05話 乙女たちは語る。
「カタリナと緑の目のタヌキ」
私がそう口にしたときのお兄さんのきょとんとした様子を思い出して、くすりと笑ってしまう。
帰りの馬車の中で、私はティシィと向かいあって座り、互いに靴を脱いでくつろいでいる。
ティシィが不思議そうな顔で首をかしげた。
「なあに? 楽しそうね」
「ええ、今日は楽しかったわ」
「そう?」
あんな目にあったのに? と言いたげな顔をするけど、私が本心で言っているとわかったのだろう。ティシィは素直にうなずき、うっとりとした表情でため息をついた。
「アレフレット様までいらっしゃるなんて、驚いたわー」
「本当に」
「声を掛けられたときには飛び上がっちゃった」
「私を捜していたとき?」
「エスコートまでしてくれて、もう、キャー! よ」
33歳で独身のアレフレット殿下は、独身女性の憧れの存在だ。
もっとも、私たちにとっては雲の上の人だけど、スマートなエスコートには誰だってときめいちゃうだろう。
「アレフレット殿下のフェシャ、聴けた?」
「それ! ちょうど終わったときに戻ったから聞き逃したの……! もう、みんなうっとりした顔してて。え、なに? 何が起こったの!? って感じ」
くやしいー! とティシィは馬車の中にあるクッションを膝の上でポカポカと叩いた。
「だよね……!」
うんうん、と私もクッションをぎゅうぎゅうと抱きしめる。
いつか大人になったら天空の奏者の演奏会に行こうね、と二人で約束している。この場合の大人というのは、結婚して子育ても終わった婦人という意味だ。それくらいの年代じゃないと天空の奏者の演奏会にはいけない現実。
それをこの若さで聴けたかもしれないのだ。私だってあんな事態じゃなければ地団駄ものだった。
ほんの少しだけでも天空の音色を聴けたことを喜ぶべきなのかもしれない。
ティシィは溜め息をついた。
「こんな機会、もうないだろうなぁ……」
「そうね」
「アレフレット様、もう一度、ワイングラスを落としてくれないかしら……」
「落とさないでしょ」
私は苦笑した。
そうか。あのトラブルがなければ、アレフレット殿下がフェシャを弾くこともなかったのだ。
――そう考えると、あの場にいたみんなはフォルディス様に感謝するべきなのかも。
リリアナ様とフォルディス様のやり取りを思い出して、私は小さく笑ってしまう。
ティシィは唇を尖らせた。
「あと10分、おしっこを我慢していたら聞けたのにぃー!」
「おしっこ言わないの」
私は苦笑した。
「ティシィ、それより、あの人はいた?」
「あの人って?」
「ほら、街中で会ったっていう」
「ああ! 貧乏貴族の三男坊ね!」
半年ほど前のことだ。
ティシィが街中を探検しているときに、私の父とよく似た男性に出会ったのだという。髪や瞳、雰囲気なども似ていたようで、思わず「おじ様!」と声をかけてしまったらしい。
年齢も父よりは若く、よく見れば違うのはすぐにわかったらしいけど、それからはたびたび見かけては挨拶をする仲になったという。
腰に剣を下げているからおそらく騎士なのだろう、と言うけれど、互いに名前も交わしていないから、詳しいことはわからないらしい。貧乏貴族の三男坊、とティシィは決め付けているが、その根拠は不明だ。
相手が騎士で王都にいるということは、貴族が雇っている護衛騎士か、王宮の近衛騎士、王都の守護騎士のどれかだ。
貴族の嫡男が近衛以外の騎士になることはあまりないので、貧乏貴族の三男なら、護衛騎士や守護騎士の可能性が高い。平民でも騎士にはなれるが、従騎士止まりが多く、騎士叙任を受けるには相当の腕が必要だった。
私はちょっと胸を高鳴らせた。
「近衛だったら素敵ね」
「違うわよー。初めて会ったの地下水道だし。貴族のお坊ちゃんがそんなところにいる?」
「いない……と思うけど。相手も、まさかそんなところで会ったのが伯爵令嬢だとは思わないでしょうね」
