13話 出会いと別れ。
馬の鼻息と、蹄の音と、車輪の音。
孤児院の前に停まった馬車を見て、ティシィは目を細めると乾いた笑いを漏らした。
「おほほ、ほほ……アリスさんたら、用意がいいですこと……」
「でしょ?」
「でしょじゃない」
ティシィは私の三つ編みを軽く引っ張った。
「痛い痛い。だって、どうしたって馬車は使うじゃない」
「まったく、私がいなくても何とかなったんじゃないの? お優しい近衛隊長のセラ侯爵様とは顔見知りになったんだし? 見かけたら声をかけられるくらい仲も良さそうだし?」
お優しい、に力を入れるティシィの嫌味に微笑んだ。
「あら、ティシィに黙って動いてもよかった?」
「……」
考え込むティシィを笑って、私は手を上げた。
「じゃあ、後でね」
「はいはい」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ティシィは手首を軽く振った。
とりあえず、午後一に教鞭を取る私は学舎に向かい、その間、マリーベル様には疲れた身体を休めてもらうことになった。
ティシィはセシル様と入れ替わるように外に出て、馬車に群がる子供たちの相手をしている。
学舎は子供から大人まで利用することができ、授業内容と年齢によって教室が分かれていた。
エセル地区の識字率は高く、6歳児で初級文字を読むことが出来る。初級文字は絵本が読めるレベルだが、他の地区では大人でも文字を読めない者が多く、二十年間で、エセル地区の生活水準は他を圧倒するほど高くなった。
エセル地区が「特区」と呼ばれる所以はそこにある。
学舎に卒業はないが、入学は5歳からと決められている。10年経てば、中級文字を読むことが出来るだけでなく、字を書き、計算が出来、地図や記号が理解できる。希望すれば、初級理化学、初級魔法学なども履修可能で、学長の推薦があれば王都大学に進むことも可能だった。
中級文字が読み書きできれば、就職で困ることはない。
エセル地区の住人にとって「学ぶ」ことは必須条件のひとつで、それを疑問に思う者はいないが、他の地区の中にはそれを羨む者もいる。だが、それ以上に、学ぶことで自由を奪われると思っている者の方が多いようだった。
確かに、勉強している間は時間を拘束されるけど。
「意識を変えないと無理よ」
とティシィなどは言う。
貴族の令嬢の中には寄宿舎に入れられる娘も多いけど、女が知恵をつける必要はないと学校に通わせてもらえない娘もいる。
私やティシィも生徒として学舎には通っていないけど、両親から勉強だけはきちんと受けさせてもらっていた。
もっとも、家庭教師がいるティシィとは違って、私の教師は主に両親だったけど。
「起立!」
級長の元気な声が響き、全員が椅子から立ち上がった。
「礼!」
よろしくお願いします、と声をそろえる。
「いいわ、座って」
私の声に従って、低学年の子供たちが一斉に着席した。
まっすぐな瞳が私に集まっている。
勉強することが、できることが楽しいと思っている目。だから、私は「覚えることが楽しい」ということを彼らに教えなくてはいけないのだ。
出欠を取ります、と私は子供たちに向かって微笑んだ。
教鞭を取り終えて孤児院に戻ると、馬車がいつでも出発できるようになっていた。
早く早く、と窓からティシィが手招いている。
馬車の用意を頼んだ護衛騎士が御者台に座り、扉の前にもひとり立っていた。私が近づくと扉を開けてくれる。
「ありがとう。――セシル様、行ってまいります」
私はセシル様に挨拶をして馬車に乗り込んだ。子供たちはちょうどお昼寝の時間なのでいない。
「遅くなってすみません」
私が謝ると、マリーベル様は微笑んだ。
「いいのよ。私もゆっくり休ませてもらったわ」
ティシィの横に腰を下ろし、扉を閉めた護衛騎士が助手席に座ると馬車が動き出す。
あらかじめ道は知らせてあるのだろう。
「どういうルートで行くの?」
「地下水路をね」
「地下水路……って、馬車のまま入れるの?」
「入れるわけないでしょ」
ティシィは呆れ顔。
「途中から歩いていくわよ」
「私も行っていい?」
「迷子になるからだめ」
「えええ!?」
ならないわよう、と涙目で訴えたら、ティシィはくすくすと笑い出した。
「大人しく待ってなさい」
「手をつないでもだめ?」
「右にアリス、左にマリー様? ピクニックじゃないんだから」
「ピクニックだと思えばいいじゃない!」
「目をキラキラさせない!」
「えええー」
ぷう、と頬を膨らませたら、ティシィの指が伸びてきたので、私は頬を凹ませた。何度も突かれてたまるものですか。
ふん!
