24話 三回だけ。
「あっ!」
止めてください、と窓の外を見た私が慌てて言うと、侯爵が備え付けの紐を引いて、御者に合図を送った。
黒衣の騎士が御者を務めるセラ侯爵家の馬車は、エセル地区の西口でゆっくりと停まる。
揺れを感じさせない滑らかな停止に、私は軽く興奮した。
――すごい……。
素直に感動していると、侯爵が不思議そうな顔で私を見ているのに気づいた。
「あ、あの、私、乱暴な運転だとすぐに馬車酔いしてしまうんですけど、そんなことがなかったので……」
急発進や急停止、曲がり角で車体が激しく揺れるのが苦手で、それを知っている父やメアル家の御者はいつも安全運転を心がけてくれていた。
黒衣の騎士は、そんな心配をする必要がないほど始終丁寧な運転だったのだ。それが御者個人の力量なのか、馬や車体の違いなのかはわからない。高位貴族ともなると、そういう人材が集まるのかもしれなかった。
なるほど、と侯爵の目が優しく笑った。
私も微笑んで頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「ん?」
「ここでいいです」
「ここで?」
侯爵が不思議そうにつぶやいた。
あれ、と思う。最初にエセル地区の入り口まで、と言っていたはず。
「……」
「……」
互いに見合って、無言。侯爵は落ち着いていて、私は困惑している。
侯爵が動かない。
彼が指示を出さないので御者も動かない。
勝手に扉を開けて出るわけにも行かないので、私は困って首をかしげた。
「あの……」
自分で扉を開けて出てもいいのだろうか。
ティシィだったら、気にしないでさっさと降りてしまいそうだけど。
「フォルディス様」
「ここで、か」
「はい。もうエセル地区の入り口ですから。――結晶石のことがわかり次第、ご連絡いたしますね」
降りるので開けてください、と暗に含めたつもりだったんだけど、侯爵はなぜか不機嫌そうで。
「孤児院に寄るのだろう。そのあと家まで送る」
私が了解するまで動いてくれそうにない。
エセル地区は、私の中では安全地帯という認識だけど、過去を少しでも知る人たちの中では未だに危険地帯という印象が根強いのかもしれない。
王都のどこよりも綺麗で平和な町並みなんだけど、先入観が少し残念だった。
私が黙っていると、侯爵は少し考える仕草を見せた後、息を吐いた。
「……私を安心させるためだと思って、家まで送らせてくれないか」
言葉を選んだのがわかった。それは、私に遠慮させないための配慮だろう。
私は少し考えてから、小さく笑い、ぺこりと頭を下げた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
顔を上げて彼を見ると、ホッとしたような笑みが返ってきた。
馬車は、昨日の昼すぎにマリーベル様と馬車で移動中に、侯爵とすれ違った場所を通る。
このあたりに王様がいたのだろうか、と思っていると、
「昨日……」
と、侯爵がつぶやいた。
「馬車に乗っている君を見て、誘拐されたのかと思って焦った」
「誘拐……」
私は瞬いた。
王太后陛下のことは気がつかなかったみたいだ、とホッとする一方で、意外な言葉に驚いていた。
されていません、とつぶやけば、彼は笑う。
「そのようだな」
まっすぐに見つめてくる私の視線に、侯爵は苦笑した。それはどこか自嘲的な笑みで。
「すぐ〈影〉に馬車のあとを追わせた」
「まあ! 走ってですか。気づきませんでした」
「いや」
ぷ、となぜか侯爵が吹きだした。
笑われて気づく。おそらく、地中の気脈を移動したのだろう。
頓珍漢なことを言ってしまった、と顔に熱が集まった。
侯爵は笑いをこらえるように口を拳で押さえながら、優しい目で言った。
「馬車は風伯殿で人を下ろし、雨師殿で停まったと」
「ああ、それで……」
噴水のところに侯爵が来たのか。
王を探してエセル地区にいた彼が、あそこに現れたのは偶然ではなかったのだ。
「誰かと待ち合わせをしていたわけではなかったのですね」
報告を受けて、私の無事を直接確認しに来たのだろう。
ティシィと合流したあと、侯爵に近寄ってきた騎士は〈影〉だった。さっき、それを指摘したときの驚きようから、そのときも他の人には見えない状態だったとわかる。
私は微笑んだ。
「心配してくださったのですね。ありがとうございます」
彼が安心してくれるように言葉を添えた。
「誘拐なんて子供のころの話です。もう大人ですもの、大丈夫ですわ」
「……」
軽い沈黙が降りた。
「……子供の頃?」
「あ、昔はよく……」
「……」
安心させるために言ったはずなのに、なぜか侯爵は真逆の顔つき。
私は焦った。
「今はしっかりしているので誘拐されたりしませんわ」
「……しっかり……?」
君が? どこが、と言いたげな表情。
さすがに私もムッとして、唇を尖らせた。
「しっかりしていると思いますけど?」
「……そうか」
「はい」
「そうだな」
「そうです」
私は胸を張る。
「いま住んでいるところも、エセル地区も安全です」
「そうか」
侯爵は苦笑している。
「だが、小さい頃に誘拐されたことがあるのだろう」
「あ、それは旅先でのことで……」
私は恥ずかしくて、顔が赤くなってしまう。
「いつもぼんやりしているから、すぐに誘拐されてしまうんです……」
