001
「何階ですか?」
エレベータに足を踏み入れると、左手から声がした。女性の声だ。柳原誠はどこか聞いたような声だと認識したが、手に持った鞄を地面に置くと、目的の階を女性に告げた。
「二五階をお願いします」
新橋、汐留エリアを構成する巨大ビル群の一角を占めるこのビルは、何とかという高尚なデザイナーが設計したもので前衛的なものとなっている。上空から見たビルは正六角形なのだが、地上は正四角形であり途中で大きく捩じれている。壁面はガラス張りの面と、モザイク状の壁面が交互に並び、捩じれの部分でモザイク柄とガラスが交差するようになっているのだ。
そんなビルのエレベータは壁面に沿って設置されていることもあり、入って奥側はガラス張りである。さすがにエレベータまで捩れながら進む、という奇抜な設計にはなっておらず、地面に対して垂直に上るように設計されていた。上に登るときは、したがってガラス面とモザイク面が交互に現れることになる。
海からは僅かな距離があるため十階を超えるまでは海を一望することができないが、それを超すと周辺のビルの高さを追い抜き、レインボーブリッジや台場、その周辺の海が一望できるようになっている。
僅かな浮遊感とともに、眼前の景色が上昇する。向かう先は自身が務める会社のオフィスである。このビルの二五階から二八階を借りているが、この会社に入って良かった点の一つが、この景色の良さである。
乗り込んだエレベータは高層階用のため、止まるのは一階と、二十階から三十階である。徐々に速度が上がっていき、台場の観覧車が見えたあたりで声をかけられた。
「お疲れ様です、今日はどちらまで?」
先ほど階数を聞いてきたのは、同僚である南沢悠里であることに柳原は声を掛けられて初めて気がついた。彼女は柳原の後輩に当たる。仕事で何度か絡んだことはあるが、プライベートの付き合いまではない。会社ですれ違えば会釈くらいはするし、こうして二人だけになれば話くらいはする。
あくまで仕事上の付き合いに限定される、その程度の仲だった。
「ああ、今日は新宿に用があってね――」
そこまで口に出したとき、エレベータが大きく揺れた。二人は揃って小さく悲鳴を上げ、バランスを崩して床に手をついた。
何が起こった?
頭が追い付かない。蛍光灯が明滅し、エレベータが左右に揺れ続ける。
蛍光灯はそれから間もなく復帰した、時間にして数秒だっただろう。揺れは徐々に小さくなっていったが、一度大きく鼓動した心臓はなかなか収まってくれない。汗が一気に噴き出てくる。この僅かな揺れが収まるまで立てない、いや震えが収まるまで、といった方が正確な表現だ。地面についた手をもう離さないというほどに力を込める。視線は地面に向けたままだったが、ここで自分一人ではないことを思い出し、顔を上げる。
南沢も同じような状態だったらしく、頭に疑問符と、顔に恐怖を貼り付かせながらこちらを窺っている。期せずして数秒ほど二人は目線を見合わせることになった。お互い何が起きたか分からないと、目で会話を行う。
先に立ち上がったのは南沢だ。壁に設置された非常ボタンを押し、守衛室にコンタクトを始めた。ボタンを押してから数秒後、少しくぐもった声がスピーカーから聞こえてくる。
「はい、守衛室。こちらでも状況は把握しています。業者は既に向かっておりますので、もう少々お待ちください」
「どのくらいですか?」
「一〇分程度で到着予定です。ご安心ください」
その言葉は何とも力強く、安心感をもたらしてくれた。南沢も緊張していたのだろう、角張った肩の力が抜けて腕がだらんとなるのが見て取れた。
「良かったですね、そんなに待たなくても済みそうです」
こちらを振り向き、笑顔を見せる。柳原も立ち上がり、窓から距離を置くように移動する。この状況下に置いては、この絶景もあまり気が良いものではない。
「ああ、ありがとう、助かったよ。先に動けなくて申し訳ない」
「いえいえ、私の方が近かったですから」
謙遜する彼女。まだ安心しきれてはいないのだろう、声が小さく震えていることには柳原は触れなかった。地上、恐らく十五階程度の高さで、ワイヤーで吊るされた籠は頼りなく、自分と同様に急に足場がぐらついたような感覚に陥っているのかもしれない。
