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第五章「白いワンピースの少女」

                 (0)

 日も沈み辺りがすっかり暗くなってきた頃に、ようやく列車がやってきた。車両の姿を確認すると僕はすぐにベンチを離れ、ホームに立って列車が停車しドアが開のを待った。

 見れば車両は、以前に乗ったものと同じなのかは判らないが、やはり酷くオンボロで、分厚く塗られた塗装が所々でめくれるように剥げていて、いたるところ錆だらけであった。また、こんな列車に乗らなきゃいけないのか?と思うと、ため息が出た。

 そして、いざ乗車して車内を見渡せば、やはりそこには一人の乗客の姿もなかった。まあ、こんなんじゃ廃線になっても仕方ないだろう。


「この鉄道、もうすぐ廃線なんだってね」

 シートに座るなりチラリと隣に目を向け、何気なくポツリと言うと、みつきが静かに答えた。

「国鉄の民営化に伴う整理統合だとかって聞いたけど、無くなっちゃうのは、やっぱり残念だよね。まあバスがあるから、正直わたしもあんまり乗らないんだけど、でも、ここの電車って、すごく古い車両が多くて、どうやら今でもこんなに古い車両が現役で走ってるのは珍しいらしくて、たまに鉄道マニアの人とかがわざわざ遠くから見に来るみたい。そう言う意味でも、ちょっともったいないかな?」

「へーっ、そうなんだ」

 ・・・そういえば、宿の女将も同じような話をしていた。僕にしたら、ただのオンボロでも、確かにそうしたマニアには貴重なモノなのかもしれない。

 ・・・けど、今、みつきは『ここの電車』って言わなかったか?だが悪いが、これはどう見てもディーゼルだぞ!架線無いし、パンタグラフ無いし!

 しかし、今回はみつきの天然に一々突っ込むのはやめにしよう。それよりも、別の話をしとかなくちゃいけない。

「そういえば、明日の祭りの事なんだけど」

「え?」

 僕の言葉に反応し、みつきがサッとこちらを見た。

「実は明日さあ、俺、午前中ちょっと用事があるんだ。だから、祭りに行くのは午後からでいいよね。ここの祭りの事は判らないけど、普通お祭りって遅い時間だろ?そういえば、夜に花火も上がるって言ってたし。だから、みつきちゃんも、午後からでいいよね」

 そう言うと、何故かみつきはニヤリとした。そして嬉しそうな笑顔で答えた。

「うんいいよ。じゃあ、明日はお昼過ぎの、そう、1時頃に浜見旅館に迎えに行くね。それでいいかな?」

「ああ、そうしよう」

 ホッとしてそう答えると、みつきは僕の目をちらりと見て、更に言葉を追加した。

「でも、ようやく『みつき』って、名前で呼んでくれたね。ありがと♪」

「えっ!?」

 僕は思わず目を丸くした。自分でも無意識で、全くそんなこと気づかなかったからだ。・・・しかし、まさか、未だにそんなことを気にしていたとは!?

 そして、ふとみつきの方を見ると、僕から顔を隠すように横を向き、何故だかニヤニヤしながら声を殺してクスクスとしばし笑っていた。

 ・・・しまった!完全に遊ばれてる。

                   *

 実は、明日の午前中、僕にはどうしてもやっておきたいことがあったのだ。そう明日、独りでもう一度街に行き、みつきへのお礼の替わりになるようなプレゼントを買っておきたかったのだ。

 みつきという娘は、正直どこか頑固なところがあって、今日一日彼女は僕の行楽に付き添ってくれただけなのにも関わらず、映画のチケット代もバス代も、全て自分の分は自分で払うと言って聞かなかったのだ。そんなんで、結局僕がおごったのは、喫茶店で僕が勝手に注文した苺パフェと、博物館で飲んだ缶ジュース一本くらいだった。

 昨日今日と、みつきには村や街の案内だけでなく、お昼のお弁当まで作ってもらったというのに、これでは完全に釣り合わない。どうしても、このままでは僕の気が収まらないのだ。

 だから明日、何か気持ちだけでも伝わるような贈り物をしたい。そう、思った。

 ・・・そう、きっと、ささやかでも、そんな何かが残せれば、もしかしたら、この村を僕が離れたその後にも、彼女との繋がりを形として、ここに少しでも残せるのではないかと、そう思ったんだ。


                  (1)

「あ、いけない。そういえば、今日は日が暮れてからしばらく大雨が降るんだった。帰りはそんなに遅くなるつもりじゃなかったから傘持ってきてないや。・・・う~ん、駅からどうやって帰ろう?・・・困ったな~ぁ」

 ふと、みつきが独り言のようにそう言った。

「え?でも、雨なんか降ってないよ」

 僕が車窓を覗きながらそう返すと、みつきは相変わらず冴えない顔で首を横に振り、そしてボソリと呟いた。

「ううん。もうすぐ降り出すよ。・・・でも、まあいいかなぁ。駅舎でしばらく待てばそのうち止むから」


 ・・・そして、驚いたことに、そのみつきの予言は見事に的中した。

 列車は一駅またいだだけで、すぐに浜見駅へと到着したのだが、その少し前に突如大粒の雨が降りだしたのだ。

 おかげで、列車が浜見駅に到着し、開いたドアから外を覗くと、屋根のない浜見駅のホームには土砂降りの雨が容赦なく降り注いでいて、僕等は下車すると同時に走り出し、急いでオンボロ駅舎の中へと駆け込んだ。

