが、美味しそうな顔をして食べてくれとるからうれしいけどな。はっはっはっ!」
そう言って、腕組をしたままケニーは笑った。
「美味しそうな顔……」
ジョージは、急にはっとした表情でケニーに聞いた。
「ま、まさか彼女に……?」
そう言うと、おそるおそるしおりの方を見た。
あきらかににらんでいる。
「いや、いや、違うんです! ちょっと前に、うちの店のマフィンを美味しそうに食べてらっしゃったのがすごく印象深くて、でもいい意味で言っているんですよ。ホントに、ホントに、いや、ホントに!」
あわてて弁解しているジョージと、片方のまなじりを上げたままのしおりを見ながら、ケニーが又、
「はっはっはっ!」
と大きな声で笑った。
「今度娘もつれてきます」
しおりが帰り際にそう言うと、
「娘!?」
と、二人は驚いた表情でしおりを見た。
「え、ええ……何か? 私、娘が一人いるんです、けど……?」
「いや、そうですよねえ。旦那さんがいるんだもの。子供さんがいてもおかしくはないですよね。可愛いんでしょうね、娘さん」
ジョージが目を細めると、
「何!? ユーは結婚しているのか?」
しおりとジョージの顔を見ながら、ケニーはずれ落ちそうになった銀縁の眼鏡を抑えた。
「え、ええ……?」
「そうかあ……」
と呟きながら、ケニーはジョージの方に少しだけ視線を走らせた。
「いや、何でもないんだよ。ただ、見た目がお若いから、びっくりしただけさ。娘さんはおいくつなのかな?」
「五才になります」
「五才か……」
先程まで笑顔を見せていたジョージは、ぽつりとつぶやくと、しおりに気付かれないように下を向いた。
「そ、そうか! 五才か! 今度ぜひつれておいで。美味しいのをご馳走してあげるよ!」
ケニーが取りつくろうようにそう言った。
しおりはどことなく不自然さを感じないではなかったが、
「分かりました。今度つれてきます」
と、ケニーを見た。
「ところで、お名前を聞いてなかったな」
「あ、そうでした。しおりです」
「わしはケニー」
「あ、僕はジョージ……」
「お前の事なんか、誰も聞いとらんわい」
ケニーはそう言うと、しおりの右手を大きな両手で包み込み、軽くハグをした。
「何だよ、もう。僕をじゃまにして」
一人で頬を膨らませているジョージを、微笑みながら見ていたしおりだったが、
「それでは今日は帰ります。本当に美味しかった。感動しました、ケニーさん。ジョージさん、教えてくれてありがとう」
そう言って二人に頭を下げた。
そして、そのまま手を振りながら帰っていった。
二人は立ち上がったまま、その後ろ姿をいつまでも見送っていた。
「ボーイ、お前、知ってたのか?」
「旦那さんがいる事だけは聞いていたんですけど……」
「どうするんだ? それで?」
「いや、別に……」
そう言いながら、寂しそうに空を見上げるジョージを、ケニーは複雑な思いで見つめていた。
帰りの車の中で、しおりは改めてクレープの味を思い出していた。
香ばしい生地、バランスの取れた具材、絶妙なタイミング。その美味しさに感動すら覚えた。
今度の日曜日に、早速優花をつれて来よう。優花はきっと、あのカスタードとイチゴのクレープが気に入るだろう。
そこまで考えた時に、ふと、それを食べていたジョージの顔が脳裏に浮かんできた。
空を見上げて大きく口を動かしながら、目尻を下げて、目を細めて……本当に美味しそうだった。
そしてそれを嬉しそうに見ていた、ケニーさん。
しおりは二人のやり取りを思い出しながら、一人微笑んでいた。
「ねえ、あなた。今度の日曜日はお仕事?」
しおりは、その夜帰宅した夫の憲二に聞いてみた。
「いや、仕事じゃないけど商工会のコンペがあるって言ってたろう。何かあるのか?」
「ううん、久しぶりに優花をつれて、皆でトウェンティーサードでも行きたいなあ、と思って」
何故だろうか、憲二が行けないと分かった瞬間、少しほっとしていた。
「ええ!? トウェンティーサード? あんな駐車場のない所、しかも日曜日に? 勘弁してくれ」
嫌な記憶を思い出したのか、大げさに手を振ると、
