第二章 「出会い」
(0)
「・・・うっ、うう」
奇妙な夢を見ていた気がする。・・・なんだったのだろう?・・・思い出せない。
あれ?ここは何処だろう?・・・えっ?、あの女性は誰だろう?俺は、何でこんなところにいるのだろう?・・・いったい、ここは何処なんだ?
「あら、お目覚めですか?・・・お疲れのようなのに、私が起こしちゃったかな?ごめんなさいね」
重いまぶたを開くと、そこには和服姿の30代くらいの女性がいて、僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。その女性は、とても品の良い感じで、着物はそれほど上等ではなかったものの和服を日頃着慣れているような感じで落ち着いていて、表情も温和で優しげで、不思議に安心感のある人だった。
そして僕は、ふらりと周囲を見回して、それでようやく自分の置かれた状況に気がついた。
『・・・そうだ、俺は、誰もいなかった旅館の休憩場所のソファーで、うっかり居眠りをしてしまったんだ』
「あ、そうそう。あなたお腹がすいてるのよね。おむすび用意しておいたから、今、持ってきますね。だから、ちょっと待っててね。うふふ」
女性はそう呟くように言うと、そそくさと廊下を歩き去っていってしまった。僕は未だに寝ぼけていて、何が何だかよく理解できず、ただソファーでぐったりしたまま、そのままぼんやりと時を過ごした。
すると間もなく、その女性が帰ってきて、僕の目の前のガラステーブルの上に、小皿とお茶の入った湯呑を置いた。その皿には形のいいおむすびが四つと黄色いたくあんが数切れのっていた。
僕が不思議そうにその女性を見ると、彼女は優しく微笑んで言った。
「遠慮しないで食べて。あなたのことは、村長さんから電話をいただいて聞いているのよ。背の高いハンサムな若者が訪ねてくるだろうから、何か食べさせてくれってね。うふふ」
僕は正直なところ、その女性の話の意味がよく判っていなかったのだが、腹が空いていることは間違いのない事実であったので、遠慮なくそのおむすびを頂くことにした。
そして、おむすびを三つほどたいらげたところで、ふと思った。
『・・・そうか、あの女性の言っていた村長って、あの爺さんのことなんだ!あの爺さん、わざわざ、この旅館に連絡を入れておいてくれたのか。意外に親切なんだなあ。
・・・しかし、あの薄汚い爺さんが、村長って、嘘だろう?・・・けど、だから、しつこく祭りの勧誘なんかしてきたのか?まあ、御札探しゲームの参加者が、よっぽど少ないんだろうな。まあ、そんなことどうでもいいが。
・・・けど、背の高いハンサムって、嫌味のつもりか?そもそも、俺はそんなにノッポじゃない。あの爺さんがチビなだけだ。・・・でも、まあ、いいか。結果的に助かったんだし』
独りでブツブツ考えていると、女性がニッコリと微笑んで僕の顔をそっと覗いた。
「この村には、誰かを訪ねて来られたんですか?でも、でなきゃ、あなたのような若い人が、用もないのに一人でこんな何もないようなところへ来るわけないわよね。うふふ」
「・・・え?・・・いや、そんなんじゃ。俺は、たまたま、ここの駅で電車を降りちゃっただけで、その、特になにも」
「駅って、浜見駅? ああ、じゃあ、鉄道が趣味なのね。あの駅舎は、とても古くて趣がありますからね。もうすぐ廃線になってしまうらしいし、鉄道が好きな人には興味深いのでしょうね。 ああ、そういえば、前にもそういう方が来られたことがあったわ。古い駅舎や列車の写真を撮影しに来たとかで。 鉄道マニアっていうのかしらね?最近、若い人にも流行ってるんですよね」
「いえ、俺は全然そんなんでもなくて、本当に単なる旅行者です。実際、ここに来る気もなかったんです。ほんとにたまたまで」
「あら、そうなの。・・・ごめんなさいね。私、変なこと言っちゃったかな?」
僕の顔が不機嫌そうに見えたのだろうか?女性は、少し困ったような顔をした。だが正直言うと、なんでそんな話を振るのだろうかと、僕は少し疑問を感じていた。
すると女性は、自分の口元を指で触りながら、ぽつりとつぶやくように言った。
「でも、それじゃ、今日の泊まる宿なんかは、決まっているんですか?それとも、日帰りなの?」
その言葉を聞いて、僕はようやく気が付いた。そうだ、ここは旅館だったんだ!
