君が想い出になる前に
雪の降る停車場で、私はいつまでも日章旗を振っていた。
傍らで、母はそっと目元を押さえ、父は強い力で私の肩を握り締め。
お国のためにいってまいります、と
涼しく笑ったその笑顔は、もはや二度と見ることは叶わない。
兄の戦死が知らされたのは、戦争の終わるほんの少し前のことだった。
+ + +
終戦から早数ヶ月。
新しい学校令が施行され、春からは新しい体制の下で勉学に励む事が決まりました。
GHQが行った学校改革の一環として、春から、綾の母校である女学校は近くの中学と合併し、新制高校として共学の道をたどる事になりました。
今日はそのための学生有志による懇親会です。
とはいえ、女子学生を男子学生の勉学の場である中学に送り込むのは如何なものかということで、校長先生、理事長、そして卒業生の互助組織である晩翠会の会長様までいらしてご同行してくださることになりました。
ですが、それでも綾は不安で仕方がありません。
同じ年頃の男性と同席するだなんて、兄以外の男性と親しくさせてもらったことがないのでどうにも落ち着かない気分です。
「綾乃お姉様!!」
遠くからしづ様が袴を大きく翻して駆けていらっしゃいました。
「あら、しづ様、どうかなさいまして?」
「お姉様、聞きましたわ、これから中学の方へいらっしゃるとか?」
しづ様は両手を胸の前で組んで、まるで祈り、縋るかのように私に質問を投げかけてきました。
それに対する否定をしづ様は欲しかったのでしょうが、生憎綾には肯定しかさし上げられませんでした。
「大丈夫ですわ、これから参りますが、校長先生や晩翠会の会長様、理事長先生も一緒についてきてくださいますから。それに、生徒会長の梅子様もご一緒ですし。」
「ですが、相手は殿方ですのに!!がさつで荒くて乱暴な男性!いくらお国が負けて学校制度が変わったからといっても、せめてここの女学校ぐらいは女の園であって欲しかったのに……!」
「心配要りませんわ。」
綾はしづ様の手に自分の手を重ねてしづ様にお気を鎮めてもらおうとしました。
「学校は学び舎。これからあちらの方とお会いして、何の問題も無いよう話し合ってまいりますから。」
綾がにっこり笑いかけると、しづ様もそれ以上は何もいえなくなってしまったようです。
しづ様が落ち着かれたのを確認すると、綾はその場を辞去して先生方との待合場所へと向かいました。
先ほどしづ様に申し上げたような大口を叩いてはみたものの、これからどうなるのか、綾には見当もつきません。
そして不安も根深く綾の胸に巣食っておりました。
確かに女学校では良き妻、良き母となるべく男性に忠実であれと教えられてきましたが、それでも先生方には若い男性は粗野で乱暴で、若い女子にはとかく不必要な興味を抱く傾向があるということを何度も教えられてきました。
なのに春から共学だなんて。
綾は沸き出でる不安や恐怖を押さえ込むことが出来ずにいました。
それは先生方も同じだったようです。
会場である中学への道すがら、校長先生が溜息を吐かれました。
「大丈夫かしら、春から男子生徒が我が校にやってくるだなんて。」
それに便乗するかのように口々に先生方の間から不安がもれ出てきました。
「全く、心配ですわ。とかく若い男性は粗暴な方ばかり。わたくしの可愛い妹たちが怯えて暮らすようなことになりはしないかと思うと胸が張り裂けんばかりですわ。」
「わたくしもですわ。今日の今日まで乙女の園として守り抜いてきた我が女学校の伝統を、いくらお国が負けたからとは言えやすやすと覆させるだなんて。」
口々に不平不満をほとばしらせる先生方を、綾が不安げに見ていると、そっと着物の袖を引っ張られる感触がしました。
そちらを見やると、生徒会の会長をしていらっしゃる梅子様が緩やかに微笑んでいらっしゃいました。
「綾乃、不安?」
「ええ、少しばかり。男の方だなんて、お兄様やお父様くらいしか親しくお話したことないもの。」
綾が俯きかけになると、梅子様はぽんぽん、と私の肩を叩いて励ましてくださいました。
「大丈夫、心配しないで、綾乃。これから行く中学は貴方のお兄様の通ってらした学校じゃない?きっと似たような方のいらっしゃるところよ。上手くいくわ。」
その根拠があるようでないような論理は綾を落ち着けさせるに十分な力を発揮しました。
優しかったお兄様。