 ・・・だが、

「あっ!」

 駅舎に入るなり、みつきが何かに気づいて駅舎の外を凝視した。ふと、彼女の視線の先に目を向けると、駅舎前の広場に一台の赤い軽自動車が止まっているのが判った。そしてその軽自動車はヘッドライトを付けていて、エンジンも掛けられたままだった。

 すると、突然ガチャっとその車のドアが開き、車内より人影が現れた。そしてその女性らしき人影はスっと傘を開き、ゆっくりと僕らの方へと近づいてきた。

「あれは、お母さん?」

 僕が何気なくそう聞くと、みつきは静かに「うん」と言って頷いた。

 みつきは、駅舎に入ってきた母親の方へ駆け寄り、しばらく何か話していた。だが、駅舎の屋根を打ち付ける雨音がうるさすぎて、その会話の内容など僕には全く聞こえなかった。

 すると、話が済んだのか、みつきは僕の方へまた戻ってきて、ポツリと言った。

「浜見旅館まで車で送るから、一緒に乗って行って」

「え?」

 僕が首をかしげると、少し離れたところにいるみつきのお母さんがにっこり笑って、軽く会釈をした。僕は無意味に緊張していた自分に気づき、慌てて姿勢を正し、急いで会釈を返した。

 そして、ふと見れば、みつきの母親はとても優しげな目をしていて、きっと暖かく温和な人柄なのだろうという気がした。

                    *

 僕は結局、みつきの母親の車に同乗させてもらった。だが、正直意味もなく緊張してしまい、ほとんど口を開けなかった。

 ただ黙ったまま、独りで後ろの座席に座っていたのだ。そして、助手席に座っているみつきの方は、一言二言母親と何かを話していたが、僕にはその会話の意味すらよく分からなくて、ただラジオでも聞いているような気分で流していた。

 すると、ほとんど時間を待たずに車は浜見旅館の駐車場まで到着した。そして僕は、車が停車するなりそそくさと車を降りた。

「あの、今日はホント、お世話になりました。しかも車で旅館まで送ってもらっちゃって、その、ホントありがとうございました」

 降りがけにペコペコ頭を下げつつ、みつきの母親にそう言うと、彼女はニッコリと微笑んで、優しげな目で僕の顔を見た。

 僕は少しホッとして、多少雨に濡れながらもその場に立ち止まって、Uターンをして駐車場から引き上げていく車をしばらく見送った。そして走り去る車のガラス越しからは、こちらを見つめるみつきの顔が微かに覗き見えていた。


                  (2)

 旅館の玄関をくぐりロビーに入り、ふと目の前にある柱時計を見ると、既に時刻は午後8時を過ぎていた。

 もう、だいぶ夕食の時間をオーバーしてしまって、これはマズイかな?と思ったものの、廊下の奥の広間からは、今も騒がしい会食の賑わいが聞こえてきていて、どうやらまだ食事は続いているようで少しホッとした。

 けれど、この賑わいはちょっと昨日とは違う感じだった。そう、昨夜より随分人が多そうだ。そして、何となく女性や子供の気配もあったのだった。

                   *

 僕はとりあえず一度自分の部屋に戻り、タオルで濡れた髪などを拭き、流しで手や顔をしっかり洗って少し気持ちを落ち着けてから、再び一階の広間へと向かった。


 広間を覗くと、やはり僕の予想は当たっていた。そこには昨夜より倍くらいの人がいて、今が宴もたけなわという感じに賑わっていた。そしてその中には女性の姿も多くあり、また、小さな子供なんかがテーブルの周りを走り回ったりしながら騒いでいた。

「よう、兄ちゃん!やっとお目見えか。さあ、早くこっち来て座れ!」

 僕を呼んでいるらしい声が聞こえて、ふとそちらに目を向ると、あの山崎とかいうオッサンが僕を見ながら大きく前後に手を振って合図していた。・・・ウザい。

 しかしながら、今は腹ペコなので仕方ない。渋々オヤジの言いなりになって、その席へと向かった。そして席に着きテーブルを見ると、そこには、まだ手を付けられていない一人分の食事が綺麗に並べられていた。

「今日もまた遅かったですね。楽しくて時間が経つのを忘れちゃったかしら?うふふふ♪」

 背後で突然声がして慌てて振り向くと、そこには女将がいつの間にかいて、軸の長いマッチをそっと擦って着火し、僕の鍋の固形燃料に火を入れてくれた。

「あ、どうも」

 僕がそう軽く会釈すると、女将はまたクスクスと笑いつつ「今日はちょっと賑やかだけど、ごゆっくりお食事を楽しんでくださいね」と言い残して、そそくさと去っていった。

                   *

「けど、今日は随分賑やかですね」

 ふと何気なく、隣の山崎氏に声をかけた。すると彼は低い声でサラリと答えた。

「明日から、いよいよ祭りの本番だからな。都会に住んでる者も、嫁や子供を連れてきてるんだよ。おかげで今日は、少しはこの宿にも泊り客があるだろうな」

 なるほどと思ったが、少し気になり、ふと聞いた。

「じゃあ、あなたの家族も今日は来てるんですか?」

 するとオッサンは、少し躊躇するように苦笑いをしてから、ポツリと答えた。

「まだ、息子がガキの頃には毎年連れて来てたが、今はもう、十年近く会ってないな。・・・まあ、要するに、随分前に別れたんで、息子とも縁遠くなったってことさ」

「えっ!?」

「だが、去年の春には写真を送ってきたよ、大学生になったとかで。・・・俺に似て、いい男になってたな。・・・まあ、ちょうど、兄ちゃんと同じ年ぐらいかな」

 オッサンはそう言い終わると、おもむろにコップを手に取り、中のビールを一気飲みした。そして大きくゲップを吐いた。・・・うっ、酒臭~っ!

