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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

空母能登、レイテへ突入せよ!

架空戦記創作大会2014参加作品です。

本当なら航空戦艦を書きたかったのですが、航空戦艦はなかなか活躍させようにも現実的ではないので正式な空母に変更しました。


現在、少しずつ文章修正中。航空魚雷については桜紅葉さんのご指摘に感謝いたします

1944年6月24日

マリアナ沖海戦が終わりをむかえた日、3隻の空母がそれぞれ呉、横須賀海軍工厰と長崎造船所で完成を迎えた。


一番大きいのは能登と言い、戦前に赤城等が事故で失われた際に備え、山本大将肝煎りで大和型5番艦を改造する様に命じた艦で、搭載機には空戦機動に特化した紫電改や空戦フラップに穴をあけてダイブブレーキにも出来るようにして戦闘爆撃機にも使える最新鋭戦闘機烈風12型に加え急降下及び水平爆撃、雷撃、更には最低限の空中戦も出来る流星攻撃機と索敵用の偵察機彩雲を採用し、ミッドウェーの悪夢を教訓にして飛行甲板に厚い装甲を敷き詰め、側面装甲も戦艦と巡洋艦の中間位の厚さを持ち、大和型譲りの莫大な予備浮力を持つので絶対に沈まないと言われる装甲空母と称されている。

もっとも雲龍は能登と異なり、蒼龍の搭載力をやや低下させたが、蒼龍でネックであった防弾性を強化した主力空母を補佐する大量配備型空母とされ、設計元の蒼龍型を単純化させた生産し易い構造から開戦の半年以上前に建造が開始、赤城などの4空母を喪失したミッドウェー海戦直後に就役したのである。


1944年8月

横須賀でソロモン海戦の傷が癒えたばかりの比叡と霧島の見学を終えた直後に最新鋭空母である能登を見た小沢治三郎中将は「コイツの初陣が死に場所になるとは思うが、私は全力を尽くしてみよう」と呟き、比島決戦に備えて訓練を開始した。

現在、残存する稼働可能な空母は瑞鶴と何とかマリアナを生き延びた翔鶴に千歳及び千代田、瑞鳳、それに完成したばっかの能登と蒼龍改型の雲龍、巡洋艦流用型の伊吹のみである。

これらは囮としてと出撃せよと命令が下るが、この前、連合艦隊司令長官宇垣纏大将は海軍丙事件で消息不明になった栗田健男に代わり第一遊撃艦隊を指揮する事になった西村祥治中将に加えて旗艦武蔵艦長と艦隊砲術参謀を兼務する猪口敏平少将から"防空戦闘機なき艦隊を危険に曝すのは反対だ。出撃するなら防空用空母を寄越せ"と言われ、渋々それを承諾し、雲龍と能登を西村艦隊へ提供したのである。


だが、西村は2隻の空母と引き換えに兵学校の先輩小沢治三郎中将と後輩松田千秋少将の両名が率いる第3、4航戦に防空能力に長けた重巡摩耶を提供、更には同期の志摩には扶桑を提供し、栗田がたてていた別動隊を出す計画を無しにし、別動隊は小沢空母艦隊のみとなった。


同年10月21日、ブルネイ出撃

駆逐艦陽炎艦橋

「なんだ!?あの轟音は!!」

ある見張り員がそういうと

「重巡衣笠、足柄、高雄に被雷!!」がもう一人の見張り員が叫ぶ。


魚雷が直撃した3隻の内、衣笠が瞬く間に沈没し、足柄は機械室浸水により不知火、浜風によって護衛されて戦線離脱。だが高雄に命中した魚雷は運良く不発で終わり、なんとか戦列に残れた。


能登電測室

「目標感知!2時の方角、距離約60(km)!」

電測員の大宮二等軍曹がそう言うと電測長の北川辺大尉は伝声管に対して「敵機襲来!2時の方角!距離60!」と叫び、甲板作業員たちは零戦の発艦に備える。

同様に前を進む戦艦11、重巡14軽巡2駆逐艦24からなる西村艦隊の主力も対空戦闘に備えて高角砲が天を仰いでいた。

それと同時に陸上基地所属の多数の紫電戦闘機と陸軍の四式戦闘機(キ-84疾風)が次々に艦隊上空をフライパスし、各艦の乗員はそれに手を振る。

既に熟練操縦士が減りつつある帝国陸海軍の戦闘機部隊だったが、紫電と疾風はその頑丈さを生かし、敵戦闘機を上手く吸引して、攻撃隊本隊に新米操縦の零戦を突入させる事に成功し、後述の通り撤退した空母能登ではあったが搭載戦闘機の一部は艦隊防空に出撃し、米空母の攻撃を頓挫させたのである。