「・・・いえ、まだです!もし部屋が空いていたら、是非お願いします!」
「じゃあ、急いで一部屋ご用意いたしますね」
女性は、少しホッとしたように微笑んだ。
(1)
どうやらその女性は、この浜見旅館の女将であるらしかった。しかし、他の従業員の姿がまるで見当たらないことを考えると、もしかしてこの旅館を一人で運営しているのだろうか?・・・いや、確かに、ここはそれほど大きな建物ではないけれど、さすがにそれはないか。
部屋の準備には少々時間がかかるということだったので、僕はとりあえず洗面所を借りて、汗でベタベタになっていたTシャツを脱ぎ、そのTシャツをタオル代わりにして体を拭いてから、持ってきた新しいTシャツに着替えた。腹も満腹、水分補給も終え、仮眠もとれて、これで気分一新すっきりだ。
洗面所を出たところで、ちょうど女将が通りかかったので、何気なく訪ねた。
「ちょっと、そこらを散歩してこようと思うんですが、どっか近くに楽しめそうなところありませんか?」
女将は首を傾げるようにして、少し考え込んでから、
「そうねえ、本当に何もない村なのよねえ。この近くというと、郷土資料館くらいかな?あとは、少し離れてるけれど、浜見神社。あと、天狗山へのハイキングコースもありますけど。・・・う~む。今からじゃ、ハイキングするには時間が遅すぎますよね。
ああ、でも、天狗山はあ勧めですよ。明日にでも登ってみると、きっと楽しいですよ。あそこからの眺めは、このあたりでは一番良いって、有名なんです」
僕は正直、もう山登りは懲り懲りだったのだが、一応、軽く微笑んで頷いておいた。すると女将は何か思い出し笑いみたいにクスクス微笑んでから、またその山の話を続けた。
「うふふ、その天狗山なんだけど、別名「お月見山」ともいうんですよ。でもね、その呼び名の由来が面白くて。なんだか、満月の晩になると、周辺の山々に住むうさぎ達がね、みんな集まってきて、あの天狗山の頂上で、お月見をするんだとか。だから、お月見山。 うふふ、古くからの言い伝えらしいのだけど、なんだか、おかしいでしょ?うふふふふ」
確かに、なんとなく子供っぽくて可愛らしい話だと思ったが、僕はそれ以上に、こんな話を楽しそうに語っている女将の姿に面白さを感じていた。
この人は外見も綺麗で、とても柔和な感じで安心感のある女性だが、人柄もすごく良さそうである。
この村自体は貧素でつまらなそうな所だけど、この宿は正解だったと、そう思った。
*
僕はとりあえず、宿の外へと出た。やはり、エアコンのかかっていない外気は蒸し暑く、また夏の日差しは暑苦しかったが、じっと狭い室内にこもっているよりは全然開放感があって、今の自分にはふさわしいと思ったのだ。
とりあえず、何を思うでもなく建物の周囲をウロウロしていた。ふらりと旅館の裏の方へと回ると、少しばかり開けた敷地があって、そこに自動車が数台停っていた。どうやら旅館の駐車場らしい。
ここへ来るとき通った道は、ちょっとした石段もあり、絶対に車など通り抜けられない狭さだったので少し疑問を感じたが、見れば、すぐ向こうに舗装された車道が一本通っていた。
ふと、車道の先がどこに繋がっているのか歩いて行きたくなったが、止めた。不用意に知らない道になど入り込んで、また迷子になってはかなわないと思ったのだ。そう、自慢じゃないがこの僕は、えらい方向音痴なのである!・・・桑原桑原。
仕方なく再び旅館の正面へと戻った。外出するなら、また同じルートで外道に出ようと考えたのである。・・・だが、そんな時だった。
「あれ?」
ふと、人影が見えた。あの旅館に繋がる細道の出口付近に誰かがいたような気がしたのだ。・・・だが、改めて見直してみると、そこには誰もいなかった。
今日の俺は、どうかしている。まだアルコールが抜けきれていないのかもしれない。また幻覚を見てしまったようだ。
でも、確かに、そこの低木の枝葉の影で、水色の大きなリボンをつけたツインテールの髪の毛がゆらゆらしていたような気がしたのだが?・・・いや、馬鹿な考えは捨てよう!これじゃまるで、変態オヤジの妄想だ!・・・桑原桑原。
(2)
石段を降り、道路へと向かう路地を進んだ。この路地の両側は、低木の鬱蒼とした緑葉が支配していて、また微妙に道がクネクネと曲がっていて、全然先が見えない。
そう、まるで自然木を使って作った迷路みたいだった。まあ、一本道なので迷うことはないのだけれど、こんな道を真夜中に一人で歩いたら、さぞ不安だろうなとは思った。
視界の狭い路地を出て、ようやく村の中央を抜ける一本道に出た。そこでふと気になって、ぐるりと周囲を見回したが、当然のごとくそこには誰の姿もなかった。
やはり、さっきのは幻覚だったのだろう。・・・アホくさ。
とりあえず、また海へ向かうことにした。海岸で独り、のんびり思いにふけるのも悪くないと思ったのだ。まあ、他に行くあてなどなかったのだが。
*
来た時と同じ道を引き返すように歩いた。けれど今度ほとんど下り坂で、来た時よりも労力的には全然楽だった。また、当然精神的にも気楽で足取りも軽かった。
それにしても、この村には相変わらず人けがない。まるでゴーストタウンである。これが最近うわさの過疎村の現状ってやつなのだろうか?
・・・いや、普段暮らしている東京の下町が、むしろ人が多すぎて騒がしいだけなのかもしれない。とにかく、東京という場所は無駄に人が多い。人が多いということは、常に賑やかで、一見寂しくないように思えるが、現実は違う。
あまりに多過ぎる人間の渦の中に巻き込まれると、何故か自分を失う。気が抜けて、氷の溶けてしまったコーラみたいに、自分という存在が希釈されて、いてもいなくても同じに感じる。自分と言う存在が限りなく無意味に近く思える。生きている実感を失う。
・・・まあ、それはそれで、いいんだけどね。どうせ俺は、何処にいようと無用の存在でしかないのだから。
「あれ?」
ふと気になって、振り返った。なにやら背後に気配を感じたのだ。誰かにあとをつけられているような気がした。だが、当然、そこには誰もいなかった。・・・当たり前だ。
今日の俺はやはり変だ。幻覚を見たり、奇妙な気配を感じたり、なにげに幽霊にでもとり憑かれているような気分だ。
・・・いや、相当疲れが溜まっているのだろう。やはり無駄な外出などせず、あのまま旅館のロビーに留まって、ソファーで昼寝をしているべきだったのかもしれない。
だが、
「・・・え!?」
僕の体が一瞬硬直した。
・・・そう、いたのだ!やはり、幻覚なんかじゃなかった!それは道路脇の太い街路樹の影にあった。その木の幹から、ひょっこりと馬のしっぽが覗いていた。そしてふさふさした、そのしっぽの根元からは、チラチラと水色の大きなリボンが見え隠れしていたのである。
そうだ、あれは間違いない!幻覚なんかじゃない!あの木の影で、あのツインテールの女子高生が、こちらに気づかれまいとこっそり隠れているに違いない!
