26話 四日前。
ティシィが集めた情報によると、五日前の早朝、王都の南大門から入都した商人の馬車に珍しい獣が捕獲されていたという。
獣の特徴は、その姿を知る者が聞けば間違いようもなく赤龍の幼生で。
「クルセイド商会か」
セラ侯爵の言葉に、ティシィがうなずいた。
今は無き古の大国クルセイドの名を持つ商家。当主ラーレルは、珍しい動植物の収集で有名だ。
ただ、それらは絶滅危惧種の保護が目的ではない。商売人なのだから当然といえば当然なのだが、ラーレルの場合、裏で人身売買も行っているとか、秘密倶楽部の主催であるとか、幼児や動物を虐待している……等々、彼はとかく黒い噂が絶えない人物だった。
本人の性格と雰囲気がそう思わせるのかしら、と私は思う。
ヒューイ・ラーレル。
正しくは、その後に「クルセイド」の名がつく古の王家の末裔。
一見、女性かと見紛う優麗な容姿の青年は、常に左目を黒い眼帯で覆っている。
隠された左目は毒を飲まされた際に腐れ落ちたとか、幼い頃に狂った母親から刺されて失ったとか、醜い疱瘡の痕があるとか、悪意ある噂がいくつも流れているが、当主はそれを否定も肯定もせずに放置し、漏れ聞こえてくる自分の噂を楽しんでいるらしい。
その噂すら本人が流した可能性もあった。
眼帯の下に、クルセイド王家の証となる――右の黒とは違った貴色があることを知る者は少ない。
彼のそれは至高の紫。
あの綺麗な目を見て、なぜお母さまの胸元に光る紫水晶ではなく、お祖母さまが作った甘酸っぱいブドウの飴を思い出したのだろう。
――美味しそうな目。
かつて、幼い私は彼の左目をそう称した。
きっと、おなかが空いていたのだろう。
涎すら出ていた、と後に言われた――そのときの私を、父の親友であるラーレルは声を出して笑った。
癖のない黒の長髪を左耳の下でひとつに結って胸元に流し、人の本質を見抜くような目をした青年は、父に抱かれた私の頬を優しく撫でた。
「称賛の言葉は聞き飽きたが、美味しそうと言われたのは初めてだ」
彼と最後に会ったのは、いつだったか。少なくとも、両親が健在だった頃だから二年以上前のことになる。
世界各国を巡る忙しい彼が、本家のあるナルディアの王都に戻って来たのだ。
ラーレルは、ピイシェが赤龍の幼生であることを知って捕らえたのだろうか。
ふと、「捕らえた」という言葉にかすかな違和感を覚えた。
――捕らえた?
本当に――?
保護しただけではないの……?
「ああ――」
侯爵が何かに気づいたのかポツリとつぶやいた。
「四日前か……」
黙って聞いていた私が問うように首をかしげたけど、侯爵は説明してくれそうにない。そのかわりティシィが答えてくれた。
「その日にピイが逃げ出したのよ」
ティシィはお代わりした紅茶に再び砂糖を入れた。一回、二回……。やっぱり侯爵の視線が痛い。
私は砂糖入れに手でふたをした。
「太るわよ」
「太りたいの」
はいはい退けて、とティシィが私の手を指で撥ねる。
もう、と私は小さく息をついて手を上げた。
「なんで四日前ってわかるの」
「クルセイド商会の蔵に何者かが忍び込んで、鍵を壊したから」
「まあ」
私は瞬いた。
「鍵を……。それでピイシェが逃げ出したの?」
「正解。だけど、真実じゃないわ」
ティシィはスプーンをソーサーに置いた。
「逃げたのはピイシェだけじゃないの。捕らわれていた動物たちがすべて街に逃げ出したのよ」
私は驚いて目を丸くしてしまった。
「すべて?」
「すべて」
「ピイシェを助けにきた人がいるということ?」
「蔵は内側から破壊されていたって話」
私は首をかしげた。
「外側から……鍵を開けたのではなく?」
「なく」
「……」
「不思議でしょう?」
ティシィがにっこりと笑った。その笑みが語る意味はひとつ。
助けに来た人はいない。内部の犯行だ。
もし、蔵の中には動物たちしかいなかったとしたら――。
「ピイシェがやったということ……?」
「さあ。でも、ピイが誘発したのは確かね。檻についていた鍵もすべて人外の力で壊されていたみたい」
人外、という言葉に、私は無邪気に眠る子供を見つめた。
「あの子が……?」
りちゅ、と私にしがみついてきた子供。
大人の男性におびえて震えていた身体。
いったい、どんな目にあったのだろう。
――そんなに逃げたかったの?