もし、この高さから落下したら、そんな考えが一瞬頭をよぎるが、すぐに頭を振り払う。そんなことは現代日本では起き得ない。それこそ飛行機が墜落するのと同じ程度の確率であろう。
「やっぱり、怖いですよね」
「一〇分とはいえ、意外と長いからね」
その言葉を返したとき、柳原は待ち合わせの相手がいることを思い出した。上着のポケットから電話を取り出し、相手の番号を呼び出す。数コールの後、電話口に出たのは柳原の上司の高嶺だ。
『はい、高嶺』
「柳原です。今、ビルに到着しましたが、エレベータに閉じ込められまして、少し遅れそうです」
『大丈夫なのか?』
気遣うような高嶺の声。もしかしたら声が震えているのかもしれない。
「ええ、守衛からは一〇分程度で業者が到着するということですので、大丈夫だと思います」
『分かった。柳原は一人か?』
「いえ、広報部の南沢も一緒です」
『一応、広報には俺から一言伝えておく。遅れそうならまた連絡をくれ』
「分かりました、よろしくお願いします」
電話が切られる。南沢はこちらを見ていた。
「うちの上司が広報にも一報しておくってさ」
携帯をポケットにしまいながら、壁に寄りかかるように立つ。ちょうど南沢と向かい合うようなかたちになる。
「柳原さんは今何をされているんですか?」
唐突に聞いてくる南沢。黙っていれば恐怖が増すのだろう。紛らわすような、明るい声音だ。
「先月かな、プレスリリースだしただろう? クラウドで利用可能なSFAと会計を一緒にしたようなサービス開始のやつ。あれの売込みだよ、大口の契約が取れそうでね、毎日都内を駆け回ってるよ」
新聞や雑誌にも大々的に打ち出したサービスである。広報にも問い合わせが結構入っていると聞いている。南沢ももちろん知っているだろう。
「広報部にも毎日どこからか問い合わせが来てますよ。手持ちの資料が無くなりそうなので、昨日も追加で発注したところです。見込みより売れそうだって、上もこう言ってはなんですが舞い上がってます」
日本のクラウドサービスはまだ始まったばかりだ。実際、自分の会社内でシステムを運用しているところが大半だ。クラウドを利用することで維持費用や、データの災害対策、自動化による人員の削減などを前面に出してセールスしている。
「そういえば、いつ営業に転身したんです? 柳原さんって開発部にいませんでしたか?」
「今年の四月の組織改編と合わせて、かな。まさか、自分が開発したものを売りにいくとは思わなかったよ。おかげで、利用側の生の声を聞くことができるのは良かったかな」
「確かにそうですね」
そう言って口に手を当ててコロコロと笑う南沢。この南沢、その容姿で広報入りが確定したと言われるほど整っている。これまでまじまじと見たことが無かったが、なるほど納得である。
肩甲骨あたりまで伸びた長い髪は栗色に光っている。目は若干吊り目がちだが大きく、笑うと一気に人懐っこさを感じさせた。グレーのパンツに白のブラウス、ピンクのカーディガンはどちらかといえば機能性を重視した恰好で、腰の位置はあり得ないほど高くにある。今さらながら、この密室に二人だということを意識する。
そんな気を紛らわすかのように時計に目を落とす。守衛と話してから、まだ数分しか経っていない。こういうとき、時間の流れはひどく緩慢で長く感じられた。
「広報的には、再来月に行われるフォーラムが勝負です。たぶん、柳原さんもアサインされるはずです。オフレコですけど、今日明日にはお声が掛かると思います」
そんな思いを知ってか知らずか、南沢は言葉を続ける。時計から目を離して南沢に向き直ると視線が交錯する。
「プレゼンテータは?」
「司会は私ですが、メインは営業部長がされる予定で、簡単なプロジェクトチームが組まれます。開発と営業で資料とシナリオ、それからデモの準備です」
毎年行われる企業向けのフォーラムである。百を超える企業がブースを出展し、四日間にわたって開催される。この間、大小プレゼンテーションルームで、講演もあれば、新製品の発表も行われる。ここでの影響力は大きく、潜在顧客の発掘の場としても重要だ。
