30話 ラーレル。
あれは何歳のときだったか。
王都で12年に一度行われる大聖霊祭の前だから、3歳か4歳の頃だろう。
父に連れられて向かった大きな屋敷にはたくさんの動物たちがいて、これがお祖母さまから聞いた「動物園」に違いない――と感動したのだ。
――今でも、動物園なのかしら。
そこには檻なんてなかった。
王都の中心部に近い商業区の一角にある、高い塀に囲まれた商家の広い庭。そこで放し飼いになっている動物たちは、犬や猫といった愛玩動物ではなく、本来は野生に生息している大型の獣だった。
虎に獅子、豹、一角馬など、彼らは、家人に案内されて縁側を渡る私たちに視線を向けるが、すぐに興味をなくし、寝なおしたり、毛づくろいをしたり、大きく欠伸をするものまでいた。
草食、肉食、雑食の獣が、互いの空間を侵すことなく寛いでいた。野生の生き物であるはずなのに、すっかり飼いならされているようで大人しい。
柔らかそうな毛が風になびき、尾が揺れる。ぴくぴくと動く耳が可愛くて、顔が緩んだ。
大きな牙、立派な角、鋭い爪、輝く毛、柔軟で俊敏な姿態に目を奪われる。絵ではなく、実際に見たのは初めての動物ばかりで、気分が高揚していた私の目は輝いていただろう。
触りたい! と両手を伸ばすが父に襟首をつかまれ、そのまま抱き上げられた。
「こら、喰われるぞ」
「くわれる?」
きょとんと首をかしげる私の頬を、父がパクッと銜えた。
「こうだっ」
「きゃー!」
私は父に「がう! って言って」とお願いした。
「がうっ」
腕をパクッ。
「きゃはは!」
「がうがう!」
耳をパクパクッ。
「きゃー!」
私は身悶えた。
「ジン、何をやっているんだい」
呆れたように言ったのは、家人に呼ばれて出迎えに来たヒューイ・ラーレルだった。
――きれいな女性だな。
ヒューイ・ラーレルを初めて見た最初の感想はそれ。
ふわふわと浮き上がる自分の髪とは違って、艶やかな黒髪は絹糸のよう。まっすぐに流れる髪を左耳の下でひとつに結って胸元に流している。
左目を黒い眼帯で覆っていたけれど、それすら容貌を彩る飾りのように似合っていた。まるでお城に飾られた絵画に描かれた貴婦人が抜け出てきたような美しさ。
袖の長い服は全体的に流れるような線を描き、光沢のある生地が夜会のドレスに使われるような一級品だということも、幼い子供ながらにわかった。
「アリス、彼がこの家の主だよ」
彼、と言った父の言葉に瞬いた。
「おとうさまの、おともだちですか」
これから会うのは幼なじみなのだと聞いていた。私とティシィのように、小さなころからの付き合いだと。
そのときの私は、父が生まれてすぐにこの世界を離れて違う世界にいたことを知らなかったので、それがどういう意味なのかをわかっていなかった。
私は父に降ろしてもらうと、両手をそろえて、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、アリスリスです」
実際には、舌が回らず「アリスリチュ」に聞こえただろう。
私の挨拶に対し、ラーレルは優麗に笑った。
「ヒューイ・ラーレルだ。動物が好きなのかい?」
「はい!」
満開の笑顔で元気に答えて、私は彼にお願いをした。
「えんちょうせんせい! あのこたちにさわってもいいですか」
「えん?」
不思議そうに瞬いたラーレルが首をかしげた。
私も同じ方向に首をかしげた。
――だって、ここは動物園なのでしょう?
なら、彼は園長ということになる。
そう説明すれば、ラーレルはおかしそうに吹き出した。
「容姿だけでなく、性格も母親似のようだね」
あとで遊ぶといい、と許可をもらい、父の足元で浮かれる私をラーレルは物珍しそうに見ていた。
「恐れないのだねえ」
「だから目が離せなくて困る」
父は私の頭をくしゃりと撫でて苦笑した。
「すぐにいなくなるんだ、こいつ」
「それは、そなたの血じゃろ」
「え、そうかな」
どこか嬉しそうな父の声。
「一緒に昼寝しているとさ、同じ格好で、同じタイミングで寝返りをうつってエセルに笑われるんだ。――顔だってちょっとは似ていると思わないか?」
「ああ、確かに同じだねえ。目はふたつで、鼻と口はひとつだ」
ふ、と鼻で笑うラーレルの目は、左右の色が違っていた。
――黒と紫。
いつの間に眼帯をはずしたのか、そこには大きな傷もなく、黄金比の綺麗な目があった。
思わず口をポカンと開けてしまう。目の色が左右違う猫は見たことがあるけれど、人は初めてだったのだ。
彼は身をかがめて、視線を合わせてくれた。
「この目が気に入ったのかい」
楽しげな声。
間近で見る紫色の瞳は、小さな星がキラキラ輝くように光が揺れていた。何が映っているのか、思わず見入ってしまった私に、ラーレルの口角が上がった。
「怖くないか」
顔を寄せて囁いた。
「この瞳に魅入られた者は、みんな不幸になるのさ」
「そうなの? でも、とってもおいしそうな目よ」
「美味しそう!?」
ラーレルは仰け反り、身を起こすと、ははっ、と声を出して笑った。
「称賛の言葉は聞き飽きたが、美味しそうと言われたのは初めてだよ、ジン。お前の娘は食いしん坊だねえ」
――おいしそうな目よ。
お祖母さまが作った飴のようで。
思わず、そんな言葉を口にしてしまった私を、気に入った、と彼は笑った。
※
