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プロローグ

                  (0)

 まだ、携帯電話もインターネットも、あの頃の庶民には無縁の存在だった。ようやくパソコンなんてものが登場してきていて、会社のオフィスや金持ちのおぼっちゃまの家には置かれ始めてはいたようだけれど、無論僕ら庶民には縁遠いものだった。

 携帯の電子メールなんて想像すらしなかったし、自室にこもってネットで他人とゲームしたり、チャットで話をするなんて、ごく一部の遠い世界の人たちの話だった。

 

 そして僕を取り巻く世の中はというと、まだバブルなんて言葉も知らないくせに、馬鹿げているほどに皆上昇志向に満ちていて「日本は太平洋戦争には負けたけれど今度は経済戦争で世界を支配するのだ!」なんて愚かしいことを、低賃金で働くしがない労働者までもが当たり前のように本気で叫んでいて、まるで僕等は、その戦争のための新兵だった。

「今は受験戦争なのだから皆敵だと思って気を抜くな!」とか「他人を蹴落としてでも学歴社会に生き残るのだ!」とか「偏差値が50以下な奴など脱落者だ!」とか「勉強を怠けて5時間以上寝ている奴は失格だ!」とか、あのころの教師たちは、まるで新興宗教の伝道者のように毎日あきもせず、そんなことばかり叫んでいて、そこから落ちこぼれた人間は生きる資格もない欠陥品だとでも言いたげで、僕等は日々、そうした脅迫観念の中で怯えていた。

 もはや自分の夢のために学びたいなんて考えを抱くことさえも、甘えた幻想物語であるかのように教えられていて、己が夢を実現したいのなら、まずは皆を踏み台にして、人肉の山を這い上がれとでも言いたげであった。

 ・・・でも、気の弱い僕に、そんなことは始っから無理だった。そして、そんな時代の渦中にいた僕は、案の定、落ちこぼれとなった。


                  (1)

 あの日のことはあまり覚えていない。そもそも、まるで無計画だった。真夜中で、真っ暗で、静かだった。全然眠れなくて、ふらりと階段を下りて、リビングに行った。

 たまに親父がグラスに垂らすぐらいにちびちびと少しづつ飲んでいた15年ものだかのジョニーウオーカーが目について、僕はそのボトルを空にした。

 ウイスキーなど特に好きでもなかったし、それまでほとんど口にしたこともなかったが、冷蔵庫に冷やしてあったコカ・コーラで割ると結構旨くて、気づけば全部飲みほしていた。


 僕は音を押し殺しながら、奇妙な喚き声をあげた。声を出さずに叫んだ。もがいた。うずくまり、泣いた。ただ、意味も分からず、訳も分からず、ただ、どうしようもない心の中の鬱積を吐き出したかった。涙が溢れ出すと、少しだけ楽になれた気がした。だから、必死で泣いていた。ただ、音を殺して泣き続けた。

 ふと見上げると、薄暗い室内が奇妙に歪んで見えた。気づけば、体がフラフラして思うように動かなくなっていた。仕方なく、僕は床にしゃがみこんだまま考えた。

 どのくらい時間が経ったのかは判らない。まるで世界が静止しているような感覚だった。音も感じず、空間も曖昧だった。・・・そんな時間が、しばらく過ぎていった。


 大学受験に失敗し、表向き浪人生を語っていたが、現実には予備校にすら通っていなかった。もうすぐ二十になろうというのに何もしていなかった。バイトをしたこともあったけど、いつもドジばかり踏んで、怒鳴られて、自分が嫌になるだけだった。

 言うまでもないが、彼女なんていない。いたこともない。高校時代に好きだった娘はいたけれど、無論相手にもされなかった。「私に、あなたは必要ない」と言われ、自分という人間を自覚した。

 そして僕には、心を割って話せるような友人すらもいなかった。孤独が当たり前で、ひとりでいることが普通で、空っぽの自分の心を、誰かに支えて貰いたいなんて、考えることさえ馬鹿げていたのだ。

 もうこの半年近く、ほとんど家の外に出ていなかった。近所の人にも、無論父や姉にも、誰にも会いたくなくて、出来る限り自室にこもっていた。

 季節はもう夏になっていたが、ポンコツのエアコンはまともに仕事をしなくって、暗い室内は、いつもジメジメとしていて、憂鬱な気分を増長させた。

 ・・・だからもう、この部屋にこのまま居続けることにさえも、限界を感じていたのである。

 どこか遠くへ、僕の知らない、僕を知らない、どこか遠いところへ旅立ちたかった。


                 (2)

 心を決め、僕はけだるい体を持ち上げた。椅子を支えに立ち上がった。いまだ頭はフラフラで意識は朦朧としていたが、動けないほどではなかった。

 ゆっくりと階段を上り、自室に戻り、カバンを探した。少しばかりの着替えと適当に思いついた日用品をナップザックに詰め、手持ちの有り金を全て財布に入れて、僕は部屋を後にした。誰にも気づかれないように、足音を消し、そっと靴を履いた。


 家の玄関を出て、ふと見上げると、暗い空にほんの少しばかりの星が静かに輝いていた。



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