単語に反応して頭の中を知っている知識が顔を出す。そんなイベントもあったな、というくらいであるが。
「そりゃあ、忙しくなるな」
これからの柳原の苦労を思ってか、南沢が柔らかく笑った。
そこで再び、大きな揺れがエレベータを襲った。
「きゃっ」
南沢の声。
「大丈夫か!」
大きな何か遮られたかのように、一気に暗くなる。揺れはおさまらない。柳原は南沢の方に何とか近づき、へたり込んでいる彼女のその肩に手を載せる。南沢と目を合わせる。安心させようと、無理やり表情筋を駆使して口角を上げる。
さらに数秒の後、蛍光灯が消え、同時に揺れも静まってきた。
柳原は立ち上がり、今度は自身で守衛室へコンタクトを取るべく、暗闇の中、手を壁に這わしてボタンの位置を探る。ほどなくして見つけたボタンを押す。一秒、二秒、応答は無い。
「守衛室、聞こえますか! どうなってますか!」
声を荒げる。ボタンを連打して呼び出しを続ける。カチカチという音のみが返答を返してくる。嫌な予感が胸中を巡る。もしもこのまま繋がらなかったら……。
「携帯もダメです、圏外になってます」
足もとから南沢の小さな声が聞こえる。守衛室からは何の応答も無い。
外は暗闇で見えず、電気は消え、電波は外に届かない。通常、電気系統は正系がダメになった場合に備えて非常系統が起動される。それすら切り替わらないことは、ビル自体に重大な事象が発生したことを意味する。
カチカチと非常ボタンを押し続けたが、それは最早ただのボタンに過ぎなかった。
「大丈夫だ、後数分で業者が来るはずだ」
そう、守衛室には繋がらなくても、既に業者は向かっているのだ。何も心配することはない。そう自分に言い聞かせる。恐怖を理性で抑えつけるが、あまり上手くはいっていないようだ。
一秒が長く感じた。更に時間が経過し、目が徐々に暗闇に慣れてくる。
またいつ揺れが来るとも限らない。極度の緊張から、喉が詰まったような感覚が柳原を襲う。心臓が鳴りやまない、鼓動がやけに大きく感じられる。
そんなとき隣から、はっ、はっ、と南沢が小刻みに呼吸しているのが分かった。様子がおかしい、暗がりで見えずらかったが痙攣しているようにも見えた。その呼吸は更に速くなっていく。
過呼吸! ぱっと思い浮かんだ症状だが、実際に見たことがないため自信が無い。しかし、対処法はどこかのドラマで見た記憶があり、何とか手繰り寄せる。確か、紙袋か何かで自分の呼吸をそのまま循環させる、だったか。しかし手元にはちょうどよいものがない。持っているのは精々ハンカチ、ティッシュくらいである。
このままだと埒が明かないと判断した柳原はポケットからハンカチを取り出し、南沢の口に当てる。要は循環させればよいのだ、と思い込んでの行動だ。
「ゆっくり息を吸え、大丈夫だから」
肩を抱き、南沢を介抱する。体が熱い、汗も僅かにかいているようだ。服越しに触れた手がじんわりと滲む。
少しして、南沢の呼吸が落ち着き始めたのを見て大きく息を吐いた。まだ油断ができる状況ではなかったが、大事には至らないだろう。
『……ら……ない……』
そのとき、ノイズに紛れてスピーカーから音が漏れる。
――守衛室! 柳原は立ち上がり、スピーカーに向かって声を上げる。
「おい! 繋がってるのか! どうなっている!」
『……い……』
ぷつっ、という小さな音と共に声はまた聞こえなくなった。ボタンを押下しても無駄だった。
それから小さな震動が十数回あった。その都度、二人は体を硬くし、回を追うごとに口数も少なくなっていった。途中から数えるのは止めた。
今二人はエレベータの入り口を挟んで向かい合うように腰を下ろしている。
時間がどれほど経っただろうか。一日のようにも思えるし、一時間のようにも思える。外界から完全に遮断され、頭がおかしくなりそうだった。
「……あ、また揺れが来ますよ」
微振動を感じたのか、南沢がぽつりと言う。ああ、と柳原は返す。直後、揺れが襲う。一分ほど揺れが続く。いつまでこうしていればよいのだろうか、十分はとっくの間に過ぎ去っていた。
「なあ、南沢は結婚してるのか?」
「いいえ、彼氏も目下募集中です」
