0.5話 それが始まり。
大広間の壁際に立つ一人の少女が、風景画を見ている。
ここが美術館であればまったく問題はなかった。
だが、交流を目的としたセティス公爵令嬢主催のパーティーで、人や料理より絵に興味を持っている姿は珍しい。
真白いドレスはシンプルで、柔らかそうに波打つ髪が背中を覆っている。後ろ髪をおろしているのは成人前の証だ。年齢的に、妹の友人だと思われた。
身体は細いが、痩せすぎているわけでなく、全体的に柔らかい線を描いている。
少女は手を後ろで重ね、頭をちょっと斜めにして、光の加減で絵具の凹凸を確かめているのか、筆使いが気になるのか。
絵を右側から見て、左側から見て、ちょっと離れて全体を見る。
今まで誰も気にしたことのない絵だ。この屋敷にある膨大な絵画の中のひとつでしかなく、有名な画家が描いたものなのか、それとも先祖が趣味で描いたものなのかすらわからないし、興味もなかった。
後ろ姿をじっと見つめていると、視線に気づいたわけではないだろうが、少女が身体ごと振り返った。
シャン、シャン――。
髪飾りから垂れる小さな銀珠――水琴鈴が清涼な音を響かせ、それが合図であったかのように、かすんでいた何かが晴れた。
――あの音を、知っている。
さらに、柱の影で見えなかった髪の色が明らかになって、一際大きく心臓が高鳴った。
――あれは。
苺の甘煮を紅茶に溶かしたような髪色だった。
端整な顔立ちの少女だ。
清潔感のある白い肌、小さな鼻、柔らかそうな唇、ふっくらとした頬はほんのりと赤く色づいているのが遠目にもわかる。
少女はゆっくりとした動きで会場を見回してから、口元に小さな笑みを浮かべた。誰かを見つけたわけではなく、ただ、その雰囲気を楽しんでいるかのような表情で。
――アリス?
まさか、と思う。
10年ほど前に出会った幼い少女。
王宮から不干渉を言い渡されているメディ子爵家の娘と出会ったのは、休暇で訪れた祖母の屋敷でのこと。
彼女は、〈天災〉と呼ばれる魔女ナミ・チトセの孫娘だった。
「アリスリス・メディ――」
おっきなおにいちゃん、と無邪気に笑う少女は、年の離れた妹と同じ年齢だったが、女性や子供から表情や見た目が怖いと避けられる自分をまったく恐れない不思議な子供だった。
離れて暮らす妹とどうやって付き合えば良いのか分からずにいた自分に遠慮なく話しかけてきて、子供との付き合い方を教えてくれた少女。
抱き上げるといつも甘い匂いがして、少女自身がお菓子で出来ているんじゃないかと思ったくらいだった。
つないだ手は小さく、軽く、力加減に困ったけれど、しっかりと握ってくる手や抱き着いてくる腕に遠慮はなく、滞在中は振り回されてばかりだった。馬や牛を恐れず、無邪気で元気。言動は子供らしいのに聡明なところもあり、その愛らしさに自然と笑みがもれるほどだった。
そして、別れ間際、魔女によって夢見させられた未来の――。
ああ、どうして忘れていたのだろう。
――彼女、なのか。
もし、瞳が若葉のような緑色であれば――。
気は急ぐのに、歩みは遅く、一歩近づき、さらに一歩。
「もう、帰ろうかしら」
声をかけようと横から近づけば、少女のつぶやく声が聞こえて混乱した。
帰る――?
どこへ。
パーティーは始まったばかりだぞ。
いや、それよりも、その言葉とともにきびすを返して自分に背を向けて歩いていってしまうから焦った。
「ま――」
待て、という声は、言葉にならない。
なぜ、こんなにも気持ちが焦るのか。
会って何を話せばいいというのだろう。
彼女は忘れているかもしれない。
ただ――。
ただ確認したいだけだ。
その目を――。
ふと、乳兄弟でもある王が話していた言葉を思い出し、給仕が持つワイングラスを手に取った。
――ご令嬢やご夫人を呼び止めるなら、ワインの一滴でも垂らせばいいのさ。
ああ、妹に殴られても仕方がない。
むしろ、彼女が怒らなかったのが不思議なくらいだ。
ワインの色や量などまるで頭になく、ただ、軽く傾けただけのつもりで起きた大惨事に、頭が真っ白になった。