獣の王 1
オルアド海から吹く湿った強い風がレグリア大陸を遠く、北の地へ向かう事にした
いくつかの大きな川と無数の支流が作り出す
肥沃な平地、耕された農場、町、都市、それらを繋ぐ街道、行商人、馬車馬。
風に、視力や思考というものがあったなら、長い道のりの時々に下界を見下ろし
人の世に思いを馳せ、鳥だけを共に続く旅の慰さめとするだろうか
北に近づくに連れ樹木は細く、やがて大陸の中心に至る頃には、まばらに群生する草を揺らし
風はこの荒れた土地に湿気を運び込み、一年に一度の恵みをもたらすのだ
この地より南に存在するグランデュールは大陸でも珍しい制度、民草の代表が運営する議会を持った
共和制を敷く新興国である
これについては後に機会があれば述べるとして
一応、自由や平等を建前とし法で国を治め、国の保護の元生活、人々がいる
この建前は国によって色々で、例えば水神であったり不死の英雄であったりするのだが
多少の差異はあれど大陸にある他のいくつかの国家も、どこもにたりよったりの手法で国を回し
自分たちの支配の及ぶ範囲を国境という形で、なんとなくきめている
物語はさきほど、北の地であると言った
これは国の国境という概念でいえば、グランデュールの北の国境を大きく越えている
かといって他のどこか別の国の支配地というわけでもない
この時代の、あまり精度の良くない地図で表すとき
今、筆者のいるこの場所は暗黒、黒で塗り潰された状態だったり
詩的な表現を好む作者の地図であれば、
例えば女神のラッパから飛び出した雲に覆われているといった具合で
国もなく、名もない、そんな土地であった。
始まった、とすればこの時この場所がひとつの区切りとされるべきだろう
1 雨が降っている、この季節だけの事だ
地面がぬかるんで、馬を走らせるのにいつも以上に気を配る
だが、考えてみればハザンにとって、馬を走らせるのはいつも荒れた凸凹の場所ばかりだったし
尖った岩ばかりの場所に比べれば土があるぶんだけいくらかましとも言えた
前を走る荷馬車は、南にある国から飛び込んできた久しぶりの獲物だ
今は、馬車を追いかけて、相手に追いつければそれでいいのだから
地面の状態はあまり関係がない
条件は相手も同じだ
前を走る荷馬車は時々大きく上下に揺れながら必死でハザンの追跡から逃れようとしているらしい
だが、これほどに荒い操縦では、目的地に着くまでに馬も車輪もおかしくなるだろう
つまりそれほどまでに、この馬車の持ち主は恐れているのだ
ハザンを、この地に住まう者を
安全に、目の前を走る荷馬車を狩るのであれば、疲れるのを待つという選択肢もあった
しかし、愛馬を自由に走らせる事のできる場所まで荷馬車を追い込むと
ハザンは手綱をじわりと動かして愛馬にハミを取らせた
後方に大量の泥を飛ばして、一気に荷馬車の前を取る
瞬間、轟音
相手が火薬を使った何かを飛ばしたらしい
ハザンはそういう道具を何度か見たことがあった
しかし、それらは総じて、武器とも言えぬようなガラクタだったし
今も、どこも痛くないところをみると、あさっての方向に飛んでいったのだろう
ハザンは手綱から手を離すと使い慣れた短弓を構え、足だけで愛馬に意思を伝えた
じわり、じわり、と獲物との距離が近づく
雨のせいでそれは人の形をようやくとどめた影でしかなかったが
相手が恐慌しているのが空気で伝わってきた
弓手を固定し、引手はほんの肘までの軽い動作だった
しかし放たれた矢は空気を裂き、雨を弾き飛ばして、獲物のこめかみあたりに的中し
ゴツンと大きな音をあたりに響かせた
首の骨が折れたのだろう、恐るべき強弓だが、ハザンの腕前は実はそれほど飛びぬけたものでは無い
仲間の誰もが、相当小さい子供でもない限り、男も女もこの程度の技は当たりまえにやってのける
彼らが恐れられるのにはそういう理由があった
首をくの字に曲げた人影は、馬車の動きに逆らえず、二度三度と大きく揺れた後
ぐらりと落ちて車輪に巻き込まれ消えたいった。