19話 新しい朝。
「アリス様」
アリス様、と肩を揺り起こされる。
「ん……」
私はうっすらと目を開いた。
「マイリィ……、なに?」
いつもとは違う景色。
客室にいるのだと気づいて、私は大きなベッドの中で寝返った。
「アリス様、起きてください」
薄暗い室内に疑問を覚えて、確認するように問うた。
「もう朝なの?」
「いいえ、まだ早いのですが」
何かためらうような声に、もしかして、おねしょでもしちゃったのかしらと思った。
それなら起きて下着とか変えてあげなくちゃ。
気にしなくていいからねー。
ふふと笑って身体を起こしたけど、昨日、たくさん歩いたせいか、身体が重くて動きが鈍い。
まだ疲れが残っているのかもしれない、とため息をつきたくなった。
――やっぱり、少しは運動して体力をつけたほうがいいのかも。
赤髪に赤銅色の瞳の少女と目が合って、私は微笑んだ。化粧する前なので、特徴であるそばかすはない。
「おはよう、マイリィ」
「おはようございます。――それより、これを」
「これ?」
マイリィが布団を持ち上げている。
視線の先を追えば、おねしょが描いた地図――ではなく、赤い物体。服が丸まっているのかと思ったら、そこに寝ているのは巨大な鳥だった。
いや、鳥じゃない。嘴はなく、爬虫類の顔だ。四足だが短く、類人猿のような五本の指がある。背中には小さな翼があるけれど、空を飛べるほど大きくはない。
ピイシェリー・ルーンと名づけた赤龍の幼生だった。
ピイシェは、寝るときに着せた服を巣にして、その上で丸くなっていた。
太陽の下では朱金色に輝く艶やかな羽は、柔らかいのか、呼吸のたびに草みたいに揺れている。
ピスピスと鳴る鼻が可愛くて、思わずその鼻をふさぎたくなってしまう。
――可愛い~。
ひどく和んで、ふにゃっと笑ってしまう。
ぽてっとしたお腹。
四足歩行の動物ではなく、どちらかといえば鳥に似た姿だ。
ネイが何も言っていなかったということは、保護されて寝ていたときは人型だったのだろう。探していた私にやっと出会えて、気が抜けたのか。
綺麗になったなあ、とうっとりしてしまった。だって、生まれたばかりの姿は、本当に醜かったのだ。
「朝、目が覚めたらいたんですけど……」
「え?」
困惑気味のマイリィに、ああ、と苦笑を返した。そういえば、直接は言っていなかった、と。
「これ、ピイシェなの」
「え?」
「ピイちゃん」
「ピイちゃん……?」
「そう。マイリィは赤龍ってわかるかしら」
「はい。伝説の火龍ですよね……」
「その子供。幼生、というのよ」
マイリィの目が数度瞬き、ピイシェを見つめる。
「……赤龍の、子供」
ピイシェが寝ていた場所に寝ている獣。あとは、それを信じるか信じないかの問題だ。
マイリィは恐る恐るといった様子で、ピイシェの頭に触れた。ふ、とマイリィの表情が緩んだのは、その手触りがよかったからだろう。
私もピイシェの背中――小さな翼が生えている根元の辺りを撫でたら、マイリィの顔が緩んだ理由に気づく。羽の感触が、人型であったときの髪と同じだったのだ。
ふかふかだねー。
ふかふかですー。
もふもふだねー。
もふもふですー。
うふふ、と二人で笑いながら撫で続けているけど、ピイシェが目を覚ます様子はない。鈍いのか、大物なのか、判断に困るところだ。
「アリス様、人が赤龍になるのですか? 赤龍が人になるのですか」
「たぶん後者ね。赤龍には人の姿になる能力がある」
それが擬態に近いものだとしたら、人の姿は「女」だけど、赤龍としての本性はオスという可能性もある。
七年前に拾って保護したとき、ティシィと「オスかメスか」で幼生の身体をひっくり返してみたけど判断が付かなかったのだ。
ヒヨコの性別が判断しにくいのと同じなのかも、とそのときはあまり気にしなかったけど。
「マイリィ、今日は学校へ行きなさい。引越しの手続きはネイがしてくれるって言っていたから大丈夫。私はこの子とお買い物。夕方、迎えに行くから一緒に帰りましょう」
「わかりました」
マイリィがうなずいたとき、寝ていた生き物がパチッと大きな目を開いた。
「おはよう、ピイシェ」
私が笑う。
マイリィも笑った。
「おはよう、ピイちゃん」
ピイシェは、金色の目を私とマイリィに向けて、「ぴい!」と元気に鳴いた。
「ピイシェ」
「ぴい!」
「いい朝ね」
「ぴい!」
「お腹すいた?」
「ぴい!」
赤龍の姿だと、やはり「ぴい」としか話すことが出来ないらしい。
しばらくベッドの上を二足歩行でうろうろしていた幼生は、ぴょん、とベッドから飛び降りて、立ち上がったときには人の姿になっていた。
「まあ! すごいわ」
私は素直に驚いて、ニコニコしながら拍手した。
ピイシェは裸のまま、頬を染めてもじもじしている。褒められて照れているらしい。可愛い。
「ピイシェ、ばんざーいして。わかる? ばんざいってこうよ」
私が両腕を耳の横でまっすぐに上げて見本を見せると、ピイシェも素直に真似をする。