僕は足音を消すように、そ~っと、その街路樹に近づいていった。都合のいいことに、どうやら向こうは僕の行動には全く気づいていないようで、未だそのままじっとして、間抜けに、こそこそ隠れ続けているようだった。
そして僕が、その街路樹のすぐ目前まで迫っていった、そのときだった!
「きゃ~っ!?」
街路樹の陰から突然僕の眼前に顔を出したツインテール娘が、いきなり悲鳴をあげた!そして、ついでに身体のバランスを崩し、そのまま背後へすっ転んだ。
「・・・う~っ、痛った~っ」
思い切り尻餅を付いた少女の目は、少し涙ぐんでいるように見えた。
「大丈夫?」
ふと声をかけると、その娘はちらりと僕の顔を見て、だが、すぐにまたうつむいてしまった。彼女を引き起こそうと、僕は思わず、そっと手を差し伸べた。
だが、僕のその手をチラリと目にした少女は、また再び視線を下へと落とし、そしてそのまま固まった。奇妙な静寂が僕の心に余白を作った。
間抜けに差し出されたまま宙を泳いでいる自分の手に気づき、僕は慌ててその手を引っ込めた、・・・いや、引っ込めようとした瞬間だった。すっと、彼女の手が僕の手を握った。とても小さく弱々しく、柔らかな感触だった。
僕は上体を後ろに下げるようにして、ゆっくりとその手を引きながら彼女の身体を起こしてやった。完全に身体が起きたところで手を離すと、少女は自分のスカートのお尻あたりを手でパタパタと叩きながら、ほんの小さなささやき声で「ありがとう」と、つぶやいた。
(3)
「どうしたの?」
ただ黙って、いつまでもぼんやりとつっ立っている少女に、僕はそっと声をかけた。すると少女は、情けない顔のまま上目使いに僕を見た。
「ごめんなさい」
「え?」
「わたし、こそこそと、あとをつけたりして。・・・その、ほんとは、そんなつもりじゃなかったんだけど、・・・その、なんとなく、声をかけづらくて、つい」
「えっ」
何故だか少女は、僕が問いただす前に、いきなり自分で白状した。まあ、ようするに、僕は幻覚を見ていたわけでも、幽霊にとり憑かれていたわけでもなかったのだ。意味不明だが、本当にこの女子高生は、僕の跡をずっと尾行していたらしい。
「って?もしかして、俺になんか用でもあんの?」
僕がそう問うと、少女は少し躊躇った後、口を真一文字にして気合を入れるような仕草をしてから、また軽く深呼吸して、それでようやく口を開いた。
「あのっ!わたし、あなたに、どうしても聞き入れて欲しいお願いがあるんです。お願いします!お願いできるの、あなたしかいないんです。だから、どうか、お願いします!」
「はあ?そう言われても、その、なんていうか、・・・お願いって、何?」
いきなり早口で訳のわからない言葉を浴びせられ、僕は反射的にそう返した。
それにしても奇妙な少女である。あの、山で出会った爺さんといい、また変な人間に絡まれてしまったという感じであった。
「あっ、ごめんなさい!わたし、その、緊張してて、つい話の順番がめちゃめちゃでした。実は、そのお願いというのは、その、夏休みの自由課題でして、その、わたしは、何かボランティアガイドみたいなことをしようかな?と思いつきまして、それでその、できたら、あなたの旅の案内なんかができたらいいかな~ぁ、なんて思いつきまして、それでお声をかけたくて、えっと、何言ってるか自分でもなんなんですが、要するに、できればわたしに、この村の案内をさせて貰えないかと、そう思ったのですが、いかがなものでしょうか?あっ、もちろん無料です!それに、わたし、決して怪しい人間ではありません。えっと、その、ですから、是非お願いします」
そう言い終わると、その娘は深々と頭を下げた。しかし、また更に訳のわからないことを早口で言われても、正直僕には相変わらず意味不明でしかなかった。
「悪いけど、俺はそんなのいらないから、その、他をあたってくれる?」
何が言いたいのか彼女の真意はよくわからなかったが、とりあえずそう言って、きっぱりと断った。
すると、その返答が聞こえたのか聞こえなかったのか?その少女は頭を僕の腰のあたりまで深々と下げたままの姿勢で固まってしまった。
しかし、ようやく、彼女はゆっくりと頭を上げて、僕の顔をちらりと見た。だが、ふと見ると、その少女の大きな瞳は今にも泣き出しそうなくらいに潤んでいた。・・・やばい。
「いや、その、だけど、その課題って何?要するに、夏休みの宿題ってこと?」
仕方なく、彼女の話に半分だけ乗るつもりで聞いてみた。
「はい!そうなんです。学校の大事な宿題なんです。もしもこの自由課題をちゃんとこなさないと、わたし、多分、落第しちゃいます!・・・その、だから、お願いです。考え直してください!」
「・・・って、言われてもなあ?」
思わず頭をかいた。困った。わけがわからない。そもそも夏休みの宿題の自由課題で、何故ボランティアガイドなんてするんだ?しかも、こんな観光地でもなんでもない過疎村で?・・・変な女の子だ。・・・できれば関わり合いになりたくない。