 しかし、何故だか今日は、このオッサンのことを単にウザいとは感じなかった。なんとなくだが、昨晩僕にわけもなく絡んできた理由も、少しだけど分かる気がした。

 確かに今の僕には、離婚だとか、離れ離れの親子だとか、そういう難しい人間関係なんて想像もつかない。・・・だけど、寂しいという感情だけは、何故だか少し分かる気がした。

 ・・・いや、僕自身は、寂しさなんてもの、全然感じたことなどないのだけれど。


                  (3)

 結局、この夜も僕は自分のペースでゆっくりと食事をとることができなかった。確かに昨晩ほどではないが、やはり隣の山崎さんは何かと僕に声をかけてきて、また頼みもしないのにビールを注いできて、そして僕もついつい飲んでしまった。

 けれど、この夜のビールは何故だかとても旨かった。オッサンは何かと僕を皆の会話の中に巻き込んできて、だけど、おかげで不思議なほど打ち解けることができて、知らぬ間に僕は、まるで自分の親戚と話をしているような安堵感に包まれていた。

 そう、本当はまるでよそ者の僕を、いつしか皆が古くからの知り合いのように扱ってくれていた。だから僕も、不思議なほど笑い、そして遠慮も忘れ、ごく自然に語らっていた。

 ・・・だがそんな時、オッサンが意味ありげに小声でこっそりと僕に話しかけてきた。

「なあ、御札のことだが、本来は言っちゃいけないことなんだが、この際だから、お前にだけ特別に教えてやる。いいか、よく聞けよ。

 多分、まだ一枚だけ、神社に届けられていないモノがあるんだ。他のは全部、もう村の連中が見つけちまって、既に届いてる。そして一枚は残念ながら海に落ちてダメになったらしい。でもな、まだ一枚残ってる」

「・・・はあ?」

 僕には、その山崎さんの話が何のことだかよく分からず、ふと首を傾げた。だが、オッサンはそんな僕の態度など気にする様子もなく淡々と話を続けた。

「天狗山を知ってるか?あの頂上付近に落ちたヤツが、実は未だに届けられてないみたいなんだ。俺はあの日、神社で花火の打ち上げを手伝ってて、はっきりと御札が落ちていくのを見てたから、多分間違いないんだ。

 ・・・お前、ずっと探してただろう。だから、特別教えてやったんだ。・・・いいか、明日の日没までに必ず見つけて神社の本殿に届けるんだぞ!」

「え?」

 余りに奇妙なオッサンの態度に、さすがに僕は唖然とした。すると、彼は僕の目を睨みつけるようにして力強く言った。

「いいか、男なら、必ず御札を見つけて、彼女の願いを叶えてやれ!」

 正直何が何だか判らなかったが、僕はそのオッサンの迫力に思わず圧倒されて、もはや何も言い返せなかった。


                   *

 皆の会食が一段落した様子を見て、僕も一緒に食事の席を立った。そして自分の部屋に戻り、窓際の椅子に腰掛け、何気なく暗い窓の外をぼんやりと眺めた。

「・・・なんだったんだろう?」

 ふと、山崎さんの言葉を思い出し、改めて疑問が湧き上がってきた。しかし、僕は彼に一度だって御札の話などしていないのに、何故オッサンはあんなことを言ったのだろう?

 そもそも『彼女の願いを叶えてやれ』って、何のことだ?意味不明だ。

 ・・・彼女って、まさか、みつきのことか?・・・いや、それはありえないな。

 まあ、どうでもいいか。きっと、何か勘違いをしているんだろ。なにせ、メチャメチャ酔っ払ってたし。・・・馬鹿馬鹿しい。


 そして、ふと目を瞑れば、やっぱりみつきの姿がそこにあった。どうやら、僕は本気で彼女のことを好きになってしまったらしい。

 ・・・でも、一緒にいられるのも明日の祭りが最後だ。その後のことは分からない。

 そもそも、みつきが僕をどう思っているのか、正直全然分からない。確かに好感は持ってくれているだろうけれど、とてもそれ以上な気はしない。

 ・・・そうだ。もしも馬鹿なことを言えば、きっと嫌われるだけだ。

 ・・・いや、俺は嫌われても仕方がない。そんなことは、どうでもいい。けれど、せっかく親切に接してくれた彼女を、みつきの心を踏みにじりたくはない。

 みつきにはこの数日を、きっと楽しい思い出としてずっと記憶していて欲しい。楽しいことだけを残して、この僕を記憶の片隅に置いておいて欲しい。

 ・・・馬鹿なことを思っちゃいけない。つまらない欲望なんか持っちゃいけない。

 ・・・所詮、俺など、無意味なだけだ。


                  (4)

「・・・はっ!?」

 ふと目が覚めた。どうやら、椅子に腰掛けたまま寝てしまったらしい。そして、慌ててテレビの上にあった置き時計に目を向けると、既に時刻は午後10時半近かった。

「まずい!風呂の時間が終わっちゃうよ!」


 急いで支度をして、早足に部屋を出た。そして、息を切らせて長い廊下を抜けて別館にある大浴場まで走っていった。

 すると脱衣所も浴室もまだ電気も付いていて少しホッとした。しかしながら、もう入浴時間が過ぎていることに変わりわない。従って、急いで服を脱ぎ、とにかく簡単に汗だけでも洗い落とそうと、慌てて浴室内に飛び込んだ。

