22話 守ってください。
「あ、あの……」
私は、突然笑い出した侯爵に驚いてしまう。
「フォルディス様?」
黙っていてください――と言うところを、思わず、守ってくださいと口にしてしまった私が面白かったのだろうか。
侯爵は、驚いた顔から急に「ぷはっ」と吹きだし、声を出して笑いはじめたのだった。とはいっても、高笑いというほどの声ではなかったのに、よほど珍しいことだったのか、執事さんが何事かと慌てて入ってくる。
なんでもない、と下がらせると、侯爵は声を出して笑うのは控えたものの、口に拳を当てて笑い続けている。
私は困って眉を八の字に下げた。
「フォルディス様」
なぜか、彼には笑われてばかりいるような気がする。
やっぱり、氷塊の近衛隊長さん……じゃないのかも。
かの近衛隊長のことを、ティシィはなんと言っていたのだったか――。
――氷の塊みたいに、冷たくて硬いってこと。笑みとは無縁で、近寄る女性も凍りつかせるって噂よ。
うん。やっぱり違う。
仮にそうだったとしても、噂の方が間違っているのだ。
難しい顔をしたり、険しい顔で睨まれたかと思えば、優しい笑みを浮かべたり、突然笑い出したり。
表情が豊か過ぎる。
積極的に話す人ではないけど、問えばきちんと答えてくれるし、返してもくれる。基本的に穏やかで、そんなところが話しやすい。
でも。
私が頬を膨らませているのに気づいた侯爵が右手を上げた。すまない、と謝って。
「私の負けだ。ははは。昔から君には敵いそうにない」
「笑わないでください」
「ああ。…………ふ、ははっ」
「もう! 私、帰ります」
「待て待て」
立ち上がった私の手首を大きな手が掴んだ。
「帰るな」
「どういうことですか」
何で笑うんですか。
何が可笑しいんですか。
私の眉はVの字だ。
侯爵は苦笑しているが、その目は優しい。彼が言う通り、私には敵わない、と思っているのがわかる。
きっとリリアナ様にも同じような顔をするのだろう。
「君には振り回されてばかりいるな」
「……」
私は内心で首をかしげた。彼を振り回すほど何かをした覚えはまったくない。
子供のころのことを言っているのだろうか。
「アリス、座ってくれ」
「――」
アリス、と呼ばれたことに驚いた。
「どうした?」
私が驚いた顔をしたことに、彼の方が驚いている。もしかして、無意識だったのかしら。
思わずもれたのは微苦笑。私の場合、怒り続けるというのは難しかった。
力が抜けたのがわかったのか、掴まれていた手はすぐに離れた。
侯爵は、ソファーの背にもたれて、息を整えた。
「前にも同じことを言われたので、それを思い出したんだ」
私が首をかしげると、彼は小さく笑った。
「守ってください、と」
「誰にですか?」
「誰に、か」
侯爵が苦笑した。
「小さい女の子」
「小さい……」
街の子供にでも言われたのだろうか、それともリリアナ様かしら、とぼんやり思っていたが。
「もしかして、私ですか」
肯定するように、侯爵は口角を上げた。
「覚えていないか」
「はい……」
恐縮していたら、侯爵は腕を組んで、ふ――と楽しそうに笑った。
昔を思い出したのだろうか。その目には、どことなく懐かしさを覚える柔らかい笑みが浮かんでいる。
「その……」
私は静かに息を吐いた。
「……私は、なんて?」
「仕事を聞かれたので騎士だと答えたら、騎士は何をする人なのか、と。……だから、守るのが仕事だと答えた」
それから先は想像がついた。
小さな女の子は、「わたしもまもってくれるのですか」と聞いて。
おっきなお兄ちゃんは「ああ」と笑ってくれて。
女の子は「じゃあ、まもってください」と――。
――ああ。
思い出した。
「私もおっきいお兄ちゃんを守ってあげます……って、言いました……?」
「言ったな」
侯爵が笑う。
うわあ。
私はガクリと首を落としたくなった。ううう。誰か私の頭を「よしよし」して。
「アリスリス・メディ」
静かな声に顔を上げると、優しさとはかけ離れた、真剣な顔があった。
「一度だけ聞こう。君は私に黙っていてほしいのか、それとも守ってほしいのか」
どちらを望む、と問われて、私は拳を握った。
「私は――」
背筋を正して、目の前の男をまっすぐに見つめた。
漆黒の髪が、窓から入ってくる風で揺れている。騎士なのにあまり日に焼けていないのは、内務が多いからだろうか。
一重で切れ長の目。お祖母さまの黒目は少し焦げ茶が入っていたけど、彼の目は黒輝石のように綺麗で引きこまれる。まるで蛇の目のよう。――なんて言ったら、ティシィに「意味不明だからそれ」と呆れられるに違いない。
