25話 レイゼン地区。
道案内をします、と黒衣の騎士の隣に座ったのはマイリィだ。
エセル地区から隣のレイゼン地区に入ると、かなり遠回りになるけど二頭引きの馬車が楽に通れる道を選んでいるのが馬車の中からもわかった。
8歳の少女は、御者の助手としても優秀らしい。
レイゼン地区の外れにメディ家はある。
「本当に……」
窓の外を見ながら私が笑うと、侯爵が問うような視線を向けてくるのが分かった。私は口元に拳を当てて侯爵を見る。でないと、再び笑ってしまいそうだったのだ。
「セティス家の四頭引きの馬車がよく通って来られたものだと思って……」
「ああ……」
侯爵も苦笑い。
「ここに来たのは初めてだが……」
――道が狭い。
レイゼン地区は、手工業の職人が多く集まった職場兼住宅が多く、近年では、住民の多くがエセル地区再建にも係わっている。
もともと王都と王宮建設のために集められた職人たちが代をかえて住み続ける町は、集合住宅ではなく、裏庭や畑もある一軒家が多い。一軒一軒が木の塀で囲まれているため、複雑に入り組んだ路地は道幅も狭く、行き止まりも多かった。そのため、住人たちが使うのは人力車か一頭引きとなる。
そこを、四頭引きの馬車でやってきたのだから、その無茶ぶりがうかがえるというもの。
「エセル地区もそうだったが……ゴミが落ちていないな」
綺麗な町だ、という侯爵のつぶやきに、私は笑みを返した。
王都の中でも、たった20年で住民の意識と生活環境を最高水準にまで上げたエセル地区とは違った意味で、ここもまた特区だった。
エセル地区が王都で最新の町なら、レイゼン地区は最古の町だ。
「エセル地区に来たのは昨日が初めてだったのですか?」
「ああ……」
窓の外を見たまま暗い表情をする侯爵に、私は首をかしげた。
「知ろうとしなかったことを恥じていらっしゃるの?」
「……」
侯爵の黒い瞳が私を見た。切れ長の目は鋭いけど、怒っているわけではないと分かる。だから、私も怯んだりしない。
「気にすることはありません。エセル地区は治安がいいということもありますけど、守護騎士団の方でもめったに来ませんし、まして貴族の方が外周に来ることはまずありませんもの」
「……そうか」
「そうです」
侯爵は、小さく笑った。
「……あまりにも町並みが綺麗で驚いた」
「ありがとうございます」
「……嬉しそうだな」
「おかしいですか?」
私は笑った。エセル地区を褒められるのは、自分のことのように嬉しく誇らしい。それがわかったのか、侯爵は目元を緩めた。
「20年で……、ああも変わるのだな」
エセル地区と呼ばれる前の最悪区は、正式にはモレス地区という。200年ほど前は、王都建設のために集められた土工たちが住んでいた場所だった。
起工から完工まで約30年。彼らが竣工と共に新たな職場に移動すると、入れ替わるようにモレス地区の住民となったのは、周辺諸国の戦乱から逃れてきた難民だった。
建国より30年、落ち着いた治世が続くナルディア国の新王都の民は、戦争により家や国を失った難民に対して寛大だった。
住む場所を提供し、税金を免除し、優しく労わり、施しを与えた。
――そして、与えすぎた。
与えられることが当たり前となると、人は自分で働くことを忘れ、要求するだけの集団となる。
何もしなくても与えられることに慣れた彼らは、求め続け、やがて足りないと不満を口にするようになった。
与えられないと怒り、憤り、恨んだ。
いつまでも母国に帰らず、かといってナルディアに帰化もしない。
そんな彼らに、王都の民は不審を抱くようになる。
都内で軽犯罪が増えた。
凶悪な犯罪も頻発するようになった。
それらを、難民たちが引き起こしていると気づいたときには遅かったのだ。
――建国より55年、三代国王リオネルートの御世に「モレスの悲劇」と呼ばれる事件が起きる。
お忍びで外出していた王女メレアレスと侍女二人が何者かに誘拐され、必死の捜索にもかかわらず、三日後、三人は王都の外れで惨たらしい死体で発見されたのだ。
侍女のひとりは公爵家の娘であり、王女の守り人。そして、もうひとりの侍女は王太子の婚約者だった。