「あっ!」

 すると、浴室には先客が一人いた。小学校の高学年くらいの男の子だった。そして、その顔には見覚えがあった。そうだ、昨晩もここで見かけたあの男の子だ。

 ・・・やっぱり、よほどの風呂好きなのだろう。まあ、気持ちは判らないでもないけれどね。

 男の子は僕を見て少し嫌そうな顔をしたが、また何事もなかったようにムスっとした表情のまま浴槽の湯に深く体を沈めた。そしてふと見ると、彼の側には、あの黄色いアヒルのおもちゃがピョッコリと浮かんでいた。

 そして僕も僕で、何も気にしないような素振りをしつつシャワーで手早く身体を洗ってから、おもむろに湯船へと向かい、そっと体を湯に沈めた。

 そしてその後、浴室内に奇妙な静寂がしばらく続いた。・・・のだが、

「カタカタカタカタ」と、妙な機械音が聞こえてきたと思った直後、僕の肩にコツンと何かが当たった。

 ふと見ると、それはあのアヒルのおもちゃだった。そう、あのアヒルは単なる空っぽのビニール人形ではなくて、機械仕掛けで泳ぐ電動おもちゃだったのだ。

 そして、そっと坊やの方に目をやると、少年は僕の顔を横目でチラリと見ながらも、少し顔を隠すようにして緊張していた。・・・だが、そこで僕は、

「やったな!反撃だ~っ、魚雷発射、受けてみろ~っ!」

 そう言ってアヒルを掴むと、今度はその少年の方に向けてアヒルを泳がせた。すると、そのアヒルはどういう訳か少し楕円を描いて進んで行って、結局ぶつかることなく少年の肩の横をあっさり素通りして行った。

「アハハハハッ、外れ~っ!」

 少年は笑いながらそう言った。そして彼は遠ざかるアヒルを急いで追いかけて掴み取り、振り向きざまに僕めがけて泳がせた。さすがに彼はアヒルの泳ぎの軌道を承知しているらしく、アヒルは楕円を描きながらも着実に僕の方に寄ってきて、結局僕の胸にぶつかった。

「うわ~っ、やられたぁ!無念じゃ~っ。・・・ブクブクブク」

 僕がそう言って湯の中に頭まで沈んでいくと、どうやらウケたみたいで少年は腹を抱えて「きゃははははっ!」と大笑いをした。

 そして僕はその後もしばらくの間、その子供と水の掛け合いなどをしながら遊んだ。すると少年は、次第に呆れるほどほどはしゃぎだして、大きな声で笑ってくれて、思えば初めに見かけた時の印象が嘘みたいに、本当に楽しそうな笑顔を僕の前に見せてくれた。

                   *

 僕が「もう遅いし、そろそろ上がるよ」と言うと、その少年も頷いて、一緒に浴室を出た。そして脱衣所で身体を拭いて服を着て、共に髪を乾かし、『ゆ』と描かれたのれんをくぐって廊下に出ると、何故かそこに、女将がポツリと立っていた。

「まぁーちゃん。やっぱりここにいたの」

 女将は少年の顔を見るなり、少し困惑したような口調でそう言った。そして、それからちらりと僕を見て、軽く会釈をした後、また坊やに向かって言葉を追加した。

「大きいお風呂に入るのはいいけど、お客様のお邪魔だけはしちゃダメだって、言ってあるでしょ。ご迷惑かけなかった?」

 すると、少年は悲しそうな表情をして、そっと小さく頷いた。

「そんな、迷惑なんて全然!坊やのおかげで、すごく楽しかったですよ。ホント、旅のいい思い出ができました」

 僕は思わず、女将に向かってそう言った。すると女将は少し驚いたような顔をした後、にっこり笑って「雅彦、今日はお兄ちゃんに相手してもらって、本当に良かったわね♪」と、坊やに優しく囁いた。

 すると少年は少し安心したようにニッコッと微笑んで、パタパタと女将の方に走っていった。そして、女将の着物の端をキュッと掴んで、寄り添うように身体を近づけた。

 僕は、そんな少年の姿を目にして、なんだか自分のことのように嬉しかった。

 そう、この子は、まだ小さな子供なんだ。やっぱりこんな稼業だから、坊やにしてみたら、あんまりお母さんに相手をしてもらえないで、いつも寂しいんだろうな。と、改めて思った。


                  (5)

 部屋に戻り、よく冷えたソーダ水を一気に飲み干すと、もはや立っているのさえ嫌になるほど身体の疲労が溢れ出てきた。

 そこで、サッサと洗面所に行って歯を磨き、トイレを済ませ、電気を消して、すぐに布団の中へと潜り込んだ。すると、もはや余計なことなど何も考えられなくなって、あっという間に僕は眠りについていた。


                   *


 ・


 ・・


 ・・・


 荒れ狂う海。


 打ち付ける波。


 白いワンピースを着た長い髪の少女が、たった一人、荒い波の打ち付ける岩場だらけの海岸に、淋しげに、じっと海を見つめて立っていた。


「どうしたの?」

 ふと声をかけると、少女は僕の顔を不思議そうにチラッと見て、だが、またすぐに海の方に視線を戻し、ただ黙って、何かをじっと見つめていた。

 何となく気になって、僕は彼女の視線の先を追いかけた。すると、そこには何かがあった。波の向こうの、遠い岩場に真っ白い紙切れのようなものが引っかかって、ヒラヒラと揺れているのが見えた。