蛇の目って綺麗なのにな。
私は答えを探すように侯爵を見つめ続ける。
――黙っていてほしいのか。
――守ってほしいのか。
前者は、赤龍の幼生が王都にいること、狙われていること、幼生に何かあれば赤龍が出てくる可能性があることを知った上で、私たちに任せてほしいということ。
後者は、ただ一緒にいてほしいということ。
「……黙ったまま、守ってほしいです」
侯爵は目を丸くした。
「欲張りだな」
「欲張りなんです」
く、と笑う声は喉の奥から。
その目には、面白いという感情を抑えるような笑みが浮かんでいた。
「君は忘れているだろうが、すでに誓っていてね」
「……何をですか」
「君を守ることを」
「私を、守る……」
「そうだ」
侯爵は苦笑している。
「王に――、王家にのみ誓う忠誠を、幼い君にしてしまった」
きっと、それは小さい女の子が口にした「守ってください」という言葉に、その手を取って、物語の騎士のように誓ってみせただけなのは想像がつく。
大きくなったら結婚して、という子供の願いに、「いいよ」と笑って嘘をつく大人と同じだ。
それは子供を傷つけない優しい嘘。
私は微笑んだ。
たぶん、侯爵は本当の意味で「守って」くれるつもりなのだろう。
「子供の頃の約束です。気にしなくてもいいんですよ」
「そうだな、あれは飯事の誓いだった」
でも、と彼は言う。
「剣と名に誓ったのは、カインと君だけだ」
――その二人が、血のつながった叔父と姪であることを知ったら、彼は驚くだろうか。
私は静かに微笑んで、ありがとうございます、とだけ口にした。
ピイシェがソファーから降りて、侯爵に近づいた。
「おる!」
侯爵の長い足にしがみついて、上ろうとしている。
「ピイシェ、どうしたの」
私が止めようと腰を上げたら、侯爵に手で制された。
「おる!」
まるで「りちゅ」としか話せなかったときのように「おる」という言葉を繰り返す子供。
最初は首をかしげていた侯爵が、何かに気づいたらしい。
「……もしかして、それは私の名か」
「あい!」
侯爵はピイシェを軽く抱き上げて、自身の膝の上に乗せた。
私と向かいあうピイシェ。鼻を鳴らして、なぜか誇らしげだ。私は小さく笑ってしまった。
「何でそんなにえらそうなのかしら」
「……この子も君を守ると言いたんじゃないか」
「あい!」
ピイシェが元気に答えた。やっぱり誇らしげな顔。
「まあ……!」
私は驚いて、そして破顔した。
私がピイシェを守ろうとしていたのに、ピイシェも私を守ってくれるという。
嬉しくて嬉しくて、照れるような、恥ずかしいような、かゆいような、ほわほわした気持ちに胸がいっぱいになった。
「嬉しいわ。ありがとう」
――フォルディス様も。
私は自分の胸に手を当てて、彼に笑いかけた。
ピイシェを膝に乗せて動けない侯爵に代わって、紅茶のお代わりは私が入れた。
ピイシェは彼の大きな手が気になるのが、掴んだり、甘噛みしたり。それを、侯爵は楽しそうに許している。
それを私も微笑ましく見ていたけど。
侯爵の膝に座るピイシェが羨ましい、という気持ちになってしまうのはどうかと思う。
だって、小さい頃の私もそうしてもらったに違いないから。
――そこは私の場所なのに。
なんて。
子供が自分の居場所を奪われた気になってしまう。
侯爵にとって、私はまだ子供なのだろうけど。
――子供なら、私も膝に乗せてもらえるかしら。
「……フォルディス様」
「ん?」
「私は……まだ子供でしょうか」
彼の目が丸くなった。きっと、私が何を聞きたいのかわからないからだろう。
「……いや」
「……そうですか」
しょぼん……。
私が気落ちしたことに、なぜか侯爵は焦ったようだ。
「先ほど君を子供扱いしたことは謝る」
「え?」
「子供が子供は育てられないと言っただろう」
「ああ……」
そういえば。
「君は立派なレディだ。君ならきっとこの子を育てられる」
「……ありがとうございます……」
嬉しいけど、ますます気落ちしてしまった。
侯爵はなぜか慌てている。
「私の妹も、叔母が育てた」
そういえば、リリアナ様は生まれてすぐに母親を亡くされて、母親の実家であるセティス家で育てられたとか。
「叔母が育てたにしては、なぜか私に対してだけ乱暴だが……」
ぶつぶつとつぶやく侯爵。
私はパーティーの時を思い出して、ふふと笑ってしまった。
「よく殴られるのですか」
「……殴られる」
「とても痛そうでした」
「……」
ふう、と侯爵はため息をついた。
「私に苛立つのだろうな」
「気を許されているのだと思います」