・・・けど、確かに可愛いし、こんな娘にガイドしてもらえたら、それはそれで、きっと楽しいし。俺みたいな非モテ男には、正直ラッキーなことじゃないのか?・・・っと、少しばかり心の隙が生じた、まさに、その時だった。
「特に、用事はないんでしょ?だったら、このわたしを助けると思って、是非お願いします!今、あなたに断られたら、もう、わたし、どうしたら良いかわからないんです。だから、お願いです!・・・今日だけでもいいんです。いや、一時間でも三十分でもいいから、わたしにガイドをさせてください。ただ、先生に提出するレポートさえ書ければいいので、どうか、どうか、人助けだと思って、このわたしの願いを叶えてください!・・・お願い!」
少女の潤んだ瞳が、僕をじっと見つめていた。正直、好みのタイプだった。とても、可愛かった。少し小柄だけどスレンダーで、純真そうで、瞳がすごく綺麗で・・・。
そして、僕は理性を麻痺させた。
「わかったよ」
僕のその返答を聞くなり、その女子高生は、嘘みたいに嬉しそうに微笑んだ。なんだか、幼い子供みたいな笑顔だった。
(4)
その少女の名前は『入江みつき』というらしい。隣町にある県立高校の二年生で、住んでいるのはこの村だということだ。実はこれらのこと以外にも、なにやら自己紹介をされたのだが、ちゃんと聞いていなかった。まあ、いいや。
そしてその入江さんは、僕が何も言わないうちに、一人で勝手にそのボランティアガイドなるものを開始した。
「わたし、是非あなたに見せたい素敵な景色があるんです!」
彼女はそう言って、自分の後をついてくるよう僕に命じた。成り行きとは言え、一旦引き受けてしまった以上、今更あとには引けづ、僕は仕方なく入江嬢の少し後ろを付かず離れずついていった。
すると次第に道は狭くなってゆき、また周囲をうっそうとした木々が覆い始め、ふと気づけば、辺りはすっかり山深くなっていた。この村に来たとき、駅を出てすぐに迷い込んだ山道を思い出し、僕はなにげに不安になった。
だが、僕のそんな心中とは裏腹に、入江さんの方は、なんだか御機嫌のようで、たまにチラチラと僕の顔を覗きみては、嬉しそうにニコニコ微笑んでいた。
・・・しかし、見ず知らずの俺のような冴えない男の道案内などして、いったい何が楽しいのだろう?へんな娘である。
・・・しかし、まいった。今日はずっと歩きづめだというのに、またも山道を登らされるとは。僕は当初、入江嬢の目的地は、それほど距離の離れた所ではないだろうと勝手に思いこんでいたのだが、それは完全な誤解だった。
その山道の途中には『天狗山ハイキングコース』と書かれた看板があり、どうやら彼女の目的地が、宿で女将が言っていた例の天狗山の山頂であることは、もはや疑うべくもなかった。まあ、要するに、この村で景色の良いところといったら、その場所ぐらいしかないのだろう。・・・って、もっと早く気づくべきだった!こんなことなら、やっぱり断るんだった。
へとへとな僕に対し、入江さんの足取りは軽かった。細っこくって小柄で、外見上はあまり体力などなさそうに見えるのだが、そこはさすがに地元民である。よほど山道に慣れているのだろう。彼女は僕などお構いなしに、跳ねるように坂をどんどん登っていく。
こうして彼女の歩くさまを後でぼんやり眺めていると、長いツインテールがうさぎの耳みたいにふわふわ揺れていて、なんだか野うさぎが嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながら、お月見山目指して登っているように見えてくる。・・・プププ(笑)
「あれ?斉藤さん、頑張って!もう少しですよ。ぼんやりしてないでどんどん歩かなくちゃ。もう、男の子でしょう!気合入れて、ガンバ!」
入江さんがチラリと振り向いて、すっかり距離の離れてしまった僕に言った。
・・・しかし、なんなのだろうこの娘は?まだ出会って30分くらいしか経っていないのに、すっかりお姉さん気取りだ。って、俺の方が三つぐらい年上なんだけど。
*
正直、きつかった。もはや転ばずに歩くだけで精一杯って感じだった。けれど、年下の、しかも女子高生に舐められるのは嫌なので、僕は無言で頑張るしかなかった。
そして、この山道に入ってから一時間ぐらい歩いたところで、ようやくゴールが見えて来た。道脇に立っていた木製の小さな看板には『天狗山頂上→ あと100m』とあったのだ。
「斉藤さ~ん。早く、早く!ほら、もうちょっとですよ♪」
随分と引き離された先から、入江さんが手を振りながら嬉しそうに叫んでいた。相変わらず、入江お嬢様はお元気だ。しかし、何がそんなに楽しいのだろう?登山など好んでする人の気が知れない。暑いし、疲れるし、もう、クタクタだ。
・・・けど、この『入江みつき』という少女は、本当に可愛い子だ。明るくて、元気で、常に微笑んでいて。肉体的には苦痛なだけの山歩きだけど、彼女のガイドを受けたことは正解だったのかも?っと、次第に僕の気持ちは変わっていた。
・・・でも、こんな俺といて、彼女は何故あんなに楽しそうに笑うんだろう?あんな可愛い女の子が、こんなダサい男といたって、本当はつまらないんじゃないだろうか?