てへ、とティシィは可愛く舌を出した。
ナルディア王国の騎士団は、王宮を守る近衛騎士団のほか、王都を守る守護騎士団、国の四大路を守る金獅子騎士団、赤龍騎士団、白鳳騎士団、蒼虎騎士団と、騎士の剣術指導と監督を主にした玄武騎士団が中心になっている。
一騎士団は約一万人。団長の下で千人が大隊をつくり、百人が中隊となり、十人が小隊となる。
団長、大隊長、中隊長、小隊長は必ず正騎士で、あとは従騎士であることが多いけど、近衛や玄武は団員数こそ少ないが、全員が正騎士だった。
今日のパーティーは、セティス公爵家の護衛騎士のほか、アレフレット殿下が来ていたから近衛騎士もいたはずで、ほかにも高位の爵位持ちが護衛騎士を伴っていたはずなのだ。
「ねえ、彼はいたの?」
「知らなーい。別に興味ないし」
さらりと言われてしまう。
「ええー?」
ちょっとだけ恋愛に発展したりするんじゃないかと期待している私としては残念すぎる結果だ。
もっとがんばれ、三男坊!
「そっけないのね」
「何を期待してるのよ」
「ロマンスを」
「ないない」
ティシィは手首を振った。
「本当にないの?」
「ありません!」
父と似ているってことは、容姿的には整っているってことだろうし、けっこうティシィ好みだと思うんだけどな。
性格が悪いのかしら。
「それより、アリス」
ティシィが目を輝かせた。
「アレフレット様って、おじ様に似ていると思わない?」
「ええ? そ……う……かしら? 髪の毛と瞳の色は同じだけど……」
「ほら、声とか!」
「あー」
確かに。
特に、リリアナ様を穏やかな物言いで制したときとか、父そっくりだ。
「……似てたかも」
「でしょ!?」
ティシィは楽しそうに笑っている。
「大人になったら、一緒に聴きに行こうね!」
「ええ」
私も笑い返した。
「それにしても、リリアナ様が私のこと知っていて驚いちゃった」
「私もよ」
ティシィは馬車の中だから誰も聞いていないのに、前かがみになって声を潜めた。
「前からアリスに興味は持っていたのよね」
「お菓子のことも聞いた……」
「てへ!」
「てへじゃない」
「まあまあ、それは置いといて」
ティシィは目の前の空気箱を横に動かす動作をした。
「リリアナ様が昔からリズのファンなのは知っていたの」
「そうなの?」
「あの人、リズのファンクラブ会長」
……なにそれ。
初耳ですけど。
そんなクラブがあったことすら初耳ですけどー。
どう反応を返していいのかわからない私に、ティシィは苦笑して、大丈夫、と言った。
「リリアナ様の友人関係は、だいたいリズのファンつながりだから。怖いことないよ」
「……そうなんだ……」
怖いことないって、そんなに怯えたように見えたんだろうか。
「あ、でも、ティシィがリリアナ様と知り合ったのっていつなの?」
「確か……カタリナが出てすぐだったから、5年前……? どこかのお茶会で声を掛けられたの。『貴女、カタリナみたいだわ』って」
リリアナ様の表情や声を真似て再現するティシィに私は笑う。
「赤い靴だったものね」
「それから、かな。たまにお茶会とかに招かれるようになったの」
「へえ」
「で、お茶会をうちで開いたときに、アリスのお菓子を出したら美味しいって驚かれちゃって」
「そうだったんだ」
「覚えてない? お茶会するからお菓子作ってーって」
「あー、あれ」
「そう、あれ。幼馴染みの友達が作ったって説明でみんな納得していたんだけどさ。それって、もしかしてナミ様のお孫さま? みたいな。私とアリス、メディ家とナミ様がつながってることを知っている子がいたんだよね」
どことなくティシィが疲れた様子なのは気のせいじゃないだろう。
「みんなが会いたいって騒いだんだけど、アリスはお茶会とか苦手だから呼ぶのはやめてあげてくださいって、なんとか説得して。その代わり、お菓子を持ってくることで許してもらったというか……」