柳原も南沢も完全に気が滅入っていた。何でこんなことを喋っているかも、理解しないまま口に出している。
「そっか、もてるだろう?」
「全然、自分がもてるなんて思ったことないですよ。私、女子高から女子大のエレベータだったんですけど、合コンとか言ったことないんです。ずーっと、部活ずけだったんです。これでも弓道でインハイも出ましたし、インカレでも結構いいところまで行ったんですよ」
それに、と続ける。
「社会人になったら、仕事が面白くって」
毎年、会社ではホテルの大会場を借り切って新人の歓迎パーティが行われる。数年前のことだが、五十人ほど迎え入れた新人の中で、彼女だけが群を抜いていた。入社後、数多の声が掛っただろうことは想像に難くない。
「俺とかどうだ」
「いいですね」
その言葉には何の感慨も意味も込められていなかった。こんな状況ながら少し悲しくなる。
「でも今は止めておきます。ここから出ることができたら考えておきますね」
「ああ、快い返事を期待している。もし、ここから出ることができたら、だけどな」
首を横に捻る、エレベータの奥、ガラスの向こうは変わらず暗闇である。立ち上がり進むと手すりに手を掛け、奥を見通そうと目を凝らす。霧状の何かが覆っている訳ではなく、そもそも光の入らない空間の中に放り出されたように、何も見えない。上も下も、何も見えない。そこに空間が存在しているかも分からない。
「何か見えますか?」
「何も……いや、ちょっと待て、今何か光った!」
その声に南沢が飛び上がるように立ち上がり、柳原の横に並ぶ。身を乗り出し、目を凝らす。
「……っ」
大きく息を飲む南沢。柳原も目の前の光から眼を逸らすことができない。光は徐々に大きくなり、こちらに近づいてくる。
ぶつかる――!
「南沢!」
光がエレベータを飲み込むまで近づいたとき、柳原はガラスを背に南沢を抱え込む。あまりの眩しさに目を閉じる。瞼越しでも視界は光で満たされていた。その状態がしばらく続く。
どれほど時間が経過しただろうか、ようやく光がおさまったのを感じ、柳原は目を僅かに開ける。南沢の茶色の旋毛が目の前にあった。
目線を上げると、そこには、乗っていたはずのエレベータは存在しなかった。柳原の胸の中で小さくなっていた南沢を体から離す。黙って周りを見渡すようジェスチャする。言葉は出てこなかった。
南沢の目が見開かれ、そのまま地面に座り込む。何が起きたか理解していない表情。口を開いては、言葉にならない声を発する。
日光が燦々と二人を照らしていた。周囲にはビルなどなく、足元には膝下ほどの高さの雑草が茂っている。空気は澄み、遠くには山々が見える。それ以外には何もない。口の中がからからに乾く。ただ黙って周囲を見渡す柳原と南沢。
湿った、それでいて普段であれば心地よいと感じられる風を全身に感じる。海が近いのだろうか、と場違いなことを頭に思い浮かべる。
近くには人の影は見られず、動物もいないようだ。
しばらく事態を飲み込む時間をそれぞれ費やした後、顔を見合わせる。先に声を出したのは南沢だ。
「ここ、日本です……か?」
「いや……日本でこんな広大な土地に道路も畑も何も無いなんてないだろう、ヨーロッパとかアメリカじゃないか?」
「そ、それもそうですね。どうしましょうか」
それっきりまた口を閉ざす。柳原は答えに窮する。例えば山で遭難したときなどは、移動しないで救助を待つのが正しいとされる。果たして、このケースもそれに相当するのかは甚だ疑問だった。
空は蒼く澄んでいる。遠くの山にも道路が走っているような形跡は見られない。どう考えても未開の地である。当然、携帯電話の電波は入っていない。
スーツの内ポケットに煙草が入っているのを思い出す。
「タバコ吸っていいか?」
「えっ?」
こんなときでもエチケットとして聞いてしまうのは、社会人としての生活が長かったからだろう。
「タバコ、吸っていいか?」
言葉を理解したのだろう、南沢は頷く。一本取り出し、口にくわえ火を点ける。大きく息を吸うと、煙が肺に充満されるのを体で感じる。
「タバコ、吸われたんですね。知りませんでした」