そのお兄様が大好きだと仰っていた学校。
きっとお優しい方ばかりに違いない。
綾はそう思って顔を上げました。
「そうですわね、お兄様が通ってらした学校ですもの。きっと上手くやっていけます。」
そう言って綾が笑うと、校長先生や晩翠会の御姉様が私のほうを気遣ってくださいました。
「あら、やっと笑ってくださったのね、綾乃さん。」
「貴方はいつもそうやって笑っていてね。貴方は我が女学校の華なのですから。上に立つ御姉様として続く妹たちの模範となり、守り、導き、そしてその笑顔で幸せにしてあげてくださいな。」
そうやって皆様が綾を気遣ってくださる頃には、中学の前に差し掛かっていて、そこから門が視認出来ました。
中学と女学校は道路を挟んで丁度斜向かいにあります。
大変近い立地にあるにもかかわらず、今まで交流らしい交流はありませんでした。
しかし、戦争により、女学校は無傷で残りましたが、中学校の方は校舎をひとつ残すのみとなり、他の建物は全て焼けてしまいました。
本来ならばこの懇親会も、春から学び舎となる女学校でやってしかるべきなのでしょうが、春までは女学校は男子禁制を貫くべきだという意見に押され、懇親会は中学校でやることになりました。
中学の門の前には二人の学生服姿の男性が立っていらして、すぐにその方々が中学校側の生徒会の方だと言うことがわかりました。
あちらの方もわたくしたちにすぐに気がつかれて、門の前でまずはご挨拶、ということになりました。
「初めまして、中学校の生徒会長を勤めていた三年の迫田です。春には僕は卒業していないのですが、中学側の年長者として何らかの助言を、という事で今回は出席させていただきます。」
背の高い、眼鏡の方がまずはご挨拶してくださいました。
その隣、もう一方一緒に待っていらした方も、迫田様のご挨拶が終わると帽子を脱いで礼をなさいました。
「現生徒会長の清滝隼です。いまだ一年の若輩者ですがどうかよろしくお願いいたします。」
そう言ってあげられた顔は健康的に日焼けしていて、どこか清清しいものを感じさせるお顔でした。
「女学校の生徒会長を勤めています二年の高辻梅子と申します。こちらは私の補佐をしてくださっている春原綾乃です。どうかお見知りおきを。」
梅子様とご一緒に綾も頭を下げてご挨拶をさせていただき、そして場所を門前から懇親会の会場である会議室に移すことになりました。
一番先頭を迫田様、その後に校長先生方、梅子様と続き、私の後ろを清滝様がついてきてくださいました。
門を入るとグラウンドがあり、何人かの学生がグラウンドを畑にして農作業にいそしんでいました。そしてその向こうには空襲で半焼した校舎の残骸が見えました。
そこここに残る戦争の傷跡。
兄が通っていた頃を知らない綾は、それでも兄が見ればどう思うのだろうかということに思いを馳せながら無事に焼け残った校舎に入りました。
校舎の中は賑やかな外とは一変、静謐な空気が流れていました。
真っ白に塗り上げられた壁と、古い木の織り成すコントラスト。
窓から零れ落ちる金色の光。
その空気は、兄がいつもまとっていたものと同じものでした。
「あの、……どうかしましたか?」
建物に入るなり立ち止まってしまった綾をいぶかしく思って清滝様が綾にお声をかけてくださいました。
ふと我に返ると、目の前を歩いていた筈の梅子様や校長先生方は廊下の遥か向うで。
「申し訳ありません、何でもありませんの!」
綾は顔が真っ赤になるのを押さえられずに、慌ててお辞儀をして清滝様に謝りました。
そんな綾の様子をおかしいと思われたのか、清滝様はくすりと笑われました。
「そんなに慌てなくて結構ですよ。どうせ行く場所は同じですし、ゆっくり歩いていきましょう。」
そう言って清滝様は綾の隣にきてエスコートをしてくださいました。
その歩調は本当にゆったりとしたもので、綾は思う存分ゆっくりと周りを見ながら歩く事が出来ました。
誰もいない教室。
きちんと掃除がなされた黒板。
そこらじゅうにあるものから兄の気配が感じられるようで、綾は知らず、涙をこぼしていました。
その涙にぎょっとされたのは清滝様。
慌ててご自分のズボンから白いハンカチを取り出して綾に貸してくださいました。
「これを……。」
「どうもありがとうございます。先ほどからご迷惑ばかりかけていますわね。」
「いいえ、どうかお気になさらないでください。」