王侯貴族だけでなく、民の嘆きと怒りは激しく、複数の犯人がモレス地区の住人であることがわかると、王都中を巻き込んだ市街戦となってしまう。
やがて、二度に渡る難民掃討作戦により廃墟となったモレス地区は封鎖された。いずれ朽ちていくだけの場所は、後に行き場を失った者たちが密かに住みつき、最悪区と呼ばれるようになる。
「聖女エセルの奇跡……か」
侯爵がまっすぐに私を見て息を吐いた。
「君の母上はすごいな」
王都の道は、王宮を扇の要にして放射線状に伸びているが、レイゼン地区の手前でそれが途切れてしまう。
立ちふさがるのは、職人の神と呼ばれる聖火太子が祭られた聖火堂。中央に設置された太子像は、まっすぐに王宮に向かって槍を構えている。
本当か嘘か、槍の角度を測ってみると、実際に投げた場合を想定した先には玉座があるという。それを知った王宮が、像を破壊もしくは撤去する動きをするも、初代国王シェルバルトが王家への戒めとしてそのまま設置を許したという伝説が残っている。
工芸品から糸織物をはじめ、大工、石工、陶工、鍛冶師、研磨師、技師、薬師、魔術師など多くの職人が集まり、求めて手に入らない物はないと言われる町。
なにしろ「なければ作る」のがレイゼン地区の住人だ。
家族で住んでいる者もいれば、弟子と暮らしている者もいる。レイゼン地区に孤児がいないのは、弟子制度を利用しているからだった。
――私がマイリィに料理を教えれば、マイリィは弟子……ということになるのだろうか。
師匠、と呼ばれる柄じゃないことに気づいて苦笑した。
メディ家の門前に馬車が停まると、庭のベンチに座っていたティシィが私に気づいて軽く右手を上げる。
「フォルディス様、ティシィがいます」
私が言うと、侯爵が確認するように外を見た。
侯爵に気づいたティシィが優雅に手を振った。その仕草は伯爵令嬢そのものだったが、着ているのはドレスではなく、少年のようなズボンにベスト、動きやすい格好のままだ。
特に待ち合わせの約束をしていたわけではないけれど、いつから待っていたのだろう、と思う。
ネイは結晶石の行方がわかったと言っていた。
ティシィが全警団を動かした、とも。
そのことについて、侯爵が私に確認してくることはない。
それも当然のことだろう。
普通は、たったひとりの少女が王都の全警団を簡単に動かすことができるとは思わない。
――でも。
ティシィ・メアルは、ただの少女じゃなかった。
警団とは治安警備隊のこと。騎士団に準じてはいるが軍ではなく、私刑や暴力は禁止され、地域の防犯、水防、消防を主としている民間の組織だ。かつて難民が起こす犯罪を防ぐために自主的に立ち上がった各地区の青年団が始まりとされている。警備隊ではなく、警団と呼ぶのもその名残だろう。
そして、数年前から王都で活躍する「少年探偵団」――そのリーダーが、白銀の髪に水色の瞳の持ち主であることは、警団の誰もが知っていることだった。
未解決事件や謎を解き、犯人逮捕に協力する少年探偵からの依頼。それだけなら、全警団を動かすには至らない。
探偵ついでに、独身の男性に女性を紹介したり、年頃の娘のいる既婚者には良い男性を紹介してあげたり、恋の後押しをしていることが大きく影響していた。
その数は、私が知っているだけでも三十組を軽く超える。その中には警団関係者が多いのだ。
家の周囲を警戒していたメアル家の護衛騎士たちがティシィに近づき、指示されて馬車に近づいてくる。
護衛騎士のひとりはマイリィが御者台から降りるのに手を貸し、もうひとりは馬車の扉を開けてくれた。
先に侯爵が出て、次にピイシェが降ろされる。
そして最後に私。
侯爵の大きな手が、優しい笑顔と共に差し出された。
その手に自分のそれを重ねて、私は笑った。
侯爵に支えられ、背中に羽がついたみたいに軽く地面に降り立った。
「ずいぶんと仲良くなったみたい」
ティシィが門に寄りかかっていた。
ニヤニヤと笑っている彼女に、私はにっこりと笑ってみせる。
「ええ、仲良くなったわ」
「あら」
軽く目を開いた後、楽しそうにティシィは笑った。
「よかった。帰りが遅いからちょっと心配してたの」
