八話『紳士』
件の童貞発言にはご立腹の涼は声を荒らげていた。
「お前、思っててもそういうことは言うなよっ」
事実かどうかはひとまず置いておくが、これに対する反応が大きかったのは妖精ではなかった。むしろこれに関しては静かなものだ。
彼の頭の中でどういう思考回路が繰り広げられた結果この形で空気を読んだのか、妖精のアホみたいに半開きっぱなしの口が開かれないとなると、条件的に反射作用を示す人物が他にいる。
「えっ? 私、何か言ってた?」
目を丸く呆然としているのは、他ならぬ涼の恩人。
何か会話がかみ合わない原因は、完全に彼女は不可抗力だったらしい。
「あっ。言い忘れてましたガ、ワタシの声や姿を聞いたり見たり出来るのハ人間サン以外に居ない設定デース」
「そういうことは先に言えよ……」
つまるところ、彼女の目には一人奇声を上げてるようにしか見えていなかったということである。
どういう原理が働いているのか、解明しようとするだけ時間を無駄にしそうな疑問には触れないでおこう。
まんまとご都合主義の設定に翻弄されて、何となく恥ずかしくなった涼だった。
その設定がなければ危うく涼の最重要機密をリークされるところだったと思うと肝が冷える。
◆
どれだけの時間を気絶していたのか涼は知らないが、陽はまだ明るい。
そもそも涼はこの世界でどれだけの時間を過ごしたのか、どれくらいの時間から居るのか、ことこの世界の時間という概念に関して一切の情報を持ち得ない。これまで異世界に連れられた一驚に気にすることもできなかったが、改めてお天道様を見上げてみる。
丁度、正午くらい、陽が真上に昇ったくらいだろうか。
そんな時間を狙いすましたような話題に、涼のトークスキルが炸裂する。
「――見た感じ何も物を持ってなさそうだし、まだお昼ご飯食べてないんだよね?」
「えっと、はい……そう、っすね。です……えっす……」
この世界に来て、というより、涼がこの世界に来るきっかけとも言えるあの妖精さん育成キットの包装を剥がす前にヌードルを食して以来、思えば何も口にしていない。
朝食改め昼食のつもりだったあれは、あくまでも涼の中では朝食だった。感覚的には朝食べて、昼を飛ばして、晩は食う。正に金の無い人間の食生活を全うする涼が、彼女の質問を肯定するのもやぶさかではないのだろう。それでも二食の生活を続けているだけましだと自分には言い聞かせている。
敢えて注釈するが、飯にありつこうと同情を誘おうとしているわけではない。あまりの運動不足故に、蓄積された疲労の分だけ余計に時間の浪費を体感している。疲労が空腹に直結し、すきっ腹を実感せざるを得ず、結果的に彼女の気遣いを素直に頷くしかなかった。もはや遠慮も糞もない。
彼女は何やら手元でガサゴソと忙しなく手を動かし、葉に巻かれたような小包を取り出す。
「……そしたら、はいコレ! 旅のお共におにぎりは必須だよ!」
涼の中でにぎりとむすびの差は明確ではないが、丸型の小包をむすびという認識で受け取った。細かいことは構わないが。
元々常に空き気味の腹に相談したところ、食料にありつける機宜を逃すという選択肢はない。
何より、彼女が握ったと妄想するだけでそれはもう垂涎必至だ。
「あ、あざっす……っす……どーも……」
安定の口ごもりである。
簡単に礼のひとつも言えないのが涼クオリティだ。猿が相手でもどもるのではなかろうか。軽く重症かもしれない。
それはそれとして、彼女の爆弾発言に、涼の中で妄想がエラいことになっている。エロイことになっている。
「でも……食べかけだけど、我慢してね?」
「なん……だと……?」
それはもう舐めるようにむしゃぶりつかなければ遠慮するよりも逆に彼女に失礼だろう。紳士として。
結果的に涼が取る行動は一つ、葉の包をひん剥くように引き裂いて舐め回すしかない。彼女が握って彼女の食べかけという事実は、おにぎりとしての価値以上の意味を持ち得る。食べ物の人知を超えた何かだ。無論性的な意味で。
ただのお米にこれほどのエロスと色気を感じるのはもはや涼以外に居るものか。一口二口ほど齧た跡の残る三日月形というべきか、おにぎりの輪郭がとんでもなくセクシーである。
