名前のない人
僕には名前が与えられていなかった。代わりに与えられたのは、識別番号であるアルファベットと数字の羅列であって、それ以上のものはなかった。生まれた時からこういった扱いをされていたから、気にしたことはなかった。
体は確かに人間だった。顔や体格や性格は違えども、全身に流れているものは血であって、決して黒々としたオイルなどではない。これまでに僕と同じ境遇の人を何人か見たことがあるし、関わる機会もあったけれど、皆、流れているのは赤い血だった。僕たちには名前はないけれど、決して機械ではない。
識別番号を与えられた人々は総じて奴隷だった。身寄りも財産も名誉も、なにもない。ただ残されているのはこの体だけで、資産を持つことは許されていない。名前を持つ人々に見下され、こき使われ、理不尽な暴力を振るわれることがあるが、僕らが生きていくためには、奴隷らしく、名前を持つ人々にすがって生きていかなければならない。そうすることで僕たちは食べていけるし、屋根のある納屋で眠ることができる。生きることを許されるのだ。
ある時、車椅子に座った少女に出会った。丘の木陰で歌っていた、白い髪の少女だ。生まれつき足が悪いらしく、自分で歩くことができないらしい。細いガラスの管を反射させたような歌声に魅了された僕は、じっと丘の上の彼女を無意識に見つめていた。歌っていたのは誰もが知っている、町の古い民謡だ。
こちらの存在に気付いた彼女は、奴隷である僕に対しても、優しく微笑みかけてくれた。歌を中断したのは惜しかったが、それ以上に僕は彼女の微笑みに十分な満足をした。きっとその時に、僕の心は彼女の虜になったのだろう。来る日も来る日も、僕は時間を見つけては丘を目指して、彼女に会いに行く時間を作って会いに行った。当然、名前の持つ人々には絶対の秘密だ。小汚い姿をした僕が、天より召された女神のような清楚な容姿をした彼女と関わりを持っていると知られたら、きっと磔のような処罰が下るだろう。
ある日、僕が木の根に座っていると、彼女は車椅子から手を伸ばした。指先が僕の方に近付いているのを把握すると、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。彼女は僕の脊髄付近に刻印された、決して消すことのできない英数字の羅列をなぞった。白く柔らかく、冷たい指先だった。
刻印された識別番号を見て、憂う表情を向けられる。慈悲を持った憐みなのか、奴隷への単純な同情なのかは判別できない。
「あなたに名前を差し上げるわ」
「それは、いけない」
慌てて手を大きく振って、ダメだ、とジェスチャーする。
「どうして? あなたも人間よ」
「奴隷が名前を持っちゃいけないなんて、子供でも知っているだろう。そんなことをすれば、君だって罰せられる。僕は自分の身が罰せられるだけなら気にしない。もとより僕はこんな身分だ。でも君は違うだろう。名前を持つ人なんだ。下手をすれば君まで名前を奪われて、奴隷階級になってしまう」
「名前を持つ大よその人は傲慢すぎるのよ。だから歳を取ることも忘れて、感情も失って、完全な存在になった気でいられるの。あなたの方が本来の人間らしいわ。だから、名前を差し上げるの。あなたと私だけの、秘密の名前よ」
彼女は指先を首から頬に移して、そっと撫でる。全身が聖水で清められたように震えた。
「あなたの名前は、ホロウ・グリーフ。私とあなたの間だけの秘密の名前。ホロウ、あなたは機械なんかじゃないわ。人間なのよ。正当な扱いを、権利を受けるべきなのよ。これはその一つだわ」
今の自分がどれだけ罪深い行いをしているのか、名前を与えられ、更にはその名を彼女に呼ばれたことで絶頂を迎えそうな頭でも、しっかりと理解できる。ここに憲兵がいれば即時に射殺されるだろう。名前を持たない人間の命には、名前を持つ人と異なって不死の肉体ではなく限りがある。寿命や病気などで死んでしまう、土くれのような脆い体なのだ。だから、銃弾で体を貫けれてしまえば、僕は死ぬだろう。
それだけ罪深い行為を僕らは執り行っている。秘密の名前を与えられてもこれといって何かの変化が起こるわけではないが、名前を与え、そして与えられることそのものが罪なのだから、罰せられても文句は言えない。なぜなら僕は奴隷であり、本来は名前を持たない人なのだから。
「ねえ、ホロウ。あなたはどうしてそんなにも痛々しい姿をして、名前を持つ人々の奴隷として生きなければならないのかしら。あなたも私も人間よ。ただ名前があるかないか。それだけなのに、どうして生まれた時から様々な違いを設けられてしまったのかしら」
奴隷だって考えないことではない。誰もが一度だって考えることだ。どうしてこの世界はこんなにも、理不尽なのか、と。
「ホロウ、ホロウ。私が全てを許せる存在なら、今すぐにでもあなたの首に刻印されたこの忌々しい羅列を消してあげるのに」
車椅子から崩れ落ちるように倒れ込んできた彼女は、僕の上に圧し掛かり、必死に腕を伸ばして、僕の体を包み込むように抱きしめる。少女らしい、弱々しくもしっかりとした体の感触が、生まれた時から僕の内側にあった穴を埋めてくれるような気がした。
僕はしばらく、彼女の胸の中で咽び泣いた。




