第三章「鏡月姫の伝説」
(0)
すでに真っ暗になってしまった迷路のような狭い路地をぬけ、疲れ切った身体を引きずるようにして、ようやく浜見旅館のエントランスへと入ると、なにやら賑やかな人々の声が聞こえてきた。
どうやら、廊下の奥の方で騒がしく宴会でもやっているようだ。そういえば、夕食は一階の奥の広間で7時からだと、宿を出るとき女将から聞かされていた。
ふと、大きな柱時計の文字盤を見ると、時刻はすでに7時半を過ぎていた。飯のいい匂いも漂ってくるし、今はまさに夕食の真っ最中なのだろう。
・・・そういや、めちゃめちゃ腹が減った。
僕はとりあえず洗面所に寄って顔を洗い汗を拭いてから、急ぎ足でその広間へと向かった。
*
「あら、斎藤さん。ずいぶん遅かったですね。どこへいらしてたの?少し心配しましたよ」
夕食が用意されている畳敷きの広間の中をそっと覗くと、すぐに女将が僕に気づき、そう声をかけてきた。
「・・・ああ、すみませんでした。ところで、俺のめしあります?」
何気に気まずくて、ペコペコしながら聞くと、女将は優しく微笑んで僕に手招きをしながら言った。
「もちろんですよ。うふふ。さあ、こちらへどうぞ。皆さんと相席でいいですよね?」
「えっ?はあ・・・」
三十畳ほどのその広間の中央付近には、幾つかのテーブルを縦に並べて一つの大きな長テーブルが作られており、そこに各客一人ひとり分の料理がずらりと並べられていた。そしてそこでは、すでに十人ほどが座って会食を始めていた。そこにいるのは皆中年くらいの男性ばかりで、また、皆気の置けない仲間内なのか、とても和気あいあいと楽しげに談笑していた。
・・・しかし、突然あの中に加われと言われても、正直、僕はめちゃめちゃアウェイな感じで気が引ける。というか、凄く困る!?
「よう、にいちゃん♪こっちだこっちだ、さあさあ、・・・ほらほら、そんなとこでぼんやり突っ立ってねえで、こっち来なって!」
会席のなかの一人の男性が、酔っ払た調子でそう言いながらスッと立ち上がっると、いきなりこちらに歩み寄ってきて僕の腕をギュッと掴み、まるで強制連行するように僕を自分の席の横にへと座らせた。・・・うっ、ひどく酒臭い!
「おう!客人だ。みんな、よろしく!・・・あ、えっと、にいちゃん、名前は何だっけ?」
「えっと・・・斎藤です」
正直、訳が分からなかったが思わず答えてしまった。
「そう、斎藤君だ!この祭りのために、わざわざ来てくれたんだ!」
「うお~っ!!!よろしく~っ!!!」
意味不明だが、席についていたオジサン達が皆でパチパチと拍手をしながら声を合わせて歓声を上げた。・・・まあ、単なる酔っ払いである。・・・マジ、ウザイ!
「よう、兄さんは大学生か?一人旅なのか?いいよなあ。若いうちは、何でも好きなことが出来て、ほんと羨ましいぜ!俺も昔に帰りてえなあ」
「けどなあ、せっかくの夏休みに一人旅とは、ちと寂しいなあ。兄ちゃん、彼女はいないのか?」
「あははは、そんなの当然いるだろう。彼女の一人や二人くらい。だって、ハンサムだもんなぁ。・・・いや、それとも女なんか、めんどくさいだけか?あはははは!」
「あ~あ、くそ羨ましいなあ、けどなあ、俺が若かったころは、兄ちゃんなんかより、ずっとカッコよくて、めちゃめちゃモテたんだぜ!あはは!」
「ばか、よく言うぜ!しょっちゅう振られちゃ、ヤケ酒飲んで泣いてたくせに!」
「うるせ~っ!!余計なこと言うな!」
(・・・以下省略)
僕は何も答えていないのに、何故だかおっさん達は勝手に言いたいことを言いあって、好き勝手に盛り上がっていた。訳が分からん。・・・だから、酔っ払いは嫌なのだ。
当然僕は、いかれた酔っ払いなど無視して自分の食事に専念することにした。とにかく、一刻も早く飯を済ませてこの場を立ち去るのみである。・・・だが、
「さあ、お前も飲め。遠慮すんな、これはおごりだ。気が済むまでいくら飲んでもいいからな」
そう言いつつ、隣のオヤジがビールをなみなみと注いだコップを僕の目の前に置いた。
「いえ、結構です。僕、お酒は飲めませんから」
当然、僕はそう言ってはっきりと断ったが、やはりオヤジむきになって絡んできた。
「嘘つけ。飲める口だろう!顔にちゃんと書いてあるぞ!そのぐれえ見ればわかる。これはなあ、祭りの酒だ。飲まんとバチが当たるぞ!」
「はあ?」
僕はあきれて、軽蔑の視線を返した。するとそのオヤジは意味深げにニヤリと笑った。
「いいか、今年は12年に一度の大祭だ。祭りの準備も、その後のこうした会食も、皆祭りの一部だ。わかんだろ?お前、そんな祭りの酒を飲まないでどうすんだ?特に今日は願い札の花火を打ち上げた重要な日だ!・・・さあ、文句を言わず、ガンガン飲め!さあさあ!」
「・・・はあ」
僕は仕方なく、そのビールに口を付けた。本当は全く飲みたくはなかったのだが、これ以上歯向かって口論する元気もなかったのだ。もはやクタクタだった。ここは文句を言わず素直に従順なふりをして、とっとと飯を済ませて引き揚げよう。それが得策だろうと考えた。
(1)
夕食を共にしたオヤジ軍団は、要するに祭りの準備のために集まった仲間らしい。そして皆の顔をよく見れば、70近いだろう年配もいれば、まだ20代後半くらいの若い感じの人もいた。
また話の感じから、地元に住んでいる者と遠くからここへ手伝いに来ているらしい人がいるようであった。「やっぱり暮らすなら、都会なんかより故郷の方が断然いい!」なんて話題で訳もなく盛り上がっていたのだ。
・・・だがまあ、そんなことは僕にはどうでもいいことである。そもそも彼らの話のほとんどが僕には全く無縁の世界であり、何の話をしているのかさえよく判らなかったのだ。
というわけで、僕としてはとっとと食事を済ませ、一刻でも早くその場を立ち去りたかったのだが、どうにも隣のオヤジが最悪だった。年齢は40代後半くらいで名前は山崎なにがしとかいうらしいが、終始ベタベタとしてきて馴れ馴れしいいのだ。