「久しぶりのゴルフなんだ。商工会主催っていっても、気を使わなきゃいけないじいさん達は今回不参加だから、結構楽しみなんだよな」
頭はすでにゴルフの事で一杯になっている。
「じゃあさ優花、今度の日曜日ママと二人でショッピングに行こうか?」
「やった~ ショッピング! ショッピング!」
優花はしおりに抱きつくと、飛び跳ねて喜んだ。
そして日曜日、しおりは優花をつれてトウェンティーサードに来ていた。
十一時を少し回った頃だったが、やはり車を止める場所を探すのに三十分ほどかかり、へとへとになった頃、やっとスペースを見つけた。
「ふ~う、やっと見つけた。ごめんね優花、待たせちゃったね。お腹すいたでしょう。でもね、優花に食べさせたいものがあるんだ~」
しおりがそう言いながら、お腹をくすぐると、
「イエ~イ! なに、なに、なに!?」
と、小さい鼻をふくらませながら、期待に満ちた顔でしおりに抱きついてくる。
「それは行ってからのお楽しみ!」
「よ~し! 行くぞ~!」
優花はスキップをしながら、しおりに付いて行った。
「こんにちは!」
クレープを焼くグリルの後ろで座って本を読んでいたケニーに、しおりは声をかけた。
「オウ、しおりさんか!」
ケニーは顔をほころばせると、本をかたわらに置いて立ち上がった。そして、しおりのそばでもじもじしている優花に気がついた。
「オウ、こちらのちっこいレディは誰かな?」
「ゆうか」
優花が小さく答えると、
「娘です」
としおりが付け加えた。
「そうか! このほっぺたぽっこりちゃんが娘さんか! 可愛いな!」
ケニーはカウンターの中から出てくると、優花のほっぺたをつついた。そして恥ずかしがってしおりの後ろに隠れようとする優花に、
「今日は何を食べますか? こちらのレディーははじめましてだから、ご馳走しますよ」
と、言って笑った。
「ねえ、ママ、何があるの?」
「あのねえ、ここはとっても美味しいクレープ屋さんなのよ。このおじさんがくるくるくるって作ってくれるのよ」
「クレープ!? 食べたい!! 優花はカスタード!」
「はっはっはっ! 優花ちゃんはカスタードが好きなのか。ようし、美味しいのを今作ってあげるから待っているんだよ」
ケニーはそう言うと、いつものように生地をグリルに置いて焼き始めた。
「ねえねえ、ママ! おじいちゃんじょうずだね!」
と優花がはしゃいでいる。
「こら! おじいちゃんは失礼でしょう」
「はっはっはっ! いいよ、おじいちゃんで」
ケニーがカスタードの上にスライスしたイチゴを乗せると、
「あ、イチゴだ!」
優花は嬉しそうに目を丸くした。
「ほら、出来たよ!」
ケニーが手渡すと、優花はあちあちと言いながら鼻を広げてかぶりついた。
そして一瞬目を丸くすると、自分の食べた跡をのぞき込んで叫んだ。
「美味っし~い!!」
「ママとそっくりじゃないか。はっはっはっ! しおりさんは、今日は何を食べますか?」
しおりは最初から、ほうれんそうとチーズのクレープと決めていたので、それを頼んだ。
「ママ、ほうれん草食べるの?」
「これが美味しいんだから!」
「じゃあ、ひと口ちょうだい!」
「はっはっはっ! 食いしん坊はお母さんそっくりだな」
ケニーが言いかけて、しおりの鋭い視線を感じると、
「あ、いや……オウ、そろそろ出来るぞ~」
と、言ってクレープをまきはじめた。
しおりは苦笑しながら、出来上がったクレープを受け取るとおもむろに一口食べた。
「美味しい!」
「優花も、優花も!」
ねだる優花に一口食べさせると、また同じように食べ口をひと目見て、
「美味しい!」
と叫ぶ。
そして二人で顔を見合わせながら笑っていると、ふいに後から、
「あ、ずるい! 自分達だけ!」
と言う声がした。
うしろを見ると、ジョージがいつもの黒いポロシャツで、腕組みをしながら立っていた。
「ああ! それは僕のカスタードイチゴじゃないか!」
と、優花の手にわずかに残っているクレープを見た。
「これは優花の!」
優花が手を引っ込めると、
「く~! その日の一番カスタードは、僕のって決めていたんだぞ~!」
と優花をにらんだ。
「しょうがない、ケニーさん、二番目のでいいや。カスタードイチゴ下さい」
