004
獣がいればそれを倒して食料とすることができる。草木があれば判別して飢えを凌ぐこともできるだろう。幸いにして、水は魔法により作り出すことができた。したがって、喉を潤すことだけは、いかなる状況でも可能であった。
しかし、砂と僅かな草が生えただけの一面の景色には空腹を満たす何かは存在しなかった。最後に口にしたのは何だっただろうか、空腹が邪魔をして思い出すことすら難しい。携帯していた魚の燻製が尽き、水だけでの生活になり二日間が経過したところで柳原は後悔の念に苛まれていた。
「悠里、そろそろ限界だ……」
「レイチェルの情報だと、少し前まではこの一帯には鹿に似た生物の群れがいたはずなのですが、移動してしまったようですね」
悠里は落胆に肩を落とす。その声には当然のごとく覇気が無かった。
「最寄の街まで、後一日だって言うのに」
「大丈夫です、後一日くらいなら持ちます。気合ですよ!」
そう言うが早いか、二人の腹の音が小さく響いた。
観測艦を離れた二人は北に向かっていた。観測艦は大陸の南端に位置する連峰の一つにあった。ここから二人が立てたルートは、先ずは大陸を北上し、山脈を抜け大陸北西部一帯を占める聖王国へ向かう。その後、北東に位置する帝国を通って港町から船で亜人の住む大陸へ移動。その後、大陸を南下して目標物を確保する、というものである。
この世界の大陸に存在するほぼ全ての国を跨いだ旅路である。最短のルートは他にもあったが、これが危険なルートから消去法で進めて残った道筋なのである。自分の命を危険に晒してまで日数を稼ぐ必要性は無かった。
南は多くの小国がひしめいている。戦争状態にある国もそこかしこに存在した。聖王国、帝国に対抗する国家を作る、というのが各国の王の悲願であるようだった。そのために、南の統一を目的とした紛争が絶えないのである。レイチェルからの情報であるが、最初は数百という国家とも言えない塊が存在したらしい。現在は大きく六つの国家体が最も勢力が強く、それらに挟まれるように小さい国が幾つも存在する。丁度、六角形に近いかたちに配置された各国家は、周辺の国を巡って争っているのだ。
今二人は、南西に位置する六つの内の一つ、リオカ国の首都カーティオを目指していた。この国は森林資源、海資源が豊富であり、港の発展とともに国力を挙げてきた国家である。必要以上の争いは行わず、資源が豊富なことから、今後の旅に必要なものを一式揃えることができると考えた結果である。
「最初の山で馬なり手に入れることができていればな」
「それは仕方がありません。あの山は観測艦によって生物がほとんど近寄りません。逆に変に発達した虫の巣窟です」
そう、観測艦の近くに生き物が殆どいなかったのは気のせいではなかったのである。観測艦はその子機ともいうべき、張り巡らされたネットワークの管制により、強力な磁場を半径数キロに渡って発生させていたのである。まともな生物は長く棲めない環境になっていたのだった。そのおかげで二人の移動手段は徒歩に限定されてしまったのだ。
「それより、ここの国の名産はエビのようですよ。楽しみですね」
空腹の所為か、話題は自然と食に向かっていく。首都カーティオは、映像からは非常に活気に溢れた街であることが一目でわかった。露店も多く出ており、笑顔が絶えない街だったためだ。人々が笑顔で過ごせるのは良い政治の結果であり、治安も問題ないだろう。二人がこの街を選んだ最たる理由である。
「じゃ、もう一頑張りだな」
再び歩みを進める二人。
数時間後、遠くに見張り台らしき建造物が柳原の視界に入った。柳原は、隣を歩く悠里に話し掛ける。
「あんな見張り台あったか?」
「見落としていたのかもしれませんね、ちょっと照会掛けます」
レイチェルとの通信端末を操作する悠里。
「レイチェル、現在私たちのいる座標から北にある建造物の映像を投影して」
端末に向かって声を掛けると、端末から空中に向かって光が伸びた。眼前の空中に、四十インチほどの大きさの映像が映し出される。これは衛星軌道上からのリアルタイム映像である。
「もっと拡大して」
それはやはり見張り台であった。台の上には三人、それぞれ南、東、西をそれぞれ監視する体制である。問題なのは、その見張り台のふもとに、二十人ほどの武装した人間がいることだろう。更にその近くには、駐屯用なのか、テントが幾つも張られていた。実際の人数は更に多いかもしれない。