それでも単に色々話しかけてくるだけならまだ良いのだが、人の背中をポンポン叩いてきたり、僕の肩に手を掛けてきたり、俺を飲み屋のホステスとでも勘違いしているんじゃないのか?と思うほどだった。って、もしかしてこのオヤジはホモか?・・・キモすぎる。
しかも、汗臭さとオヤジ臭とアルコール臭の混在した狂気の悪臭を吹きかけられ続けて、もはや飯が不味くなるのは当然で、しかも食事に集中できなくて、なかなか箸が進まなかった。
そしてまた、流れからついついビールを飲まされて、気がつけば僕もすっかり酔っ払ってしまったのである。・・・トホホ。
*
「それじゃ、俺はお先に失礼します」
自分の食事を終えると、僕は呟くようにそう言って静かに立ち上がった。都合のいいことに、あの山崎は他の連中との話に夢中なようで、僕のそんな様子に全く気づいていないようだった。だから、僕はこっそりと、抜き足忍び足で席を離れた。
広間から廊下に出たところで、ちょうど女将が広間へと戻るところで鉢合わせした。
「あら、斉藤さん。もう、お食事済みました?」
「はい、どうも。・・・えっと、とっても美味かったです」
「ありがとうございます。ふふふ」
女将は僕の言葉ににこやかに微笑んで答え、そしてその後、ふと思い出したように言った。
「ああ、そういえば、お部屋のご案内まだでしたね。ちょっと、待っててください。今ご案内しますから」
「あ、はい」
女将はパタパタと急ぎ足で広間に入ると、手に持っていたお盆を女中らしき人に渡して、少々話をした後、すぐに僕のところへ戻ってきた。
「お待たせしました。さあ、こちらです」
僕は女将の後について階段を上がった。そして二階の隅の部屋へと案内された。引き戸を空けて部屋へと入ると、そこは角部屋で二面にわたって窓があり外の景色が広がっているのがわかった。とはいえ既に外は真っ暗で、景色などほとんど見えはしなかったのだけれど。
そして遅ればせながら宿帳に名前を記載し、また旅館の宿泊規則などの簡単な説明を終えたあとで、女将がふと聞いてきた。
「それで、いつまでご滞在ですか?一泊だけでいいのかしら」
「あっ、いえ、祭りの日までお願いします」
僕は何も考えないまま、思わずそう答えていた。だが、一度口に出してしまった以上今更訂正する気も起こらず、やはり例の祭りを見て帰ろうと、そう改めて思った。
「じゃあ、二泊で良いのかしら?」
「ええ、はい。それでよろしくお願いします。あっ、でも、ほんと飛び込みで、なんだか済みませんでした」
「うふふ、そんなこと。空き部屋ばかりだからありがたいですよ。 ありがとうございます♪どうぞ、ごゆっくりしていってくださいね。あっ、あと、お風呂は10時半までです。お疲れになったでしょ?あんまり大きな浴槽ではないけれど、ゆっくり汗を流してくつろいでいらしてね」
「あ、はい」
*
女将が部屋をあとにすると、僕は早々にタオルと旅館の浴衣を手に風呂場へ向かった。一階へと降り、廊下をずっと奥へと進んでいったところの母屋から少しばかり離れた建物の中に浴場はあった。
『ゆ』と大きな一文字の書かれたのれんをくぐり脱衣所に入ると、そこには全くひと気がなく、食事をしていた広間とは対極なほど静かだった。見れば棚の脱衣籠はどれもカラで、他に入浴中の客もいないだろうことは明白だった。
ふと脱衣室の隅を見ると、そこにコイン式の洗濯機と乾燥機が設置されていて、僕は少しホッとした。実のところあまり着替えを持ってきておらず、汚れたTシャツやこの汗ぐちょになってしまったジーンズをどうしたものかと考えあぐねていたところだったのだ。
Tシャツは流しで雑巾みたいに洗うこともできるし、またすぐに乾くだろうから心配ないがジーンズについては考えものだ。だからといって、汗臭いズボンを何日も履き続けるのは我慢ならない。
しかしこれで一安心である。ジーンズに替えはないが、乾燥機があるからOKだ。僕は脱ぎかけていた服をまた着直して一度部屋に戻り、昼に着替えたTシャツなどの洗濯物を取って脱衣所に帰ってくると、それらを脱いだ服と一緒に洗濯機へと放り込んだ。そして自販機で購入した洗剤とコインを入れ、機械を始動させてから、改めて浴室へと向かった。
(2)
予想通り、浴室内には誰の姿もなく静まり返っていた。けれど室内は暖かな水蒸気で満たされていて全く寂しさなど感じなかった。むしろ、身も心も疲れきっていた今の自分には実にありがたい環境であった。
壁際に並んで配置された洗い場で軽くシャワーを浴びてから、浴槽にゆっくりと体を沈めた。風呂はあまり大きくないと女将は言っていたが、僕の感覚からしたら十分すぎるほど広々していた。
こんなふうに両手両足をいっぱいに伸ばして、ゆったりと湯船に浸かるなんて何年ぶりだろうかと思った。しかも、この大きな浴槽を一人で独占して。
この湯は残念ながら温泉ではなかったが、入浴剤の程よく控えめな香りはとても気持ちよく、全身にムラなくじんわりと伝わってくる湯の熱も心地よかった。ふと油断すると、このまま眠ってしまいそうな気分で、僕はぼんやりと天井を見上げた。
天板は、やはり相当年期が入っているようで、全体に黒ずんでいて、所々緑色にコケむしていて、水滴が星空のように散りばめられていて、なんとなく不思議な幻想絵画を眺めているような感覚だった。
そしてふと、あの『みつき』の顔が浮かんできた。あの笑顔が、あの野うさぎのような後ろ姿が、コロコロとその表情を変える綺麗な瞳が、そして、どこか幼さの感じる彼女の子供っぽい声が、言葉が・・・。
「なんだったんだろう?」
改めて、思った。本当に奇妙な一日だった。不思議な娘だった。今となっては、まるで現実味を感じられない。・・・本当に、なんだったんだろう?
彼女は、なんだって、こんな僕に声を掛けてきたんだろう?間抜けそうだから、安心だとでも思ったのだろうか?
