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09話 エセル地区。

 


「隊長……!」

 

 若い騎士が馬上から捜索対象者――王様を発見したらしく、侯爵はすぐに「失礼する」と短く告げると馬体の向きを変えて馬を走らせた。

 連れの騎士も後に続くが、御者さんだけが「またねー!」と陽気に手を振りながら去っていく。それを侯爵が軽く咎めたのが遠くからもわかって小さく笑ってしまった。


「さて、と。早く行かなくちゃ」


 最終目的地は学舎だけど、ほかにも寄る場所があるのだ。

 騎馬隊が走り去った方向に向かって私も歩く。

 この先は王都の中心部からかなり外れているが、道や建物が整備されてとても安全な地区だ。

 馬糞などもすぐに取り除かれて、綺麗な道が続く。


 かつてここはとても貧しく、王都の中でも流れ者や浮浪者、無頼者の住処だったという。

 ゴミは散乱し、道は糞尿垂れ流しで悪臭を放ち、地区全体の建物は黒く朽ち果て、いつ崩れてもおかしくない状態だった。

 人が死んでも放置され、死を待つばかりの老人や、助からない病人が馬車で運ばれてきては捨てられる毎日。

 王都の中でも最悪区と呼ばれ、王宮や守護騎士団からも存在を無視された場所。


 20年前、そこにひとりの少女が立った。


 明らかに貴族の令嬢と思われる16歳の少女は、自分が持つすべての力を持って、世界を変えた。

 莫大な資金でこの地区すべてを買い取ったのだ。

 すべての建物を壊し、道を整え、建物を作り直し、公園や図書館、学舎など公共の施設を作った。

 道は広く、木陰が出来るように植えられた街路樹は果樹で、果実は自由に取ることが出来た。


 地区の住人となるには、条件がたったの三つ。


「学ぶこと」

「働くこと」

「盗まぬこと」


 仕事がない者には、毎日掃除をするだけでもいいと言った。

 身体を動かすことが出来ない者には、空を見て雨を知らせ、時を知らせるようにと言った。

 建物や道は常に清潔で、何年経っても汚す者はなく、住民は文字を覚えたことで、できる仕事が増えた。

 争いが減り、草花が増え、飢えて死ぬ者も減った。


 それは聖女エセルの奇跡。

 

 最悪区は、やがて少女の名をとってエセル地区と呼ばれるようになった。

 

 その莫大な資金がどこから出たのか、王宮がなぜそれを黙認したのかは謎のまま――。

 聖女エセルは「失われた王女」ではないのか――、と人は言う。


 でも、エセルは王女じゃない。


「アリス様!」


 顔を上げれば、窓から顔を覗かせた若い女性が元気に手を振っていた。赤い髪にそばかすが目立つ彼女は、元気すぎて三階の窓から落ちそうになっている。


「ネイ、また落ちるわよ」

「今度は華麗に着地してみせますよ」

「華麗じゃなくてもいいから、落ちないで」

「了解です」


 私は苦笑した。


「足の怪我はどう?」

「傷は綺麗にふさがりました! アリス様、これから学校ですか」

「ええ」

「渡したいものがあるんで、よかったら帰りに声をかけてください」

「わかったわ。ありがとう」


 彼女に手を振って別れると、私はエセル地区の西にあるアゼル出版社に立ち寄り、原稿を預けてから学舎へと向かった。

 商店が並ぶ通りを過ぎて木々が目立ちはじめるとそこはもう公園の一角だ。

 途中、道の端で身体を休める女性に気づいて私は立ち止まった。


 ――?


 服の生地からそれなりの身分だとわかる婦人が、街路樹に身体の半分預けてうつむいている。

 しきりに足の裏を気にしていることから、疲れて休んでいるのがわかったけど、目を引いたのは、格好が街の住人らしくないからだった。

 襟首を覆うフリル、肩口が広がったブラウスに長い袖、裾の長い細身のロングスカート。それだけならエセル区に住む裕福な商家の婦人と変わらない。でも、髪の結い方と飾りが、一目で違うとわかってしまう。