清滝様はゆるゆると首を横に振って綾に優しく笑いかけてくださいました。
綾が借り受けたハンカチで止まる気配を見せない涙をふき取っていると、清滝様はそっと口を開かれました。
「なにか、この学校に思い入れでもあるのですか?」
え?と思って清滝様を見上げると、清滝様は慌てて目をそらせておしまいになりました。
「先ほどから、この校舎を愛おしそうに見ていらっしゃったので……。」
語尾がだんだんと小さくなって、清滝様は頬を染めて下に俯いてしまわれました。
その表情を見て、この方にはお話しても良いのではないか、と綾は思いました。
「兄がこの学校に通っていましたの。」
「え?」
「物静かで、本が好きで、この学校の事をいつも話していてくれたいましたの。兄がここに昔居たのかと思うとなんだか感慨深くて……。」
「その後、お兄さんは……?」
「中学を卒業して、高等中学に行きました。」
「とても優秀な方だったんですね。では、そのまま帝国大学へ?」
「ええ。でも、学徒動員でお国のために戦争へ行って、見事本懐を遂げました。」
綾の言葉に、清滝様は何事かを言おうとなされて、それでも言うべき言葉が見つからなかったのか、しばらく困惑した表情を見せられた後、静かに頭を下げられました。
「良い、お兄さんだったんですね。」
「ええ、大好きでした。」
綾はそこまで言ってしまってから、これ以上清滝様にお気を使わせてしまってはいけないと思って、にっこり笑いました。
「さぁ参りましょう。大分遅くなってしまいましたわ。」
そう言って今まで梅子様たちがいらした方向を向き直って綾は硬直しました。
……姿が影も形もありません。
一体どこへ行かれたのでしょうか?
状況が理解できず、困惑の表情を浮かべる綾を見て、清滝様が噴き出されました。
「すみません、可笑しくて……。懇親会場は3階なので皆様階段を上がっていかれました。」
「そ、そうでしたの、申し訳ありません、お見苦しいところをお見せいたしました。」
慌てて綾が頭を下げると、清滝様はす、と綾の隣に立ってくださいました。
「行きましょうか。皆が心配します。」
そう言って清滝様が一歩を踏み出されるのにあわせて綾も歩き出しました。
先に行ってしまった皆様を追いかけて多少急ぎ足で歩いていた綾でしたが、その足も、廊下を折れて階段に差し掛かったところで急に鈍ってしまいました。
それもこれも、踊り場にはめ込まれたステンドグラスがあまりにも美しかったから。
まるで何かに吸い寄せられるかのように綾はふらふらとその窓に歩み寄りました。
黄色や緑の色とりどりの原色のガラスの向うにはきらめく太陽。
その光に照らされて幾何学模様が踊り場に色を添えていた。
「綺麗でしょう?」
ふいに清滝様に声をかけられて、綾は自分の世界に浸りきっていた事に気付きました。
「え、ええ、そうですね。」
他の方がいる場で呆然とした顔を晒していた事に綾は恥ずかしく思いながら清滝様に相槌を打ちました。
でも、清滝様はそんな綾の様子に気付かれるようなことはなかったようでした。
「このステンドグラスはこの学校の中で僕が一番好きなものなんです。男がなよなよしたものを好きだなんて、と言われそうなんで内緒なんですが、我が校皆気に入っている事でしょう。戦争で焼け落ちたのがこの校舎じゃなくて良かったといってましたから。」
清滝様はそこまで仰るとステンドグラスから視線を綾に移し変えられました。
「綾乃さんのお兄さんもこのステンドグラスがお好きだったと思いますよ。」
そう言ってにっこり笑ってくださった清滝様を見て、綾は全身が火照るような気がいたしました。
だって、だって
「どうかしましたか?」
不思議そうに覗き込んでくる清滝様から綾は視線をそらす事しか出来ませんでした。
今まで殿方と接する機会なんて殆ど無かった綾です。
それが、いきなり名前で呼ばれて。
それまでは常に「春原家のお嬢さん」というぐらいでしか呼ばれた事は無かったので、突然の事に大変動揺してしまいました。
「何でもありません、は、早く上に……。」
そう言い逃れようとして綾は階段を上ろうとしたのですが、動揺で足元を良く見ていなかったためでしょう、足を階段に引っ掛けてしまいました。
突如ぐらりと傾いた視界。
自分を襲う下方向への重力。
何もかもがゆっくりと動いていくように思いました。