「ん……ああ、社内だとあの狭い喫煙室だろう? スーツに匂いが付くのが嫌でな」
「あ、分かりますそれ。喫煙した人って近づくと直ぐに」
改めて周囲を見渡す。やはり草原しかなく、どこに行けば正解なのかは分からなかった。
その後、取りあえず移動する、という意見で一致した二人は歩き始めた。方角は分からないが、遠くに見えた山の方に向かう。
歩き始めて数時間。木々が茂る山のふもとに辿り着いた。柳原のシャツは汗で肌に張り付いていて、不快感を与えていた。南沢もピンクのカーディガンを片手に、柳原と同じような状態だった。
近くの倒木に向かい合うように腰を下ろす。柳原はシャツのボタンを外し風を中に取り込む。南沢は柳原の視線を気にしてか、そのままブラウスをパタパタとさせるだけだ。
柳原は一服しながら、口を開く。
「このまま、少し登って周りに何かないか確認しよう。できれば、暗くなる前までに安全な場所も確保しておきたい」
「パンプスで良かったです、ヒールだと絶望的なご提案でした」
口にゴムを咥え、髪を後ろ手にかきあげる。そのまま五秒と数えるまでにさっと纏めてしまう。実はさっきから首のあたりが蒸れてしょうがなかったんです、とほほ笑む。
「危ない!」
その時だった、南沢が柳原に抱きつき横に倒れる。それまで柳原の頭があった位置を矢が通り過ぎた。びゅっ、という音とともに矢が樹に突き刺さる。南沢の茶色の長い髪が数本空に散る。草木の蔭に隠れるように、矢が放たれた方向とは逆の方に移動を始める。大きな岩陰に身を潜め、そこから元いた場所の方に目を向ける。
さきほどまでいた位置より、更に遠くの場所に人影が見えた。木々に遮られ、さらに逆光になっているためよく見えないが、背格好から恐らく男だろうという推測はできた。一人ではない、少なくとも二人はいる。
いつの間に付けられていたのだろうか、見晴らしのよい場所だったため、誰かがいれば直ぐに気がついたはずだ。しかし、今はそんな悠長なことを言っている暇はない。
「逃げるぞ」
声を潜め、南沢に伝える。小さく首を縦に振る南沢。周りを見渡す、どこに行けばいい? 先ほどまでいた場所は論外。木々に囲まれてはいるが、それほど密集しているという訳ではない。このままここに留まっていれば、見つけられるのは時間の問題だった。
木々が深くなっているのは山の奥に上っていくしか道は無かった。どこか身を隠せる場所を見つけ、そこでやり過ごすのだ。迷っている時間はほとんど無かった。
腰を屈め、南沢の手を取って走り出す。恐らくこちらに向かってきているだろう男たちになるべく気取られないように、足音に注意しながら進んでいく。足場は決して良くは無かった。山道を走り慣れていないためか、思ったように足が前に出ていかない。地面に敷き詰められた枯葉は湿り気があり革靴の底を何度も滑らせそうにし、倒れた木や転がっている大きな石には何度も躓きそうになった。
後ろから追いかけられているという焦燥感から、視界が目の前の一点に集中し上手く周りを見渡せない。早く隠れられそうな場所を見つけなければ……。
恐らく距離は縮まってきているのだろう、後ろに追いかけてくるような気配を感じる。もしかしたら再び視界に入れられているのかもしれない。矢が飛んでこないのは単純に向こうも足場が悪い中走っているためなのだろう。一刻も早く振り切らなければならないと思いつつ、思うように動いてくれない自分の足を恨んだ。
走れ、もっと早く。やつらを振り切るのだ。
一瞬後ろを振り返ると、木々の挟間から男の影が見て取れた。やはり追ってきている。パッと見て三人の姿が目に入った。いずれも武装しているのが分かった。やはり追いつかれるわけには行かない。
南沢と繋いだ手が熱い。彼女を気遣っている余裕は無かったが、その強く握られた手が大丈夫だと伝えてくれる。木々を避けるようにジグザグに進む。汗が目に入って視界が歪むが、気にしている訳には行かない。
「急げ!」
勾配が僅かに急になってくるが、南沢を引っ張るように上へと走る。後ろ目に時折振り返りつつ一心不乱に逃げ続けた。
追いかけてくる男の数は三人。何度か振り返って確認したから間違いない。それぞれ背中に弓矢を背負っており、片手にはシミターに似た剣を持っていた。もはや相手の怒号が遠く聞こえるまで距離を詰められている。