ジョージがそう言うと、ケニーは肩をすくめて、
「ユーは、まったくどうしようもない奴だな」
と言いながら作り始めた。
そして、
「ほれ、今日六枚目のカスタードだ」
と言って手わたした。
「ろ、六枚目……」
「ぷぷぷ! 二番目でもないじゃん!」
優花が笑った。
「こら、優花!」
「にゃ、にゃにお~!!」
と叫びながら、ジョージが優花を追いかけまわしはじめた。
「まったくあいつは、いつまでたってもボーイだなあ」
ケニーは首を振った。
しおりは、そんなケニーの言葉が聞こえていないかのように、二人の姿を追っていた。
優花は、アメリカに来て以来、少なからず人見知りするようになっていた。言葉の壁がそうさせているのか、身体の大きなアメリカ人にプレッシャーを感じているのかは分からないが、どうしても優花は人と打ちとけるのに時間がかかるようになっていた。
それがどうだろう。
ジョージとはほとんど会話をしていないというのに、すっかり打ちとけているではないか。
「あいつは不思議な奴なんだよ。子供とフレンドになるのに時間がいらないんだな。まあ、だからいつまでたっても、わしの中ではボーイなんだけどな」
ケニーがそう言ってウィンクをしてみせた。
そこにジョージが、優花を肩にのせて戻ってきた。
「きゃははは! ママ、見て! 優花みんなより一番おっきいよ!」
「あんまりバタバタしないの!」
「いいんですよ。僕、優花ちゃんみたいな子、大好きなんです」
「ねえねえ知らないでしょ。ママ怒るとすっごい恐い顔でにらむんだよ!」
肩の上の優花がそう言うと、
「知ってる」
とケニーとジョージがうっかり声をそろえて答えた。
思わず顔を見合わせた二人が、恐る恐るしおりの方を見ると、やはりにらんでいる。
「ほらね」
優花の一声に、とうとう三人ともこらえ切れずに、噴き出してしまっていた。
その日、家に帰ると、憲二が不機嫌そうにテレビを見ていた。
「あら? もう帰っていたの?」
しおりは、よくない波長が家中に充満している事を感知すると、わざとさりげなく声をかけた。
「帰ってたのじゃないよ。何時だと思っているんだ?」
案の定、そう言いながら憲二はしおりに冷たい視線を投げてきた。
「まだ三時じゃない。どうしたの?」
つとめて柔らかく言っては見たものの、いっこうに苛立ちを隠そうともしない。
しおりはゴルフで何かあったのだと思った。
憲二はゴルフでもなんでも、自分の調子がよくないと、すぐに苛々としはじめ、そしてそれを隠そうともしない。
まわりはその苛立ちを感じているのだが、当の本人である憲二はそれにまったく気付いていない。しおりも数回、一緒にゴルフに行った事がある。しかし憲二のショットが思い通りにいかなかった後に、初心者であるしおりが空振りをすると、
「チッ」
と、舌打ちをする音が後ろから聞こえてくることが度々あった。
それ以来、すっかり行く気を失ってしまった。
「ったく、今日は散々だったな。三本商事の木本さん知ってるだろう?そりゃ、俺よりは一回り以上年も上だし、ゴルフも上手いのはわかるけどさ、いちいち俺に手ほどきするんだ。ったく、やれグリップがどうだ、スタンスがどうだ、ここはこのクラブの方がいいんじゃないかって。お陰でイライラしっぱなしだったよ」
木本さんなら一度、食事を一緒にした事があった。
あれは去年、合同ガレージセールを、たまたま木本家と、佐和子と律子の家族を含めて四家族でおこなった時だった。
盛況のうちにガレージセールも終り、せっかくだからこのまま打ち上げを兼ねて食事に行こう、という事になった。
そして、近所のチャイニーズレストランに出かけたのだが、木本さんはアメリカなんだから、ウェイトレスが中国人ばかりとは限らないはずだ、と言い放ち、あげくのはては、長い黒髪で切れ長の目のウェイトレスが通りかかると、
「ニイハオマー」
と声をかけ、少し韓国人を思わせる風貌であれば、
「アンニョンハセヨ!」
と叫ぶ。
もちろん顔の造りで判断するなど、失礼きわまりなく、言われた相手はムっとしているのだが、当の本人は気付いてもいない。
同席しているしおり達が、穴があったら入りたいほどだった。
