01話 ワインは苦い。
なぜこんなことに?
私は自分の身に起きたことを理解するのに時間がかかって、微動だにしないまま硬直していた。
つまり、ただ混乱していたのだと思う。
一応、舞踏会やパーティーではどんなことがあってもうろたえてはだめと親友のティシィに言われていたことが頭にある。
踊っていたら躓いたり、転んだり、裾を踏まれてドレスが破れたり、脱げたり、飲食してドレスが汚れる……などいった、とにかくいろいろなことが起こるものなのだから、と。
だから、私は混乱しながらも一生懸命に考えた。
見た目は茫然自失していたように見えたかもしれないが、頭の中は高速回転だった。
こういう場合はどう対処すればいいのか。
食事中にドレスを汚してしまったときはコサージュやショールで隠せばいい。
何か失敗してしまったときには、笑顔で謝ればいい。
――頭上から水を浴びてしまった場合は?
まずは退出?
それとも状況把握か。
初めて招かれた高位貴族のパーティーで壁の花になっていたところ、突然、頭上から水が降ってきた。
――違う。
ワインだ。
口に入ってきた苦い液体。
――なんでワインが?
私はいきなりのことに声を失っていたが、周囲も静まり返っているのは、起きたことに驚いて息を呑んでいるからかもしれない。もし、私が少しでも声を上げていたら会場中が静まり返っていただろう。
場にそぐわない異質な声は目立つものだから。
――どうしよう。
とりあえず、顔を上げてワインを掛けた人物を確かめようとしたときだった。
遠方で、ガシャン、とガラスの割れた音がして、会場内の視線が一斉に音の鳴った方へと向かった。
「おっと、失礼!」
よく通る男の人の声だった。
「グラスを落としてしまった。皆、危ないので近づかないように」
まるで悪びれた様子のない呑気な声がする。
「そうだな。お詫びに、一曲だけリクエストに応えよう」
周囲がざわりと驚きの声を上げた。
「殿下が」
「本当に……!?」
わ、と会場内が盛り上がるが、それも納得できた。
現在、この国に殿下と呼ばれる男性はひとりしかいない。先王弟――国王陛下の叔父であるアレフレット様だ。
年齢は、兄である先王よりも甥であるカインシード陛下に近く、穏やかな性格で人気も高い。
そして、フェシャと呼ばれる弦楽器の有名な奏者だった。
弦楽器において天空の音色を再現することが出来る四人――「天空の奏者」のひとり。
きゃああ、と若い女性たちから喜声が上がり、もはや、私のほうを見る人は誰もいない。
今のうちに退出しよう――と思ったときだった。
誰かが私の二の腕をつかんで引いた。
「え――」
力強く、大きな手が私を誘導する。
それが男性なのは、背中にある気配からもわかる。導かれるままに近くのバルコニーに足を踏み入れると、つかまれていた腕はすぐに開放された。
「すまなかった」
低い声に振り返れば、閉めたガラス扉を背に、長身の男性が静かな面持ちで私を見下ろしていた。
片手には、空のワイングラス。それが意味するところはひとつだ。
私は微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
「え?」
彼は弾けたように目を開き、驚いたように私を見ている。
え、と返されても困るけど。
聞こえなかったのかな。
「だいじょうぶ、ですか?」
「え?」
え、とだけ繰り返す彼。
頭の弱い人なんだろうか。
それとも、混乱しているだけ?
