10話 マリーベル。
エセル地区の中央に、広い公園がある。
別名、エセルの森。
森といっても、植樹されてまだ二十年なので、森林公園と呼ばれるには勢いが足りないけれど、程よい木陰を作り出すほどには成長し、近隣の者たちの憩いの場になっていた。
朝夕は散歩コースにもなり、大きな池や、子供たちが遊べる芝の広場もある。
森の周囲には図書館や療養所、学舎などがあり、エセル地区の住人なら誰もが利用できた。
学舎と併設された孤児院の門を開けると、地面に棒で絵を描いていた3歳くらいの子供が振り返った。
「テトリ」
私が微笑むと、ぱああ、と子供の顔はひまわりが咲いたような笑みに変わった。
「アリスさまだー!」
よく通る声に、わー! という歓声が一斉に上がって、子供たちが孤児院から溢れ出て来た。
十人もいないが、わらわら、という言葉が頭に浮かんで笑みが漏れてしまう。
今は隣の学舎で授業中なので、就学前の小さな子供たちしかいない。
私たちはウサギのように跳ねる子供たちに囲まれた。
「アリスさま! アリスさま!」
「アリスさまー、その人だあれ?」
「きょうは、あそべるの?」
「いいにおいがするー!」
「クッキー?」
「あるわよ」
「わー!」
「アリスさま、だいすきー!」
「やった! やった! やった! やった!」
子供たちがぴょんぴょん跳ねる。
「あとでね」
私は驚いている婦人に笑いかけると、「行きましょう」とささやいて誘導した。
「アリスさま」
そばかすの目立つ赤い髪の少女が寄ってきたので、持っていたバスケットを預けた。
街で声をかけてきたネイの妹だ。まだ8歳だけど「学ぶこと」「働くこと」が条件であるエセル地区の住人なので、授業のないときは孤児院で子供たちの世話をしている。世間一般では「お手伝い」の範囲だけど、エセル地区では十分に働いていることになる。そういうことも、すべて年上の者たちが下の者に教え、譲っていくのだ。
「マイリィ、セシル様はいる?」
「いますよ。セーシールーさまーーーー!」
マイリィの声に、孤児院の玄関に院長である50代半ばの女性が現れた。亜麻色の髪と茶色の瞳、微笑む顔は常に穏やかで、木漏れ日のように暖かい。
セシル・ブラッドと名乗っているが、本来、その最後には「ロウ」という伯爵位が加わる。
豊満な体はドレスを着て踊るにはふくよかすぎるけど、色白な肌は綺麗で清潔感があり、すべてを包み込んでくれるような安心感があった。
「アリス様がいらっしゃると、すぐにわかりますわ」
私は近づいてきたセシル様に挨拶し、同伴していた女性を休ませたい旨を伝えた。
「歩き疲れてしまったみたいで」
「そうなの。こちらへ――」
どうぞ、という言葉は口の中で消えた。
「――」
セシル様が婦人を見て軽く目を見張り、そのまま硬直している。
婦人もセシル様の表情に気づいたらしい。微笑むと、そっと口元に指を一本立てた。
知り合い、なのだろう。
もしくは、一方的に知っているだけなのかもしれないけれど。
「どうぞ中へ――」
私はそれに気づかなかったふりをして、孤児院の中に婦人を連れて入った。
「まあ! 美味しい!」
マリーベルと名乗った婦人は、長机に子供たちと一緒に並ぶと、私が作ったクルミパンを食べて目を輝かせた。
本当はティシィと食べるために作ったパンだったけど、婦人のお腹がグルルと鳴ったのでおすそ分けすることになったのだった。
昼食をすでに終えている子供たちにはクッキーを出している。
「こんなに美味しいパンは初めて食べたわ!」
「お腹がすいているし、疲れているから余計に美味しく感じるんだと思いますよ」
私が微笑むと、マリーベル様は少し頬を膨らませた。
「そうかもしれないけど、こんなに美味しいパンを初めて食べたというのは本当よ」