・・・しかも、どうして、僕のような見知らぬブ男に対して、あんなにも親切にしようとするのだろう?わけがわからない。
けれど、僕に女の子の気持ちなど全くわからない。そもそも、女の子と二人だけで話をするのも初めてだった。もう二十になろうというのに、デートの一つもしたことがない。
高校時代に好きな子はいたけれど、なかなか気持ちを告白できなくて、卒業して離れ離れになって、それでも忘れられなくて、ようやく気持ちを明かしたけれど、当然ながら彼女には既に相手がいて、僕はそれでようやく自分を諦めた。
・・・いや、未だに未練タラタラか。
きっと僕は、未だに誰かから愛されたいなんて幻想を捨てきれずにいるのだろう。僕のような無能な男が、女の子から愛されるなんて、絶対にありえないのに。
・・・だが、そんなことをぼんやりと夢想している時だった。突然、脱衣所のあたりが騒がしくなっているのを感じた。大勢の人の声が行き交い、この浴室内にもそうした笑い声や会話が響いてきた。
そうだ、この声の感じは、あの広間で食事を共にした、あのオヤジ達だ!
*
程なくして、この癒しの空間はウザいオヤジ達の臭気で汚染されることとなった。オヤジらは皆、ろくに体を洗おうともせず、湯船から桶ですくった湯を軽く股にひっかけると、ぞろぞろと湯の中に体を沈めていった。
暑苦しオヤジ達の日焼けした肉体がこちらへ向かって押しかけてきて、僕は慌てて湯船から飛び出した。
「よう、兄ちゃん。もう、のぼせたのか?アハハハ!」
オヤジの一人がそう言って笑うと、他の奴らもニヤニヤしながら同調するように笑い声を発した。・・・マジウザい!
僕は当然のごとく無言で急ぎ洗髪を済ますと、逃げるように脱衣所へと脱出した。すると背後で、「なんだ、もう出るのか?カラスの行水だな!」と、馬鹿にするような声が聞こえた。そしてその声は、そう、あの山崎とかいうオヤジであろうことは間違いなかった。
本当に糞ウザいおっさんだ!嫌気がさす。
脱衣所で体を拭きながらふと洗濯機を覗いてみたが、やはり洗濯終了までには、まだ時間がかかりそうだった。本当は洗濯物を乾燥機に移してからここを出たかったのだが、あまり長居をしたくないのが本音である。
仕方なく、僕はドライヤーで手早く髪を乾かし浴衣を着終えると、さっさとその場をあとにした。
ひとり、宿の母屋に通じる渡り廊下を歩いていると、何もなく静寂なその空間に、僕が床板を踏む軋み音だけが、ギシギシと静かに響いていた。
(3)
自室に戻ると、部屋には既に布団が敷かれていて、それまで畳部屋の中央にドンと鎮座していたはずのテーブルは隅へと追いやられ立てかけられていた。
僕はおもむろに部屋の隅に設置されていた小型冷蔵庫からソーダ水を一本取り出すと、栓抜きでポンっと瓶の蓋を開け、窓際にあった椅子へと向かった。
窓の外は当然真っ暗だったが、不思議な静寂がそこにはあって、霞んで見える山々の樹木の枝が、ゆっくりと風に揺れているのが感じられた。すると肉体の疲労が急にすうーっと湧き上がってきて、瓶を持っている手がゆらゆらと落ちていった。
ハッとして我に返り、僕は瓶の飲み口を唇まで運ぶと、その炭酸の効いた砂糖水を一気に喉へと流し込んだ。冷たくジュワッとしたさわやかな感触が喉の奥まで広がって、それからハーっと深い溜息を吐いた。
そして、頭に浮かんでくるのは、やはり、みつきのことだった。
「なんでだろ?やっぱり、以前に彼女に会ったことがある気がする。・・・いや、そんなわけ、絶対にあるはずないのに」
*
「・・・・・・うっ、あれ?」
ふと目が覚めた。ぼんやりと、目の前の小さなテーブルの上のソーダ水の瓶が目に留まって、それで今の自分の状況に気が付いた。
・・・そうだ。椅子に座ったまま寝ちゃったんだ。
ソーダ水の瓶を掴むと、まだ中身が半分残っているのが分かって、僕はその少しばかり気が抜けて、ちょっとぬるくなってしまった炭酸水を飲み干した。それから二、三回自分の頬を両手で挟むようにペンペン叩いて気合を入れて、再び浴場へと向かった。
部屋を出ると、既に照明が落とされ廊下は薄暗かった。そして館内は不思議なほど静けさに包まれていて、自分の足音だけが必要以上に響いていた。
なんだか妙な気分だった。あの、みつきとの出会いといい、その後のおやじ軍団といい、今日はありえないほどに騒がしい一日だった。そう、僕のそれまでの日々とはまるで真逆で、嘘のように賑やかで、意味不明なほど人のぬくもりに包まれていて・・・
誰もいない静まりかえった廊下を、自分以外誰の存在も感じない空間を、ひとり歩いていて、ふと言い知れぬ寂しさがこみ上げて来るのを感じた。
「・・・なんでだろう?独りでいるのが寂しいなんて、全然思ったことなかったのに」
*
『ゆ』と書かれたのれんをくぐり脱衣所を覗くと、まだちゃんと電気がついていて少しホッとした。けれど壁の時計を見ると時刻は既に午後11時近くになっていた。
確か入浴は10時半までと聞いていたから、正直ギリギリだったようだ。でも、別に僕は風呂に入りに来たわけではないから関係ないのだけれど。
僕は当初の目的を果たすべく、脱衣所の一番奥にある洗濯機へと向かった。当然、既に洗濯は終了しており、洗濯槽を覗くとジーンズやシャツが脱水され絡まって一固まりのドーナツのようになっていた。
僕はそれをそのまま掴み取り、洗濯機の上部に設置されている乾燥機へと移した。コインを入れスイッチを押すと、乾燥機はゴーッと唸りをあげ、熱風を吐き出しながらガタンガタンと振動しながら回転を始めた。
しっかりと乾くよう設定時間は2時間としておいた。だが、さすがに2時間もここで独りで終了を待っているのも馬鹿らしいので、明日の朝にでも取りにくればいいやと、そう考えていた。・・・だが、そんな時だった。
ガラッと、突然浴室と繋がる引き戸が開いた。ふと見ると、そこには素っ裸の10歳くらいの少年がいた。少年は僕を見るなりびっくりしたような顔をして固まった。
『カラン』っと、何かが落ちる音が人けのない室内に響いて、僕はふと音のする方に目を向けた。すると黄色いアヒルのおもちゃが僕の足元の方へと転がってくるのに気がついた。
僕はそのおもちゃを何気なく拾うと、その少年に差し出した。少年は何も語らぬままスっとそのアヒルを受け取ると、気まずそうに顔をしかめ、挨拶もないまま自分の服の置いてある脱衣カゴの方へと走っていった。
なんだか緊張している感じのその少年に申し訳ない気がして、僕は足早にそそくさと脱衣所から外へと出た。
「しかし、こんなギリギリの時間まで風呂に入ってるなんて、あの子もよっぽどの風呂好きなのかな?」
と、思わず少し笑いがこみ上げてきた。