 ・・・そうか、きっとあれは例のやつだ。

「あれが欲しいの?」

 そう聞くと、少女は少し驚いたような顔をして僕の目をじっと見た。けれど、すぐに困惑したような表情になり、そして静かに目を逸らしうつむいてしまった。

 だが、僕には不思議なほど確信があった。

 ・・・そうだ!きっと、彼女には、あれが必要なんだ。

「俺が、取ってきてやるよ。大丈夫!この俺に、任せてよ」

 そう声をかけると、僕は彼女の返事も聞かず、荒れ狂う波の絶え間なく打ち付ける岩場へと気合を入れて飛びこんだ。


 ・・・だが、いざ岩場に身体を投じると、少し恐怖が湧き上がってきた。

 激しい水しぶきが容赦なく吹き付けてきて、そして何より、岩に打ち付ける波の破裂音が凄まじくて、そしてまた、足元はヌメヌメとしたコケが所々にあって、ツルリと滑って、少しでも油断するれば、渦巻く海中へと簡単に引きずり込まれそうな気配だった。

 だが、諦めようとは思わなかった。そして、後ろを振り返ろうともしなかった。ただ、前だけを見て、岩場を前進することだけに集中した。

 岩場は一固まりではなく、小さな小島のように点々と突き出ていた。僕はそうした岩と岩の境界を慎重に飛び越えた。

 30センチ、50センチ、あるいはもう少し離れた岩もあった。けれど、それらを飛び越えること自体は容易だった。しかし、何より足場が悪い。

 デコボコと尖って触れると手を切りそうなところもあれば、反対にボールのように丸く侵食され酷く滑りやすい場所もあった。そして、うっかり間違って藻の生えたところを踏めば、スルリと靴底が流れてバランスを崩した。

 正直、怖かった。この荒れ狂う海に落ちることを考えると、酷く恐ろしくなった。だが、どうしても諦めることができなかった。

 ・・・なんとかして、あの少女の願いを叶えさせてやりたかった。ただ、その一念だった。もし、今、僕がここで諦めたら、それで全て終わりな気がした。


 知らぬ間に、僕は無心になっていた。とにかく、何も考えず、必死で前進して行った。そして、ようやくその岩までたどり着いた。

 目の前で、あの白い薄紙の落下傘が風に煽られヒラヒラと揺れていた。そっと手を伸ばし落下傘を掴み取ると、その糸の先には『鏡片札』と印の押された白い封筒が結ばれていた。

 僕は達成感を得て、そこで初めて振り返り、岸を見た。すると、そこには彼女の姿が、まだ、あった。・・・嬉しかった。

 僕が御札を持つ手を掲げて大きく振ると、少女も、その白くか細い手を上げ、ゆっくりと振って答えてくれた。

 そう、僕は、もはや彼女は呆れて何処かへ去ってしまったんじゃないかと、ずっと気になっていたのだ。だから、途中で振り返ることを躊躇していたのだ。

 ・・・でも、良かった。これで報われた。そう思った。


 僕は意気揚々と来た道を戻った。一度クリアーしたルートなので、来た時よりもずっと余裕を感じていた。軽快に岩場の隙間を飛び越え、すぐにでも岸までたどり着く、そう思っていた。だが、そんな時だった。

「あっ!」

 ふと、足が滑った。あと一つ岩を超えれば岸だった。だが、その油断がいけなかった。

『バッシャーン!!!』

 気づけば、僕の体は波の荒い海中へと投げ出されていた。もはや息継ぎもままならなくて、だが、もがきながら必死で体制を立て直し、そしてなんとか岸へと這い上がった。

 ・・・だが、

 気がつけば、僕の手にあの封筒はなくなっていた。海水の渦に巻かれ、粉々になって、何処かへ流れていってしまった。

 僕の手には、切り裂かれた糸と、紙の破片が付着していただけだった。

「クソッ!」

 悔し涙が滲んできた。

 ・・・そうだ、俺はいつもこうなんだ!何をやっても失敗ばかりだ!カッコつけて、勝手に飛び出していって、結局俺のしたことは、せっかくの願い札をダメにしただけじゃないかっ!・・・彼女の期待を踏みにじっただけじゃないか!

「大丈夫ですか?お怪我はありませんか?・・・あの、本当に、」

 少女が僕を見てポソリと小さな声でそう言った。だが、僕は彼女の顔を真っ直ぐに見ることなどできなかった。

「ゴメン。ドジった。俺、結局御札をダメにした」

 小声でそう言ってから、僕はようやく、ゆっくりと少女の顔を見た。すると、彼女は今にも泣きそうなほど潤んだ瞳で、そっと僕を見つめていた。

 ・・・ふと、その時、僕の中である言葉が蘇ってきた。そして思わず、少女に向かって言った。

「大丈夫!今のはダメにしちゃったけど、御札は俺がきっと見つけてあげるよ。だって、俺、聞いたんだよ、『願い札は、それを真に求める者の元に宿る』って、だから大丈夫。きっと見つかる!・・・俺が、君のために、絶対に見つけるよ!」

 ・・・ ・・・ ・・・

 ・・・ ・・・

 ・・・

 ・・

 ・


                  (6)

「はっ!」

 突然目が覚めた。・・・何か夢を見ていた気がする。

 ・・・なんだろう?バカにリアルな感触の夢だったような?