「送ってもらったから大丈夫」
ただいま、と私は言う。
ただいま帰りました、とマイリィが言った。
たー、した! とピイシェ。
おかえり、と言ったティシィが目を細めて、ピイシェの頭を撫でた。
マイリィにお茶の用意をお願いし、私は馬車の荷台からトランクを降ろした男性二人に礼をした。
「フォルディス様、送ってくださってありがとうございました」
「どこに運べばいい」
「あ――、家の中にお願いします。ティシィからの報告もお聞きになりたいでしょう? お急ぎでなければ、お茶でも飲んでいってください」
馬車は護衛騎士の二人が見てくれる。
トランクを運ぶ二人の後姿を追うように、私たちはゆっくりと歩き出す。
両手を上げて背筋を伸ばしたティシィが大きなあくびをした。
「ふぁああ、ああ……」
「ティシィ、口を押さえなさい」
「はあい」
てへ、とティシィは笑った。
「待ちくたびれちゃった」
私は苦笑した。
「中で待っていたらよかったのに」
「だって、なかなか帰ってこないんだもの。――送ってもらって安心した」
ティシィが目を細める。
「侯爵にちゃんと話せたの?」
「話したわよ。ピイシェのことと、石のこと」
「正体も?」
「ええ、山に行くことも言ったわ」
「上出来」
ティシィはうなずき、立ち止まった。
「私は見つかったって報告しか出来ないけどね」
「ネイから全警団が動いたって聞いたわよ」
「大げさ」
ティシィは苦笑した。
「情報を集めただけ。動いたのは一部だけよ」
「……それでもすごいと思うけど」
「そう?」
ふふ、とティシィは笑って声を潜めた。
「探偵は趣味だけど、お見合いは慈善じゃないもの。あれはね……」
ティシィが流し目で笑う。
「恩、を、売って、いる、の」
それじゃあ、動かざるを得ない、わね。
私は苦笑した。
慈善じゃないとティシィは言うけれど、適当に紹介するのではなく、ちゃんと人柄や性格を選んで紹介しているから、その信頼性は高い。
「そういうところ、お祖母さまそっくり」
「あら、最高の褒め言葉よそれ!」
ティシィは嬉しそうに笑った。
トランクを置いて下がろうとする黒衣の騎士を私は呼び止めた。
「クロさん!」
最初は自分が呼ばれているとは思わなかったようだ。無表情のまま立ち止まる彼に、小さく笑ったのは侯爵だった。
「おまえのことだ」
「……」
黒衣の騎士は、確認するように侯爵を見て、次に私を見た。
「クロ……?」
初めて聞く彼の声は、静かに響いた。普段からあまり話すことが多くない人特有の、低くて抑揚のない声。
――96。
馬車の中で、御者の彼に名前はないのかと侯爵に聞けば、「96」と数字で呼んでいるというので思わず瞬いてしまった。
「いつも数字で呼んでいるんですか? 全員? 昔から? 仕事としての名前なのですか?」
「矢継ぎ早だな」
返ってきたのは微苦笑だ。
「昔から〈影〉は数字で呼ばれている。全員、だ」
「暗号名ですか」
「名を隠しているわけではなく、それが名と同じなのだろう。生まれたときから与えられると聞いた」
確かに、生まれた子供の順に数字で呼ぶ家もあるけれど。
「96人……」
そんなに〈影〉がいるのかと驚いていたら、番号に意味はないらしい。
他にはどんな数字の人がいるのか聞けば、46と77、39がいるという。
「46……77、39……」
私は軽く唇に拳を当てた。
「46は男性で、77と39は女性ですか?」
「……!」
侯爵が純粋に驚いた表情をするので、それが当たっていたとわかる。
私はふふと笑った。
「96は異国の言葉でクロと読むことができるのをご存知ですか」
「クロ」
「はい」
それが色の「黒」を意味することを伝えると、侯爵の目が楽しそうに輝いた。そういうところは、少しリリアナ様と似ている。
「黒か、そのままだな。もしかして、ナミ様の?」
「はい」
異国というより、異界の言葉。
他の三人も「シロ」「ナナ」「ミク」と読めること。シロは色の白、ナナとミクは女性の名であることを伝えたのだった。黒と白。偶然だとしても面白い。
「なるほど」
「あの方のことをクロさん……とお呼びしてもいいでしょうか」