足場が悪く、何度も躓きそうになりながら走る。南沢を擁する柳原が追い付かれるのは時間の問題だった。男たちの声が後ろ手に聞こえてくる。
とにかくがむしゃらに走った。ここまでくれば、見つかれば殺されるのは確実だと理解できていた。更に森が深くなっていく。彼らとの距離は目測で百メートル前後。二人の姿は彼らにはっきりと映っているだろう。
足もとの大きな倒木を飛び越えようとした時、南沢がつま先を引っ掛け転倒する。
――まずい、南沢を置いて逃げるか? 一瞬自問する柳原だったが、そんな訳にはいかない。繋いだ手を上に引っ張り起こそうとする。南沢が顔を顰めるのを柳原は見逃さなかった。
「挫いたのか、行けるか?」
肩で大きく息をする南沢。声を出すのも辛いのか、頭を大きく上下に振り答える。しかしそこから一歩踏み出したところで膝を付いてしまう。先ほど立ち上がれたことから骨が折れているということはないだろう、少し挫いた程度だと思うが直ぐに動ける状態ではないのは分かった。近くの木の下まで肩を貸し移動する。
南沢を木の陰に座らせると、そこから大きく迂回するように男たちに姿を晒す。自分が相手を少しでも引きつけて、その間に奥の茂みまで移動させるのだ。
そして男たちに追いつかれる。距離はまだ五十メートルほどあったが、表情が見られるまでには近づいている。下卑た表情を浮かべているのが分かり嫌悪感を抱かせる。
「止まれ! 何が目的だ!」
駄目でもともとだと思いつつ、柳原は声を上げる。案の定、それに応える男たちではない。南沢を視界の端に捉えつつ、男たちと対峙する。まださきほどの位置からそれほど動けてはいないようだ。半ば這うように手も使いながら移動している。
顔は男たちに向けたまま、目だけを周囲をぐるりと見渡すように動かす。武器になるようなものは無いか、逃げられる場所はどこかにないか。男たちは相手が観念したと考えたのか、ゆっくりとした足取りで向かってくる。
足元に恐らく木の枝だろう、それなりの太さのものが落ちている。中腰になり、その手に木の枝を収める。運がいいことに、それは長さ一メートルほどの枯木の枝だった。それを正面に構え、男たちが向かってくるのを見据える。左右からそれぞれ一人ずつ。後方に一人という布陣でじりじりとすり寄ってくる。
合図を送りあっているのが分かったが柳原は何もすることができない。男たちは頷くと、一気に距離を詰めてくる。最初に左手から、次に右手からやってくる。
どうすればいい――答えは出ない。三人を相手に勝てる自信など微塵も無かった。こんなことなら武道を習っておくべきだったかと一瞬後悔するが、それで事態が好転するわけではない。すぐに頭の隅に追いやった。
再び背を向けて距離を取る。同時に一人ずつが鉄則だ、ちょうど一人ずつ対峙できるように移動する。間違っても直接やりあってはいけない、南沢が完全に視界から外れるまで時間が稼げればよいのだ。一人なら何とか振り切れるだろうという目論見である。
詰め寄ってきた左手の男が大きく振りかぶる。大振りなその構えは素人の柳原でも軌道が何となく予想できた。その剣が振り下ろされる瞬間、柳原は大きく後ろに飛びのく。目の前を刃が通り過ぎる。元々大きな剣ではないため、男は姿勢を崩すことなく、そのまま今度は切り上げるように大きく踏み込んでくる。
柳原は上体を逸らし、その手に構えた木の枝を男に向かって突き出す。男の切り上げたシミターの切れ味はそれほど良くないのか、振り切られることは無く、刃は木の枝に大きく食い込んで止まった。
柳原は木の枝から手を離す。男は食い込んだ刃を取ろうとしたが思いのほか深く入り込んでいたらしく、その場に剣ごと放り投げた。それでも相手には弓矢があるのだ。
南沢の方を見やる。木々の向こう、茂みの奥から小さく顔を出した彼女が映る。自分を小さく指さし、その後奥へと指を移動させる。その指は更に下に向かって伸ばされていた。この先に行くということ、恐らく急斜面になっていることを伝えたかったのだろうか、確かにこの場から逃げ切るには飛び込むくらいのことはしないと難しいだろう。親指を立てることで了承の意を返す。南沢は茂みに隠れて見えなくなった。