確かに、頭からワインを滴らせた女性が「大丈夫か」なんて頓珍漢なことを言い出したら驚くに違いない。これが父なら、お前の方が大丈夫か、と即座に突っ込みが入るところだ。
つまづいてワインをこぼしたとか、誰かにぶつかってワインをこぼしたとか、体がふらついてワインをこぼしたとか、理由はたくさんあるだろうけど。
「お身体の具合が悪かったわけでは?」
「あ、ああ……。いや、違う」
「そうですか、よかった」
ならいいです。
私が微笑むと、彼は急に目が覚めたようにうろたえだした。
「すまなかった」
「大丈夫です。気にしないで」
手に持っていたレースのハンカチーフで顔のワインをぬぐうと、彼も慌てて持っていたグラスを手すりに置いて、胸から抜いたポケットチーフを髪に押し当ててくれた。
大きな人だな、と思う。
身長もだけど、手も大きく、体つきがしっかりしている。剣は差していないが、腰に剣帯は下げているから入り口で預けたのだろう。それだけで、彼が護衛騎士ではなく、正式な招待客なのだとわかる。
年齢は二十代の半ばくらい。黒い髪をきちんと後ろに撫で付けて、身なりも立派な人物だ。
胸章は、盾と剣と筆の三つ。盾は貴族、剣は騎士、筆は官であることを示しているが、私がわかるのは盾の大紋章から、彼が高位貴族なのだということだけ。
ちなみに、爵位を持つ家の中で、高位貴族と呼ばれる公・侯家は1割ほどしかいない。
被害が私ひとりで済まなかったらもっと悲惨なことになっていたはずで。そう考えると、被害は最小限だったと喜ぶべきなのかもしれない。
せめて白ワインなら目立たなかっただろうに、と溜め息をつきたくなったのは、いま着ているのが唯一のドレスだったから。
――ワインの染みって洗ったら落ちるのかしら……。
純白のドレスは紫の花が散ったように染まっている。
貴族ではあるが、両親も他界し、贅沢な暮らしはしていない。唯一のドレスも、元は来年の成人式のために用意されていたものだ。今回、舞踏会ではないからと派手なレースや飾りを外して手直ししたら予想以上にシンプルになってしまったが。
いっそ、全部をワインにつけて色を変えたらどうだろう。前髪から顔に滴ってきたワインをぬぐうと、レースがピンクに染まっていた。
うん、ほら、けっこう綺麗。
唇にちょっとだけ入ってきたワインは苦くて、どうして大人はこんなものを好むのか不思議だった。
この国では16歳で成人と見なされるが、大人になったら味覚が変わるのだろうか――。
「すまない」
彼はひどく戸惑ったような顔をして、頭を下げた。
「本当に申し訳なかった」
私は首を横に振った。
「謝らないで。ちょっと驚いただけです」
彼を恐縮させすぎないように私は笑う。
こんなことはめったにないから、逆に話のネタになって楽しいと思う。
きっと、後でこのときのことを思い出したら笑ってしまうような出来事だ。今ですら、なんだか可笑しくなってきて、ふふ、と声が漏れてしまいそうになったときだった。
「フォル!」
いきなり上がった若い女性の声に驚いて、私は飛び上がった。
声の主に顔を向ければ、バルコニーに新たな住人が加わっていた。
年は私と同じくらい。
綺麗な女性がドレスの裾を持ち上げて立っていた。
驚きと感嘆の両方で、うわあ、と思う。
ピンクのドレスはふわりと軽く柔らかそうに膨らみ、春を象徴する花の精のようだった。巻き毛の淡い金髪を緩やかに結い上げ、宝石でちりばめたような飾りが夜の明かりを反射してキラキラと輝いている。白いレースも美事で。
可憐で上品。同じ年代の女性なら誰もがうっとりとしてしまうような素敵な装いだった。
白い肌に、大きな目を縁取る長い睫毛、その下の青い瞳が夜でもはっきりとわかった。
そんな美少女が、目を吊り上げながら近づいてくるのだ。
「う……」
右から聞こえてきた唸るような声に顔を向ければ、フォルと呼ばれた男性がひどく動揺した様子で彼女を見ていた。
怯むように片足が引けているのは、近寄ってくる美少女の形相が怖いからに違いない。
金髪碧眼の美少女が私の前に立った。彼女は私の現状を見て、ぐっと息を飲んだかと思えば、いきなり青年の胸をこぶしで殴った。
えええ――!?