「拗ねてもだめ」
「別に拗ねてない」
ふん!
「豚になってるのに?」
ティシィが笑って、私の手を握った。
「アリスが王宮に捕らわれたときは助けに行って、そのときに手をつないで逃げてあげる」
「衛兵がいっぱいいるのに無理よ」
「関係ないわ」
ティシィはくすくすと笑った。
「私を誰だと思っているの? 魔女の弟子よ」
「ティシィさん」
マリーベル様がにっこり笑った。
「笑顔で私を脅すのはやめて」
ティシィもにっこり笑った。
「わかりました?」
「わかりますよ。――安心なさい。アリスさんには手を出しませんから」
「そう願います」
にこにこと、笑顔で話しているのに、和やかな感じがしないのはどうしてだろう。
私はカーテンを開けて、窓の外に流れていく街の景色を眺める。
――と。
「――!」
騎馬隊だ、と思ったときには、もうすれ違っていた。
瞬間、間違いなく、黒髪の青年と目が合った。
「アリス?」
ビクッと硬直した私の手をティシィが軽く揺らした。
「どうしたの」
「……」
「アリス?」
「セラ侯爵が……」
「いたの!?」
私は小さく頷いた。
ティシィが急いで逆の窓から確認するけど、ちょうど曲がり角の手前だったので、騎馬隊の姿はない。
「陛下らしき人もいた?」
「わからないわ。すれ違う一瞬に侯爵と目が合っただけだったから」
一瞬だけど、彼も驚いたように目を見開いた――ような気がする。
私が彼に気づいたように、彼も私に気づいただろうか。
それとも、同乗者に気づいた?
私は胸を押さえた。
ドキドキする。
「アリスはともかく、マリー様に気づいたかしら……」
ティシィが唇に拳を当て、眉を寄せて考え込んでいる。
普通なら、似たような人がいた――と思うだけだろう。
王太后が城下にいるとは思わないはず。
ぶつぶつとつぶやいているのは、戻って近衛に王太后を預けた方がいいのか、このまま極秘裏に王宮へと戻したほうがいいのか思案しているのだろう。
マリーベル様は端から私たちにすべてを預けているので、何も言わない。
黙って見守っていると、ティシィは覚悟を決めた顔で言った。
「このまま行くわよ」
私は笑って了解した。
馬車は王宮の西にある裏門前を通り、風伯殿の裏手に回って停まった。
思ったよりも王宮に近い。
ティシィが地下水路をよく探検しているということは知っているけど、出入り口がどこにあるのかを私は知らなかった。
「風伯殿? ずいぶん近いのね」
「一番近いところを選んだもの。あの足じゃ、あまり歩かせるわけにはいかないでしょ」
基本的に、貴族は痛みを顔に出さないよう教育される。人前で髪や服装の乱れを直したり、かゆい場所を手で掻いたりするのは言語道断。
マリーベル様は足の裏が水ぶくれになっていたけど、そのあと歩いたときも顔に痛みは出していなかった。でも、ティシィは長い歩行が困難と判断したのだ。
先に私が出て、次にティシィ、最後にマリーベル様が馬車を降りた。
ティシィがひじを出し、マリーベル様が手をかけた。一見、神殿に来た裕福な商家の夫人と小間使いの子供に見える。
「ここから先は私が連れて行くわ。アリスはここから離れて」
「どこで待てばいいの」
「そうね……、雨師殿の前に噴水があるの。そこで待っていてくれる?」
私が頷くと、ティシィは護衛騎士たちに言った。
「貴方たちは雨師殿の裏で待っていて」
その言い方は、お願いではなく命令だ。御者台に座る護衛騎士は黙ってうなずいた。