男たちからは南沢は見えていないのだろう、柳原をまずはターゲットとして動いているようだった。
後は何とかこの場を凌いで茂みに向かって飛びこむだけである。先ほどまで晴れていた空は、暗い雲に覆われ始めていた。木々の間から入ってきていた光が、急に雲にさえぎられ一気に暗くなっていく。
対峙する男が一歩踏み出す。柳原はそれに合わせて一歩下がる。腰を低くし、直ぐに動ける体勢を整える。柳原の手に武器はない。武道の経験は無いが見よう見まねで、半身の姿勢を取り、右手の拳を強く握り締める。
柳原を殺した後、南沢が見つかれば間違いなくこの後男たちに乱暴されるだろう。横目に彼女が潜んでいる茂みを見る。ここからざっと三十メートルほど、全力疾走して十秒も掛からない距離だが、弓矢で狙って放つには十分な時間だ。さっと周りを見渡すが、鬱蒼と繁る木々をどのように走れば安全かは直ぐに判別はできなかった。だが、それでも行くしかない。
直後、前に対峙する男と、右手から同時に男たちが切り掛かってくる。柳原は大きく息を吸い込むと、スライディングの要領で、目の前の男に向かって飛び込む。先ほどまで柳原の頭があった位置を、刃が空振りする。柳原の前方に突き出した足は、男の脚を刈り取り転倒させることに成功する。
そのまま立ち上がり、蹲っている南沢のところまで走り抜ける。一秒が長い、転倒した男はすぐに向かってくるだろう。一人は矢を構えて狙っているに違いない。射られないように木々をなるべく射線上に置くように走っていく。
後ろをちらりと見ると、まさに矢が放たれる瞬間だった。身をかがめようとして、そのまま地面に転がる。
「柳原さん!」
南沢の声が響く。後十メートル。男たちは矢を構えては順次矢を放ってくる。姿勢を崩しながらも何とか立ち上がり、南沢の方に向かって一気に走り抜けた。
「行くぞ!」
無理やりに立ち上がらせる。小さな呻き声と共に南沢の顔が僅かに歪んだが、この際死ぬよりはましだと自分に言い聞かせる。
この先はさきほど南沢が示した通り、崖に近い急斜面であった。ここを行くしかない、追ってきたとしてもどこで止まるかは分からないのだ。飛んだ先に最悪のケースも考えられたが、いずれにせよジリ貧である。意を決して、飛ぶぞ、と目の前の急斜面を指すが早いか、南沢を抱き締めるように抱えると左足で大きく地面を蹴った。
傾斜が大きく姿勢を保つことができなかった。そのまま転がり落ちる二人。傾斜は五十度近くあるだろう、ほとんど絶壁に近い。細かい木々や草が二人に細かい傷を付け、服に血を滲ませる。三十メートルほど落下したところで、運よく緩やかになった坂に差し掛かった。スピードが僅かに緩み、そして大きな木に衝突した。南沢を抱え、背中に大きな衝撃が柳原を襲った。かっ、と声にならない声を出す。脳天まで一気に電気が走ったかのような感覚。視界が白く染まっていくのを感じたが、直ぐに痛みで引き戻される。もしかしたら折れているかもしれない、と思いつつ、ジンジンと訴えてくる背中の痛みは幸いなことに表面的な痛みであった。木の表面が僅かに湿っていたこと、スピードが緩んだことが幸いしたのだろう。
痛む背中を無理やり意識で押さえつけて上を向くと、男たちが二人を探しているのか、崖下を覗き込んでいるのが見えた。大きく影を落とした場所のためか、こちらの姿は相手には視認されていないようだった。彼らはそのまま降りるか逡巡しているように見えた。このまま立ち去ってくれ、そう柳原は心の中で祈った。
少しばかり身を潜めていると、雷鳴が遠くに聞こえた。同時に、豪雨といって差し支えないほどの雨が一気に降り始める。地面にぶつかった雨が跳ね返り、辺り一面が霧に覆われたかのように、視界が更に無くなった。地面がぬかるんでくる。
雨に打たれて体温が下がっていく。暗がりの中、何とか近くの大木の側に身を寄せた二人は向かい合って大きく息を吐く。しかし、このまま追っ手が来ないとも限らない。
周りを見渡すと、そこだけ大きく暗闇が広がっている空間があることに柳原は気付く。