その何れもが見るからに屈強な男たちだった。まるで中世の映画に出てくるような連中である。
これだけ見れば戦争を行うようにも見えるが、そうであれば規模としては小さすぎる、というのが柳原の所感である。精々が山賊や盗賊の類を撃退する程度の規模でしかない。
しかし、柳原たちはこれまでの道でそういった類の人種とすれ違わなかった。恐らく、違う目的なのだろう。
「どう思う?」
「見張り台は、多分急造のもの。まだ新しい上にそんなにしっかりとした作りではないから。この気候だから、そんな頑丈に作る必要は無かったのかな」
「戦争、というには貧弱だな。とりあえず、避けて通ろう」
「食料への道がまた一歩遠ざかりましたね」
レイチェルを介して衛星映像を呼び出す。すると、間隔にして数キロ置きに同様の見張り台が設置されていることが分かった。こうなると、何かを警戒しているようにしか見えない。それぞれ、二十人を超える程度の小隊が詰めているようだ。
彼らの脇を見つからずに通るには、視界が良好すぎた。最悪、戦闘になる可能性もある。
今の柳原たちは、例え二十人が集まっていたとしても簡単に蹴散らせる程に成長していた。厄介ごとは可能な限り避けて進む、という当初の目標は変わらないが、二人の胸中には嫌な予感が生まれていた。
意を決して直進する。二つ同時に見つかるなら、一つのほうがよい。前方の見張り台から距離をとるように歩を進める。
十五分程度歩くと、見張り台がそれなりの大きさで視認できるまで近づいた。相手からも柳原たちが見えていることだろう。
更に五分ほど進むと、見張り台周辺が慌しく動き始めたのが見えた。距離にして1キロは無いだろう。五百メートルほどまで近づいたとき、一頭の馬に跨った武装した兵士と思しき男が柳原たちの元に向かってくるのが見えた。
徐々に近づいてくる。馬の走った後に砂埃が立ち上がり、間もなくしてその姿がはっきりと映し出される。上空からの映像で見たとおり、いや、直接対峙するとその体の大きさに慄いてしまう。
「止まれ!」
馬上から声を張り上げる男。左手で手綱を握り、右手には二メートルほどの長さの槍を持っている。偉丈夫という言葉が似合う男であった。身に着けた鎧は簡素なもので、その下には、一目で分かるほどに隆起した筋肉が控えている。お互いの表情が読み取れるまで接近すると、その存在感に圧倒される。馬上ということもあり、二人は距離があるにも関わらず少し上を向かなければいけなかった。初めて出会う圧倒的な存在に圧倒され、しばらく声を出すことができなかった。これまで生きてきて始めて出会う戦士。映像で見るのと、実際では何故にこれほどまでに違うのだろうか。
こんな存在が二十人以上もあそこには駐屯しているのだ。悠里も柳原と同じ感想を抱いているのか、何もしゃべらない。男が馬上から降りて、柳原たちの方へ向かってくる。お互いの距離が十メートルほどになったところで歩みを止め、再度声を上げる。
「お前ら、何処の者だ?」
端的に聞いてくる。男の声は太く、静かで、しかし威圧的であった。悠里は一歩下がった。レイチェルを相手に語学を学んだ甲斐もあり、何を喋っているかは理解できた。柳原たちは何処から来たのか、という単純な質問。
答えは既に用意してある。しかし口の中が渇いてうまく言葉が出てこず、大きく唾を飲み込んだ。足が震えそうになるのを何とか押し留めて、精一杯に虚勢を張ることに注力する。下手なことを喋るとそのままあの槍に引き裂かれそうだ、男は決して自分らを油断して見ていない。早く話さなければ不審に思われてしまう。
精一杯の勇気を振り絞り、柳原は悠里を後ろ手に半歩前に進み答える。
「私たちは、ここから遠く南の山から来た」
うまく喋れただろうか、自分でもそうと分かるほどに震えた声は正しく相手に届いただろうか。これが原住の民族との始めての会話である。文法的にも間違ってはいないはずだ。怪しまれないよう祈る。
相手の様子を伺う。言葉を吟味するのと同時に、訝しげな視線を隠そうともせず二人を嘗め回すように見てくる。嫌らしさではなく、どう扱えばよいか決めかねている、といった雰囲気のように感じられた。