「ありがとうございます」
私は笑って礼を言った。
「クルミをたくさんいただいたので、結構入れちゃいました。食べ過ぎると太るのでお気をつけください」
「わかったわ。ねえ……もうひとつ、いただいてもいい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
にっこりと、嬉しそうにマリーベル様が笑う。彼女は隣に座っていた子がもじもじしているのに気づいたのか、パンをちぎると、大きいほうを子供の前に差し出した。
「半分こしましょう」
「わあ! ありがとう! おばちゃん!」
「……まあ」
マリーベル様は目を丸くして「おばちゃん……」とつぶやくと、何がおかしいのかくすくすと笑い出した。
子供たちが全員外に遊びに行くと、マリーベル様も子供たちに手を引かれて外へと出て行った。パンを食べる前に、かかとが低くて歩きやすい靴を貸している。
食堂に残った私は、セシル様に紅茶を入れた。
ありがとう、と微笑んで、セシル様は優雅に紅茶を口に運んだ。たちまち頬が緩む。
ほう、と息を吐くセシル様のリラックスした様子に、私は微笑んだ。
「セシル様」
「なあに」
「彼女がどなたかご存知ですね?」
「え?」
「顔見知り……ですよね」
「……」
セシル様は困ったような顔で私を見上げ、視線を紅茶に落としてつぶやいた。
「……お会いしたのは一度きりなのよ」
セシル様は男爵家の生まれだ。伯爵である旦那様と子供に先立たれ、爵位は義弟が継いだ。その後、男爵家に戻り、お独りでいたところをナミお祖母さまが声をかけて孤児院の院長になったと聞いている。
「舞踏会で、しかも遠目で見ただけなの。――あの方がどなたか、アリス様は?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「でも……」
なんとなく、予想はつく。
髪に差していた飾りは、すべて本物の宝石が使われていた。
噂に聞く、栗色の髪と瞳。
エセル地区の緑を遠くから眺めることが出来る場所に住み、父の生まれを知り、生みの母に仕えていた女性。
マリーベルは偽名だ。
「王太后陛下、マリールージュ様……」
先の第二王妃であり、カインシード陛下の生母。
彼女の後頭部で光る金属の髪留めには見事な意匠で花の紋章が彫られていた。
王族には個人に与えられる花印があり、彼女のそれは薔薇。王族の花印を直接見たことはないから推測でしかないけれど、導き出される答えはひとつしかない。
「……なんでこんなところに」
王太后陛下が王都で迷子だなんて、伯爵令嬢が王都探索というレベルを超えている。国王陛下が王宮を抜け出すことより、王太后陛下が王宮を抜け出すことの方が問題だ。
さっき、侯爵が探していたのは王様だと言っていたけど、本当は王太后様のほうだったのだろうか。
でも、捜しているのがマリールージュ様だとしたら、侯爵があんなに落ち着いているわけがない。
息子の後をつけてきたと言っていたけど、もしかして、周囲に黙って抜け出してきたの? ――ひとり、ということはそういうことなのだろう。
どうやってここまで来たのか。
カインシード陛下といい、王族がそう簡単に王宮を抜け出せるものなの――?
わからない。
――フォルディス様を呼んだほうがいいかしら……。
でも、ここへ近衛を呼ぶのは避けたい。
それとも、私が気づかないだけで、護衛の人たちは隠れて存在しているのか。
否。
いたら、足が疲れて休んでいた彼女を放っておくわけがない。
王宮では王太后がいないことに気づいているのだろうか。
今ごろ大騒ぎになっている――とか。
考えれば考えるほど不安になってくる。
どうしたらいい――?