ラーレルを見て、女性と勘違いする人は決して少なくない。応接間に現れた麗人を、ヒューイ・ラーレル本人ではなく奥方だと思ってしまうほど。
だが、すぐにそれが間違いであることに気づく。
美しい容貌を隠すのは、左目を覆った黒い眼帯。それが、彼の最もたる特徴であったから。
長いまつげが綺麗に流れた右目は切れ長で、その下の瞳は闇のような黒。パーツの一つ一つが目を奪うほど美しく、常に浮かぶ穏やかな笑みに人は目を奪われ、「騙される」という。ティシィに言わせると「胡散臭い」のだそうだ。
ラーレルの目線は私より少し高いだけ。男性としては小さくて華奢だ。
縦襟の上着は袖や裾が長く、輪郭が流線を描く東方風の衣服で、細身の身体によく似合っていた。
初めて出会ってから10年以上が経っているのに――。
――変わらない。
「おや、食いしん坊が来た」
わたしの左目を食べに来たのかい? とヒューイ・ラーレルが言った。
私は笑った。
「ヒューイ、お帰りなさい」
「ただいま」
ラーレルも笑う。彼は私の真正面に立つと、右手の指の甲を私の頬にそっと当てた。
「やっと、帰ってきた、という気持ちになったよ。ずいぶんと大きくなったじゃないか」
「縦にも横にも伸びましたわ」
ふ、とラーレルは鼻で笑った。
「よく食べて、よく寝たのだろう」
「はい」
「わたしより身長が伸びていたら、追い返していたところさ」
「よかった」
私は心からホッとしてラーレルに抱きついた。懐かしい匂いに包まれる。軽く抱き返されて、すぐに身体を離した。
ラーレルにはお帰りなさいを言うためだけに来たわけじゃないのだ。
お座り、と言うので二人がけのソファーに腰をおろすと、その向かいにラーレルも腰を下ろした。
「ジンと奥方は元気かい」
私は微笑んだまま、彼が望まぬ答えを口にした。
「二年前に他界しました」
「なに!?」
いつも和やかに微笑んでいるラーレルが、驚きに身体を強張らせた。
「亡くなったのか!? ――いや、亡くなったわけではないね? 界渡りしたのか。二人で?」
ラーレルの顔が険しく、声も低くなった。
「アリス、何があった」
「……地下の〈門〉を、母が通ってしまいました」
「ッ!」
ラーレルは短く息を呑んだ。〈門〉を通る――、その意味を、彼は知っているのだ。
「ジンが後を追ったのか」
私は小さくうなずいた。短い説明で通じてしまうことにホッとする。
ラーレルは疲れたような息を吐き、そのままソファーの背にもたれた。
「ナミ殿は?」
「どこにいるのかわからないので知らせていません。もしかして、この世界にはいないのかも」
「……そうか」
ラーレルはゆっくりと息を吐き、左目を覆っていた眼帯を外した。それをテーブルの上へと無造作に放る。
彼をよく知る人物がここにいたら驚くだろう。ヒューイという先名を口にすることを許し、眼帯すら取っているのだから。
「お祖母さまに連絡は取れないでしょうか」
「……」
ラーレルは無言のまま、出来ない、と表情で伝えてくる。
「そう……ですよね」
少なからず、私は落胆した。お祖母さまの行方を知っている者がいるとしたら――連絡の取れる者がいるとしたら、この世界では彼だけだろうと思っていたから。
ラーレルは軽く呻いた。
「あそこは神の〈門〉だ」
「……」
「次に開くのはいつか知っているのかい」
私はラーレルの手元を見つめて答えた。
「はい」
――アリス、ティシィ、お気をつけ。ここに落ちたら120年は帰って来られないからね。
向こうとこちらとでは時の流れが違うということを教えてくれたのはお祖母さまだ。
神々の世界での1年が、こちらでは24年。〈門〉は互いの世界をつないでいるが、固定しているのは〈門〉を作った側で、通った先はどこにつながっているのかわからない。
だから、父はすぐに母を追う必要があったのだ。
「向こうからこちらに固定された〈門〉があればすぐに帰って来られるが……、その〈門〉はすでに存在しない」
私は頷いた。
ラーレルは重い息を吐いて前髪をかき上げた。
「あとは、ナミ殿のように偶然〈落とし者〉としてこの世界にやってくるか、他の〈門〉を見つけて帰ってくるしかない」
「……」
私は泣きたくなる。
「ヒューイ。お父さまは……、父は母を見つけているでしょうか」
無事に会えているのだろうか。
「会えていると思いますか」
「ジンはすぐに後を追ったのだろう?」
「はい。……でも、母が落ちたと――この世界にいないと気づくのに、わかるのに、少しかかって」
「……少しって?」
「たぶん、30分くらい」
「――ああ」
ラーレルが肩の力を抜いた。
「それくらいなら大丈夫だろう。〈門〉は一度通れば一時間ほどつながっているはずだからね。違う場所に落ちたとしても、ジンならすぐに見つけるだろうさ」
「見つけているでしょうか」
「もちろん」
ラーレルは笑う。
「何を心配しているんだい? お前の父親だよ。見つけていないはずがないだろう。そしてね、娘に会うために、どんな手段を使ってでも〈門〉を見つけて、二人で戻ってくる」
「はい」
「120年も待たせたりはしないさ」
「はい」
「大丈夫」
「はい」
私はくしゃりと笑った。唇が震えて、視界が滲む。
ラーレルは私の隣に移動してくると、私の頭を抱き寄せた。
「大丈夫だよ」
小さなころ、すっ転んでびいびい泣いた私を慰めてくれたときのように。
「大丈夫」
何度も何度も、大丈夫と言って、頭を撫でてくれた。