「それで今に至るわけね」
「はい」
私は呆れた。
「こそこそしなくても、お菓子なんて言えば喜んで作ったのに」
「お茶会用のじゃなくて、普通のがいーの。普通のが」
「普通って?」
「いつも出してくれるような、普通の、少量のお菓子を、こっそり楽しむのがいいんだって」
「そんなものなの?」
「なの」
ティシィはクッションを抱いたまま、ゴロン、と上体を横に倒した。
「それからはお茶会=アリスリス・メディ様のお菓子試食会、みたいな状態だし。もともと、リズファンの集いみたいな感じだったんだけど、まさか同一人物とは言えないからこっちは複雑でさー」
「リリアナ様に、お菓子作りを教えてもいいって話しちゃったわよ」
「本当に!?」
「ええ」
「それ、相手の家に招かれてから、そこで教えたほうがいいよ」
「なんで?」
「あの小さい家の周りを馬車と護衛騎士だらけにするつもり?」
「ああ……そういうこと」
わかった、と私は了承する。
「リリアナ様がね。リズが私だってことを二年前に知ったって言ってた」
正確には、二年前の断筆時より少し経ってからだから、一年半くらい前ということになるのだろうけど。
「……そんなに前からだったんだ」
ティシィが驚いたように言うから、私のほうが驚いてしまった。
「知らなかったの?」
「うん」
ティシィは天井を見つめたままつぶやく。
「お菓子もすごく喜んで食べてたし、アリスに会いたいってずっと言ってたんだけど……。ローナとリズが同じだって知ったら、会いたいって気持ちが抑えきれなくなっちゃったんだろうなぁ……」
「ティシィはリリアナ様からいつ聞いたの?」
「東の森が出て、ちょっとしてからかな。二人っきりのときに、『ティシィさんはリズが貴女の親友だってことは知っていて?』とか言われて。頭が真っ白になったところに、東の森を差し出されて、『これもよ……ね』って」
「あー」
「ほかの人には黙ってもらうように伝えたんだけど、一度でいいから会いたいって言われちゃって」
ティシィは顔を緩ませて私を見た。
「断れる?」
「断れない、わね」
「でしょ。ローナの件がなかったら、リズがアリスだってことも知らないふりを通したんじゃないかなあ……」
「そっか……」
なんだかしんみりしてしまった。
リリアナ様も、まさかリズとローナのことを知っていたことで私があんなに驚くとは思わなかったに違いない。
ティシィは苦笑する。
「それにしたって、リリアナ様ってば気合入りすぎでしょ。正式な招待状まで来てびっくりよ。ただのお茶会に呼ぶだけだと思っていたのに」
「こんなに大きなパーティーとは思わなかった?」
「これじゃアリスは絶対に断るだろうなーって思った」
あはは、とティシィは声を出して笑った。
「案の定、行かないって即答だし。あの後、すぐにリリアナ様のところに行って、何でこんな正式な招待にしちゃったんですかって呆れて言っちゃったわよ。リリアナ様、すっごい動揺してた」
「でしょうね。公爵家から執事さんが来たもの」
「あはは! それで急に行くって言い出したんだ」
ティシィは笑った。
「セバスさんはリリアナ様がリズの大ファンだって知ってるからね。たぶん……だけど、リズのことを調べたのって、セバスさんじゃないかなあ」
「そっか……」
だから、最初はすごく冷たい対応をされたのだろう。
私が来なかったらお嬢様が気落ちなされますと言っていた。
セバスさんは、どうしてもリリアナ様に「リズ」と会わせてあげたかったんだ。
「ティシィ」
「ん?」
「ありがとう、ね」
「何が?」
「ありがとう」
リズのことをずっと守ってくれて。
ティシィは私をじっと見てから、ゆっくりと口角を上げた。
いいんだよ、と彼女は目を閉じて言った。
「私は、アリスの幼馴染みで、一番の親友で、リズのファン第一号だからね」