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身を小さく屈めて、彼は息を殺していた。その手には刃渡り二十センチほどのナイフを握り締めている。握った手のひらには薄っすらと汗が滲んでいたが、ゴム製の持ち手はそんな手もしっかりとグリップしてくれている。問題ない、自分はやれるはずだ、と心に言い聞かせた。柱の影に小さくなった彼は、綺麗に刈り揃えられた庭の一部に同化していた。
王城の一階の庭先である。王城の周囲は定期的に見回りがやってきているが、完全に闇に同化した彼を誰も見つけ出すことができなかった。この周囲には、彼と同じように身を潜めた男が三人いる。お互いに連絡しあうことはできなかったが、誰か一人でも目的を達成できればそれで良かった。
昼間は人が多く来るため警備も大人数なのであるが、日が落ちて暗闇に染まった時間では、昼間より僅かに警備の数が少なくなる。十分に一回のタイミングで、二人一組の警備が決まったルートでやってくる。巡回のタイミング、ルートは既に仲間が調べ上げ済だった。どこの街にも一人や二人、情報屋はいるのだ。幾ら積んだらこんな情報が手に入るのかは分からなかったが、今はその情報の正確さに感謝するばかりだ。
このときのために、心の中で時間を正確に刻む練習をしてきたのだ。身を潜めながら、小さな砂時計を脳内に描く。一つの時計が落ちきるまで三十秒、合計二十本の時計が無くなれば、次の巡回が来る、という寸法だ。
十九本目の時計が全て落ちきったところで、息を完全に殺す。柱を挟んですぐの距離を警備が通る。彼らもプロである、足音はほとんど立てず、いつでも迎撃可能なように周囲に気を張らせて歩いてくる。
これから行うことに心が高揚する。
警備の人間には何の恨みも無いが、この国の更なる発展のための礎となるのだ。大義の前に、人一人の命など蟻にも等しい。
忍び込んでから、五回目の巡回が通り過ぎたところが、開始の合図である。次の二十本目の時計が落ちたところで、数え始めて丁度百本目、即ち行動を開始するときが来たことを意味する。
王城を巡回する警備は、二人のペアが四組、それが時計回りに動いている。彼と三人の仲間が彼らを同時に始末し、内部に忍び込む。王城の見取り図も入手済だ。警備の詰め所は王城の一角を占めているが、場所としては一階の入り口の脇にある。今回潜入する入り口は、そことは対極の方向に位置する勝手口である。普段は料理人がゴミ捨てに利用するそこは、正に警備の穴と言ってよいほどに絶好の場所だった。そこから先の警備はごく僅かだ。王の寝室前に常時二人、内部を巡回する警備は総勢でも十人程度だ。この広さから考えると、彼の目から見ても杜撰としかいいようがない配置だ。
今回の目標は王ではなく、その側近、星詠みと宰相である。この国を腐敗させ、権力を意のままに操る彼らを葬る。
彼は農家の出身だった。長男に生まれ、弟が二人、妹が一人の四人兄弟だ。成人するとき、祝いのために普段目にすることができないほど高級な酒を振舞うのがこの一帯の慣わしだ。あのときは下の弟が成人を迎えるにあたって、両親と妹が街に買出しに出かけ、そして帰らぬ身となった。
星詠みが来てからこの国は変わってしまった。これまでの国は、税もそれほど取られず、一家は笑って暮らすことができていた。祝いの酒も最高級のものを買うことができた。それが今や、酒一本買うにも困窮する有り様だ。せめて成人のその日だけは、ということで彼自身も街に出て日中問わず働いてきたのだ。
確かに街は発展の一途を辿っている。多くの国を侵略し、国力を拡大し、街には笑顔が溢れている。その見えないところで苦しんでいる誰かがいるなど考えも及ぶまい。街の人間から見れば、正に栄華を極めつつあると捉えられるだろう。いつかはと夢見ていた南統一も、今では目標に変わっている。
当然、周辺の国との軋轢も大きくなっていくのは自然の流れだった。街には警備のための人間が増え、王を狙った爆破事件もそれなりの数が上がっている。王は決して屈せず、逆に民衆を扇動するかのように立ち回り、そして侵略を繰り返して国土を増やしているのである。
彼の家族は、いつもの酒屋の帰り道、王の戦勝パレードに仕掛けられた爆破に巻き込まれてしまったのだ。爆破はそれほど大規模なものでは無かったが、運が悪かったとしか言いようが無い。この件で警備を任されていた隊長格の人間が斬首に処されたが、それで溜飲が下る訳は到底無かった。
これも全て星詠みと、国の進むべき道を一手に引き受ける宰相の所為である。戦争などやらないに越したことは無い。彼と同じ悲しみを他の人に味わわせてはいけない。
彼と同様の思いを持つ者たちがこの国には着実に増えている。国がかつてない程栄える一方で、やはり不満も目に見えない形で増殖しているのだ。
ある日の酒場で声を掛けられた。この国は間違っている、一人でも多くの同志が必要だ。そう言われたとき、心に燻っていた何かに火がついた。胡散臭い五〇代の男だったが、その理念は大きく、星詠みに代わって送り込む要員とも面会することができた。
民あっての国である。決してそれは逆転してはいけない。朗々と語る要員の言葉は彼の心を一直線に射抜いた。
そのときから半年、死に物狂いで訓練に励んだ。剣の扱いから爆破物、薬物に至るまで作戦に必要なあらゆるものを習得していった。そのおかげもあって、今回の任務では四人の先鋒隊の一人になることができたのだ。
全ての民に代わって正義を遂行する。この国は今日という日を契機に大きく舵を取ることになるだろう。
百本目の時計が完全に落ちきった。柱から小さく顔を覗かせると、警備の二人の背中がはっきりと目に映る。自分はやれる、そう強く信じて茂みから立ち上がった。
手の汗は完全に引いていた――。