私は、自分が子供のころに着ていたドレスをピイシェに着せて、オムツと一体型の大きめのパンツを掃かせた。靴は、昨日、マイリィのお下がりをもらっている。
マイリィがとりあえず持ってきたのは、一日分の着替えとそばかす用の化粧道具だけだ。
服のほかにも、マイリィとピイシェの食器など日常雑貨をそろえないといけない。ほかに必要なものは、おいおいそろえていけばいいわよね。
――あ。
そこまで考えて、私は小さく笑ってしまった。
マイリィだけでなく、ピイシェもこの家でずっと暮らす気になっていることに気づいて。
赤龍様に会いに行くのは、ピイシェを親元に帰すためじゃない。
私が仮親となって、ピイシェを育てることを伝えにいくのだ。
「ピイシェ、今日は一緒にお出かけしましょう」
「りちゅ!」
「そういうときは、はい、よ。言ってみて」
「あい!」
「はい」
「あい!」
小さな眉がキリッと上がり、金色の目が真剣に私を見上げている。可愛い。
「ふふ。まあ、いいか」
私は苦笑して、ピイシェの頭をよしよしと撫でた。
早朝、学校に行くマイリィを見送ったあとに、昨日出したセラ侯爵宛の手紙の返信が届いた。
まだ10代前半の配達人は、顔見知りの少年で。
「アリス様、おはようございます!」
「おはよう、ラリー。ずいぶんと早いのね」
私が微笑むと、ラリーは帽子のつばを軽く持ち上げて挨拶をした。
「速達だったんです」
「速達?」
封筒を見れば「速達」の赤い印が押してある。
「あら」
「すぐに返信されるんでしたら、待っていますよ。今朝の仕事はこれだけですし、まだ始業まで時間があるんで」
「なら、お願いしようかしら。朝ご飯がまだなら一緒にどうぞ」
「やった!」
思わず砕けた物言いで、グッと拳を握ったラリーを笑って、私は彼を招きいれた。
ラリーはエセル地区の住人だ。毛先が四方に跳ねた焦げ茶色の髪と瞳の明るい少年だった。もとは色白だったけど、日焼けしやすいのか、見るたびに肌の色が赤銅色になっていく。
白と赤の帽子と縦襟の制服は「配達人」の証だった。腰には留め鞄と短剣が鞘ごとぶら下がっている。短剣は大切な荷を守るためのもので、配達人の必須用具のひとつだ。ほかに、空飛ぶトナカイや天馬、絨毯、ホウキを呼ぶ笛などが首から下がっていることもある。
「途中でマイリィと会った?」
「ええ。じゃあ、あの噂は本当だったんですね」
「噂?」
「アリス様のところでマイリィが勤めるって」
「相変わらず情報が早いわね」
私は笑った。
「マイリィが私の侍女になってくれたの」
「はは! じゃあ、夢が叶ったわけだ」
楽しげなラリーの様子に、私は瞬き、首をかしげた。
「ラリーも知っていたの?」
「気づかなかったの、アリス様だけですよ。あいつ、昔からアリス様のことが好きで、後ろを付いて回っていたじゃないですか」
「……そ、そう?」
「まあ、そんな感じで、気づいていなかったってことです」
「……私、鈍いのかしら」
「かもしれませんね」
がっくりする私に、ラリーは声を出して笑った。
「で、この小さい子は誰です?」
「あ」
私はまだ椅子に立ったままご飯を食べているピイシェに微笑んだ。
「私の養い子。この子と一緒に暮らすことになったんだけど、私ひとりじゃ大変だろうからって、マイリィが来てくれることになったの。迷子になっていたら、連れてきてね」
「わかりました。――なるほど、じゃあ、マイリィにとっては、この子さまさまってところですね」
「このこさまさま? なあに、それ」
「この子のおかげってことです」
なるほど、と私は微笑んで、ラリーに手を洗うように伝える。
ピイシェの隣の椅子に座ったラリーの前に、スープと牛乳、焼きたてのパンを置いた。
「どうぞ、召し上がれ」
「うわ、美味そう! いただきます!」
ラリーは朝食をがつがつ食べながら、「こぼれてんぞ」と言いながら、ピイシェの世話もしてくれる。
私はピイシェの世話を彼に任せて、セラ侯爵からの手紙を開いた。
事務的な封筒と便箋だったけど、ひと目でセラ侯爵の直筆だとわかった。
セラ侯爵に相談したいことがあるので時間があれば直接お会いしたいとだけ手紙に書いたけど、ちょうど今日の午後が空いているという。
時間は私の都合に合わせていつ来てもいいが、指定された場所はセラ侯爵家の上屋敷。翌日以降を希望するのであれば、日付の連絡をくれたら都合をつけるとのことだった。
「お忙しいのでしょうし、今日の午後でいいわよね……」
むしろ、そんなに早く会ってくれるとは思わなかったので驚いていた。
封筒の消印は昨日の日付だ。ネイが手紙を預かってくれたのが夕刻だから、届いてすぐに返信を出してくれたとわかる。
ネイもだけど、侯爵も仕事が速い。
「ラリー」
「ふぁい?」
「ちょっと待っていてくれる?」
「いいですよ」
「その子のこと見ていて」
「ういっす」
「ありがとう」
私は返信を書くために、書斎へと向かう階段を軽快にのぼった。