思えば、あんな歳の頃、僕も風呂が好きだった。父の帰りを部屋で独りで待っているのが嫌で、意味もなく何時間も小さな風呂場の湯に浸かってぼんやりとしていたことがあったなぁと、ふと昔の自分を思い出した。
*
自室に戻ると、もはや僕の脳みそは眠ることしか思わなかった。歯磨きとトイレを済ますと、意識を失うように布団の上に倒れ込んだ。そして、もはや何も感じることもなく、何も考えず、そのまま深い眠りに沈んでいった。
(4)
「ルルルルルルルルルル ルルルルルルルルルル ルルルルルルルルルル ルルルルルルルルルル」
電話の発する電子音に鼓膜を刺激され目が覚めた。ぼんやりとした意識の中、イモムシのように体を引きずって受話器を取ると、女将の爽やかな声が聞こえてきた。
「おはようございます。昨晩は、よく眠れましたか?うふふっ♪朝食の準備が出来ましたから、お早めに広間の方へおいで下さいね」
洗顔を終え、すぐに広間に向かおうと思ったが、その前にしておかなければならないことを思い出した。
僕は部屋を出ると、足早にそこへと向かった。そう、浴場の脱衣室だ。とにかくあそこに行って洗濯物を回収してこなければ、今日履くズボンがないのである。もっと着替えを用意してくればよかったかもと今更に思ったが、あの泥酔位状態で、ちゃんと下着やTシャツの換えを持って出ただけ、まだマシだったのかもしれない。
そして脱衣所の乾燥機から洗濯物を取り出すと僕は再び自室に戻り、浴衣を脱いでズボンを履いた。それから、ふと洗面所の鏡のなかのみすぼらしい自分の顔と対面して、とりあえず持参した携帯型の電気ひげそりで無精ひげを綺麗に剃って、それから改めて朝食へと向かった。
*
階段を降り廊下を進んで広間についた。そして広間を覗いて、ふと疑問を感じた。思っていたより全然人が少なかったのだ。・・・それも、まるっきり。
そこにいたのは、なんと一人だけだった。それも、あの山崎とかいうウザいおっさんだけである。
広い畳敷きの室内にポツンと一つだけテーブルが置かれていて、そこで山崎は独りで黙々と食事をしていた。そして彼の向かい側には、多分僕の分であろう朝食が整然と並べられていた。
昨晩の、あの賑わいはなんだったのだろ?と思わず首を傾げた。
「おはようございます」
僕は小声で申し訳程度に、そう挨拶をした。すると山崎は「おう!」と昨日と変わらぬふてぶてしい表情で僕に答え、黒々と日焼けしたその分厚い手のひらを僕に向けてかざした。
そして、僕は何もないかのように静かに席へと座り、自分の朝食を開始した。とにかく、触らぬ神に祟りなしとばかり、静かに食事を終えたいだけだった。・・・けれど、どうしても気になって、ふと呟くように聞いた。
「昨日の人たち、どうしたんですか?もう、先に食事終えて出てったんですか?」
僕の問いに、おっさんは少し驚くような表情を浮かべたあと、鼻で笑うように言った。
「泊り客は俺だけだ。昨晩は皆で集まって飲んでただけさ。この村には、飲み屋の一件もないからな。まあ、ほかの連中は、自分家や親戚んとこに泊まってらあ、他に行き場のないのは、この俺だけだってことだよ」
「・・・え?」
僕は彼のその言葉の雰囲気に、ふと違和感を感じた。
そして、おっさんは昨晩とは一転して、僕の方にはほとんど目を向けることもなく、ただ独り黙々と食事を続けていた。
昨日は、単純にむさ苦しいだけのオヤジだとしか思わなかったのだが、不思議と今朝は何か深い寂しさのようなものを彼の中に感じずにはいられなかった。・・・まあ、僕にはどうでもいいことなのだけれど。
だが、おかげで食事の方は快適だった。僕は周囲のことなど何も気にせず、気持ちの良い朝食にありつけた。
しかし朝起きると、こんなふうにきちんとした食事が用意されているなんて、ある意味僕には夢のようである。毎朝、誰かが食事や弁当を作ってくれて、それが当然な人生とは、いったいどういうものなのだろうかと、ふと思った。
*
「じゃあな、諦めずに今日こそ御札を見つけろよ」
そう呟くように言いながら、山崎が立ち上がった。どうやら僕より先に食事を終えたらしい。そしておっさんは、そのまま玄関の方へと向かって歩き去っていった。
・・・けど?『今日こそ御札を見つけろ』って、何のことだ?訳がわからん。
すると、入れ替わるように今度は女将が僕のところへとやってきた。そして僕の様子を覗き込むように眺めてから、小声で言った。
「うふふ、斉藤さんたら、やっぱりそういうことだったのね。うふふ」
「え?」
意味ありげな女将の表情に驚き、僕は首をかしげた。すると女将はニンマリと笑いをこらえるような顔になり、そしてポツリと囁いた。
「ロビーで彼女がずっとお待ちですよ。早く行ってあげて♪」
「は?・・・・・・、あっ!」
僕は慌てて残りの飯を口の中へとかっこむと、さっさとお茶で喉の奥まで流し込んで立ち上がった。女将はそんな僕の様子を見て、なんだかえらく楽しそうに微笑んでいた。
(5)
急ぎ足でロビーまで行くと、フロアー隅の休憩スペースのソファーにちょこんと座っている、みつきがいた。今日は制服ではなく、涼しげな半袖のシャツにデニム地の短パンだった。けれど、相変わらずの長いツインテールで、水色の大きなリボンも健在だった。
「あっ、御免。なんだか待たせちゃったみたいだね。・・・いや、ホントに来ると思ってなかったから」
「えっ? ・・・いえ、そんなに待ってないです。というか、済みません。その、朝から図々しく押しかけちゃって」
みつきはそう言って頭を下げた。長い髪がふわりと揺れて、水色のリボンが風になびいて、僕は改めて、昨日の出来事が現実だったことを認識した。
「いや、ほんとに来てくれて嬉しいよ。・・・えっと、今、急いで支度してくるから、ちょっとだけ待ってて」
みつきは僕のその返事を聞いて、やんわりと微笑んだ。僕は彼女のその笑顔を見て、何故だか少しホッとして、そして急いで部屋へと向かった。
*
部屋に戻ると洗面所で歯を磨いて顔を洗って、少しだけ髪型をいじった。そして服装を確認してから財布をポケットに押し込んで、一度深呼吸してから部屋を出て、急ぎ足で階段を降りた。
ロビーに戻ると女将がそこにいて、みつきと何やら楽しそうに話をしていた。だが、僕が来たことに気づくと、女将は彼女から離れ僕の方に寄ってきた。そして僕の耳元でこっそりと囁くように言った。
「うふふ、あんな楽しそうなみつきちゃんの顔、初めて見るわ。うふふ、絶対泣かせたりしちゃだめよ♪うふふふ」
「えっ!?」
僕が驚いて目を丸くすると、女将は更に嬉しそうにニヤニヤしながら歩き去っていった。・・・正直、わけがわからない。
そしてその時ふと視線を感じ、みつきの方を見た。すると何故か彼女はサッと視線を逸らした。・・・なんなのだろう?