・・・変な娘だ。まあ、きっと、どんな相手にでも常に楽しげに接することのできる明るい性格の持ち主なのだろう。
(5)
ようやく入江さんの待っている場所まで到達すると、そこからは天狗山の頂上が見えた。
すると、そこにはほとんど樹木が茂ってなくて、そこだけ公園のように開けていた。地面はお椀をひっくり返したみたいにまん丸で、野生の芝が一面に広がっていた。確かに、うさぎが集まってお月見するには丁度良い場所かもしれない。
地面に木の杭を打ち付けて作られた土の階段を上がって頂上まで着くと、そこで初めて雄大な景色が目の前にパッと開けた。その頂上からの風景は、本当に噂通りのものであると感じた。
周囲を包むように立ち並ぶ深い緑の山々。谷間には、色とりどりの落ち葉を並べて造形したような集落の屋根並。そしてその向こうには、銀色にきらめく大海原が広がっていた。
「ねえ、こっち、こっち!斉藤さ~ん、こっちに来てください!」
ふと声のする方を見ると、その開けた敷地の中央あたりで入江さんが、大きな動作でおいでおいでと僕に向かって手招きしていた。
言われた通りそこまで行くと、彼女は大げさにお辞儀をして、ちょっと演技がかった声で言った。
「さあ、こちらにお座りになってください」
彼女の示した先にはベンチのような横倒しの丸太があって、その上には可愛らしいうさぎ柄のハンカチが一枚広げてあった。
僕は思わず苦笑いして、そのハンカチをそっと横にずらしてから、ハンカチを避けるように丸太に座った。それからふと見上げ、入江さんの顔を見ると、少し不満そうにほっぺたを膨らませていたので「これは、君が使って」っと言って返した。
すると彼女は、無言でサッとハンカチを摘み取り、スカートのポケットにしまってから、ちょこんと僕の隣りに腰掛けた。だが、あの長いツインテールが触れそうなくらい彼女の肩の位置が近くって、僕は慌てて自分の尻を丸太の端ギリギリにまでずらした。
入江さんはチラリと僕の顔を覗いてから、呟くように言った。
「素敵な景色でしょ?ここからの眺めが、わたしの一番のお気に入りなんです。だから、どうしても、あなたに見て欲しくって。・・・でも、ちょっと無理させちゃったかな?」
僕は、そっと入江さんの方を見た。すると彼女はじっと遠くの景色を眺めていて、その横顔はとても満足げだったけれど、なんとく寂しげな瞳でもあるような気がした。
・・・そして何故だか僕は、ふとこの娘に、以前に、どこかで会ったことがあるような気がした。いや、そんなことは決してありえないのだけど。
「確かに、すごくいい景色だね。けど、正直言うと、やっぱ、少し疲れたかな。俺、山道って、ちょっと苦手なんだ。その、方向音痴だし。・・・あっ、でも、この景色は、マジ最高!ありがとう」
入江さんは、僕の返答を聞くなり、クスクスと笑い出した。そしてポツリと、
「斉藤さんて、やっぱり優しいね。うふふ」
「えっ?」
「わたしね、時たまここに来るの。それで、ここで、この丸太に座って、ぼんやりこの景色を見つめていると、すごく気持ちが清々しくなるんです。つまらないこととか忘れて、明日を頑張ろうって、そういう気持ちになれるの。恥ずかしいけど、わたしにとって、とても大事な場所なんです。だから、どうしても、ここに来たくって、・・・ごめんなさい 」
その後、奇妙な静寂がしばらく続いた。彼女は何も語らず、ずっと景色を見つめていて、僕も僕で、何も話を切り出せなかった。ただのんびりと、静かに時が過ぎて、それでいいような気がした。
*
「この天狗山には、別の呼び名があるんです。この村の人は、ここを『お月見山』って、呼ぶの。うふふ」
入江さんがそう、突然言葉を発した。僕は笑いをこらえて返答した。
「満月の夜に、このあたりに住むうさぎ達が集まってきて、ここで、皆でお月見をするんだろ?知ってるよ」
「えっ!?」
入江さんは、僕の言葉にありえないほどびっくりしたみたいに目を丸くした。
「いや、さっき旅館でさ、宿の人に聞いたんだよ、そのお月見山の話。いや、ただ、そんだけ」
「な~んだ」
入江さんは、何故だか、かがっかりしたように呟いた。けれどその後、またにっこり笑って話始めた。
「わたしの名前、みつきって言うんだけど、漢字にすると満月って書くんです。わたしの父が、母にプロポーズをしたのがここで、だから生まれてきた子に『みつき』ってつけたんだって、そう聞かされました。うふふ、そう言う意味でもここは、ちょっと大事な場所なんです。(・・・だから、好きな人ができたら、絶対一緒にここに来ようって)」
「えっ、なに?」
僕は最後の方の言葉がほとんど聞き取れなくて、思わず聞き返した。だが、入江さんは澄ました顔で、何も答えてはくれなかった。
(6)
再び、しばしの沈黙が続いていた。僕はそれをなんとか打開したくて、必死に話題を考えた。・・・だが残念なことに、この非モテ男の僕に、女の子を楽しませるような言葉など浮かびようもなく、虚しくも緊張するだけの時間が過ぎていくばかりだった。
だが意を決して、僕はどうでもいい話を切り出した。
「けど、さすがに入江さんは大したものだね。確かにここは、さして山深いとはいえないかもしれないけど、ほんとに軽がるとどんどん山道を登って行って、さすが山育ちだって思ったよ。俺は生まれ育ちも東京だから、ほんとここまで君についていくのがやっとだったし・・・」
「えっ?」
入江さんが驚いたように、さっと僕を見て、少し不機嫌そうに言った。
「わたし、山育ちなんかじゃないですよ。小学校までは、ずっと高井戸に住んでたもん」