「南沢……あそこ」
指を指し示す。
「肩を貸す。もう少し歩けるか?」
その言葉に南沢は軽く頷くと、引き摺りながら歩き始めた。雨で視界が確保できない中、何とか二人はたどり着く。
そこは、奥行き二十メートル程もある洞窟に相違なかった。柳原はライターを手に、乾いた木をまだ濡れていない場所から取ると、火をつける。南沢を火の近くに座らせると、再び外に出て、入り口がそれと分からないように木の枝と落ち葉で偽装した。
「しばらくここでやり過ごそう」
柳原はシャツを脱ぎ、火の近くに広げる。南沢は一瞬戸惑いの表情を見せたものの、自らもブラウスを脱ぎ、同じように地面に広げた。濡れて肌に張り付いたキャミソールは羞恥からかそのままである。
「足、大丈夫か?」
「まだ痛みますけど、大丈夫です。それより柳原さんこそ大丈夫ですか?」
「俺も似たような感じかな、痛みはするが何とか大丈夫だ」
お互い怪我をしているができることは無い。日本で生きてきて、こんな状況を想定した勉強などないだろう。一般教養として書面で見たとしても、実践などそれこそ経験する術がないのだ。
その言葉を最後にしばらく無言になる。火の灯りもあって、目が徐々に慣れてくる。雨はまだ止まない。先ほどより雷が落ちる頻度が多くなっている。この状況下を推してまで男たちが追ってくることは無いだろう、柳原はそう自分に言い聞かせる。
体が異常に重く感じた。時間にして十分に満たない程度であったが、生まれて初めて死に晒されたのである。
彼らの服装は、原住民のそれでは無かった。文明の形跡が確かにあった。持っていた剣も石を研いだようなものではなく、きちんと職人によって打たれたものであった。日本ではありえない、海外でも、恐らくありえないだろう。それでは、ここはどこなのか、というと分からない、というのが柳原の出した結論である。
南沢を見ると、彼女は自分の体を抱えるように小さくなっていた。寒さだけではないだろう、震えを抑えきれない様子だった。俯いた顔の目元には涙が滲んでいるように見えた。何かしゃべった方が良い、そう考えながらも柳原は口に何かを出そうとし、その都度言葉を飲み込む。何を言っていいか分からなかった。しばらく二人は火を中心に向かいあったまま黙っていた。
考えが纏まらない。ここはどこなのか、彼らは何者であったのか、自分たちは帰ることができるのか、これから何をすべきなのか、柳原の頭の中を色んな考えが巡る。
「プレゼン、明日だったんだよ」
南沢は顔を上げ、言葉の意味を頭の中で咀嚼しているようだった。
「これが決まれば、今期の予算は達成できたのにな。まったく、ついてないというか……」
口をついて出たのは、他愛も無い話。南沢を安心させるべきなのは分かっていたが、同時にそんな甲斐性がないことも分かっていた。南沢は引き攣りながらも口角を上げ、僅かに笑顔を作ることに成功したようだった。
「それは残念でしたね。予算を達成したら期末にパーティがあるのをご存知ですか? 広報は社内報っていう特権でお呼ばれされるんです」
「ああ、配属のときに部長に発破掛けられたよ。目下、五期連続で達成中の上、新しい商品まで開発したのに未達成はありえない、とね」
「高嶺さん、厳しい方ですからね。目に浮かびます」
南沢はそう言って力なく笑う。
「あの人、広報にも結構口を出してくるんですよ? うちの部長と仲がいいのもあってなんでしょうけど、現場からすれば引っ掻き回されるばかりで大変なのです」
柳原はその光景がありありと浮かんだ。本来ならば、今頃は高嶺と打ち合わせを終えて、一杯飲みに行ってるところだ。ほんの数時間の出来事なのに、それがひどく昔のように感じた。
前髪から水滴がぽつぽつと落ちてくる。柳原は髪を後ろに流す。前髪で僅かに遮られていた視界がクリアになる。
改めて向かいに座る南沢を見る。薄い黄色のキャミソールに、灰色のブーツカットのパンツは裾が泥に塗れている。柳原と同じく、濡れた髪の毛は、後ろで一本に纏められている。どうしました? と言っているような顔をして、首を少し傾ける仕草を取る南沢。
「早く、帰らないとな」
柳原はぽつりと言った。