因みにこの時、能登と雲龍は戦艦陸奥と榛名と少数の護衛艦を従え、搭載機の被害を防ぐべく一時的に空襲圏外へと離脱し、空襲後の夕刻に再度、合流している。


翌朝も会敵は無かったが、エンガノ岬の小沢艦隊に敵艦上機部隊が向かっている報告を聞き、上手くいっているとわかり西村は満円の表情である命令を下した。

「天祐を信じ、各艦突撃せよ」

武蔵のマストにはZ旗と非理法権天の幟が掲げられ、戦後判明した資料によると煙突には菊水マークが書かれていたと言う。


彩雲の報告をまって遂に連合艦隊はレイテ湾へと突入したのである。

上空ではエンタープライズなどから飛来する敵攻撃隊と能登戦闘機隊が丁々発止の空戦を繰り広げ、雲龍の攻撃隊は決死の低空飛行でアイオワなどの戦艦に狙いを定めた。

撃墜される僚機、射程距離でも無いのに下る発射命令。混乱する攻撃隊。だがある流星が放った魚雷がアイオワの船体中央部に命中するとアイオワは少し速度を落とし、その魚雷を放った流星がアイオワのやや手前で機銃弾によって砕け散り、電子機器を破壊する。


そして戦艦同士の砲撃が始まると最初は管制レーダーによりニュージャージーら米戦艦優位だったが、猪口艦長率いる武蔵が損傷により不調なアイオワに直撃を浴びせると同艦は艦橋を破壊されて、速力低下に伴い戦列から落伍していく。むろん、猛将ハルゼーがこれを黙ってみているわけもない。



彼はすぐに武蔵に対して砲撃を集中するように命じたが、これも西村の策略であった。

西村は武蔵に対して砲撃を集中させている間に既に壊滅した小沢囮艦隊の残存戦力に能登と雲龍を託し、能登と雲龍の搭載機の内、21機の戦闘機と36機の急降下爆撃・雷撃機を残し撤収していた。

無論、この部隊は獅子奮迅の活躍を見せ、34機の犠牲と引き換えにボルチモア級巡洋艦3隻、ブルックリン級軽巡2隻をなんとか撃破し、多数の駆逐艦に損傷を与え、水上部隊と協力して戦艦アイオワを最終的に撃沈に追いやった。


ニュージャージーは空母を後方へ下がらすように命じたハルゼー大将の命令の元、西村の乗る武蔵以下連合艦隊へと突撃するが、大和、信濃が武蔵と共にハルゼーの乗るニュージャージーを滅多打ちにして撃沈、武蔵はこの戦いで深手を負い、速力などが低下したものの、史上最後の戦艦決戦を見届けたいと意思を持っているかのように空前絶後の巨大戦艦は艦隊最前列を不屈の闘志で進み続ける。

10月24日正午、米戦艦の攻撃を一身に受け続ける武蔵から歴史的な命令が西村中将から下った。


これが武蔵からなされた最後の通信であった。


「我、損傷甚大也、各艦は本艦を顧みる事無く敵艦隊を殲滅せよ!!」と命令を下し、武蔵は傷付きながらも艦隊の前を進み、多数の敵戦艦と砲火を受け止めて、轟沈した。なお、西村祥治連合艦隊司令長官と艦長の猪口敏平少将は自らの乗艦である戦艦武蔵と運命を共にして戦死。ニュージャージーに乗艦していたブルことハルゼーも同じく壮絶な戦死を遂げたのであった


後年、西村は恐るべき猛将と称えられ、武蔵艦長猪口敏平も西村と同じく勇猛なる将官であったと言われたが、武蔵を沈めた。その事も疑問視された。

(因みに武蔵とニュージャージーは2017年5月の海底調査で発見されている)


さて、それはともかく傾斜しつつある武蔵を追い越した連合艦隊と燃え上がり沈みゆくニュージャージーの残骸を追い越した米艦隊は激闘を繰り広げ、かくて激闘により主力部隊の戦艦金剛、榛名、霧島、志摩艦隊の旗艦扶桑等が武蔵に続くように落伍するが、大和、信濃、長門、陸奥、比叡、山城の勇戦によりウィアリス・リー中将の乗る戦艦アラバマ以下、ノースカロライナ、インディアナがアイオワに続いて次々と戦列を離れ、残ったマサチューセッツも大きな損傷を被るが、この時点で信濃に陸奥と山城も大破する被害を蒙り、戦列を離脱したのである。