「……」
侯爵は怪訝そうに首をかしげた。
「いつも? 複数あるような言い方だな」
「あら、三回だけですわ」
「……」
侯爵は咳払い。
「三、回、も?」
「三、回、だけ、です」
古今東西、商家や貴族の子息令嬢に誘拐は付き物だ。
「貴族というだけでお金を持っていると思われてしまうのでしょうね」
私の場合は特に、お付きの者や護衛などがいないので誘拐しやすかったのだと思う。
「すぐに助けられるんですけど、助けに来たのがお祖母さまのときは大変で……」
「ナミ様を押さえるのが?」
「はい」
すぐに想像がついたのか、二人して声を出して笑ってしまう。
「そうか……」
侯爵は苦笑し、なぜか大きなため息をついて、天井を見上げた。
腹部を押さえてつぶやく。
「胃が痛くなりそうだ……」
「大丈夫ですか。家に着いたら、お薬をお出ししますわ」
「いや――」
「父もよく同じことを」
「……だろうな」
侯爵は少しだけ顔を引きつらせて微苦笑をもらした。
馬車がゆっくりと停まり、孤児院に着いたことを知らせてくれた。
侯爵の手を借りて馬車を降りると、たちまち子供たちの洗礼を受ける。
ぴょんぴょん跳ねる子供たちに微笑み、腕の中の子が寝ているから静かにね、と身振り手振りで伝えると、子供たちはおとなしく、身をかがめた私の腕の中を覗き込んだ。
「まっかな頭だね」
「マイリィおねえちゃんと、おんなじだー」
「ピイシェと言うの。仲良くしてね」
「うん!」
「わかったー!」
「アリス様」
顔を上げれば、セシル様の横で、マイリィがはにかむように笑っている。
予定ではもう少し早く迎えに来るはずだったため、お待たせ、と私が言うと、赤い髪が左右に揺れた。
私はマイリィに微笑み、振り返って――驚いた。
侯爵の左右の腕に、子供がひとりずつ抱きかかえられていたのだ。勝手に抱いたのではなく、求められて抱き上げたのだと、子供たちの嬉しそうな表情からわかる。
――ほら、やっぱり。
私は心から笑った。
子供には優しい人がわかる。
「フォルディス様、私の侍女でマイリィです」
マイリィと合流後、ネイの家に向かった。
いつものように三階の窓に向かって声をかけると、ネイの顔がひょっこりと現れた。
「アリス様!」
「遅くなってごめんなさい。用意は出来ていて?」
「出来ていますよ!」
トランクはすでに一階に下ろしてあった。
階段横に置いてあった二つのトランクを、黒衣の騎士が馬車に運び入れてくれる。
見送りに出てきたネイは、背の高い侯爵を見上げて「おっきいですねえ」と素直な感想を漏らし、何かに気づいたのか、急に私のほうを見て、もしかして、と言った。
「おっきいお兄ちゃんですか」
「――! ネ、ネイ……!」
一気に沸騰して、かああ、と顔が赤くなった私をネイは笑った。ぎゅむ、と私をピイシェごと抱きしめた。
「アリス様、かわいい!」
「もう!」
私は小さく囁き返す。
「ティシィには言わないで」
「おや」
意外そうな顔をされる。
「ティシィ様はご存じないんですか」
私はこくんとうなずいた。
ネイは楽しそうに片目を瞑って、親指を立てた。
「了解しました」
「お願いね」
「はいはい。――まあ、すぐにわかると思いますけどねえ……」
「それでも」
「わかりました」
ネイは片目を瞑ると、がんばってください、と私にだけ聞こえる声で囁いた。
私は苦笑するしかない。
ピイシェが目を覚まして、ネイに気づいた。
「ねい」
ネイがピイシェの頭を乱暴に撫でた。
「ハハッ。寝る子は育つって言うからね、たくさん寝て大きくおなり」
私がピイシェを足元に下ろすと、すぐにマイリィがピイシェの手を取ってくれた。馬の近くに寄ると危ないから、一人だと目を離せない。
「ネイ」
「なんです?」
ティシィから連絡があったかどうかを聞いた。
「直接連絡はありませんが、場所はわかったみたいですよ」
あっさりと言われた。
なんの、とは口にしない。
隣で侯爵が驚く気配は感じたけど、私はただ笑うだけ。
「早かったわね」
「まあ、全警団が動きましたから」
「全警団?」
相変わらず、すごいわね、と苦笑したくなる。
「ネイも動いてくれたんでしょう? ありがとう」
「お気になさらず」
にっこりとネイは笑う。私も笑い返した。
「じゃあ、私は家に帰るわ。ティシィが待っているかも」
「だと思いますよ。アリス様、気をつけて」
「ありがとう」
「――マイリィ、しっかりお仕えするんだよ」
ネイがマイリィの頭を優しく撫でた。
これから先、侍女見習いとして主家で働くマイリィは家を出ることになる。
出会って8年、二人だけで暮らしたのはたったの2年。それでも二人は一生「姉妹」であり、その絆が切れることはない。
マイリィのそばかすだって、本当はいらないのだ。
「うん。お姉ちゃんも、窓から飛び降りるの禁止、だからね」
「わかったわかった」
これから先、マイリィが休暇以外でこの家に戻ってくることがあるとすれば、侍女を解雇されたときとなる。
でも、それはおそらくないことをこの場にいる誰もが知っていた。
そして、これは「別れ」じゃないことも。
「行っておいで」
ネイの言葉が優しく響いた。
マイリィは、うんと笑う。
いつでも帰ってこられる場所があるのは精神的にも強い。
よろしくおねがいします、とネイに託されて、私は心からうなずいた。