けれど、いったい女将と何の話をしていたのだろうか?
少し気になったが、まあ、どうでもいいことだろう。でも、どうやら女将は変な勘違いをしているようだ。・・・まあ、どうでもいいことだけど。
「ごめん。準備オッケー、えっと、今日はどこに案内してくれるの?」
「あっ、はい!・・・えっと、どこか行きたいところはありますか?わたし、大翔さんの行きたいところなら、どこへでもご案内いたしますけど」
みつきはバカに緊張した面持ちで答えた。だが『どこか』と言われても僕にはこの村に何があるのかさえよく分からない。
「どこでもいいよ。昨日みたいにおすすめの場所があったら、そこに行こう。あっ、でも、もう山登りは飽きたかな。どこか近場で、のんびりできるところがいいかな」
「あ、はい。・・・う~んと、それなら、郷土史資料博物館はどうですか?たいした展示はないけど、あそこなら冷房もきいてるし、すぐ近くだし、のんびりはできるかな?」
「じゃあ、そこに行こう」
みつきはニッコリと微笑んで頷いた。
そういえば、郷土史博物館があるという話は、昨日女将からも聞いていた。まあ、要するに、この村にはあのお月見山とその郷土史博物館くらいしか、特に行くとこなんかないのだろうね。
(6)
僕は昨日同様、みつきの後ろを付かず離れずついて行った。そして彼女はその道中、ずっと僕に色々と話しかけてきた。まあ、しかしその内容は本当にどうでも良いような世間話のようなもので、僕は話半分に漫然と聞いているだけだった。
何か気の利いた返答の一つもできれば良いのだけれど、口下手の僕にはろくな言葉など思いつかない。だからほとんど、ただ相槌をうっているしかできなかったのだ。
・・・けれど、今日の彼女は手提げ袋を下げていて、そこには何やら重たそうな箱のようなものが入っているようで、僕は当然手ぶらだったので、ふと「持とうか?」と聞いてみたのだが「全然平気」とあっさり断られた。
まだ出会って間もないし、彼女のことは全然知らないが、けれどこの『みつき』という女の子はどこか頑固なところがある。また、凄くマイペースな感じがする。そして正直なところ、何を考えているのやら意味不明だ。訳のわからない娘である。
・・・でも、なんでだろう?彼女といると不思議と安心する。あの、何気ない笑顔を見ていると、自分は幸せでいて、それでいいような気がしてくる。
・・・なんでだろう?
でも、間違ってはいけない。彼女の親切に甘えてはいけない。馬鹿なこと考えちゃいけない。彼女の思いを裏切らないよう、きっとこの娘が満足するように、きっと楽しい思い出になるように、きっと、僕がそのために少しでも役に立つように、きっと、そうあろう。
みつきの後ろ姿を見つめながら、改めてそう思った。
*
「この公園の敷地には、昔『浜見城』という大きなお城があったと言われています。でも実は、それはあくまで伝説らしくて、ちゃんとした証拠はまだ無いらしいんだけどね。でも、わたしは本当にお城はあったんだと思ってます。うふふふ♪」
『浜見城跡公園』と書かれ門柱を抜けたところで、みつきがガイド気取りで、そう説明を始めた。
「え?けど、公園じゃなく、博物館に行くって言ってなかったっけ?」
「ああ、大丈夫!郷土史博物館はこの公園の一番奥にあるの。もう少し先だよ♪」
今日のみつきは、やはり昨日にも増して楽しそうだった。きっと、こんなふうに人に親切にするのが好きなのだろう。明るい子だし、人懐こい性格のようだ。
・・・けど、ふと『あんな楽しそうなみつきちゃんの顔、初めて見るわ』と言っていた女将の言葉を思い出し、奇妙な気がした。
いや、きっとあれは単なる冗談だったのだろう。だってみつきは、どう見たって、みんなから好かれる明るい性格の女の子である。そう、僕なんかとは正反対だ。
「どうしたの?」
みつきが僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
「え?いや、ただちょっと考え事してただけだよ」
「・・・大翔くんて、たまに遠いい目をするよね。ふふふ♪」
みつきはふざけたようにそう言って笑った。そしてスっと右手をあげると、団体旅行のガイドが客の先導で小旗でも振るみたいなパントマイムをして「さあ、郷土史資料博物館はこちらで~す!ちゃんとついてきてくださ~い♪」と言いつつ小走りに足を進め、それからパット振り返り、「早く早く!」と手招きをしながら一人でニヤニヤ笑っていた。
本当にひょうきんな女の子だ。
*
公園の奥の方は小山のような高台になっていて、僕はみつきの後についてコンクリートの階段を登って行った。そして上がった先は下とは違い、無造作に太い樹木が生い茂っていて少し薄暗く感じた。
また、城跡だったという伝説があるだけに、いたるところに大きな四角い岩がゴロゴロしていて、また所々高く積み重ねられていたりして、確かに、かつてここには城の石垣が作られていたのかもしれないなあ、と連想させられた。
ふと見ると、敷地の中央付近に小さな社がちょこんと建っていた。そして僕がぼんやりとその社を眺めていると、みつきが呟くように言った。
「あれは、鏡月姫の社だよ。鏡月姫っていうのは、大昔この浜見城に住んでいたといわれている伝説のお姫様」
「へえー、ここのシンボルみたいなもんか」
「うん。そうかも。この土地の大切な伝説の主人公かな?・・・そう、そういえば、昔は浜見神社じゃなくて、この場所から願い札の花火を打ち上げていたんだって。でも、火事の心配や、飛ばした御札がうまく散らばらないからとか、そんな理由から、今は神社の方で打ち上げるようになったんだって、子供の頃、父から聞いたことがある」
みつきは、少し思いにふけるような表情で言った。そして、そのあとポツリと言葉を追加した。
「・・・鏡月姫の伝説って、ちょっと悲しいけど、とっても素敵なお話だよ」
(7)
それは鉄筋コンクリートの簡素な作りの四角い二階建の建物だった。見ると出入口と思われるガラス扉の上部には『浜見村立郷土史資料博物館』と金色の文字があった。
そして僕は、当然なんの躊躇いもなくそこへ向かった。だが、玄関のガラス戸の前に立って奇妙な違和感を感じ固まった。・・・そう、小さなパネルがドアの取っ手にぶら下がっていたのだ。そしてそこには赤文字で『閉館中』と記されていた。
ふと、大きなガラス戸に直接書かれた案内書きに目を向けると『開館時間10:00~16:00』とあった。・・・って、おいおい!