「危ない!!」
「きゃぁぁぁあああ!!」
どん!!と大きな音が聞こえて、綾の体の落下が収まった事を感じました。
でも、予想した痛みはどこにも無くて。
恐る恐る目を開けてみると、視界いっぱいに広がるのは紺色の学生服。
「大丈夫ですか?」
清滝様は綾の下で苦痛に顔をゆがませながらも笑って綾を気遣ってくださいました。
「ええ、……お陰様で、大丈夫です。清滝様は……?」
大丈夫ですか?と聞こうとしたとき、階段の上のほうから声がしました。
「何の音ですの?」
「先ほどの叫び声、綾乃さんの声ではありませんこと?」
校長先生方の声と、そして足音。
踊り場に降りていらした皆様に対して綾は硬直したままでした。
それは、綾と清滝様の状況を見た校長先生たちのお顔が一瞬にして般若のように変わってしまわれたから。
「何てこと……!汚らわしい!!」
「やはりこれだから男子学生という方は!!」
「今からでも共学化は見直すべきですわ!!そう議会にも打診いたしませんこと!?」
一体何をそんなにお怒りなのか綾には一瞬理解できませんでしたが、次の言葉で全てに合点がいきました。
「私たちが側にいるというのに校内に入った女学生をこれ幸いに無理やり抱きすくめるだなんて!!」
一瞬、あまりの誤解のなさりように唖然としてしまいました。
清滝様は綾を助けてくださっただけなのに。
襲うだなんて、そんな事は……!
清滝様がどんなにお怒りか、そう思って清滝様のほうを振り返りましたが、清滝様は顔を俯けて校長先生方の罵詈雑言を耐えていらっしゃいました。
そこへ口を挟んだのは梅子様でした。
「ちょっと先生、宜しいでしょうか?」
「なんですの、高辻さん!!」
「もう少し感情的になるのを抑えていただけませんでしょうか?よく見てください。清滝君は綾乃の下にいるんですよ。襲うとすれば普通逆、綾乃が下になると思いませんか?私にはボーっとした綾乃が階段から落ちそうになったところを清滝君が助けてくれたようにしか見えないのですが。」
「そ、そうなんです、先生!清滝様は何も悪くありません!!綾が不注意で階段から落ちそうになったところを助けてくださったんです!!」
綾は必死に校長先生方に訴えました。
でなければ謂れも無い汚名が清滝様に降りかかってしまう事になりそうでしたから。
その言葉は何とか校長先生方に届いたようでした。
「本当ですか?」
「はい。」
清滝様に向かって校長先生が発せられた問いに、清滝様は静かに頷かれました。
それを見て、梅子様が先生方の方を向いていたずらっ子のように笑いかけられました。
「私たちも認識を改めねばならないようですわね、先生。これから蛍雪の友となる方々に対して私たちが謂れ無き偏見を持っていては到底友好など望めませんもの。」
「そうですわね、高辻さん。私たちが間違っていたようね。」
そう言うと、先生方は階段を上がってゆかれました。
その後姿を溜息をついて見送られる梅子様の隣で、迫田様がニヒルに微笑まれました。
「身を挺して婦女子をお守りした挙句、謂れの無い罵詈雑言を黙って耐え忍ぶ。お前も一端の男になったんだなぁ。」
「からかわないでください、先輩。」
清滝様は頬を真っ赤に染めて手で顔を覆い隠してしまわれました。
梅子様も、そんな清滝様に声をかけられました。
「綾乃を助けてくれてありがとう。綾乃の友人としてお礼を言うわ。綾乃、あんたいつまで清滝君の上に乗ってるつもりなの?あんまり乗ったまんまだと、また不純異性交友だとか言われるわよ。」
「あ、ご、ごめんなさい!」
綾ははじかれたように清滝様の上から飛びのきました。
「本当にごめんなさい、重かったでしょうに……。」
「いえ、羽のように軽かったですよ。」
私を気遣って微笑んでくださる清滝様に、また迫田様から茶々が入りました。
「ほぉ、今度はやせ我慢か。いや、結構結構。」
豪快に笑って上に上がっていかれる迫田様に清滝様は「先輩!!」と声を上げて追いかけていかれました。
それが、始まりでした。
それが、私たちの始まりの時でした。
中途半端というか、始まってもいないというか、本当にもう済みません。
プロットがどこかに行ってしまいました。最後だけは決まっていて両親に引き裂かれて一時は他の人と結婚することになったけど数十年後には茶飲み爺婆友人として古い喫茶店でお茶して語らっているシーンで終了です。