06話 遊んでください。
※
「アリス」
私を呼ぶ声に視線を向けると、お祖母さまが手招いていました。
「おいで」
優しい声に、なあに? と近づいて、お祖母さまの細くて長い足にぴたっと抱きつきました。お祖母さまはいつも男の人みたいにズボンをはいているのです。
お祖母さまは、自分の腰のところにある私の頭をくしゃりと撫でました。
「アリス、あの大きなお兄ちゃんに遊んでもらいな」
あの、と笑って示したのは、お祖母さまと同じ髪と目をした男の人でした。
すぐにトールおじさまの子供なのだとわかりました。トールおじさまは、お祖母さまのお友達の子供です。
顔はトールおじさまとそっくりでしたが、無表情で近寄りがたい雰囲気を放っていました。でも、トールおじさまはとても優しいので、きっとこのお兄ちゃんも優しいに違いありません。
私は両手を前でそろえると、お兄ちゃんに向かって腰から頭を下げました。
「おっきなお兄ちゃん、あそんでください」
私が顔を上げて笑うと、お兄ちゃんはちょっとだけ困ったような顔をしました。それは、遊ぶのが嫌なのではなく、どうやって遊べばいいのかわからない顔です。
そういう時は、してもらいたいこと、やりたいことを自分から主張すればいいということを私は知っていました。
私はお兄ちゃんに向かって少しだけ近づくと、ぱっと両手を上げました。
お兄ちゃんは少し驚いたように私を見て、困惑したようにお祖母さまを見ました。
お祖母さまが笑います。
「抱っこしてくれってさ」
「……」
お兄ちゃんは無言のまま私に近づくと、わきの下をつかんでひょいと持ち上げてくれました。
ふわっと身体が浮いたのにびっくりして、お兄ちゃんの首にきゅっとつかまります。
一度抱き上げられると、そこは椅子に座っているみたいに安定していました。
すごく高いです。
顔を上げてお兄ちゃんの横顔を見ると、切れ長の目がこっちを向きました。黒い瞳がとても優しい光を放っていて、なんだか嬉しくなってしまいます。
「怖くないか」
「はい!」
お祖母さまは「女・子供は愛嬌」とよく言います。子供が元気に笑っていると、みんなが楽しく幸せになるのだそうです。
だから、私はにっこり笑いました。
「おっきなお兄ちゃん、おうまさんが見たいです」
「馬?」
「はい」
「大きいぞ。怖くないのか」
「こわくないです」
「そうか」
お兄ちゃんは馬がいるところに向かって歩き出しました。
その背中に、お祖母さまが声をかけます。
「じゃあ、あとは頼んだよ。昼になったら呼びに行かせるから」
お兄ちゃんは振り返って、私を落とさないようにしっかり抱いたまま、小さく一礼しました。
私はお祖母さまとお友達に手をふります。
「いってきます」
二人とも、にこやかに手を振りかえしてくれました。
白くてかわいいポニーに乗せてもらった日の午後、私は絵本を持って、お兄ちゃんのところへと向かいました。
執事さんがお兄ちゃんの部屋に連れて行ってくれます。
「おっきなお兄ちゃん、あそんでください」
お兄ちゃんはやっぱり困ったような顔です。
「お祖母さま方はどうした?」
「ふたりでおはなししています。アリスに、おっきなお兄ちゃんとあそんでもらいなさいって」
「……」
お兄ちゃんはテーブルで何かを書いていました。
「おてがみですか?」
「ああ」
「ここでまっていてもいいですか」
「ああ……」
よかった。私は邪魔しないようにその場でじっと待ちます。
お兄ちゃんのお部屋をゆっくりと見ながら、今日は何をして遊ぼうかといろいろと考えました。
最初に絵本を読んで、その後、大きな家の中を探検もしたいし、外へ遊びにも行きたいし、一緒にお昼寝もしたいのです。
お兄ちゃんは筆を置いて、私を見ました。
「……その本はどうした?」
「おっきなお兄ちゃんによんであげます」
「……俺に?」
「はい」
私は大きくうなずきました。
「はじめての本なのです」
自分で考えた話だから、ちゃんとお話できるのです。