雨師殿は水の神を祭る神殿だ。ちなみに、風伯殿は風の神を祭っている。
この国では、水が国土を潤し、風が国民を守る。
生きていることを水の神に感謝し、亡くなったときに風の神に魂を運んでもらい、そしてまた生まれ変わるとされている。再び同じ両親の元で生まれたいと願う者や、今とは違う人生を歩みたいと願う者は風伯殿で祈るのだ。
出会いと別れ、生と死を司る神を祭る神殿。
その場所で、私たちは別れようとしていた。
マリーベル様が私に手を伸ばしてきたので、両手で包むように握り返した。
「ごきげんよう、アリスさん」
「ごきげんよう」
また会いましょう、と言った彼女に笑顔を返す。
別れがあるなら、再会もある。
きっとある。
私は2人が神殿に入ったのを見届けてから馬車に乗り込んだ。
雨師殿の裏に着くと、馬車が何台か停まっていた。町馬車や箱馬車だけでなく、二輪馬車や辻馬車も停まっていた。
馬に水を与えたり、馬具を外して汗を流したり、馬の休憩場所になっている。
私は馬車から降りると、馬の首を叩いて労ってから待ち合わせ場所に向かって歩いた。
王都の雨師殿へ来たことは一度もないけど、表に行けば噴水があることくらいはわかる。小さな町では噴水ではなく井戸だったりするけれど。
神殿の横道を通っていくと、だんだんと水音や人の声が高くなり、神殿の影から抜けると目の前には大空が広がっていた。
燦々と照りつける太陽がまぶしい。
モザイク広場の中央に、大きな噴水があった。陽光を受けてキラキラと輝き、小さな虹まで出来ている。
神殿の入り口まで続く長広い階段や、噴水の縁にたくさんの人たちが座って寛いでいる。親子連れや老夫婦、恋人たちが、作ってきたお弁当を広げて、みんな楽しそうに笑っていた。
風伯殿の周りが静かなのとは対照的だ。
私は噴水の縁に腰を下ろして、神殿を見上げたり、広場で待ち合わせて合流する恋人たちを眺めたり、楽しそうに笑う子供たちを見て和みながらティシィを待った。
しばらくして、御者台にいた護衛騎士が私を探しているのに気づいて手を振った。
「どうしたの?」
もしかして、噴水ではなくて馬車のほうにティシィが来たのだろうか。
私が立ち上がると、寡黙な彼は黙ったまま近づいてくると、手に持っていた白い日傘を差し出してきた。
「倒れられては困ります」
「ありがとう」
私が笑って礼を言うと、彼は少しだけ笑みを浮かべてきびすを返した。
私は渡されたレースの白い傘を開いた。
馬車の中に用意されていたものだと気づく。
良かった。噴水の水が細かく降り注いでくるから気持ちは良かったけど、日差しが強くて困っていたところだったのだ。
その日差しがさえぎられたのは、私が差した傘をくるくると回しながら、子供と戯れている仔犬に小さな笑い声を上げたときだった。
「アリスリス嬢」
低い声に顔を上げれば、背の高い青年が私の前に立っていた。
「まあ!」
私は驚いて立ち上がった。
「セラ侯爵!」
「……」
「……じゃなくて、フォルディス様」
こくん、と彼は頷いた。なんだか子供みたいで可笑しい。
私は彼の上から下まで視線を流した。
「どうしたんですか」
こんなところで、ではなく、その格好は、という意味だった。
さっきまで略装とはいえ近衛の騎士服だったのに、今は騎士服だけど所属がわからない平服だ。馬も連れていない。
でも、よく見れば、上着が違うだけで、ズボンやブーツ、剣帯や剣はさっきと同じだった。
着替えたというより、上着を誰かと交換した……?