殴っても、怒っても、自分を嫌いになったりしない人だとわかっているからできるのだ。
「お兄さまに甘えているんですよ」
「……そうか?」
侯爵の顔は疑わしげだ。
私は笑った。
「きっと、膝に乗せてあげたら喜びます」
「……膝に?」
「あ、いえ、その」
焦る私に首をかしげて、侯爵は視線を膝の上の子供に向けた。
いつの間にか彼の腕の中で眠っている。あれほど「男性」を怖がっていたのに、ピイシェにもこの人なら大丈夫、とわかったのだろう。それはある意味、獣の感のようなものかもしれない。
「聖獣が人の形になるとは祖母から聞いていたが、本当なのだな。――この子は雄じゃないのか」
そう聞いたのは、ピイシェが着ている服が女物だからだろう。
「一応、ついていませんでしたけど……」
「じゃあ、雌か」
不思議そうに首をかしげている。
「赤龍が雌雄同体という話は聞かないが……」
「フォルディス様、何かおかしなところが?」
「いや、なんとなく、雄のような気がしただけだ」
「……」
私は、ピイシェの顔を見つめた。髪や瞳の色だけでなく、「綺麗」という意味でもセインおじさまに似ている。ピイシェの髪がもう少しふわりと波打っていたら、おじさまをそのまま小型化したかのよう。小さな頃は「愛天使」と呼ばれるほどの可愛く、よく女の子と間違えられていたという話を聞いたことがあった。
ピイシェの場合はどうなのだろう。
本体は「龍」だ。人の姿はあくまでも化けているにすぎない。
人としての身体は確実に「女」だけど、もし、人に化ける際、身近で参考になる人間が女性しかいなかったとしたら?
母親以外では、おそらく七年前、私やティシィとお風呂に入った姿しか参考に出来なかっただろう。
――孤児院で泊まらせて、同年代の男の子とお風呂に入れてみようかしら……。
今後のことをいくつか打ち合わせをしてからソファーから立ち上がった。
私は眠っているピイシェを侯爵から受け取り、軽く抱きなおした。小さな手が、きゅっと首の後ろに回されるのが愛おしい。
送っていこう、と言ってくれたけど、お言葉だけで、と断った。まっすぐに家へと帰るのならいいけど、寄りたいところがあるから。
侯爵が渋い顔をしているのは、ピイシェが狙われる心配をしているのだろう。
「ええと、では、エセル地区の入り口までお願いできますか」
「君が住んでいるのはエセル地区ではないだろう」
「隣の地区ですけど、エセル地区の孤児院に用があって」
「孤児院?」
「侍女をひとり雇うことになりました。学びながら、孤児院の手伝いをしている子です。8歳なのでまだ見習いですが、とても気が利く、心根のよい娘です」
「小間使いか」
「侍女ですわ」
「……そうか」
ふ、と侯爵が笑った。
「孤児院にいるのなら、子供の世話は得意だろう」
「そうなのです。赤い髪なので、ピイシェとは姉妹のように見えますし、今度の旅にも同行しますので、フォルディス様にもご紹介いたしますね」
侯爵は口角を上げると、行きなさい、と私の肘を後ろから軽く押した。
部屋を出ると、執事さんと黒衣の騎士がこちらに向かってくるところだった。
「もうお帰りでございますか」
「はい。長居して申し訳ございません」
私が微笑むと、執事さんは慌てて首を横に振った。
「とんでもない。もっといてくださってかまわないのです。ぜひまたいらしてください」
「ありがとうございます」
私は、執事さんの後ろに立つ騎士の方にも笑みを返した。
黒衣の騎士は軽く目を見張り、執事さんが不思議そうに瞬いた。彼は、何かを確認するかのように騎士を見る。でもすぐに視線を私に戻した。
「何かおりましたか」
「え?」
「見えるのか」
言ったのは侯爵だ。
「え?」
見えるって、何が。
私は侯爵と同年代と思われる砂色の髪の騎士を見た。長衣からズボン、ブーツ、剣帯まですべてが黒一色だ。
どこかで見たことがあると思ったら、雨師殿の前にある噴水のところで、侯爵に近づいてきた騎士だった。
「噴水のところで、フォルディス様と待ち合わせをしていた方ですよね?」
「……!」
驚いたのは騎士のほうで。
相変わらず執事さんは不思議そうな顔をしている。
苦笑したのは侯爵だ。
「ビシャム、彼女は〈影〉が見えるらしい」
「なんと……!」
執事さんが目を丸くして驚いている。何度も確認するように、黒衣の騎士のほうを見ては私に視線を戻す。
「いるのですか」
「……」
いる、けど。
なに? その質問。
私は首をかしげ、ハッとする。執事さんには彼が見えないのだ。
――幽霊……!?
私は初めて見る「幽霊」に息を飲んだ。