29話 前夜。
貴族とはいえ大きな屋敷ではないので、マイリィは侍女という肩書きでメイドも兼ねることになる。
女主人が自ら家の掃除や庭の草むしり、畑仕事までしてしまう家だから、彼女もそれはわかっているだろう。おそらく、やることは今までと変わらないはずだ。世話をするのが、姉から私になっただけ。
マイリィはメディ家に何度か来たことがあるので、ピイシェの手を引きながら、個室、書斎、客室、台所、冷蔵所、備品倉庫、風呂場、手洗い場、地下にある書庫など簡単な案内を済ませ、決して近寄ってはいけない場所のことも伝える。
「ご飯ができたら呼ぶから、それまでゆっくりしていていいわよ」
一階にある客室の一つを与え、トランクの荷解きを命じた。
食事の手伝いを主張する少女に、それは明日からとお願いして、私は夕飯の支度をする。
ピイシェの部屋も用意はしたけど、当分の間は私と同じ部屋で寝起きすることになるだろう。
さらに、私が作家のリズであることを伝えると目を丸くして驚いていた。
みんなには内緒よ、と人差し指を口に立てれば、マイリィは興奮を隠せないまま、こくこくと大きくうなずいた。かわいい。
「お姉ちゃ……、姉もアリス様がリズだって知っているんですか?」
私は口角を上げて、笑うことで肯定した。
ネイは褒め上手だ。
彼女は、小さな頃から私が描いた絵を見ると、いつも「上手いですねえ」とニコニコ笑って褒めてくれた。それがうれしくて、しつこいほどに絵を描いてはネイの元へと見せに行っていたのだ。そのたびに、ネイは大げさなくらい褒めてくれた。
もしあそこで一度でも冷たい反応をされていたら、私は絵を描き続けることなく止めてしまっていただろう。
お祖母さまに紙芝居を読み聞かせることもなく、それがきっかけで絵本が出版されることもなかったはずだ。
そういえば、と今更ながらに気づいた。
侍女に払う給料のことをティシィに聞かなくちゃ――。
書庫を探せば、職種別に支払われる給料の相場を書いた本もあるかもしれないけれど、探すのは大変だ。まずはメディ家の資産を管理してくれているセオス・グレイにも連絡を取らないといけない。
ふう、と一息。
「やることがたくさんあるわね……」
大変だとは思うけど、面倒だとは思わないのは、気分が高揚しているからだろう。自然と顔が緩んでしまう。
「りちゅ」
お腹がすいたのか、ピイシェが台所にいた私の足元をウロウロし始めた。
「ご飯にしましょうか」
私は笑ってピイシェの髪に触れると、マイリィを呼んでくるようにお願いした。
夕飯を終えて食後のお茶を楽しんでいるときに、玄関のドアを叩く音がした。
「こんな時間に誰かしら」
私が立ち上がる前に、お皿を洗っていたマイリィがすばやく玄関に向かう。
どなたですか、と問うマイリィの声に続いて、ドアの開く音がする。
座ったまま待っていると、戻ってきた少女は、やや困惑気味に首を横に振った。
「誰もいませんでした」
「あら」
風の悪戯かしら、と思った次の瞬間、私の目はマイリィの背後を見て大きく開いた。口もポカンと開いていたかもしれない。
「アリス様?」
マイリィが背後を向く。でも、そのまま不思議そうな顔をして私の方へと視線を戻した。
「なにか」
「ええ、っと……」
――いる、のだけれど。
マイリィには見えないらしい。
まっすぐに私を見る二人は、年のころが十代半ばで、全身が黒づくめ。エプロンやカチューシャこそつけていないけど、メイドのような格好だった。ひとりは少年のように黒髪を短くしているけど胸があるので女とわかる。もうひとりの少女は長い黒髪を馬の尾のように頭上でひとつに結っていた。
96(クロ)さんと同じ人たちなのだと、すぐにわかった。彼女たちは、セラ侯爵に仕える〈影〉だ。
二人は私を探るように見つめて、軽く首をかしげた。もしかすると、私が見えているのか、見えていないかを確認しているのかもしれない。
長髪の少女が室内を見回し、肖像画のあるほうに歩いたので視線が追うと、それに気づいたのか歩みが止まって私を見る。
じいい、と見つめ合うことたっぷり十秒。見えていることを伝えてもいいのか、それともいない振りをするべきなのか。