 ・・・だが、不思議だ。何も思い出せない。

 今まで眠っていたというのに、えらく心拍数が上がっている。

 ・・・胸が苦しく、・・・奇妙な思いが、・・・苦しいほどの重苦しい感情が、何の理由もなく湧き上がってくる。

 ・・・なんだ? ・・・なんだ? ・・・なんなんだ?

 ・・・わけがわからない!

 ・・・意味もなく深い悲しみに襲われ、・・・理解不能な恐怖が、心の奥底から溢れ出てきて、もはや、身体の震えを抑えることができない。


 ・・・ヤバイ!どうかしている。


 必死で自分を取り戻し、もがきながら立ち上がって、なんとか部屋の電気をつけた。そして、パット明るくなって、ふと時計を見るとまだ深夜の3時だった。

 徐々に意識が回復してきたところで、部屋の隅の冷蔵庫からソーダ水を一本取り出し、窓際へ行って椅子に腰掛けた。そして、冷たい炭酸水を喉の奥へと通すと、次第に気持ちが穏やかに落ち着いてきた。

「・・・けど、なんだか、みつきの夢を見ていたような?・・・けど、はっきりしない。・・・いったい、なんだったんだろう?・・・酷く奇妙な夢を見ていた気がするのだが」

 ・・・きっと、馬鹿なことを思っているから変な夢を見るんだ。もう、余りみつきのことを考えるのはよそう。彼女のことは、この旅の良き思い出として留めよう。

 ・・・馬鹿げた夢なんか持ちゃいけない。・・・間違っても、あんな可愛い娘に愛されたいなんて思っちゃいけない。どうせ、俺なんかとは釣り合わない。

 ・・・そんなこと、自分などには到底無縁だ。夢なんか見るな!

 ・・・諦めろ。

 ・・諦めろ

 ・諦めろ

 諦めろ

 ・

 ・

 ・


                   *

「・・・ルルルルルルルル、ルルルルルルルル、ルルルルルル・ガチャッ!」

「あっ、・・・はい!」

 内線電話の呼び鈴に気がつき飛び起きると、寝ぼけ眼のまま慌てて受話器を掴み取った。すると、やはりそれは女将からの朝食の準備が出来ているとの知らせだった。

 ・・・だが、ふと時計を見て驚いた。既に午前8時を過ぎていたのだ。どうやら、僕は酷く寝坊してしまったらしい。・・・どおりで、女将の話の感じが少し変だったわけだ。

 きっと、あの呼び出しは初めてではなくて、既に今朝は何度も呼び出しをかけていたに違いない。そして、ようやく僕はその電話のベルに気がついて、今頃になって受話器を取ったということなのだろう。

 まあ、昨晩は変な時間に目が覚めてしまい、その後1時間以上眠れなかったのが災いしたのだろう。・・・仕方がない。

 とにかく急いで身支度を済ませ、早足に広間へと向かった。

                   *

 朝食の用意がされている広間を覗くと、7、8人の泊り客が既に食事をしていた。やはり昨晩と同様に幾つかのテーブルを並べ大きなひとつのテーブルを作り、そこに子供連れの家族が二組、少し距離をおいて団欒し、楽しげに食事をしていた。

 そしてその端のスペースに、まだ手つかずの食事が一セットだけ、ちょっと離れて並べられていた。多分、あれが僕の食事だろう。

「・・・あれ?」

 だが?そこには何故か、あの山崎さんの姿が見当たらなかった。・・・まあ、別にどうでもいいんだけどね。

 すると、女将が僕に気づき、そっと近づいて声をかけてきた。

「斉藤さん、おはようございます♪お食事、そこにご用意してあります。でも、ちょっと、隅っこみたくなっちゃってごめんなさいね。ごゆっくりどうぞ♪」

「あの、山崎さんは?」

 やはり気になって、ふと女将に聞いた。

「ああ、今朝はお急ぎだったみたいで、もうお食事を済ませて神社に向かわれましたよ。今日はいよいよ、お祭りの本番ですからね。・・・そう、斉藤さん、今日お帰りになるとおっしゃっていたけれど、今日のお祭りは帰り際にでも、是非少しだけでも覗いていってくださいね。・・・あっ、でも、みつきちゃんと、もう約束してるのかな?うふふ♪」

 女将はいつものように明るい笑顔でそう言った。だがすぐに、ふと思い出したような仕草をして言葉を追加した。

「あ、そうだ。そのことで、ちょっと斉藤さんにお話したいことがあるのだけど、後でちょっとお時間頂けるかしら?・・・いえ、無理にとは言わないのだけれど」

「え?・・・ああ別に。あの、だったら、食事の後に宿代精算したいんで、その時でいいですか?」

 僕がそう答えると、女将は安心したようにやんわりと微笑んで頷いた。


                   *

 朝食を終えると、僕は一度部屋に戻った。そして自分の荷物を整理しナップザックの中に仕舞った。そして、この数日お世話になった部屋の中を簡単に片付け、忘れ物がないかをチェックした。

 ・・・そう、これで、この宿ともお別れなのだ。


                  (7)