涼は人生でこれ以上にない食べっぷりで勢い良く頬張り尽くし、可能な限り舌で米のひと粒まで舐め転がしながら咀嚼した。手の抽出エキス的な部分まで味覚をしっかりと感じながら喉を通す。当然それだけがっつけば喉に詰まる危惧もあるのだろうが、涼はそれ以上の至福と快感を手に入れるのに必死だった。
妖精界にも変態は居た。完膚なきまでのまごうことなき変態だった。誰もが憧れるだろうこのファンタジーな異世界に涼という存在は不釣合いか、この世界において涼はファンタスティックだ。ファンタジスタだ。
あらゆる勘違いを素通りして、彼女はそんな涼の姿を嬉しそうに眺めている。
「そんなにお腹がすいてたの? 何か、作った甲斐があったって言うのかな。そんなに食べてくれると、私としても嬉しいかなって」
この微笑みにはさすがの変態も手を止めざるを得ない。
悪魔の如き変態とは対局の天使の微笑みに、人間としても恋的な意味でも落ちるところまで落ちた音が涼の中に響いた。
「でも、ちゃんと食べないと行き倒れるのも仕方ないよ」
軽くセリフを弄って脳内変換でもすれば実家に帰らない息子の気分になれそうだ。よもや異世界に来てまで母親の温もりを感じようとは、やはり母は偉大である。
見知らぬ女性に母親の影を重ねるマザコンっぷりも無視は出来ないところ。涼はようやく彼女との会話に生じる違和感の原因に思い至った。
「……あれ? えっ、と……あ、あなたが助けてくれたんじゃ、ないんですか……?」
涼の記憶に間違いがなければ、デキシージェルにぶっ転がされかけていたところを助けてくれた人物が居るはずである。涼は意識を手放す瞬間に間違いなく人影を見た。それが彼女という確証もないが、彼女が涼を行き倒れと言うのなら、事実と記憶に大きな食い違いが生じてくる。
涼の中で恩人として接してきた人物が、別の候補も浮かび上がってきたのだ。否、こうしてほぼ臨終状態の男を拾ってまかないまで貰っている以上彼女への恩義は揺るがない。
涼がこの馬車に乗り込むまでの過程に生まれた謎の空白はどういうことだろう。気絶したという事実で飛んだ時間に、自分の身に何が起きたのか、まさに魔物に食われかけた経験上涼の心境も穏やかでは居られない。
助けられたと言っても語弊はないのだが、涼の質問の意味をいまいち把握できない様子で小首を傾げる姿に身悶えしつつ、悶えそこそこにどもって後付けた。
「お、俺の……俺が、この馬車に乗っけてもらう前に、って、どうなってました? ……か?」
「ん、んんっ? えとっ……道の真ん中で倒れてた、かな?」
やはり、二人の認識には大きな隔たりがある。
事実と記憶に生じた食い違い、それを受けて涼が行き着くべき疑問は、ならばあの最後の瞬間に見た人影は何者だったのかという一点だろう。
無論、はっきりと顔を認識するまでは出来なかった涼が、まして知り合いの居るはずもないこの世界でその影を誰と断定することは出来ない。彼女の反応を見るに、道に放り出され放置されていた涼を発見して、影と鉢合わせになっていたようには聞こえない。
涼の肉体が無事で済んだのは、ほぼ間違いなく彼女を含め二人、あるいは二人以上の誰かのおかげだ。
デキシージェルに襲われた男を助けたまでは良かったのだが、デキシージェルを引き剥がしてみると中から出てきたのがクソニートでは、確かに放り捨てたくもなる。否、気絶しているその人物の人となりがニートかどうかは分かるはずはなくとも、見るからに幸が薄そうな醜男だったら道に捨てゆくのが正しい答えなのかもしれない。
そんな葛藤の元に涼が捨てられていたと考えると切なくなってくるのだが、救われた以上に文句は言えなかった。
誰に向ければいいのかもわからない感謝と憤慨の混じった気持ちるい感情は、一先ず心の中に留めておく。
自分を拾った時に他の人影は居なかったのか、彼女に直接聴けば答え合わせが手っ取り早い気もするが、ある程度筋の通った推察で自己解決しただけに何となく聞き辛い。
というか、ただのコミュ症で無駄に頭を悩ませた涼であった。