「クロさん」
はは、と侯爵が小さく声を出して笑った。
「では、次からは私もクロと呼ぶとしよう」
と侯爵が言ったのは、レイゼン地区に入る寸前だった。
「異国の言葉で、96はクロと読むことが出来るそうだ」
侯爵が楽しげに言った。
「これからは私もクロと呼ぶ」
「……」
黒衣の騎士は、自分が「クロ」と呼ばれることに対しての感情も感想も出さず、ただただ無言で一礼した。
クロさんは基本的に護衛騎士の立場なのだろう。テーブルへの同席を断り、壁際で立っている。
それに倣うように、隣にマイリィが並んで微笑ましい。御者台に座りながら、道案内以外で何か会話を交わしたのだろうかと思う。
ピイシェは疲れたのかソファーの上で丸くなっている。寝てはいるが、人型だ。
「アリスを送っていただいてありがとうございます」
テーブルについたティシィが侯爵に向かってにっこり笑った。
「帰りが遅いから、迷子になっているか誘拐されているか、どっちかしら、と思案していたところでしたの」
「失礼ね」
私は頬を膨らませた。
ティシィと侯爵の前に紅茶を置く。
「フォルディス様、ティシィの言うことは聞かないでください」
侯爵は軽く首をかしげた。視線はティシィに向かう。
「……今まで、三回誘拐されたことがあると聞いたが」
「まあ! アリスったら、またそんな嘘を」
「……嘘?」
侯爵の切れ長の目が鋭く光ったけど、それに怯むことなく、ティシィも目を細めた。
「三回どころか、もっと、です」
「……」
侯爵の視線が私に突き刺さった。私だって怯まない。
「三回です」
「もう……」
ティシィが深いため息をついた。そして、いつもの二倍……いや、三倍遅い口調で言った。
「あのね、アリス。迷子のときもそうだけど、自分が自覚してないものをカウントしない癖は、いいかげんにやめて。ちゃんと認めなさい」
「……なによそれ」
「また言わせるつもり?」
ティシィは呆れたように言う。
「自分が誘拐されたことに気づかず、助け出されたことが何回あると思っているの」
「誘拐されたわけじゃないわ」
「アリスの中ではね」
「ティシィ」
「はいはい。ただお話をするために家に呼ばれたり、美味しいお菓子を食べさせてもらったりしたのよね」
「そうよ」
それがどうして誘拐されたことになるのか理解に苦しむ。
――あれは誘拐じゃない。
胸を張って主張できるのに、侯爵のほうを見ることが出来ないのは、それが誘拐じゃないという意見が、他の人には通じないことを今までの経験で知っているからだ。
はあ、とティシィはため息をついた。
「頭が悪いわけじゃないのに、なんで基本的にぽよよんなのかしら」
「ぽよよんて」
なにそれ。
きょとんとする私に、ティシィが苦笑した。
「本を書くときは常識的なのに、何で普段はボケ体質なのかしらってこと。ほんと、何もされていないのが奇跡だわ」
「何かされるわけないじゃない」
「うん、アリスのそういうところ嫌いじゃない」
ティシィは私を見ながら、どこか遠い目をして言った。
「そのまま純粋に育ってね」
「……バカにしてるの?」
「してない」
うそだ。
でなければ、侯爵を前に、私をからかって遊んでいるのだ。
私は頬を膨らませた。
ニヤっと笑ったティシィがすぐに指を伸ばしてきたので凹ましたけど。
「それより、結晶石の話!」
私は二人の間に座って、ティシィを睨んだ。
「見つかったんでしょ」
「ええ」
ティシィは紅茶に砂糖を入れて、入れて、入れる。それを見ている侯爵の目が痛い。
――わかります。
ですよね。
入れすぎですよね。
紅茶の味を消していますよね。
「どこにあったの」
私の言葉に、ティシィはにっこり笑った。
ちょいちょい、と指で窓の外を見るように促した。
「外……?」
窓から見える中庭、そこから聖火堂の瓦屋根が見えた。
「聖火堂にあるの?」
「その先」
――え?
「その先って……」
――まさか。
私はティシィを見て口を開ける。
そのまさかよ、とティシィの表情が物語っていた。
――王宮?
「さあ、どうしようかしらね」
なぜか楽しげに響くティシィの声に、私と侯爵は顔を見合わせたのだった。