「えっ、高井戸って、あの世田谷の?」
「やだなあ、高井戸は世田谷区じゃなくて、杉並区です。うふふ」
つまらない話題を振って、早速恥をかいてしまった。けれど、入江さんが東京人だったとは少し驚いた。
「そっか、だから以前に見たことのある顔だと思ったんだ。だって、俺も東京都出身だもん。そっか、実は同郷だったんだね!」
「えっ!?わたしのこと、知ってるんですか?」
入江さんが、真面目な顔で僕を見た。僕は思わず苦笑いをした。
「ははは、やだなぁ入江さん。単なるくだらない冗談だよ。だって、東京といっても俺は小岩で全然反対側だし、それにあの人口密集地帯の都会で、入江さんに会って覚えてるわけないじゃん」
「・・・そうですよね。うふふ」
彼女は、いわゆる天然ボケなのだろう。なにげに会話が噛み合わない感じはしていたが、不思議に憎めないキャラである。そんな天然な感じも、正直可愛いい。
「・・・あの、図々しい奴だと思うかもしれないけど、是非お願いがあるんですけど!」
入江さんが、突然僕に顔を近づけて言った。
「わたしのこと、入江ではなく、できたら名前の方で呼んではもらえませんか?」
「え?」
「これからは、みつきって、名前の方で呼んでくれません?実は、わたし、名字で呼ばれるのちょっと苦手なんです。ほんと、もしも嫌じゃなかったらでいいんで、これからは名字でなく、名前の方で、みつきって、呼んでほしんです。是非お願いします。・・・だって、その方が、ずっと親しみ安くていいでしょ?」
不思議なほど、静かな声だった。まるでキャラが変わったみたいに寂しげな言葉だった。
「別に、いいけど」
僕は何も思わず、知らないうちにそう答えていた。すると入江さんはにっこり微笑んで、少しはにかんだように、また更に言葉を追加した。
「あと、もし良かったら、斉藤さんのことも、大翔さんって、名前で呼んでもいいですか?」
「え?」
僕は昔から、大翔と名前で呼ばれることには慣れていた。斎藤という名字はとても多くて、学校のクラスでは必ずというほど同じ名字がダブっていた。だから実際、友人からは名字で呼ばれるより、断然名前の方で呼ばれることの方が多かったのだ。だから、それは別にいいのだが・・・
「大翔さん、そう呼んで、いいですよね♪」
「えっ、ああ、別に」
僕の返事に入江さんは、何故だかとても嬉しそうだった。
(7)
「あの少し開けた場所は公園になってて、その奥の四角い建物が浜見村の郷土史資料博物館なんです。あと、多分、あそこに見える瓦屋根の少し大きなお屋敷が大翔さんが泊まってる浜見旅館だと思います」
まるで立体地図でも見るように、入江さんが景色の先を指差しながら村の説明をしてくれた。
「へーっ、一時間ちょっとで、随分遠くまで来たもんだね。まあ、結構ハイペースだったからなあ。正直、入江さんについていくの結構大変だったよ」
「そうですか~ぁ?わたし一人で来るときは、もっと早いですよ。これでも、随分気を使ったつもりなんだけどなあ」
入江さんの言葉に、僕はただ苦笑いで答えた。するとまたすぐに、次のツッコミが帰ってきた。
「あと、さっきお願いしたはずなんですが、わたしのことは、イ、リ、エ、ではなく、み、つ、き、と呼んでくださいね。お願いします!」
「・・・・・・」
僕の顔は更に深い苦笑いになってしまった。しかし、みつき様の厳しい視線には逆らえず、仕方なく「そうだったね。ごめん」と言って、うなずいた。・・・すると!
「じゃあ、練習しましょう♪さあ、大翔さん。大きい声で、み、つ、き、って言ってみて!」
みつき嬢はニヤニヤしながら、そう僕にけしかけてきた。
「ねえ、早く早く!」
笑いながら、ポンポン肩を叩かれて、僕はとうとう観念した。
「・・・み、つ、き、ちゃん。・・・って、これでいい?」
「うふふ、合格!」
僕は目を合わすのも恥ずかしかったのだが、チラリとみつきお嬢様の顔を見ると、彼女はとても嬉しそうに、まるで子供みたいに笑っていた。
だが、僕は従兄妹でもない女の子に向かって、馴れ馴れしく名前で呼んだことなんて今まで一度もなかった。『みつきちゃん』なんて、声に出すたび口が曲がりそうな気がする。
しかし、本当に変わった娘である。知り合ったばかりの、しかも何も知らない相手と、しかも僕のような冴えない男と、彼女はどうしてそんなに親しくしようとするのだろう?
僕には到底理解できない。というか、それ以前に、この僕に女心など分かりようもないのだけれど。
*
「あの海に張り出した岬の頂上あたりには浜見神社があるんです。大きな木に囲まれてて分かりにくいかもしれないけど、神社の社がちょっと見えるでしょ。
今、この村はあの神社の夏祭りの準備ですご~く忙しんです。特に今年は12年に一度の大祭の年だから、それこそ大変で、村を離れて都会で暮らしてる人なんかも、祭りの準備のために、わざわざ里帰りして手伝いに来てたりしてるんですよ。
実はわたしの父がこの村の出身なんで、まだ東京に住んでた子供の頃にも、わたしも毎年、この夏祭りには必ず連れて来てもらってたんだけど、本当にこの村の人たちにとってこのお祭りは、とっても大事な一大イベントなんです!」
村の案内が再開したと思ったら、いつの間にやら夏祭りの話でみつきは一人で盛り上がっていた。彼女は僕の前へ立ち、身振り手振りを交えながら、まるで村の広報部員のように祭りのアピールを始めたのだ。
「そう、実はその祭りの本番は、なんとあさってなんです。だから大翔さん、あさってまでは絶対に帰らないでくださいね。絶対ですよ!