空気の読めない人というのはまさにこの事だと、その時しおりは痛感したのだった。
その木本さんと18ホールをフルに回ったのであれば、そうとうのストレスであったろう。かと言って、狭い日本人社会では、今後の事を考えるとあからさまに嫌な顔も出来ない。
「それは大変だったわね……」
しおりが憲二に声をかけようとした時、優花が割ってはいった。
「パパ! あのね、今日美味しいクレープ食べたんだよ!」
しおりは常に、誰かと誰かが話している時には、割りこんではいけないという事を口をすっぱくして言ってきた。
それを出来るだけ守ろうとしている優花は、自分の言いたい事を我慢しながら、他の誰もが言い終わるのを待っているため、時に空気の流れを無視した話題をふってくる。
とにかく自分の感じたすべてを、みなに知ってほしいだけなのだ。
しかし突然ふられた憲二は、
「クレープ?」
とけげんな顔で答えたあと、
「ったく、お前達はのんきでいいな。こっちは、せっかくのゴルフをだいなしにされたってのに」
と鼻で笑った。
「あなた!」
優花は、憲二の返してきた言葉に、楽しかった記憶を再現する場を失った事に気付くと、寂しそうにテレビを付けて、ディズニーチャンネルを見始めた。子供は、自分の事でいっぱいで、大人達の事情や、その場の空気などをまったく読めていない言動をする事が多々ある。それでいて、自分に対する空気だけは機敏に感じ取るのだ。
しおりは、優花が幼児から子供へと脱皮しはじめた頃にオレゴンに来ることになり、青い羽も乾ききれていないままストレスの波にさらされてきたのをずっと近くで見てきた。だからしおりは、優花が家に帰って口にする一言一言を大事にあつかってきた。
過保護に育てるのではなく、言いたい事を吐き出させ、中に残させない。
それが楽しかった事であろうと、嫌だった事であろうと、子供にとっては身体の中にためておいてはいけないものだとしおりは常に思っている。
嫌な空気を感じとった憲二は、
「ああ! せっかくの休みだってのに。ったく!」と苛立たしげにつぶやくと、裏庭のバルコニーに出てイスに座り、ビールを片手にタバコを吸いはじめた。
しおりは横に座ると、口を開いた。
「あなた、ちょっといい?」
「ああ」
面倒くさそうに答える憲二に、しおりは言った。
「あの、たまにでいいの。優花の言う事を、ゆっくり最後まで聞いてあげて欲しいの」
「聞いてるじゃないか」
「ううん。いつも優花は話半分であきらめてるわ。さっきだって、もっとあなたに言おうとした事があったはずなの。でも、あなたがろくに聞いていない事くらい、優花だって気付いているわ。昔は、ちゃんと聞いてあげてたじゃない」
「俺だって聞いてあげたいさ。でも、疲れてイライラしてる時にのんきな事を聞かされて、俺にどう答えろって言うんだよ。それにな、俺は、昼間は現地従業員と、夕方からは日本サイドとやり取りして、どれだけのストレスがたまってると思うんだ?」
「でも今日は、仕事とは関係ないじゃないの。もちろん、木本さんの事は私も知っているし、大変だったと思うわ。でも、優花からすればゴルフなんて……」
「ゴルフなんて?」
憲二はしおりをにらみつけた。
「ゴルフなんてってなんだよ。そりゃあ、お前達からすれば、単なる遊びにしか見えないかもしれないよ。でもな、この狭い日本人コミュニティの中で、会社の名前を背中にかついでプレーする事が果たして遊びと言えるか? しかも、自分にとっては大切な休日なんだぞ。本当は思いっきり自分のゴルフをしたいんだよ。でも、それをおさえて、まわりの空気を読みながらプレーを続けるんだ。それがどれだけのストレスだと思う」
「でも優花だってストレスをたくさん抱えているのよ。なれない環境で一生懸命がんばっているわ。英語も話せなくてあんなに泣いていたのに。だから、家にいる時は何でも聞いてあげたいの。しゃべりたいだけしゃべらせてあげたいの」
「わかったよ」
ビールの酔いが少しまわってきた憲二は、うるさそうに続けた。
「わかったから、少しゆっくりさせてくれないか」
そう言うと、新しいタバコに火をつけた。
しおりはため息をつくと、家に入り優花をお風呂に誘った。