私に会いたかったの?
どれだけ強い思いで求められたのかを想像すると、切ないくらいに胸が痛んだ。
「逃げ出した動物は大小、可愛いのから危険種まで多種多様。朝から捕獲騒ぎで大変だったらしいわよ」
「知らないわ」
初耳、とつぶやく私に、ティシィは肩をすくめて見せた。
「……まあ、ここの住人はそうかもね」
レイゼン地区の職人は、基本的に内職が多く、外に出ることがないので情報に疎い。というか、外界のことにあまり興味を持たない。
それでも、噂のひとつくらいは流れてきそうなものだ。
四日前といえば、リリアナ様からパーティに招かれた日。城下でそんなことがあったのなら、護衛騎士たちが神経を尖らせていたはずなのに、そんな気配はまったくなかった――。
その理由に気づいて、私は微笑んだ。
「誰も危害が加えられていないのね?」
「ええ。ただの捕獲騒ぎで終わってしまったの。まさか、それに裏があるとは思わないわ。私だって、動物が逃げ出したっていうから犬か猫だと思っていたくらいだもの。まさかラーレルの所とはね」
「あら、動物が見たかったの?」
まさか、とティシィは私を睨んだ。知っているくせに、とその目は語る。
「捕り物に決まっているでしょ」
ティシィが興味あるのは、動物ではなく人だ。私が動物を見てワクワクするのと同じように、ティシィは人を見て楽しむ。
「大型の獣はほとんど無抵抗で捕まったみたいよ」
「そう……」
やっぱり、と私は確信を強める。
動物たちが逃げたのは、ピイシェが逃げるための囮だった可能性が高い。幼生であっても本性は動物の王者だ。猛獣くらい簡単に従わせることが出来るのかもしれない。
私は壁際に控える侍女に視線を向けた。
「四日前の騒ぎ、マイリィは知っているの?」
はい、と赤髪の少女はうなずいた。
「黒豹や剣歯虎を見たと、姉が興奮していました」
「え……!」
私はマイリィの言葉に瞳を輝かせてしまった。
「エセル地区に黒豹と剣歯虎!?」
「キラキラしないの」
ティシィが呆れたように言い、私の額を指で突いた。
「あうっ」
私は額を押さえた。だって、と言い訳をする。危険で怖い、より、珍しい! 見たい! という気持ちの方が上回ってしまったのだ。
きっとネイだってそう。三階の窓から「ひゃっほー! かっけー!」と楽しげな奇声を上げていたのは想像に難くない。
私は額を押さえたまま侯爵を見つめた。
「フォルディス様も出動されたのですか」
「いや」
侯爵は真面目な顔で否定した。
「その件に関しては報告しか受け取っていない」
「まだ小さいのが何頭か捕まっていないみたいよ。それは警団が引き続き探してる」
ティシィの視線が、ソファーで丸くなって眠るピイシェに向かった。まだ捕まっていない獣の中に、ピイシェも含まれているのだろう。
ティシィは甘い紅茶を優雅な仕草で口に運んだ。カップをソーサーに戻して、ほうと息を吐く。
「赤龍の幼生だと分かって捕獲したのか、純粋に珍しい獣を得ただけなのか……。あのラーレルよ? どっちだと思う」
「保護した、という可能性もあるわよ」
「ええ?」
ティシィは渋そうな顔をして唸った。
「まさか直接聞きに行くんじゃないでしょうね」
「いいでしょう?」
「やめてよー」
私はティシィの言葉を聞き流し、澄ました顔で紅茶を口に運んだ。
私とラーレルが顔見知りであることを知っているティシィはため息をついた。
「三日前に、外郭でピイシェと思われる子供が目撃されているわ」
「……保護されていたのなら、逃げる必要はないってこと?」
