六話『妖精界は危険が危ない』
宛もなく歩を進め始めて、かれこれ一、二キロは歩いただろう。
せいぜいその程度距離という自覚もあるのだが、現代っ子丸出しの涼には普通に辛い。あるいはニート故か、歩くという行為にもはや気が乗らなかった。
魔物と聞き、涼自身無意識のうち知らず知らずに警戒して気が滅入っている部分もあるだろう。
ふらっとコンビニに行くにしても愛用する自転車に跨り、僅か数百メートルのその距離で割りと本気で欝になる。ニートの足腰の弱さは伊達ではない。涼が社会の底辺と化して以来、疲労という疲労のありとあらゆる疲労とは無縁な生活を過ごしてきた。半ば強制的な節もあるが、そんな涼が歩いているという事実は、万人に勇気を与えるだけの価値がある。
ただ歩いているのではない。目的もいまいち分からず宛もなく歩いているのだ。それはもはや旅だ。
涼からすればちょっとしたロールプレイングゲームばりの壮大な旅なのだ。
幸か不幸か、着なれたジャージでこの世界に来た時のままの格好は、体を動かしやすいと言えば動かしやすい。不幸なのは、この世界に来た時のままの格好は室内用のスリッパだったことである。足の形に沿って犬のキャラクターを模した可愛いやつだ。勿論、屋外での使用を想定されていないスリッパでは歩き辛いのだ。涼の苦行に拍車を掛けて悲壮感を漂わせる、大きな要因である。
もっとも、何よりも不幸なのは、旅のお供があまりにも頼りなさすぎることか。
「人間サン、足が汚れてるデース」
「おう、お前が準備もさせずに無理やり連れてきたからだろ」
補助妖精という名義に基づいて期待されるべき要素を、これまで何一つとして発揮してこなかったわけだが、存外それなりの気遣いぐらいは出来るらしい。労ってくれているのか否か、いずれにせよ涼は足元を見下ろすまでもなくその不浄を認める。
それに対して不服を申し立てる涼なのだが、これ以上余計な世話を掛けられたくはない。掛けたくないというより、彼に心配されるという借りを持つ気持ち悪さがそこはかとなく嫌だった。
ソレは人間サンが聞き分け悪かったからデースとか言うであろう、また訳の分からない言いがかりを付けられてしまう可能性も断絶しておきたい。聞き分けも何もそもそも聞きたくなかった涼の意思とは何処なものか。
涼は汚れているという指摘に礼を言うでもなく、皮肉口を叩いた。
「お前は良いよな。そうやって、足を汚すこともなくプカプカ浮いてればいい」
所詮、嫉妬と言えばただの嫉妬だ。
安っぽいスリッパで歩き続けなければならない過酷な困難で、目ざとく指摘し返す。空中を泳ぐようにスイスイ浮遊を続けるその体が、随分とリラックスした姿勢で付いてきているのにイラッとする。自分が苦しい思いをしていながら、苦しい思いにさせた張本人がこの体たらくでは涼のご立腹も必然的だった。
そこにきて、妖精はこれみよがしにこの返しである。
「足なんてものは飾りデース。人間サンにはそれが分からんのデスカ?」
「……ああ、そうかい……」
どうやらこと妖精さんという謎の生物は、そちらの知識にも通じているらしい。
深まって行くばかりの謎とストレスに、涼はため息混じりに相槌を打つのであった。
◆
時間にしてみればほんの十数分程度のこと。
依然として室内用スリッパで歩き続け、涼はようやく広い草原の微妙な景色の変化に気がつき始めた。
明確な変化でこそないが、違和感程度には草の背の高さに気が付いたのだ。
勿論、そのたった十分ほどでも更に涼の疲労は蓄積していっている。涼自身びっくりの想像を絶する貧弱な体だ。異世界に来たからとて、強靭な肉体を手に入れることはないらしい。
「……ん? 何か、あそこ動いてないか?」
涼から見ておよそ十二時の方向。