 ――貴族だ。


 しかも、紋章が入った髪飾りから、高位貴族とわかる。だとしたら、こんなところに侍女もなく独りでいること自体がおかしい。

 私は周囲を見回した。


 ――連れの人は誰かを呼びに行っているのかしら。


 この時間帯は人も少なく、馬車を呼ぶなら大通りまで出ないとつかまらない。


「もし」


 声をかけてから、二の腕にそっと触れた。


「どこかお体の具合でも?」

「え?」


 顔を上げて私を見たのは、想像よりも年配の方だった。小さなお孫さんがいてもおかしくない年代だ。

 栗色の髪と瞳が綺麗な貴婦人は、目を細めて笑った。


「心配してくれたのね、ありがとう」


 落ち着いた態度は、対人に慣れた者特有の余裕がある。


「歩きすぎて疲れてしまっただけなのよ」


 ふふと笑って、婦人は右のかかとを軽く上げた。


「行儀が悪いけど、靴を脱ぎたいわ」

「わかります」


 私も微笑んだ。


「ちょうど布があるので足に巻きましょうか? 楽になりますよ」

「ありがとう。お願いしてもいい? こんなに歩くとは思わなくて……」


 柔らかい口調は少女のようにかわいらしかった。穏やかな話し方や笑みが母と似ていて、話しているだけで胸が温かくなる。


「お散歩ですか?」

「え? ――ええ、そう、そうなの。お散歩」


 貴族の上屋敷が並ぶ地区からここまではかなりの距離がある。

 ただの散歩にしては遠回りだ。

 護衛もなく、近くに馬車もない。


 ――誰だろう。


 気にはなったけれど口にはしないで、私は身をかがめた。

 ひざをつき、バスケットの中からパンにかけていた大きめの布を2枚取り出すと、彼女の靴を脱がせて靴代わりに足を包んだ。端を足首で結うと、布の靴が出来上がった。

 足裏の一部が水ぶくれになっている。破れてはいなかったけど、再び靴で歩き続けるのは無理があった。


「靴は履かれずに、このまま歩いたほうがいいかもしれません」

「そのほうがいい?」

「はい。お連れの方は?」

「いないわ。一人で来たのよ」


 ふふ、と楽しげに笑っている。まるで、ちょっとしたいたずらをしてしまった少女のような笑み。


「そういえば、ここはどこなのかしら」


 きょろきょろと彼女は周囲を見回して首をかしげた。


「森?」

「……」


 ――迷子のご婦人を発見、です。


「ここはエセル地区です」

「エセル地区! まあ! ここが? 森みたいだわ」

「中央にある公園ですよ。ちゃんと整備されています」

「ああ! あの緑」


 婦人の目が、なんだかすごく輝いている。

 あの緑、ということは、この場所を遠方から見た事がある――もしくは、いつも見ている景色の中にあるということだ。


「目的地を聞いてもいいですか? 知っているところでしたらご案内します」

「目的地はないの。息子の後をこっそりつけてきたのよ」


 楽しそうに笑っている彼女を見ていると、ティシィを思い出してしまう。


「息子さんは……」

「消えてしまったの! 魔術でも使ったのかしら」

「……見失ってしまったんですね」

「そうみたい」


 ふふ、と婦人は笑った。


 ――わかった。「ふふ」を「てへ」に変えたらティシィなんだ。


 私は苦笑して、彼女に右肘を差し出した。


「この少し先に休める場所があります。一緒に行きませんか」


 婦人は微笑んで手をかける。


「ありがとう。お願いするわ」

「私、アリスリス・メディと申します」

「――メディ?」


 婦人が驚いたように瞬いた。


「メディ子爵家?」

「え――、あ、……はい」

「まあ! そうなの! メディ家の……」


 婦人はどこか遠い目をして私を見ると、柔らかい笑みを口元に浮かべた。

 メディ家の名に反応する人の表情はだいたい同じだ。

 おおむね好意的な笑みが多いけど、彼女が思い出しているのは、メディ家の誰なのだろう。

 お父さま?

 お母さま?

 それとも、お祖母さま?


「貴女のお父さまは、ジン様?」

「――」


 まさか、父の名前が出てくるとは思わなかったので驚いた。

 こくん、とうなずくと、彼女は目を細めて微笑んだ。


「そう……、ジン様の……」


 まるで、私の中に父の面影を探すかように、栗色の大きな目がまっすぐに私を見つめてくる。

 でも、私の容姿は完全に母の複製だと言われているくらいで、父と似ている箇所を捜すのは難しい。

 一瞬、婦人の目に涙が浮かんだように思えたのは気のせいだろうか。


「貴女はお祖母さまにとてもよく似ていらっしゃるわ」

「……」


 感慨深そうな声に、お祖母さまとは血がつながっていない――とは言い出せない。でも、彼女はそれもわかっているようだった。


「ナミ様ではなくて、ジン様をお産みになった方」

「……」


 婦人はにっこりと笑ってから、目を閉じると、右手で胸を押さえてあごを上げた。


「ああ! 息子に感謝しなくちゃ!」


 感激、という言葉がこれほど似合う表情はほかにないだろう。

 私も、父の生みの親を知っている人に出会ったのは初めてで、ドキドキする。


「あの……、父をご存知なのですか」

「ジン様が生まれたときのことを知っているわ」


 にこにこと笑って彼女は語る。


「すごい難産だったのよ。無事に生まれたときは本当に嬉しかった……」


 ――この人は、どこまで知っているのだろう。


 父のことを敬称で呼ぶこの人は。


「アリスリス様」

「――! やめてください」


 私がなにを「やめて」と言ったのかわかったのだろう。彼女は「アリスリスさん」と言いなおしてくれた。


「……アリスさん、とお呼びしてもいい?」


 私がうなずくと、婦人は微笑んだ。


「私はマリー……。マリーベル」

「マリーベル様?」

「私はね……」


 婦人は懐かしそうに表情を緩めた。


「昔、貴女のお祖母さまにお仕えしていたの」






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