今年は、なんと、日没とともに花火も打ち上げるんだから。すごいでしょ!この村にせっかく来たのに、このお祭りに行かないと、あとで絶対後悔しますよ。ほんとですよ!
だから大翔さん、きっと、お祭りの日まで、この村にいてくださいね。きっとですよ!」
それにしても、あの村長らしき爺さんといい、この村の住人は、よほどよそ者の僕をその祭りに参加させたいらしい。・・・まあ、これが郷土愛ってやつなのかもしれないが。
「ああ、あの変な御札をばらまく祭りのことだろ?俺、ここに着いて早々に、変な花火を見たよ。なんだか、願い事がなんでも叶う魔法の御札が手に入るんだとかって言ってたなあ。・・・ああ、そういや、君はあの御札探しに行かなくていいの?だって、あれはこの夏祭りのメインイベントなんだろ?」
僕のこの質問に、彼女の目が一瞬、スっと変わったような気がした。いや、気のせいかもしれないが。
「えっ?・・・ああ、いいえ。わたしには必要ないから」
みつきは、サラリと言い捨てるように、そう答えた。
(8)
「さあ、大翔さん。そろそろ帰りましょ。あんまりのんびりしてると、日が沈んじゃうから、・・・あっ、ほんとに急がないとマズイかも?」
腕時計をチラリと見ながら呟いたみつきの、その最後の言葉に驚いて、僕は思わず声をあげた。
「えっ、今何時なんだよ?・・・そういや、大分日が傾いてきてるけど、だいじょぶなの?もしも山ん中で真っ暗にでもなったら、マジで遭難するぜ!?」
「うふふふ、そんな大げさすぎです。ふふふふふ、大翔さんたら突然大声だしたりて、なんだかおかしい♪うふふふ」
みつきは、慌てる僕をコメディー映画でも見るように笑ったが、僕にしたらマジで気が気ではなかった。考えてみれば、宿を出た時には既に午後4時を過ぎていたはずで、そこから計算すると、すぐにでも暗くなって当然の時間である。
しかも、山というのは平地よりずっと日没が早まるものだ。山中で真っ暗になったら、それこそ、どうするつもりなんだろう?・・・冗談じゃない!この娘は、何考えてるんだ?天然恐るべし!やっぱり来るんじゃなかった。・・・とほほ
「あはは、大翔さん、意外と小心者ですね。うふふ。・・・あっ、でも山道の途中で暗くなったら、やっぱり困るから急いで帰りましょう!
そらそら、大翔さん。ぼんやりしてないで、さあ、出発しますよ♪」
みつきは人の気持ちなどお構いなしにそう言って、楽しそうに歩き始めた。僕は不安と恐怖を抱きながら、力なく、ただそのあとについて行くしかなかった。
*
超マイペース娘の後ろを必死で追いかけるように、僕は狭い山道を進んでいった。今度は言うまでもなく、道中のほとんどが下り坂なので、思いのほか足取りが早かった。僕等は、行きの二倍くらいのスピードで山道を降りていった。
とはいえ、もはや僕の足は限界を超えていて、一歩足を上げるのも苦痛なほどクタクタだった。正直な話、うっかり転ばないよう足元に気をつけながらの懸命の下山であったのだ。
しかし見れば、みつきお嬢様は相変わらずお元気である。ぴょんぴょんと跳ねるように、まるで野うさぎのように、軽快に坂道を駆け下りてゆく。そして時より、ふと立ち止まっては、行きと同様に「早く!早く!男の子なんだから、ガンバ♪」と、ふざけ半分に声をかけてくるのであった。・・・勘弁してくれ!
だが、やはり予想どうりというべきか、辺りはだんだん暗くなってきた。確かに空は、まだ幾分明るいのだが、小高い山々に日差しを遮られ、山道はすっかり薄暗くなってしまった。案の定である。・・・まいった。
だが、等のボランティアガイド様は何も感じないのか?平然としていた。ただ一言「少し暗くなってきちゃいましたね。急ぎましょう!うふふ♪」と、余裕をかまして笑っていた。
・・・とういか?、人けもない薄暗い山道で、まるで面識もない男と二人きりでいて、この娘は身の危険みたいなものを何も感じないのだろうか?現代女子高生恐るべし!