「あれ?今日休館日だったっけ?そんなわけないのに!」
みつきが驚いた声でそう言った。
「いや、そうじゃなくて、まだ開館時間になってないって」
「えっ?、・・・あっ!」
みつきは僕の指差す案内書にちらりと目を向けた後、自分の腕時計をさっと見て目を丸くした。そして「どうしよ~う?まだ開館まで一時間半以上あるよ・・・」と半泣きな声をだした。
・・・って、ダメすぎるだろう?天然恐るべし!全然ガイドになってないぞ!?
「どうする?仕方ないから、他行く?」
僕がそう聞くと、みつきは更に困ったような顔になって言った。
「でも、ここ以外に行く場所なんかあったかなあ?・・・どうしよう」
「じゃあ、喫茶店とかで時間潰すとかはどう?」
「う~ん、この村に喫茶店なんか一つもないよ」
「じゃあ、・・・えっと、どこでもいいから、どこかないの?」
「う~ん、・・・・・・・・・」
と、そこで早くも会話が止まった。だが、ここでただ呆然と一時間半過ごすのは堪らない。何とかせねば!・・・っていうか、本当にこの村には何もないらしい。
考えてみれば、そもそも、こんな村でボランティアのガイドをしようと考えたみつきの頭の中が不思議である。しかも、肝心のガイドの方もこの有様だしね。
「ここは公園なんだし、散歩でもしようよ」
ふと呟くようにそう言うと、みつきは僕の顔をふと見つめながら「うん」と小声で返答した。
*
特に何もない公園内を二人でフラフラと歩いて回った。そして時より、みつきはふと立ち止まっては「ほら、この花、すごく綺麗♪」などと言って、ちょんちょんと僕の肩を叩いてきて、それで一緒にぼんやりとしばし草花なんかを眺めたりした。
小山に囲まれた田舎だけに、午前中の空気は何となくひんやりとして涼しくて、特に何もない園内を、こうしてただ歩いているだけでも気持ちがよかった。
そして、みつきが話すことといえば、結局のところどうでもいい世間話や芸能ネタなんかばかりで、全く観光ガイドを受けているという雰囲気などではなかった。
・・・そう、まるでデートでもしているみたいである。まあそれはそれで、本心ではとっても楽しかったのだけれど。でも、やっぱり、違和感が拭えなかった。
「なんでガイドなんかしようと思ったの?しかも俺なんかに」
ふと聞いてみた。するとみつきは「えっ?」と不思議そうな顔をしてから、ぽそっと呟くように答えた。
「大翔くんを見つけたとき、ふとひらめいたの」
「えっ!?」
みつきの言葉に違和感を感じ、思わず彼女の顔を見た。するとみつきは、ふと我に返ったように目を見開いた。
「えっと、だから、夏休みの課題を何かしなくちゃって考えてた時に、旅行者らしい大翔さんを見て、それでとっさに、観光ガイドくらいなら自分にも出来るかな?って、そう思いついたの」
「なるほどね」
僕はみつきの返答を聞いて、少し謎が解けた気がした。やはり、この娘は天然なのである。・・・けれど、ガイドくらいならって、結局出来ていない気がするのだが?
「でも、どうしてそんなこと聞くの?・・・やっぱり、迷惑だったかなあ?」
みつきが僕の顔を覗き込むようにしながらそう聞いてきた。僕は思わず慌てて返答した。
「えっ、いや、そんなこと全然!ほんと、君のお陰で、すごく楽しいよ。ありがとう」
けれど、みつきは相変わらず疑問符を残すような表情で、しばし僕の顔を見つめた。
「喉渇いたね。・・・そういえばさっき、博物館の脇で自販機見かけたなあ、なんかジュースでも飲もうよ。もちろん、おごるから」
僕はそう言って、話を逸した。するとみつきは「うん」と小さく頷いた。
(8)
僕が自販機にコインを入れて「何か選んで」と言うと、みつきは「ありがとう」と答えつつ、すぐにボタンを押した。ガチャンと缶が落ちる音を確認した後、自分の分のコインを投入した。すると、みつきが嬉しそうにポツリと言った。
「うふふ、ファンタグレープあるよ♪」
「あ、ホントだ。ラッキー!」
僕は迷わず、そのファンタグレープを選んだ。そう、ファンタグレープは僕の一番好きなドリンクだった。確かにグレープジュースのくせに果汁の入っていない代物だが、僕としてはそこに惹かれた。子供の頃この事実を知って以来、自分の中でファンタは科学の凄さを実感できる最も身近なアイテムとして位置づけられたのだ。
・・・あれ?でも、なんでみつきは俺の好みを知ってたんだ?