私は後者を選んだ。ふ――と視線をそらして、マイリィを見た。
「マイリィ、洗い物が終わったら手を休めて、貴女もゆっくりしてね」
「はい」
台所に下がるマイリィを見送って、先ほどから私を凝視している二人に笑いかけた。
「クロさんのお仲間ね?」
私の言葉に目を見張り、短髪の少女が静かに口を開いた。
「やはり見えるのですね」
それには口角を上げるだけで応え、私は首をかしげた。
「フォルディス様から何か」
「伝言を預かっております。王宮に上がる手筈を整えた。明日の午後1時に迎えが行くので用意をしておいてほしいとのことです」
「わかりました」
私は微笑む。
「クロさんはティシィのところ?」
「はい。……本当は96がここに来るはずでしたが、交換してもらいました」
「交換」
「……その、貴女様から、名を……、もらったと」
「あら、名前というほどのものではないのよ。――あなたたちは、77さんと39さんかしら。ナナさんとミクさんとお呼びしてもいい?」
「……!」
二人は同時に顔を見合わせ、短髪の少女が軽く右手を上げた。
「77です」
「じゃあ、あなたがナナさん」
「ナナ……」
ナナさんが猫のような目を細め、ほわんと嬉しそうな表情でつぶやく。
次いで、期待するような目で私を見ている長髪の少女に笑いかけた。
「あなたがミクさん」
「……」
ミクさんも同じようにつぶやいたけど、言葉にはなっていなかった。
名前といっても、数字の読みをお祖母さまの世界風に読み変えただけ。でも、二人にとって名を与えられるということはとんでもなくすごいことだったらしい。まるで子供が店先に並んだ飴玉を前に目を輝かせるような表情で私を見ると、ス――と片膝を落として、両手を胸の前でX字にして頭を下げた。
「ありがとうございます、お方様」
口にしたのはナナさんで、ミクさんは無口なのか、それとも話せない理由があるのか、先ほどから声は出さない。でも、嬉しそうなのは顔を見れば明らかだった。
そういえば、ピイシェも名前を与えたときに同じような表情をしていたことを思い出して、顔が緩んでしまう。
「喜んでもらえてよかった」
「お方様」
「あ、あの、私、まだ独身です」
「存じております」
キリッとまじめな顔のナナさんに、私は微笑んだ。
「では、名前で呼んでください。アリスと」
「アリス様」
「はい」
私の笑みに、二人も笑みを返してくれた。
二人は再度頭を下げた。
「以降、我らが側にいるとき、何かあれば気軽にお申し付けください。主より、貴女様に従うよう申し付けられております」
「フォルディス様が?」
彼に連絡をするなら彼女たちを使え、ということだろう。
私はあることに気づいて軽く首をかしげた。
「――貴方たちが、ほかの方に見えているのか、見えていないのかの区別がつかないのだけれど」
ほかの人に見えないのに話しかけていたら、変な目で見られてしまう。
ナナさんは軽くうなずいた後、それでは、と言った。
「姿を消しているときは挨拶をいたしません。見えるときは挨拶いたします」
「わかりやすくていいわね」
わかったわ、と私は了承した。
マイリィがやってくる気配に、二人が軽く礼をして下がろうとするので慌てて立ち上がった。
玄関まで送って、振り返った二人に私は笑う。
「フォルディス様によろしくお伝えください」
二人は丁寧に礼をして、クロさんのように去っていった。
「やっぱりすり抜けるのね……」
二人が消えた玄関の扉に触れて、私は首をかしげた。人が扉に吸い込まれるように消える光景は、何度見ても不思議で仕方がない。
「歩いてきたのかしら……」
それとも――。
「アリス様」
マイリィの声に振り返ると、不思議そうな顔で首をかしげている。
「やっぱり誰かいらっしゃったのですか?」
私は扉から手を離した。
「フォルディス様のお使いがね。マイリィ、明日は朝から出かけます。ピイシェを孤児院に預けていくけど、夕方までに戻れなかったら連れて帰ってきて」
明日の午前中はラーレルに会う予定だけど、ピイシェは連れて行かないほうがいいだろう。
わかりました、とうなずいたマイリィの髪に触れて私は微笑んだ。