・・・いや、単にこの俺が、男として認識されていないだけなんだろうね。とほほ
*
そしてようやく、浜見村のメインストリートにたどり着いた頃には、辺りは本格的に暗くなってきていた。日没にはまだ時間がありそうだが、日の光は周囲の山々に完全に遮られてしまっていて、通りは既に夜の趣をかもし出していた。
しかし、ここまでくれば一応一安心である。とりあえず、所々に街灯はあるし、あとはこの舗装された一本道を歩いていけば良いだけなのだから。
(9)
「やっぱり、ちょっとお月見山は時間的に無理があったかな?でも、どうしても、あそこにだけは行きたかったから」
道すがら、ポツリとみつきが呟いた。
だがその時、僕はすでにヘトヘトで、早く旅館に着かないか?とそのことしか頭になく、もはや話する気も起きず、ただ惰性でダラダラと足を進めているだけだったのだ。
・・・がしかし、そのみつきの声がなんとなく寂しげで、なんとなく気になって、僕はふと言葉を返した。
「いや、確かに少しきつかったけど、楽しかったよ。マジ、旅のいい思い出になったと思うよ」
すると、ずっと僕の横で付き添うように歩いていたみつきが「えっ、ほんと?」と嬉しそうに返答しながら僕の顔を覗きこんできた。
「嘘じゃないよ。その、お世辞とかでもなくて、その、俺、元々何もなく無計画な一人旅のつもりだったから、その、今日、君が案内してくれて、方向音痴の俺じゃとても一人じゃたどり着けないような山の頂上の景色まで堪能できて、・・・その、なんというか、ほんと、ありがとう」
何も思わず、ふと出てきた言葉だった。だが、自分で言っておいて少し照れくさくなって、僕はみつきの顔を見るのを躊躇った。そしてそのまま、何もなかったようにさりげなく歩みを続けようとした、・・・のだが、
キュッと突然、僕のTシャツが後ろへと引っ張られた。
「ん?」
振り返ると、みつきがそこに立ち止まっていて、そしてその手は僕のシャツの端をギュッと掴んでいた。
「あの、だったら、お願いがあるんですけど」
みつきは、少しうつむき気味に視線を下に向けたまま、ボソリとそう言った。とても静かな声だった。だが、なぜか不思議と重たい響きだった。
「えっ、なに?」
僕が聞き返すと、ようやく彼女は顔を上げ、そしてその少し潤んだ瞳で、僕の目をじっと見つめて言った。
「その、もし出来たら、・・・いや、どうしても、その、明日だけでいいから、明日も、もう一日だけ、わたしにガイドをさせては貰えませんか?お願いします!」
「・・・・・・」
正直いって、僕には彼女の申し出を断る理由なんか何処にもなかった。むしろ、本当は嬉しい申し出だった。ふと、明日もみつきが一緒にいてくれたら、どんなに楽しいだろうなあと思った。当たり前な話、本心ではそうだった。・・・けど、どうしても、返事ができなかった。だから、ただ、黙ったまま苦笑いをした。
・・・そして、
「もう、すっかり暗いし、早く帰んないと。それに俺、もう腹ペコなんだ」
僕はそう言って話をごまかすと、何もなかったように再び歩き始めた。すると、みつきはそれっきり何も言わず、ただ黙って僕の少し後ろをついてきた。
それから少しばかり足を進めたところで、旅館につながる路地の入り口が見えた。『浜見旅館ココ入る→』の看板が、間を空けてパチパチと点滅する街灯の明かりに照らされて見え隠れしているのを発見したのだ。
僕は路地の入口まで付いたところで、ふと振り返り、みつきにそっと声をかけた。
「今日は本当にありがとう。・・・えっと、じゃあ、俺はこっちだから。・・・あっ、でも、すっかり暗くなっちゃったし、やっぱり君を家まで送っていこっか?」
僕の言葉を聞くと、それまで疲れきったようにだんまりだったみつきが、急にクスクスと笑い出した。
「うふふ、そんな、わたしは全然平気ですよ。地元だもん。うふふ、送っていくって言ったって、大翔さん、方向音痴なんでしょ?そんなことして貰ったら、むしろ、わたしの方が心配になっちゃいます」
「そっか、そうだね。・・・えっと、じゃあ、ほんと今日はありがとう。さようなら」
そう言って僕は軽く手の平を掲げ、彼女に別れの挨拶をした。するとみつきは、ふと怪訝な表情を浮かべ、そして僕の顔をじっと見つめた。
「わたし、まだ、さっきの返事を貰ってないけど、明日もわたし、ここに来ていいって、そういうことですよね?大翔さん、明日もわたし、頑張ってガイドしますから、楽しみにしていてくださいね!今日行ったお月見山以外にも、まだまだ、この村には良いところが沢山あるから、まだまだ、大翔さんを案内したいところがいっぱいあるから、だから絶対に勝手に帰っちゃったらだめですよ。きっと、明日も旅館で、ちゃんと、わたしが来るのを待っててくださいね。絶対ですよ、お願いします!・・・約束ですからね!」
口を開くなり、みつきはえらい早口で、何やらありえないほどに押し付けがましいことを突然一方的に言ってきた。だが、僕はその迫力についつい圧倒され、しばし返す言葉を失ってしまった。
すると、みつきの表情が再び緩んで、やんわりと微笑んだ。
「今日は、わたしのわがままに付き合わせちゃって、本当にすみませんでした。ありがとうございました♪また、明日もよろしくお願いします。
じゃあ、大翔さん、おやすみなさい♪」
みつきはそう言って深々と頭を下げてお辞儀をした。長いツインテールの髪がふわっと舞って、水色のリボンが風に揺れて、彼女の頭が自分の体に当たりそうで、僕は思わず後ろに身を引いた。
*
みつきは僕に背を向けて、ゆっくりとした歩みで僕の前から遠ざかっていった。そして、ときより振り返っては、ちょっと微笑んで、軽く手を振って、それからまた向き直り、またその道を先へと歩き去っていった。
僕はそんなみつきの様子を、彼女の姿が完全に見えなくなるまで、まるで枯れた畑のカカシのように、ただそこに突っ立って、ずっとぼんやり眺めていた。
不思議な気分だった。奇妙な感覚だった。何故だか、今まで感じたことのなかった、いや、ずっと忘れていた寂しさのようなものを覚え、心の奥にすきま風が通り抜けていくような気がした。
「・・・あの娘、なんだったんだろう?変な女の子だよな。なんで、俺なんかに親切にしようとするんだ?
・・・おれ、昔、うさぎでも、助けたことがあったっけ? 」