「そう考えるのが妥当ね」
「……」
やっぱり直接ラーレルに聞いたほうが早いかも、という言葉は胸にしまって、話題を変えた。
「それで、結晶石は何で王宮にあるの?」
侯爵がいるので、それが判明した手段はあえて聞かない。
ティシィは肩をすくめてみせた。
「騒ぎの詫びとしてクルセイドが献上したんじゃないかって話。もともと、幼生のほうも王宮に献上する予定だったんじゃないかしら。王誕が近いでしょ」
じゃあ、それも直接聞こう、と私は思う。
「献上するとして、赤龍の幼生だと分かっていたと思う?」
「さあ……。下手したら、王宮に爆弾を運び入れるようなものだけど……」
ティシィは右の人差し指をゆっくり横に移動させ、砂糖が入っている器をカツンと弾いた。
「ドーン」
「ティシィ」
私は眉をひそめた。
「不謹慎よ」
ティシィは肩をすくめた。
気遣うように侯爵を見れば、心なしか顔が青い。レドラスのように赤龍が飛来し、王都を一夜にして炎にした姿を想像したのかもしれない。
侯爵の様子に、ティシィが首をかしげた。
「レドラスのこと、知っているの?」
「あ、私が言っちゃった」
「あら」
「ごめんなさい……。知っていると思っていたから」
「いいんじゃない? いずれは宰相になる人なんだもの。知っていたほうがいいでしょ」
「……宰相に」
私は瞬いた。
現在の宰相はセティス公爵。セラ侯爵の母方の祖父だ。
私は首をかしげて侯爵を見た。
「宰相におなりになるのですか」
「……決まっているわけじゃない」
「でも、なるのでしょう?」
ティシィが笑う。
「先のセラ侯爵――トール卿がご存命だったら、今頃、彼が宰相になっていたはず。セラ家は、今上陛下の守家だし」
「守家……」
私は侯爵を見た。
彼はティシィをまっすぐに見つめている。どこか、ティシィを警戒するような視線だ。
「フォルディス様は、陛下の守り人なのですか」
視線が私に向かうも、返答はなかった。
守り人とは、生まれた御子と一緒に育ち、一生を支える者。
非公式にだが、王族は生まれると一度捨てられ、拾った家の子息と共に10歳まで育てられる風習がある。それは初代国王に倣ったナルディア王家の決まり事のようなものだが、御子を拾う家はあらかじめ決められており、それが「守家」だった。
守り人の家、という意味だが、王家の者が身ごもったとき、同時期に身ごもった者がいる家の中から「守り人」が選ばれるのだ。
王族が多いときは伯家からも選ばれていたが、今では公家と侯家に限られている。
守り人の存在は、特に秘密にされているわけではないが、公になっているわけでもない。
先王陛下の守家はセティス公爵家で、父の守家はアークロット侯爵家だった。
今上陛下の守家がセラ侯爵家であるなら、同い年のフォルディス様とカインシード陛下は、赤子のときからの付き合いということになる。
守り人となった者は御子と同等の教育を受け、侍従もしくは侍女となり、近衛や女官、宰相や王妃など、最終的に王族を支える地位に就くことが多かった。
「幼馴染みがいるっていいですよね」
私の言葉に、侯爵が軽く目を見開いた。
今、この場で、それはひどく的外れな発言だったのかもしれない。
でも、私は胸を張った。
「恋人も親友も、別れたり連絡が途絶えたらそれまでです。――でも、幼馴染みは、別れても離れていても、永遠に幼馴染みなんです。幼馴染みって、最強の存在なんですよ」
ティシィと両手を合わせて、ねー、と笑い合う。
侯爵は、そうだな、とつぶやいて小さく苦笑した。