「南の山だと? 霊峰で人は生きてゆけぬ。本当のことを言え」
磁場の影響で生物は棲むことができない。彼らはそのことを言っているのだろうと直ぐに理解できた。しかしそれに対する設定は織り込み済である。
「山の奥には獣が棲んでいた。私たちはそこで生きてきた」
ここで一つでも回答を誤ったらアウトだ。怪訝そうな表情を浮かべる男に、更に説得の言葉を重ねる。
「育ての親が死んだ。私たちは旅に出ることにした。ここを通してもらうことはできないか」
「素性が知れない者を我が国に入れるわけにはいかない。切られたくなければ、引き返すことだ。今なら見逃してやろう」
どうする、このまま引き返せばスタート地点に逆戻りである。更にいえば、食料が手に入る保障すら無い中で引き返すという選択肢は無かった。屈強な男が何だというのか、魔法を手にした自分より強いという根拠など無いのだ。
この男は職務に忠実なのだろう、きっとここで言葉を幾ら連ねても通ることはできないに違いない。そうであるならば、押し通るしか道はない。折れそうになる心を奮い立たせて意思を強く持つ。
「こちらにも目的がある。通してもらいたい」
男の目が暗く光る。男の放つ威圧感が増したように感じた。体が震えるのを必死に止める。初日に出会った山賊紛いの男たちの比ではない圧力である。悠里が後ろにいるから、何とか保っているのが現状だ。
魔法があると驕っていたのを改めて自覚する。獣を相手にするのとはレベルが違う。魔法も含めた純粋な戦闘力という意味では、自分が圧倒しているだろう。しかし、経験値が違いすぎた。距離を詰められすぎているというのもあり、心の平静を保つのがやっとであった。
男が僅かに腰を落とす。これで戦闘体制に入ったことが否応でも理解できてしまった。このまま去るならば良し、そうでないならば殺す、言外にそう伝えてきている。嫌な汗が顔を伝い地面に小さな染みを作った。大丈夫だ、自分ならできる。願うなら人と対峙するのはもう少し先であって欲しかったところだが、愚痴っていてもしょうがない。いつでも唱えられることができるよう心の中で無数に繰り返した術式を浮かべる。
「聞かぬというのならば」
男が槍の先端をこちらに向けてくる。槍頭の銀色に鈍く光る三角錐状の刃は、未だ距離はあるものの実際より近く感じた。初めて向けられる殺気。今ならまだ間に合う。もし詠唱が間に合わなかったら? もしあの先端が自分に届いたらどうなる? 嫌な想像が頭の中に浮かぶが、それを頭の端に追いやる。そうではない、成功したときのイメージを浮かべるのだ。あの槍が、ほんの十メートル先に存在するその先端が到達するまでの時間で魔法を完成させるのだ。
「ここで切らせていただく」
柳原は小さく祝詞を呟き、壁を意味する言葉を繋げる。何千回と繰り返したものである。制御は如何なる状況であっても体が覚えている。一秒に満たない時間で詠唱を終えると、不可視の壁が柳原たちを覆う。物理的な手段での突破は不可能。
男の姿がぶれた、と認識すると同時にやってきた男の槍は、そのあまりの速度に認識したときには大きく弾かれた後であった。障壁が無事に機能したことに安堵を覚える暇など無かった。男の顔が驚愕に見開かれる。大きく後ろに跳躍し、再び構えを取る、と同時に再び一直線に突進してくる。払いでは防がれると判断したのか、今度は槍を地面と水平に一点集中で突いてくる。柳原は動かない、というより動けなかった。安全な壁に守られ、再び男が距離を取るのを待った。上から、下から、回り込んでと幾つもの攻撃が降り注いでくる。ほんの数メートルの距離、男がひたすら攻撃を加え続けるのを見ているだけだ。決して通ることは無い、と信じていても、男の放つ威圧に圧倒されっぱなしであった。
柳原にとって永遠にも思える僅かな時間が経過する。悠里が震えているのが、捕まれた裾から伝わってくる。
このままでは埒が明かないと判断した男は一度距離を取った。その表情はさきほどまでと同様、殺気が滲んでいる。容易い相手ではないと悟ったのだろう、今度は様子を伺うような姿勢で隙を狙っているのが分かった。障壁もいつまでも張り続けていられる訳ではない。正しくはその効力が切れる瞬間に、次の魔法を重ねる必要があるのだ。その際に一瞬の継ぎ目ができ、無防備な姿を晒すことになる。不可視のため見た目で見破られることは無いが、先ほどのように延々と攻撃を加えられ続ければその一瞬を突かれる可能性があった。決して油断できる状況ではなかった。