 ナップザックを片手に階段を降りてロビーに向かうと、そこで女将が僕が来るのを待っていた。

 そして僕は、受付の隣の応接間らしい洋室へと通された。純和風だと思っていたこの旅館にこんな部屋があることに少し驚いたが、アガサ・クリスティの映画に出てくるようなヨーロッパアンティークふうの落ち着いた内装で、とても雰囲気の良い部屋だった。

 僕がソファーに腰をかけると、女将はアイスティーの入ったグラスを出してくれた。何か話があるとのことだったが、僕は先に宿代の支払いなどの用事を済ませてもらい、それから一旦間があって、そのあと改めて、僕はおもむろに口を開いた。

「その、朝食の時に言っていた、話って、なんですか?・・・もしかして、その、入江さんのことですか?」

「え?、ああ、はい。・・・そう、実は、みつきちゃんのことなの。・・・でも、本当にごめんなさいね。他人が口を挟むようなことじゃないし、せっかくお泊り頂いたお客様に、私の口から話すようなことじゃないのかもしれないのだけれど」

 女将は少し躊躇するような表情をしながらも、そう言って静かに話を始めた。

「・・・う~ん。実はね、昨晩、入江さんの奥さんからお電話を頂いたんですよ。その、なんて言いうか、奥さん、とても心配されているみたいで。

 ・・・いえ、でも決して、あなたのことを疑っているとか、そういう意味じゃないのよ。むしろ、この数日、急にみつきちゃんが明るくなったっていうか、元気になったっていうか、・・・その、それはすごく良いことだから喜んではいらしたんだけど、

 ・・・でも、『どうしたんだろう?』って、気になってたらしんです。そしたらね、昨夜、みつきちゃんが男の人と会ってたことを知って、少し心配になったらしいの・・・」

「え?、・・・ああ、そうなんです。昨日の夜、その、少し遅くなって、雨もひどくって、それで僕は、みつきちゃんのお母さんの車で旅館まで送ってってもらったから、・・・えっと、そのことかな?」

 緊張しつつも、僕は自分の事情を隠さず正直に話した。すると、女将がふと不思議そうな顔をした後、また少し微笑んで、「・・・そうなんだ、みつきちゃん。入江さんのことを、ちゃんとお母さんだって言ってたんだぁ」とポツリと独り言のように呟き、それから、また少し間を置いてから話を続けた。

「・・・う~ん、このことを私が話していいのかは判らないけど、・・・実はね、入江さんはみつきちゃんの実の母親ではないの。本当は伯母なんです。

 実はね、みつきちゃんの産みのお母さんは、彼女がほんの幼い時に亡くなっていて、ずっと父親と二人で東京で暮らしていたの。でも、そのたっった一人のお父様も、5年前に交通事故で突然亡くなっしまって、みつきちゃんは可哀想に、独りきりになっちゃったのよ。それで、子供のいなかった大城さんの妹の入江さんの奥さんが養女として、みつきちゃんを迎え入れたんです」

「えっ・・・?」

 思いもよらない女将の話に、ただ唖然とするしかなかった。そして、どうしてこんな話を僕なんかにするのか、その意味が全然判らなかった。

「入江さん、いつも、どこかで後悔していたのかもしれないわ。『女の子はいつかはお嫁に行くものなのに、わざわざ養女になどする必要なんかなかったんじゃないか?』とか、『都会の子を、こんな何もない田舎に連れてくるべきじゃなかったんじゃないか?』とか、たまに、こぼしてらしたから。

 ・・・でも、そんな時にあなたが現れて、みつきちゃんが嘘みたいに楽しそうに笑ってて、・・・そのね、なんで私が、こんなことを斉藤さんに話したかというと、どうしても、判ってあげてほしいのよ。あの子は、本当に寂しい想いをたくさん抱えてて、それでも独りで頑張っていると思うの。・・・でも、いつも全然平気な顔してて、人前では涙ひとつ見せないで。ただ黙って、静かに笑みを浮かべてて。

 ・・・だからね、みつきちゃんのこと、大事にしてあげて欲しいんです。ほんの数日だけど、私、あなたを見てて、斉藤さんなら大丈夫だと思ったの。信じられるって。

 ・・・斉藤さんは、本当にいい人だと思う。だから、みつきちゃんのこと、くれぐれもお願いします。・・・絶対に彼女を泣かせたりしないでくださいね」


 ・・・結局、僕は女将の言葉に、一言も答えられなかった。返す言葉を、何も考えられなかった。・・・意味が良く判らなかった。


                  (8)

 宿で荷物を預かってもらい僕は手ぶらで街に向かった。午後に浜見旅館でみつきと待ち合わせをしているので、必ず一度戻るからだ。

 海岸沿いの道路まで歩いて行き、停留所で独りバスを待った。すると、少しばかり待ったところで早々にバスはやってきた。

 ゆらゆらと揺れながら走るバスの窓越しから、波の荒い海を眺めた。・・・そしてぼんやりと、みつきのことを考えた。


 正直、女将の話が未だに信じられなかった。・・そう、みつきの姿に寂しさを感じたことなど、まるでなかったからだ。僕の前にいるみつきは、いつも明るくて、はつらつとしていた。キラキラした愛らしい笑顔で、常に輝きに満ちた少女だとしか思わなかった。

 ただただ根暗なだけの僕には、彼女は太陽のように眩しくて、とても近づきがたい存在だった。・・・だが、それは僕が単に無神経なだけだったのかもしれない。

 ・・・そう、もしかしたら、・・・本当は、辛く寂しい想いを胸の奥に抱きながらも、あんなに美しくも純粋な笑顔を、彼女は常に絶やさないように頑張っていたのかもしれない。僕はみつきのことを、何も解っていなかったのだ。