艦載機を陸上に基地に下した能登はこの海域にとどまり、敵味方両軍の沈没艦艇から乗員を救助した駆逐艦から彼らを巨大な格納庫を用いて収容し、治療などを施していた。


ともかくこの時、能登は空母の災害時での有用性などを示し、戦後の空母運用時に災害派遣と言うものが加わるなどの戦訓を生み出したのである


一方、損傷軽微で済んだ大和、長門、比叡は、長門座乗の西田正雄中将の指揮の元、輸送船団ひしめくであろうレイテ湾への突入を考えたが、西田は能登の彩雲による偵察結果をこの海域で待ちながら待機を続けた。後に西田ウェイトと米側から言われた謎の待機行動である。


目標であった米輸送船団はハルゼーの戦死と彼が率いる機動部隊の護衛の戦艦や巡洋艦が甚大な被害を受けて退却しているとの報を聞きすでに北東へ離脱していたが、その最中にタイ駐屯の日本陸海軍の陸攻隊に所属する偵察部隊の九七式大艇がそれを発見し、基地へ通報。かけつけた陸軍4式重爆と海軍1式陸攻は多大な犠牲を払いつつも魚雷多数を放ち、輸送船2隻、護衛の駆逐艦3隻を撃沈し、護衛空母2、軽巡1隻を大破させる戦果を挙げ、恐れをなした輸送船団はインド方面へと退却していったのである。


最終的に沈没した艦艇は日本が空母4、戦艦2、重巡3、軽巡1、駆逐6に対し米側は空母1、戦艦1、巡洋艦5、駆逐8、輸送船多数と日本側より大きな被害を受け、この結果を聞いたニミッツ大将は責任を取って辞職。戦争の継続をを望む大統領に抗議の意思を見せたのである。


一方、作戦の失敗とハルゼー大将が死亡したとの報告を伏せられていたフランクリン・D・ルーズベルト大統領はハルゼーを呼び出せと叫びながらホワイトハウスの執務室で机を拳で叩き付け、机に置いてあった地図に向かって鉛筆を投げつけるなど発狂していた。そしてキングからハルゼーの死を伝えられると、ルーズベルトは胸に手を当てて苦しみだした。


心臓発作を起こした大統領に部下が応急処置を施すが、彼はそのまま帰らぬ人となったのである。同日中に彼の後任となった反ソ連で、ソ連と組むくらいなら条件付きで日本と講和したほうが遥かにマシだと考えていたトルーマンはすぐに交渉を始めるように命じ、同じく東京でも東条英機首相の後任で、対米強硬派と言われる嶋田繁太郎首相を海軍の井上成美及び陸軍の栗林忠道両中将の部下たちである陸海軍の知米派将校が島田繁太郎私邸を襲撃し、拉致。それによって無理やり引き摺り下ろし、その将校たちから新たに首相に指名された栗林陸軍中将と外相と海相を兼務する井上成美海軍中将はすぐに米政府宛にお悔やみの電報を送り、スウェーデンのイェーテボリで対米停戦交渉を開始するように命じたのである。11月15日、対米停戦条約が発効。日米は停戦を迎えたのである。


なお、嶋田繁太郎はクーデター首相と言う事や、様々な悪行が公にされ、前代未聞の不名誉退役とされ、軍法会議にかけられ、有罪となり全ての勲章をはく奪されたのである。


そしてその1か月半後である45年1月1日、日米は正式に戦争締結式をハワイで行い太平洋戦争は終結したのである。


太平洋は平和な海に戻ったが未だに不透明な北方からの脅威に備えて能登は新たな近代化改修を施すことになったのである。


一方、ルーズベルトの死と日米講話の噂を聞き、全欧州をいまだ支配し続けているとは言え、ベルリンへの空襲を恐れてミュンヘンへの遷都を終えて新総統地下壕に逃げ込んだヒトラーは怒り狂い、それを嘲笑うかのようにモスクワのクレムリンではスターリンがたちの悪い笑みを浮かべていたのである。


史実と異なり未だに一進一退の東部戦線が続く中、スターリンに対してヒトラーの計画した極秘反撃計画が始まろうとしていた………

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― 新着の感想 ―
[一言] 島田繁太郎ではなく嶋田繁太郎だと思います
2016/04/02 00:46 勇者ああああ
[気になる点] 説明ばっかりで戦闘状態が全くわかりません。 これでは小説というより戦闘詳報に近いかと。 それに航空魚雷に酸素魚雷は使われなかった筈です。
2015/08/09 15:38 退会済み
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