伺い見るように視線を這わせると、一箇所明らかに草が蠢いている。風のざわめきにしては大げさというか、もはや疑う余地もなく何奴か存在している。確認を取るように指さしながら尋ねてみると、妖精は首をかしげながら間抜けな声を挙げた。
「へぁっ?」
もはや余所見でもしていたのかというレベルさえ超えて、のび太君よろしく空中で寝転がった姿勢から起き上がり、ようやくその草むらを怪しみだす。補助という名目はいずこへ、涼が気にしてから起きてきても既に遅い。
妖精はそのままスイーと中空を浮遊していき、蠢く草の上から顔を覗き込ませるとこれまた阿呆な声を上げるのだった。
「ふええぇぇっ」
万歳三唱の如く両手をおっぴろげて後方宙返りしながら帰ってくる。
あまりにもスタイリッシュな帰還に妖精自身目を回しながら、涼もつい後ずさっていた。
妖精の後を追うように飛び出してきたのは、半透明な液体っぽい物質。
目茶苦茶ジュルジュルしている。ジェル感が凄い。顔と呼ぶべきか胴体と呼ぶべきか、物質の中心に浮かび上がるのはアンニュイな感じの眼だ。強いて言うならば妖精の目を取って付けた位に似通っている。
ペチャペチャと若干卑猥に聞こえる音を立てて、徐々に涼との距離を詰め寄ってきた。流石に異世界だけあって涼の世界の生物に例えようがない。
否、むしろ半透明な液体状の生物として、恐らく日本で一、二を争うくらいに有名な某ゲームのアイツによく似たフォルムと言えば最も想像に容易いのではなかろうか。それ以上いけない。
「お、おい……なんだよコイツ……」
「ご覧の通り、魔物サンデース」
「もっと詳しく!」
何時も通りポンコツな解説要因に頭を悩まされつつ、それどころではない状況に涼は混乱していた。人畜無害そうな容姿をしてはいるが、魔物というからには当然襲いかかってくるだろう。これがゲームならば始めて一番最初に出会うお馴染みのザコ敵なのだろうが、涼は勇者でもなければこれは現実である。
説明不十分な妖精に一喝し、要求したものの冷静に聞いていられる状況ではないと自覚している。
お馴染みのあまりにも様にならないファイティングポーズで迎撃体制はとってみるが、ただでさえニートが室内用スリッパで如何に戦えるものか。
有無を言わさず涼へと飛びかかってくる魔物の傍らで、妖精は手遅れな役目を果たそうといていた。
「その魔物サンのお名前は、『デキシージェル』デース。獲物の顔に張り付くことで窒息させてから捕食する、この妖精界では比較的弱めな……」
「――モガガ! モガフッ!」
既に顔に張り付かれ済みの涼は途中からフェードアウトしていくように説明すら耳に入ってくることもなく、割とグロテスクな捕食方法を体感しつつ無事に呼吸困難に陥っている。
必死にもがいて助けを求めようと手を伸ばしてみても、半透明の内側から水の中で目を開けた時のようにうっすら見える妖精は、得意げに説明を続けていた。ボコボコと口と鼻から泡が溢れて視界も悪く、ぼちぼち息が苦しくなってきたその局面だったが、涼はおもわずツッコミを入れざるを得なかった。
「モガモガモガァァァッ!?(何やってだぁぁぁっ!?)」
的外れ過ぎる妖精の行動につい肺の中の空気を出し切り、見事に自らの首を占めるのは涼が涼たる所以だろう。風が吹きわたる果てしない晴天の下、涼のツッコミは虚しく響く。
酸欠になって意識が遠のいていき、目の前が真っ暗になっていく感覚の中で、涼はデキシージェルとか言うスライムもどきの内側から視界に広がる影を見た。
この世界に来てから望み続けた、これが始めての人間との出会いである。
ちょっと草原を歩いたくらいで危険が危ないこの異世界、涼はこの先生きのこることができるのだろうか。