 ・・・だが、そのことに気づいた瞬間、胸が締め付けられるように苦しくなった。

 彼女の、父親との思い出の腕時計を、からかうような言い方で貶してしまった自分が許せなくなった。なんと無神経だったかと深く後悔した。

 けれど同時に、僕にはそんな彼女の気持ちが、少しだけれど分かるような気がした。

 ・・・そう、僕も、子供の頃に母を病気で亡くしていたのだ。

 常に元気が取り柄で、健康診断を受けて、自分は90まで生きるんだと自慢げだった母が、突然死んだ。・・・正直、あの頃の幼かった僕には辛かったのだろうと思う。

 ・・・いや、僕の場合は父もいたし、姉もいたし、・・・それに生きている間、単に口うるさいだけのめんどくさい母親だったから、死んでもそれほど寂しくなどなかったのだが。

 ・・・けれど、みつきの場合は全然違う。・・・きっと彼女は、よほど寂しかったはずだ。

 ・・・そう、独りきりになる寂しさなんて、この僕には想像もつかない!・・・もはや、考えようがない。

 ・・・僕などに、みつきの気持ちが解るわけがない。


                   *

 街に着くと、とりあえず昨日みつきに案内されたデーパートへ向かった。そう、彼女へのお礼のプレゼントを買いに行くためだ。だが、門前に立って、ふとため息が出た。そう、まだ開店の時間になっていなかったのだ。

「10時開店か。まだ30分位あるな」


 とりあえず、昨日寄ったあの喫茶店へと向かった。そして店内に入ると、とりあえずコーヒーを注文した。

 ふと見回すと、店内に客の姿は少なかった。なぜだか意味もなく孤独を感じた。・・・訳もなく、急激に形のない寂しさが込み上げてきた。

 ・・・そう、思えば昨日はみつきが目の前にいて、そこで楽しそうに笑っていた。僕は、その笑顔を見ているだけで幸せだった。・・・ずっと、この先、こんな時間が永遠に過ぎていったら、どんなに幸福だろうと、そう思った。

 だが、今に思えば、そんなことを考えていた自分は、いかに愚かだったかと思う。

 ・・・そんな幸せ、この俺にはありえない。

 この俺が幸せになれるなんて、そんな幻想持っちゃいけない。・・・馬鹿げてる。


                   *

 時間を見て喫茶店を出ると、真っ直ぐにデパートへ向かった。ビルに入り、店内を独りでウロウロと歩き回った。主に装飾品や小物などを眺めながら、みつきの気に入りそうな物はないかと考えた。・・・だが、なかなか良い物が見つからなかった。

 そもそも、予算が少なかったのだ。すでに宿代を払い終え、その残りから帰りの運賃を差し引いて、それに今日の祭りでの雑費の分を考えると、もう、ほとんど資金が残っていなかった。これでは、ウサギのネックレスどころか、銀のチェーンの一つも買えやしない。

 正直、つまらない安物を買ったところで、何の意味もない気がした。そう、そんな物を渡したところで、単に迷惑がられるのがオチである。

 ・・・そして結局、僕は何も買わないままデパートを後にした。


                  (9)

 ふと気づくと、僕は昨日訪れたゲームセンターに来ていた。そして、コインも購入しないまま、独りで競馬ゲームの筐体の椅子に座っていた。

 ただ何も思わず、おもちゃの競走馬がカタカタと盤面のコースを走る姿を、ぼんやりと眺めていた。・・・そして、いつの間にか、また、みつきの笑顔を想像していた。

「・・・なにやってんだろう?」

 ふと思わず、独り言が口に出た。そして、自分は結局、単に昨日の、みつきとの時間を辿っているだけなのだと気づかされた。

「・・・馬鹿じゃないのか?・・・何をやってるんだ、俺は!?」


                   *

 ・・・フラフラと、何の意味もなく街中を歩いた。もはや、何も考えたくなかった。そして僕には、みつきという少女が、全く判らなくなってきていた。

 ・・・そもそも、考えれば考えるほど奇妙に思えた。

 そう、出会いからして変だった。・・・どう考えても、何処かつじつまが合わない。僕に声をかけてきた動機も、その後の態度も、どこかが奇妙だ。

 ・・・はっきりとは判らないけど、やっぱり変なのだ。・・・何処か意味不明だ。やはり何かが間違っている。・・・どこかが、やっぱり変だ!・・・絶対変だ!!!

 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

 ・・・だが、そのことを考えれば考えるほど、・・・僕の身体は、・・・僕の心は、言い知れぬ恐怖に震えだした。

 意味も、理由も、そこにはなかった。ただ、理解不能の恐ろしさが僕を包み込んで離れなかった。・・・今にも、そこにあるドス黒い暗闇に飲み込まれそうな悪寒を感じ、僕は身を縮め、自分を耐えた。

 だが、・・・そんな時だった。ふと急に、昨晩聞いた、あの山崎さんの言葉が、頭の中に蘇ってきた。


 『・・・いいか、男なら、必ず御札を見つけて、彼女の願いを叶えてやれ!』


 その瞬間、ふと思った。

「そうだ、天狗山に行こう。きっとまだ、御札があそこに残っているはずだ。あれを彼女に渡そう。みつきの願いを、きっと叶えてあげよう」


 僕は急いでバス停へと向かって走り出した。




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