早く決着を付けなければ……。生半可な魔法では倒せるイメージが沸かなかった。大型の獣を一撃で昏倒させる魔法のリストを頭に浮かべる。殺しはできない、同じ人間を手に掛けるという選択肢は日本人として存在しない。
今撃たなければ、再びその槍が襲ってくるだろう。それまでに一撃を相手に入れるのだ。意を決して詠唱を始める。男が訝しげにこちらを見るが、魔法が完成するのはほんの僅かな時間で事足りる。言葉の意味さえ正しく理解し、省略可能な文法をとことん突き詰めるのは技術者として当然のことだ。
右手を前にかざすと柳原を中心とした旋風が巻き起こる。次の瞬間、空気が爆発したかのような音と共に衝撃波が前方に拡がる。指向性を重視した風の魔法である。小さな獣程度であれば、数百メートルは楽に吹き飛ばすことができるものだ。更に真空を作り出すことによって、その場で耐えたとして空気との摩擦によって大きなダメージを与えられるのが特徴だ。
男は音が聞こえた瞬間に両腕を眼前で交差させ、そして十メートルほど後ろに飛ばされた。纏った鎧には幾つもの箇所が風によってぱっくりと切り裂かれ、その間から血が流れている。
男は倒れず、闘争の意思は決して衰えていないのは目を見れば明らかだった。獰猛な獣と同じ目だ。まさか相手も、軽くあしらえる筈だった自分らに傷をつけられるとは思ってもいなかっただろう。殺気が増すのを感じた。
これで戦意喪失してくれれば御の字だったが、そういう訳にはいかないようだ。しかし、これで自分がこれまで習得してきた魔法が通じることが分かった。今ならばどのような相手でも決して負けないと思える。
男はしばらく構えたままであったが、やがて槍を地面に垂直に立てると落としていた腰を上げ直立する。そのまま数歩前に進むと柳原たちに向かって声を上げた。
「お前、まさか魔法使いか」
言葉とは裏腹に驚きの感情は伺えない。事実として確認するかのように問い掛けてくる。
「私たちに敵対の意思は無い。ここを通してもらいたいだけだ」
男は黙る。何かを思案しているようだった。
「そちらの女も魔法を使うのか?」
悠里は小さく首肯する。
男は槍頭を地面に下げた。戦闘継続の意思はないことを示したのだろうか。
「数日中に、ここに魔物の群れが現れる。これは我が国の星詠みの言葉だ」
星詠みとは、未来を語るものである。魔法ではなく、神との疎通によって未来視を実現するのである。その存在は魔法使いより更に希少だが、その存在を抱えた国は彼らが生きている限り、繁栄を半ば約束されたも同然である。その絶対数は少ないが、存在はあまりに有名である。圧倒的な武力で制圧する、これが星詠みを抱える国を滅ぼす唯一の方法。その星詠みが魔物の群れを見たのであれば、確実に来るのだろう。この国を守るようにできた見張り台の数々はそのためのものだったのだ。
恐らく彼らは国の中でも精鋭の者たちなのだろう。被害を最小限に抑え、相対する魔物を撃破できる最低限必要な戦力を向けたのだ。
「魔法使いがここに現れる。彼らとともに魔物を撃退するのが我々に課せられたミッションだ」
そこで一息つく男。
「剣を向けて悪かった。だが、魔法使いならば俺程度に負ける訳はないだろうと踏んだのと、まさかこんな格好の奴らとは思いもしなかったからな。ここは通す、だが魔物の群れを撃退することができたなら、だ。それでもいいか」
柳原は黙って手を差し出す。男の手は大きく、槍を振り続けた所為か熱かった。一歩間違えば殺されていたのは間違いない。ここで協力しないで進むという選択肢も取りえたが、そうしなかった理由がある。
「マコトだ。こっちは妹のユウリ」
周囲には何も無い。清涼な風が吹きつけ髪を揺らす。広大な大地にいて、やはり獣の姿はどこにも認められない。
「アミューズだ」
男の手は分厚く、柳原と比べると大人と子供ほども差がある。その握力に柳原は顔を顰める。
命の危険が去ったと見るや、先ほどまでなりを潜めていた厄介な現象が再び柳原を襲う。もはや限界に近かった。
「早速で申し訳ないが、飯を食わしてくれないか?」
男――アミューズは、柳原の言葉に喉の奥で小さく嗤った。