三話『異世界』
「えっと、異世界?」
ぬいぐるみが喋っている状況を見ると、今更驚くことも無いだろうと腹を括っていたところ。
いろいろな不安と疑心が巡り巡った末に、妖精が口にした言葉は思わず涼も復唱してしまうくらいには衝撃的なのである。
「ハイ。詳しい事は向こうで話すので、つべこべ言わず行きまショウ」
「ちょっと、待ってくれよ。何で俺がその異世界とやらに行くことになってんだ」
「……いい所デスヨ?」
「いや、そういう意味じゃなくさ」
説明を求める説明と言うのも可笑しな話だが、涼自身自分でも上手くいかない説明が歯がゆい。
今一度ゆっくりと頭の中を整理して、順を追って考えていく。妖精がしたがっている説明と、涼の求めている説明が食い違う状況を冷静に推測した。どうやら妖精はとっとと異世界へと誘いたいようだが、涼としてはその前段階として一つ話を聞いておきたいところである。にわかにも信じ難いその異世界の存在すらすっ飛ばして、聞いておかなければならないことがある。
涼は後頭部をガシガシと掻くような仕草で、乱暴はしないと誓った手前、妖精に怒りをぶつけるのもお門違いと苛立ちを極力隠していた。
「どうにも俺とお前の会話がかみ合ってないみたいだが、俺はそもそも何ゆえこの、えー、妖精さん育成キット? がここに届けられたのかを聞きたいんだ。異世界に行く理由だとか、異世界がどんな場所だとか、それもまた後で聞くとしてさ。何なんだよ、この状況は?」
随分と漠然とした質問だが、涼の語彙の限界だった。それでも稚拙ながら、まだその意図は辛うじて通じることだろう。
妖精は指人形ほどの小さな体を更に縮こまらせ、うーんと唸るようにして記憶を辿っていた。大げさなくらいのその仕草に、それほど難しい質問のつもりも無かった涼は息を呑む。考え事でもしているのか、あるいは単純に思い出せないのか、時間だけが経過していく状況を固唾を呑んで見守る涼の視線にもったいぶるような表情で、妖精はようやく口を開いた。
「……さあ?」
両腕で頭を抱えながら困り顔を見せる。
首をかしげているようだが、小さな寸胴に対して頭でっかちなスタイルの悪い体は中空にひっくり返っている。
さあと疑問符を付けられるとは、期待していた答えとしてあまりにも予想外すぎた。無論悪い意味で。
この状況を創り上げたと言うか、涼の困惑の根源というか、とにもかくにもその張本人とも形容し得る彼からの言葉とは到底思いたくも無い。投げやりにもほどが過ぎるだろう。それでいて申し訳の詫びもなさそうな堂々たるその態度がイラっと来る。
ぬいぐるみのように幼稚な見た目故か、子供心をくすぐられるような古い記憶を引っ張り出されて、涼は子供のような反骨心を思い出した。
「ああ、そうかよ。だったら俺もそんなわけの分からないことに付き合う必要は無いな」
「わけの分からないことは無いデース。ちゃんとワタシが説明しマース」
そもそもとしてこんな馬鹿げたことに付き合うつもりも毛頭無いのだが、こうも食い下がってこられると少々鬱陶しい。
目の前でファンタジーの代名詞を見据えながら考えるのも冒涜的に、涼の中で妖精への信頼度と比例するように異世界の存在は抹消され始めている。信じられないと言うのも当然のこと、妖精の言葉を信じたくないだけの意地が働いていた。
行きまショウと妙なイントネーションを繰り返し、髪の毛を引っ張ってきたり大して威力も無い体当たりをしてきたり、傍から絵面だけ見ていれば可愛らしくも見えそうな仕草で急かしてくる。涼本人としては鬱陶しいことこの上ない。かつてかの武田信玄が語ったように山の如き精神で、じゃれ付いてくる妖精をひたすら無視し続けた。
「こうなったら、最終手段デース……」
若干不安になるようなことを呟いて一度距離をとる妖精だが、涼はそれすらシカトこいてもはや座禅を組んでいた。
そして結論から言うと、無視しすぎた。
「ドクターからは本人の意思を尊重するように言われましたが、もう強行するしかないデース!」
ドクターとは誰ぞや。
そんな疑問すら考える間も無く、妖精は全身全霊で突進してくる。最終手段と言われてちょっと不安になっていた涼は、正直のところ独りでに安堵してしていた。がっしりと組んだ足では身を翻すことは出来ないが、先ほどから鬱陶しい体当たりの威力から見て全身全霊もたかが知れている。
完全に余裕と油断を決め込む涼に目掛けて、ついに妖精の突進はたどり着いた。
ちょっとしたしっぺを喰らった程度の衝撃。痛いというよりは、痒い。漫画やアニメでよくある、痒いなとのたまう強キャラの気持ちが理解できた。無論、涼が強いわけではない。どちらかと言うと雑魚キャラまっしぐらだ。
しかし、痛覚的にはその程度でも、衝撃は衝撃として変わらないのである。
座禅を組んでどっしり構えた胴体なら耐えることも出来ただろう。座禅を組んで膝の上に持て余しているその腕では、その程度の衝撃で弾かれるのだ。
「あっ」
ぺチンとか弱い音が鳴り、それに次いでゴロゴロと箱が転がっている。
涼の視線と間抜けた声が追いかけるのは黒い箱。例の指輪の箱だった。
成り行きで握り締めていたのだが、手を離してしまうとつい声も漏れ出す。別段思い入れがあるわけでもなく、転げた衝撃で口を開けたそれに対する感情も特に無い。
強いて言うならば、箱の中身の丁度指輪を納めるためのくぼみに何もなかったことには違和感を覚えたのだが、空だったところで涼が気にすることも無いだろう。
それよりも問題は、妖精の行動だ。
「妖精サンの大好物は、愛と勇気のこんぺいとう! デース!」
妖精がいろいろとツッコミどころのある祝詞を捧げているのは、口を開けた黒い箱である。
ツッコミをひとまず放棄して、何気なく転がる様を見送った箱に意味ありげな妖精の行動を警戒しながら見守っていく。何気なく見送ったはずが鍵を握る道具だったことの落差が急に怖くなり、涼は不安になっていた。
不意に空間を塗りつぶすほど輝く白い光。
光ったと涼が思うや否や、その時には既に体を引っ張られていく感覚に襲われていた。飲み込まれると言うか、同時に意識もどこかへと吸い込まれていく。次第に楽になっていく感覚は、睡眠にも似た心地良さだった。心地よさの中の言い様も無い戸惑いと、無意識の内に感覚を預けてしまうような理不尽さが思考を埋め尽くす。
自分の身に何が起きているのか、それすら推測する間も無しに状況は急速に転がっていった。
涼は自分が意識を取り戻したと、そう認識し目を開いた先の光景に目を疑う。
やがてはっきりと覚醒していく意識の中で、ここは何処だと、涼は呆けた頭で思考を巡らせていた。