考えろ。
最善の道を。
「――ティシィ」
私は顔を上げて学舎のほうを見た。
セシル様が首をかしげた。
「ティシィさん? あと少しで終わると思うけど……」
ティシィは、毎週2回、学舎で小学年を対象に地理と数学を教えている。
「セシル様、授業が終わってからでいいので、理由は言わずにティシィを連れてきていただけますか」
「護衛の方も?」
「ティシィだけでいいです」
ティシィを呼べば護衛騎士は勝手に付いてくる。
「お願いします」
「わかったわ」
セシル様が微笑み、立ち上がる。
その背中を見送って、私は小さく息を吐いた。
「小さい子って本当に元気ね」
ふふふ、と楽しそうに笑う婦人に、私も微笑んだ。
外で子供たちと遊ぶ彼女に、休みませんか、と休憩を持ちかけたのだった。
「足は大丈夫ですか?」
「ええ。とても柔らかい靴だから痛くないわ」
「よかった。こちらへどうぞ」
紅茶を用意していると、彼女は先ほどセシル様が座っていた席に着いた。しばらく息を整えていたけど、やがて私の手元を静かに見守っている。
何か話したそうな雰囲気は伝わってきたけど、私はあえて何も言わずに待った。
「アリスさん……。貴女、何も聞かないのね」
私は微笑んだ。
ティーカップを彼女の前に置く。
「聞いてほしいのですか?」
「……貴女は、どこまで知っているの」
「どこまで……」
私は鸚鵡返しにつぶやいた。
「そうですね」
彼女の向かいに腰を下ろして、微笑んだ。
「捨てられていた父をお祖母さま……ナミ・チトセが拾って育てたこと。そのことで、お祖母さまと王宮が喧嘩したということだけです」
喧嘩、と簡単に言ってしまえるようなものではなかったようだけど、いずれにしても、私が生まれるずっと前のことだ。
「お父さまのお生まれは?」
「10歳になったときに父から聞きました」
「そう……」
10歳というのは、特別な意味を持つ。
自分の意思で家名を選ぶことが出来るのだ。それが爵位であれば相続権を意味するし、通常は家名を受け継ぐだけだが、逆に家名を捨てることも出来る。
父も10歳で「家」を選んだ。
育ての親であるナミ・チトセの姓を選び、生まれた家の「名」を放棄したのだ。チトセは爵位ではなくてただの家名だけど、父が「チトセ」を選んだことは、大きな意味があった。
結婚した後はメディ家の婿養子となったが、ジン・チトセ・メディ――と、チトセの名は残り続ける。
私も普段はアリスリス・メディと名乗っているが、正しくはアリスリス・チトセ・メディだ。
お祖母さまからは「千歳亜梨子」という真名も頂いていた。
この国には「名に誓う」という言葉がある。
家の名に誓うという意味であり、その誓いを破るということは、その家名を捨てるということを意味し、二度と名乗ることは許されない。
つまり、それだけ家名は重い意味を持つ。
「アリスさん、貴女が王家の血を継ぐことを知っている者は……」
「私はメディ家の人間です」
言外に「父の生まれとは無関係だ」とはっきり告げると、婦人の眉と肩がかわいそうなくらいに落ちてしまった。
ちくりと胸が痛む。
言葉が強すぎた。
「すみません」
私が謝ると、婦人は慌てて首を横に振った。
「貴女が謝ることはないのよ」
「……」
婦人は静かに笑う。それは、私に罪悪感を抱かせないための笑みだ。
「いつか……ジン様や貴女に会えたらと願っていたの。だから、成人式で会えるのを楽しみにしていたのよ。まさか、こんな偶然があるとは思ってもみなかった」
「王宮はメディ……、チトセ家に干渉することを禁じられていると聞きました」
「ええ、そう。レオンハルト陛下とナミ様がそう取り決められて……。若い人たちはその理由までは知らないけれど」
ふふ、と彼女は口元をこぶしで押さえて思い出し笑いをした。
「先日、貴女がセティス家のパーティーに参加したと聞いてすごく驚いたわ。何も知らない孫娘がメディ家の娘をパーティーに招待してしまったことを知って、セティス老公が謝りに来たの。あんなに焦って、慌てた彼を見るのは、ナミ様と対峙したとき以来」
彼女は小さな声を出して笑う。
「そんなこと気にしなくてもいいのにね。――そうでしょう? もう、昔のことなんだもの。もう、若い人たちには関係ないの」
「マリーベル様」
「貴女たちのことを聞いて、そのことに気づいたのよ。やっと、気づいた。……だから、息子の後をつけようと思ったの。私だけが囚われた気持ちになっていたけど、あんな簡単に抜け出すことが出来たわ」
婦人は目を細めた。
「アリスさん」
どこか、すっきりした顔をして。
「マリーベル……それが本当の名前ではないと、わかっているのでしょう?」
「……」
私は告げるか迷った。
このまま知らないふりをしたほうがいいのではないのか――。
「……マリールージュ様」
「ふふ」
彼女は小さく笑った。
可笑しそうに。
楽しそうに。
「でもね、本当は、その名前こそが偽物なのよ」
マリールージュは、王妃となり、花印とともに与えられた名。
「私の名前はマリーベル。貴女には……。セレスティーナ様の血を継ぐ貴女には、本当の名を伝えたかった」
まぶしそうに彼女は私を見た。
私の中の、お祖母さまを。
だから、私も返した。彼女が望むものが何か、わかっていたから。
彼女が望む笑みを。
「マリーベル様、これからは、いくらでも会うことが出来ます」
そうね、と彼女は笑って、嬉しそうに目を細めた。