鏡
僕は鏡を見るのが好きだった。決してナルシストというわけではない。この世界を寸分違わず写してくれる鏡。鏡は、僕の住んでいる世界とは違うもう一つの世界を夢想させてくれた。
僕はこの世界が嫌いだ。この世界では息もできない。母は僕が幼い頃、交通事故で死んだ。父は母が死んだことで精神衰弱に陥り、精神病院で今も入院している。もう、僕のことを息子だと認識することもない。父が入院することになり、僕は父の妹の家に引き取られ住むことになった。しかしそれは好意的なものではなく、ただ僕の家と一番近く、少しだけ交友があった為で、近所の目、世間体というものを気にしての行いだった。
叔母の家族は突然僕という異物が家庭に侵入したことを忌避した。初めは、叔母は僕のことを歓迎するような素振りをしていたが、ぎこちなく、見ているこちらが心臓を待針で刺すような痛みに襲われる不快感を感じ取った。叔母の家族がリビングで団欒をしている時、異物が侵入した瞬間、世界が止まる。会話はない。さっきまで楽しそうに話していたのは夢だったのだろうか。息が詰まった。まるで水の中でもがいているようだ。ここは僕の住む世界じゃない、人は海の中で生きることはできないし、魚も陸の上では窒息してしまう。人が海で泳ぐには息継ぎが必要だ。僕にとってはその息継ぎが鏡だった。
呼吸すら満足にすることのできないこの世界だけがこの世に存在する世界だとは僕は思えなかった。すると、この世界と全く同じ作りをした世界が鏡に写し出されているのを見つけた。「なんだ、やはり違う世界があるんじゃないか。それならば、この世界で息ができない僕は、神様が少し間違って僕をこの世界に生み落としてしまっただけで、本来ならばそっちの世界に生まれるはずだったんだ。ならば僕はこの世界で息ができないのもしょうがない」、そう思えた。
それから僕は、鏡から向こうの世界を覗き込みながら、向こうの世界を夢想した。向こうの僕はどんな生活をしているだろうか、僕と同様に息苦しい生活をしているんじゃないだろうか、もしかしたら向こうの僕とこちらの僕が間違って生まれてしまったんじゃないだろうか、そんなことを考えた。
ある日、いつものように鏡を覗き込んでいると、突然向こうの僕が語りかけてきた。
「助けてくれよ、僕はもうこっちの世界では生きられそうにない。」
僕は当然驚いたが、向こうの僕も同じことを思っていることを喜ぶ気持ちの方が大きかった。
「ああ僕もそう思う、僕もこの世界に間違って生まれてきてしまったのだと思っていたよ。」
向こうの僕は、僕が同様に自分と同じ苦しみを感じていることに喜んだのか、満面の笑みでこう言った。
「そうだろう!やはり僕たちは生まれる世界を間違っていたんだ!今なら窓が開いている、二人とも本来生まれるべきだった世界に戻ろうよ!」
「そんなことができるのか!早くやろう!いつまで窓が開いているかわからない!」
やっと僕が生まれるべきだった世界に帰れる、そう思った僕は躊躇せずに鏡の中に足を踏み入れ、窓をまたいだ。鏡は僕を拒むことなく、すんなりと僕は向こうの世界に行くことができた。本来の世界に来られた喜びを向こうの僕と分かち合おうとしたけれど、鏡は既に元のままに戻ってしまった。窓が閉じてしまったのだ。まあ、僕はもう元の世界に帰れたのだからいいだろう、そう思い僕は洗面所を出て叔母の家族が団欒しているだろうリビングに入った。そこには叔母と、仕事から帰ってきた夫、娘が僕のいた世界と同様に楽しそうに話していた。しかし、僕が入った瞬間、世界が、止まった。息が苦しい。