――たぶん、探していた人と。
「探している方は見つかりました?」
「ああ」
「よかった」
私が微笑むと、彼は何か言いたげな表情をした。
「君は……」
「はい」
「なぜここにいる」
「人を待っています」
「……さっきの男は違うのか」
「さっきの男?」
侯爵は、私が差している傘の縁をつかんだ。
「ああ……」
私は微笑んだ。
「彼はメアル家の護衛騎士です」
「メアル……伯爵家?」
「パーティーでお会いしたでしょう? ティシィ・メアル」
「君の親友か」
「はい。神殿から出てくるのを待っているんです」
ティシィは神殿にいないけど、嘘はついてない。
「……そうか」
少しだけ肩の力を抜いた声で彼はつぶやいた。
あのときにすれ違ったことを何か問われるかと思ったけど、侯爵は何も言わないし、私も言わなかった。
「君は祈らないのか」
「私は祈りません」
「……」
沈黙が降りたので、私は小さく笑った。彼の顔を下から覗き込む。
「信仰を捨てたわけではないので、ご安心を」
祈りはひとつ。
両親が他界したときに風伯殿で祈った私は、他の神殿で願うことはない。
「侯爵も誰かを待っているんですか?」
「……ああ」
「じゃあ、一緒ですね」
なんだか嬉しくなって笑ってしまう。
「恋人ですか?」
「違う」
「リリアナ様?」
「いや」
私は首をかしげたけど、それ以上は聞かず、にっこり笑って噴水の縁に座った。
「なら、一緒に待ちましょう」
座ってください。ぽんぽんぽん、と隣を叩く。
反応がないので、背の高い彼を仰け反るようにして見上げたら、侯爵が驚いたように私を見ていた。
――気安かったかしら。
でも、侯爵は少しためらいを見せた後、小さく息を吐いて私の隣に腰を下ろしてくれた。
楽しくて、ふふと笑ってしまう。
「周りから見ると、きっと私たち、待ち合わせた恋人に見えますね」
行儀が悪いけど、足をぶらぶらと揺らしてしまう。
年齢差からすると兄と妹だけど、彼とリリアナ様が兄妹に見えなかったように、おそらく私たちも兄妹には見えないだろう。
侯爵は広げた足に肘をついて、組んだ指に唇を当てて前を見据えている。
日差しが強くて日焼けしたのか、彼の頬が赤く染まっていた。
もし彼が女性なら、一緒に入りましょうと日傘を差し出すことも出来たけど、さすがにレースの日傘では彼に悪い。
お互いに黙ったまま、しばらく前を向いて広場の様子を見つめていたら、周囲の視線が私たちに集まっているのに気づいた。
私は侯爵を見つめた。
――騎士の方にこんなところへ座らせたのは拙かったかしら……。
でも、さっきもこうして噴水の縁に座って恋人を待っていた騎士の方もいたし。
私が侯爵の横顔をじいっと見ていたら、切れ長の視線が私のほうへと流れてきた。
「なんだ」
睨むように見つめてくるけど、怒っているわけではないのはわかる。
私は微笑んだ。
「鼻筋が綺麗だなーって思って。あと、髪の毛も、お祖母さまを思い出します」
「ナミ様か」
「はい」
私は目を細めて笑った。
やっぱり、と思った。
彼は私が10年前に出会った子供だと確信しているのだ。
「あのあと、夢を見ました」
「夢?」
「たぶん、フォルディス様と初めて出会ったときのことです」
「……」
黒い瞳が、まっすぐに私を見つめてくる。
「おっきいお兄ちゃんに、たくさん遊んでもらいました」
……ですよね? と囁けば、侯爵が優しく笑い返してくれた。
その彼の笑顔に、周囲の人たちが一様に驚いた表情を浮かべたことに私は気づかず、ただただ懐かしいその笑みが嬉しくて、胸から沸き起こる喜びが溢れるままに微笑み返した。
ティシィが神殿から出来てきたのは、それからすぐ後のことだった。