「なにやっているのよ馬鹿!」
ドンとすごい音がしたけど、胸板が厚いのかビクともしていない。
「もう!」
再び殴って、美少女は私のほうへと顔を向けた。
「本当に申し訳ないことをしてしまったわ。ごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですから」
わ、わ、触ったらダメ。
「汚れます」
私が身を引くと、彼女は軽く瞬き、ほんのりと笑った。そんなこと気にしないで、と言いたげに私の腕を取る。
彼の婚約者なのだろうか。10歳くらいの差があるけど、美男美女でお似合いだ。
「服を換えに行きましょう。予備のドレスがあるわ」
「あ、いえ……」
「体型はそれほど違わないし、大丈夫」
「……そうか?」
ぼそりと疑問符を投げかけたのは青年。お前の方が小さいだろう――というつぶやきに、再びこぶしを胸に食らっている。
「小さいって、ど こ の こ と を 言 っ て い る の か し ら?」
絶世の美少女が優雅に笑っているのに、何でこんなに怖いんだろう。
「………………背、が」
「もちろんそうでしょうとも」
にっこり笑って、彼女は私のほうへと向き直った。
「お願い。それくらいはさせて?」
「はあ……」
そういえば、ティシィから夜会などではドレスの色やデザインが重なったときに気まずくならないように配慮する必要があると聞いたことがある。
予備とはいっても、帽子から靴や装飾品などすべてドレスの色に合わせてそろえる必要があるため、持ち込むのも大変なはず。やっぱり高位貴族は違うなあ、と感心してしまう。
このまま帰宅するつもりだったけど、帰る間だけでも貸してもらうか迷った。でも、帰るだけなら借りるのはドレスだけですむし、彼女の顔を見ていたら、申し出を断るのも悪い気がして。
「では、お願いします」
小さく微笑むと、彼女もにっこり笑った。
「よかった。じゃあ、行きましょう」
彼女はもう一度、彼氏の胸をこぶしで殴った。
「フォルも行くわよ」
冷たい声。
あわわわわ。
最初のときに比べると多少は手加減しているみたいだけど、そんなに彼氏を何度も殴ったりして大丈夫なんですか?
私がそわそわおろおろしていたのが可笑しかったのか、彼は小さく笑うと、私の肘を軽くつかみ、そっと押し出すように歩き出した。
彼女も私の腕に手を回して誘導する。
バルコニーから再び広間に戻ると、アレフレット殿下の演奏が続いていた。
音楽隊のいる壁際に移動したらしく、招待客が全員背中を向けている。
殿下が普段使っているフェシャの値段は城が建つほど高いと聞くけど、今は音楽隊のものを借りているようだ。それでも、その音色と響きは感動するほど綺麗で美しい。
これが天空の音色――。
有名な歌劇の一曲に、思わず足が止まる。
――あ。
全員の視線が先王弟に向かっている中、もしかして、と思い、私たちを見つけた殿下の口元にかすかな笑みが浮かぶのを見て確信する。
殿下の失態は、私のそれを隠すため、意図的にやったのだ――。
私は小さく礼をするように挨拶をし、二人に挟まれながら壁沿いに移動して会場を抜けだした。
会場の外に出ると、フェシャの音色も静かに聞こえるだけ。
長く伸びた廊下が夜の静寂に包まれ、ほのかに灯る蝋燭の火に闇が揺れてとても幻想的だった。
導かれるまま近くの客間に入ると、彼は控えていた侍女に風呂と着替えの用意を頼んだ。
侍女が全員下がると、黙っていた美少女が溜め息をついた。
「もう、信じられない」
くるりと振り返ると、私の両手をつかんで真正面で見つめてくる。
わわわ、顔が近いです。
「兄の行為を許してとはとても言えないわ。どうか、お詫びをさせてちょうだい」
申し訳なさそうな声に私は驚いた。
「え?」
お兄様――?
私は入り口の扉に寄りかかるようにして立っている黒髪の青年を見て、美少女に視線を戻した。
「お兄さん……なんですか?」
「え?」
今度は、美少女が「え」だ。
「あなた……」
彼女は驚いたように瞬いている。
「知らなかったの?」
「は、はい……。すみません」
確かにふたりとも美形だけど、黒髪黒眼と金髪碧眼では血のつながりを想像するほうが難しい。
片親が違っていたり、両親が連れ子同士の再婚だったりするのかもしれないが、貴族のパーティーに招かれることすら珍しい――というか、初めての私には、貴族間では常識となっている家族構成などもさっぱり分からなかった。
「私が誰かも分からない?」
「は、はい……」
すみません。
小さく俯いた。なんだか消え去ってしまいたい気分。
ワインを掛けられたのは私なのに、自分のほうが悪い気がしてしまう。
――やっぱり来るんじゃなかったかも。
溜め息をつきそうになったとき、
「もしかしてあなた……」
美少女がつかむ手に力が入った。
「アリスリス・メディ?」
はい、そうです。
あなたは?
――あなたたちは誰?
すべては、一通の招待状から始まった。