「大翔く~ん。こっちで休も~っ♪」
いつの間にか、みつきは少し離れた木陰のベンチのそばにいて、僕を呼びながら手を振っていた。僕はつまらない疑問など忘れ、すぐにそこへと向かった。
*
「もう、そろそろ開館時間だね。なんだか思ってたより、あっという間に過ぎちゃった」
木陰のベンチでゆっくりとジュースを飲み終えた頃、みつきが腕時計を見ながらポソリと言った。
そう、確かに全く退屈しなかった。特に何をしたわけでもなく、ほとんどぼんやり歩いていて、たまに話をしていただけだったのに、・・・本当に不思議だ。
「けど、君のその腕時計、ちょっとガキっぽくない?それって、サンリオか何かでしょ?今、学校でそういうのが流行ってんの?」
ふと無意識に言葉に出ていた。嫌味のつもりではないのだが、実のところ昨日から気になっていたのだ。みつきのその腕時計は花柄の青いベルトで、文字盤にはファンシーなウサギのイラストが描かれていたのだが、正直小学生向けの幼稚なデザインだった。さすがに高校生がはめているのには違和感があったのだ。
「え?、ああ、うん。・・・これ、父に買ってもらった大事なものだから」
「ふ~ん。でも、君には、もっと大人っぽいモノの方が似合うと思うよ。まあ、ウサギ好きなのは分かるけどさ」
僕がそう返すと、みつきは少し不満げな表情で首をかしげた。そして、少しばかり刺のある口調でポツリと言った。
「あのね、大翔くん。わたしの名前は『キ、ミ』ではないよ。『み、つ、き』だよ。ちゃんと約束守ってね♪」
「え?」
僕は、そのみつきの言葉の意味が一瞬わからなかったが、ふと気がつき苦笑した。そして結局、何も言い返せなかった。・・・だが、別にわざと名前を避けて『君』と呼んでいたわけじゃない。ただ、無意識にそう呼んでいただけだ。
・・・確かに昨日、名前で呼び合うことを約束したが、別にどうでもいいことな気がするのだが。全く、女の子はめんどくさい。・・・って、あれ?
気のせいかもしれないが、みつきは俺のこと、いつの間にか『さん』付けではなく、『くん』って呼んでないか?それに、すっかりタメ口になってきているような?
・・・まあ、どうでもいいけど。
「さあ、大翔くん。そろそろ行こ♪もう、開く時間だよ」
みつきはそう言いながら、スっと立ち上がると、スキップするように数歩進んで、パット振り返り、またお得意のおいでおいでポーズをしてみせた。
・・・しかし、なんだか、自分が彼女の飼い犬みたいな気がしてきた。まあ、どうでもいいことだけど。
・・・それにしても、みつきは本当にマイペースな娘である。かなわん。
(9)
博物館の入口に着くと、丁度係りのおじいさんがガラス扉の札を掛け替えているところだった。そしてみつきがにこやかに軽く会釈すると、爺さんはそっと扉を開き、にっこり笑って手招きしながらホールへと入れてくれた。
入館は無料だったが、記帳だけは必要だった。しかし、その帳面に記された人の数は見るからに少なく、よくもまあ、こんな過疎村がこんな大層な施設を維持できたものだと少し呆れた。だが室内は冷房が効いていて、外よりは全然快適なのは言うまでもなく、ここは素直に喜ぶべきところだろうと思い直した。
入ってすぐのホールには、大きな鯨の骨格標本が天井からぶら下げられていて、壁際には古い木造の手漕ぎの漁船が飾ってあった。また、その壁面にはこの地の漁業の歴史を表しているらしき写真パネルなどがずらりと並べられ、解説文付きで展示されていた。まあ、ここは漁村のようだから当然だろう。
そして隅には『順路→』と書かれたパネルがあって、僕はそれに従いフロアー奥の展示室へと足を進めた。
どうやらここの展示は歴史の古い順に並べられているようで、古代旧石器時代の黒曜石で作られた石器から始まり、縄文、弥生、古墳時代、奈良平安から江戸時代まで、そして近代へと、徐々に進化していくこの地の生活の有り様を、古地図などと合わせながらも、コンパクトに細かく区切って展示しているようだった。
しかしながら、正直なところ、やはり田舎の過疎村の博物館だけに、その内容に特筆すべき点等まるでなくて、とりあえず形になりそうなものを適当に集めて並べられているだけのようにしか思えなかった。
そして、我専属のありがたいボランティアガイド様はといえば、勝手にフラフラと歩き回っては、時より興味深そうにガラスで仕切られた展示ケースの中を一人で覗き込んでいた。・・・要するに、全然ガイドらしい振る舞いはしていないわけだが、まあ、今更気にすることもあるまい。
「ねえねえ、大翔くん、こっち来て。・・・あのさあ、アレなんだと思う?」
みつきが何やら珍しいモノでも発見したようで、盛んに手招きしながら僕を呼んだ。
「ああ、これは古墳時代に使われていた武具や装具だよ。すっかり錆びて朽ちかけているからなんだか良くわからないけど、要するに鉄器とか刀とかだろ」
みつきは感心するように目を丸くした。
「すご~い、一目見てわかるんだ。わたしはなんでこんな泥の塊が置いてあるのかって、ビックリしちゃったのに!」
僕はみつきのその言葉に、思わず呆れて謎解きをしてあげた。
「いや、単にそこの説明書きを読んだだけだよ」
すると彼女は表情をくるりと変え、
「な~んだ、感心して損したっ!・・・うふふふっ、あははははは♪」
と、一人でウケて笑い出した。
・・・いや、もしかしたらこいつ、わざとボケて俺をからかってるんだろうか?まあ、どうでもいいが。
「あのさあ、君は一応、ガイドなんだろ?だったら、君の方が少しは俺に説明してくれてもいいんじゃないの?一応、地元に住んでるんだし、この土地の歴史についても、少なくとも、俺よりは詳しいわけだろ?」
そう少々皮肉を込めて言ってやると、みつきは少しだけ真面目な顔になって「そうだね」と答えてから、展示ケースの方に手のひらをかざしつつ「ゴホン、ゴホン」と二、三度咳払いをしてから、スっと真面目な声になって話始めた。
「えっと、まず、これですが、これは6世紀頃の大和朝廷の時代、王権を中心とした各地の有力者たちが・・・」
「あのさあ、話の途中悪いんだけど、解説のパネルなら、俺も自分で読めるから」
「えっ!?あっ、そうだね。・・・うふふふふふ、あははははは♪」