お兄ちゃんは軽く首を傾げましたが、おいで、と優しく言ってくれました。
絵本を読んで、大きな家を一緒に探検した翌日、私は大きなバスケットを持ってお兄ちゃんのところに行きました。
昨日、執事さんが案内してくれたので、お兄ちゃんのいるところはわかっています。
でも、お部屋に行く前に、お兄ちゃんが廊下を歩いてきました。
「おっきなお兄ちゃん、あそんでください」
お兄ちゃんは苦笑しましたが、私に向かって手を差し出してくれます。私はすぐにその手をつかみました。
お兄ちゃんは、私が両手をあげれば抱っこしてくれるし、片手をあげたら手をつないでくれるのです。
移動するときはお兄ちゃんのほうから手を差し出してくれるようになりました。
軽く握って誘導してくれるお兄ちゃんの手は大きくて、とても硬くて。どうしてかなあと思っていたら、剣の修業をしているからだとお祖母さまが教えてくれました。
お兄ちゃんは昨日、私に「怖くないか」と何度も聞きました。
私は「怖くないです」と何度も言いました。
お祖母さまのお友達――お兄ちゃんのお祖母さまも言いました。
「この子、怖いだろう?」
何でそんなことを言うのか、私は不思議でした。
「おっきなお兄ちゃんはとってもやさしいです」
お祖母さまの友達が驚いたように私を見ました。その視線が私の隣にいたお兄ちゃんに向かいます。
私もお兄ちゃんを見上げると、なんだかすごく困ったような顔をしていました。
私の歩幅に会わせて、お兄ちゃんは歩いてくれます。
「今日は何をしたいんだ?」
「お外に行きたいです」
「外?」
「おっきな木があって、そこからみずうみが見えるって」
「ガウラ湖か。もうそろそろ昼だぞ。行くなら午後からにしよう」
「おばあさまが、外で食べなって、これをくれました」
「ん?」
お兄ちゃんは立ち止まり、身をかがめると、私が持っていたバスケットを持ってくれました。よかった。ちょっと重たかったのです。
「サンドイッチ? ……君のお祖母さまの手作りか」
「はい!」
私が元気に言うと、お兄ちゃんは少し嬉しそうな顔をしました。
「それはすごいな」
お祖母さまの料理はとっても美味しくて、みんなが大好きなのです。
「わたしもちょっと手伝いました」
「そうか」
お兄ちゃんが優しく笑いました。
「それは楽しみだな」
※
目が覚めて、私は瞬いた。
今、何かを思い出したような気がしたのに。
嬉しいような、懐かしいような。
「……夢?」
何の夢だった――?
小さい私が、誰かと話していた。
黒い髪に黒い瞳の少年。
フォルディス様があんなことを言ったから、勝手に想像して、こんなことがあったんじゃないかと自分と重ねてしまったのだろうか。それとも、フォルディス様の発言がきっかけで、忘れていた記憶が戻ったのか。
もう少し見ていたかったような気がするのは、あの夢がとても幸せだったから。
とても優しいお兄ちゃんだった。
たくさん遊んでもらった。
もし、小さい頃に、本当に出会っていたとしたら、とても素敵なことのように思えた。
彼も、小さい頃に会った子供に会いたいと思ったのだろうか……?
同じ髪色の少女を見つけて、もしかして、と確認しようとした侯爵。彼は、十年前の出会いを忘れていなかったのだ。
それがなんだかとても嬉しくて、私は朝から笑ってしまう。
寝室の窓を開けて、大きく背伸び。
「お、は、よー」
家の中には誰もいないけど、挨拶は欠かさずに行う。
窓辺に立ったまま外の空気を吸っていると、羽音がして、窓際にいつもの小鳥がやってきた。
私は小鳥の可愛らしい仕草に微笑んで挨拶をした。
「おはよう」
チュピチュピと小鳥が鳴く。
言葉はわからないけど、きっと私と同じく朝の挨拶をしているのだと思う。それか、ごはんちょうだい、か。
テーブルに置いてあったビンのふたを開けて、中のパンくずを小鳥に与えた。
「今日は何をしようかしら」
まぶしい太陽を見上げて、私は目を細めた。