みつきはやけに嬉しそうだが、正直僕には苦笑いしか出なかった。・・・マジ、女子高生のジョークに付き合うのは疲れる。勘弁してくれ。
(10)
ここの展示は、正直どんなに頑張っても僕には30分見ているが限界だった。はっきり言って、まるでつまらない。しかも、その展示数も内容も、共にお粗末だ。
だが、みつきの方はといえば、ふざけ半分な割には、あちこち何度もウロウロ歩き回りながら、色々な展示を熱心に眺めているようだった。
「ねえ、その展示、そんなに面白い?だって、君は地元だから、もう既に飽きるほど見てるんじゃないの?」
熱心に展示ケースの中を見つめているみつきに、そう声をかけると、彼女は不思議そうな顔で僕を見た。
「ううん。実はわたし、ここの展示見るのすごく久しぶりなの。昔、子供の頃にお父さんと見に来て以来かな?でもね、確かにその頃と、全然内容が変わってないんだよね。うふふふふ♪
・・・でもね、だからその、いろいろ見てたら、なんだか、いろんなこと思い出しちゃって、その、なんだか懐かしくなってきて」
「そっか、でも、そろそろ二階に上がってみない?なんだか二階にも、まだ少し展示があるみたいだよ」
「うん、そうだね。そろそろ二階にあがろ、」
なんだか思い出に慕っているらしき彼女には申し訳ないが、僕は退屈すぎて今にも寝てしまいそうだったのだ。・・・まあ、この調子では二階に上がったところで、すぐに飽きるだろうが、このまま一階に居続けるのはもう限界だった。
*
二階に上がりフロア内を一周してみて、みつきが何故いつまでも一階に留まっていたのか、その理由が良く分かった。そう、二階の展示は僕のようなよそ者には本当にどうでもいい物ばかりだったのだ。
この地のかつての網元だとか郷士だとか、村と繋がりのあった政治家だとか権力者だとか、まあ要するに、そんな郷土に関わりのある有力者たちの人柄や業績などが、古文書や文献など共に、写真パネルや肖像画などで紹介されていたのである。
しかも、こんなド田舎の小さな村だけに、そんな人物の中に僕が知るような全国区な有名人などいる訳もなく、説明を読んだところで何の得にもならないことは明白だった。
・・・いや、しかし、ここは郷土史資料館なのだから、本来こちらの方が主たる展示なのかもしれないけどね。・・・トホホ
正直僕はもう、すっかり気が抜けてしまって、早くもここから脱出したくなってきた。
・・・しかし、考えてみれば、こんなところに入るために一時間半も待った意味ってあったのだろうか?・・・いや、もう過ぎてしまったことは考えまい!
だが、そんなことを考えていた時だった。ふと気になるものを発見し僕の足が止まった。それは3メートル位ある長細いガラスケースの中に大切そうに収まっていた。
素人の僕には正直良く判らないが、それはいわゆる絵巻物のようだった。そう、学校の教科書にあった平安絵巻みたいな感じで、長い巻紙に紙芝居みたいな絵が、何かの物語の順を追って続けざまに描かれているようだった。
*
始めの絵は、華やかな感じのお城の中の一室。そこには綺麗なお姫様が一人。だが、何故だか、その隅に奇妙な暗雲みたいな黒い影が滲み寄ってきている感じ。
そして次の絵は、随分と雰囲気が暗くなって、すっかりと部屋の中が不気味な暗雲に包まれてしまっていて、その中央で姫が怯えている。そして、その暗雲の影には黒々とした気味悪い鬼の姿が描かれている。だが、周囲の従臣たちは皆怯えおののいていて、全然役にたってないって感じだ。
次の絵。今度は少し背景が変化して、姫らしい女の人は床で寝ているようで、老若男女、色んな人がその周りを心配そうに囲っていて、坊さんだか祈祷師みたいな人物が円い鏡を前に祈っている。そして画面の上部では、そんな皆の振る舞いを眺めるように、あの黒い鬼がニヤニヤ笑っているって感じだ。
次の絵では構図が随分変わって、村と城を遠くから見た感じの絵になっていて、そして何故だか城を中心に噴水みたいに幾筋も光の線が周囲に向かって広がっていた。そして、やはり、城は黒い雲で包まれているようで、不気味な雰囲気をかもし出していた。
(あれ?この感じ、どこかで見たことがあるような?)
次の絵。なんだか、また少し感じが変わって、今度は村人らしき人々が、田園風景のあちこちに小さく描かれていて、皆何かを探しているようにかがんでいる。そして、その中には光るガラスの欠片みたいなものを拾って掲げている村人の姿もある。そして、そんな構図の隅の方に、何故だか一人の旅人みたいな侍がスッと凛々しく立っている。
次の絵。今度はまた、場面が城の中に戻る。姫は相変わらず床に伏していて、けれど、その前には割れて継ぎはぎだらけの鏡が置いてある。そう、幾つか前の絵では普通に円かったあの鏡だろう。だがその鏡は、一か所が抜けていて綺麗な円が出来ていない。また、相変わらず姫は苦しそうで、周囲を取り巻く暗雲も健在だ。
そして、画面の隅には、何故だかあの旅の侍がまた描かれていて、今度は手に鏡の破片みたいなものを持っている。けど、この人物はいったい何なのだろう?何気にヒーローっぽい。
次の絵。そう、これがようやく最後の絵だ。鏡の傍にあの侍が立っていて、上の方を見つめている。そしてよく見れば、継ぎはぎだらけだった鏡が、今度は完成したジグソーパズルみたいにちゃんと円になっていて、その鏡が力を得たみたいに光り輝いている。
そして、その鏡の閃光は暗雲を吹き飛ばしているみたいで、あの黒い鬼の姿が苦しみもがきながら消し飛んでいく感じに描かれている。
そして、これが一番意味のよく分からない部分だが、話の主人公らしい姫は、この絵の中では、まるで天女みたいに宙に浮いていて、そして、まるで死んで天に召されるみたいに、明るく輝く空に向かって昇っていくような感じで描かれていて、・・・え?、これっていったい、どういう意味?
(あの侍が、最後の鏡の破片を見つけ出して、あの黒鬼をやっつけて、それで姫が助かったって、そういう話なんじゃないのかよ!?)
「これは、この村に古くから伝わる、鏡月姫の伝説を描いた絵巻物だよ」
ふと、その声に驚きサッと振り返ると、みつきが僕の顔をじっと見つめて立っていた。