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恋愛小説のはずでした

「母の相手でもしていろ」と婚約破棄されたので、お義母様と夜祭りへ出かけました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/09/24

「ノエミ、君との婚約は破棄する。今夜は母の相手でもしていろ」


 リュカ様は、私ではない女性に腕を貸したまま、そうおっしゃった。

 伯爵邸の玄関には、出発を待つ馬車が見えている。私は彼と夜祭りへ行くつもりでここへ来た。ひと月前に誘われてから、今夜のために空色のリボンを選び、刺繍を一針ずつ足していたのだ。


「……今夜、私とお出かけになるお約束でしたでしょう?」

「だから、予定が変わったと言っている。フロランスと船上の宴に招かれたんだ。婚約の話は、明日君の父上に使いを出すよ」


 そんなふうに、訪問の時間を変えるような口調で言わないでほしかった。

 隣の令嬢の真珠飾りが、夕日を受けて輝いている。私が彼に選んでいただこうとしたリボンには、「そんな小さなことで呼び止めるな」と、目も向けてもらえなかったのに。


「母は君とのおしゃべりを楽しみにしているから、寂しがらせないでくれ。そういうことは得意だろう」


 胸が痛くて、すぐには腹も立たなかった。

 お義母様とのお茶は好きだった。けれど、私は伯爵家のお話し相手になるために、リュカ様との結婚を望んだわけではない。


 この一年、慣れない家に嫁ぐ私を案じてくれたのは、彼のお母様、ヴィオレット様だった。彼の帰りが遅い午後には刺繍を教えてくださり、私が布の裏を糸だらけにすると、ご自身の失敗した縫い目まで見せて笑ってくださった。

 その時間を、今、余った用事のように私へ渡さないで。


「私の相手って、どういうこと?」


 廊下から聞こえた声に、リュカ様が振り返った。

 ヴィオレット様は濃紺の服を着て、玄関の手前に立っていらした。私たちを見送りに出てきてくださったのだろう。息子の腕にいる令嬢を見てから、私の顔へ視線を移される。


「ノエミさん、何があったの」

「婚約を破棄なさるそうです。今、そう伺いました」


 口にすると、ようやく本当のことになった気がした。声が震え、指でつまんでいたリボンの端まで揺れた。

 ヴィオレット様が息子へ向き直る。けれど、その言葉が出る前に、私は背筋を伸ばした。


「お受けします。明日、父からもお話をさせていただきます」


 私を選ばなかった方へ、選んでほしいと縋ることはできなかった。ここで泣けば気を変えてくださるかもしれないと、ほんの少し考えてしまった自分まで、彼に見せたくなかった。


「そうか。話が早くて助かる。では母上、あとはノエミとゆっくりなさってください」


 リュカ様は、面倒が片付いたような顔で馬車へ向かった。

 車輪の音が門を出ていくまで、私は立ったまま聞いていた。あの馬車の隣の席を思い浮かべて過ごしたひと月が、ずいぶん長かったことを、今さら思い知った。


 * * *


「ノエミさん。あの子のしたことを、私が謝って済むとは思わないけれど……本当に、ごめんなさい」


 ヴィオレット様が私の手を取ってくださった。

 ついさっきまで、手袋の指先がひどく冷たかった。その温かさにほっとして、困ったことに、涙が一粒こぼれた。


「私、今日を楽しみにしていたんです」

「ええ。知っているわ。そのリボン、先週も縫っていたものね」


 見てもらえていた。

 それだけのことが嬉しくて、私はもう一度泣きそうになった。ヴィオレット様は私の手を握ったまま、次の言葉を待ってくださった。


 玄関の外には、私の実家の馬車が残っている。侍女のエマも、御者も、帰りの指示を待っていた。

 このまま家へ帰って、祭りの花火を窓から眺めることはできる。きっと父も母も、好きなお菓子と温かい飲み物を用意してくれるだろう。それを思うと安心したし、家へ帰りたい気持ちもあった。


 でも、今夜の川沿いには灯りが並ぶ。

 先日、祭りの案内を二人で広げたとき、ヴィオレット様は、あの辺りの屋台の話をずいぶん楽しそうになさっていた。


「ヴィオレット様。今夜、私と夜祭りへいらっしゃいませんか」


 握られた手の力が、ふっと緩んだ。


「……私と?」

「はい。歩いて見て回りたいんです。お話ししてくださった橋の向こう側まで」

「あなた、あの子に頼まれたことを気にしているなら、何もしなくていいのよ。私は一人でも大丈夫だから」


 その気遣いが、かえって悔しかった。

 私はこの方を、一人では何もできない可哀想な人だと思ったことなどない。刺繍のほどき方を知っていて、笑いを堪えると鼻に皺が寄って、甘いお茶には少しだけ渋い顔をする、大好きな方だった。


「ご一緒したいのは、私です。お嫌でなければ、今夜は私の遊び相手になっていただけませんか」


 ヴィオレット様が瞬きをなさる。

 それから、遠慮がちだった口元が、少しずつ上がった。


「それなら、一つお願いしてもいい?」

「もちろんです」

「川岸の輪投げ屋へ寄りたいの。あれは見ているだけじゃ駄目よ。あなたも投げるの」


 思いがけないお願いに、私は泣いたばかりの顔で笑ってしまった。


「私、あまり上手ではありませんよ」

「私もよ。だから、夫とはいつも真剣勝負だったの」


 三年前に亡くなった伯爵様のことを話す声が、今は弾んでいた。

 私は彼女の手を握り返した。今夜を楽しみにする気持ちが、胸の痛みのすぐ隣に戻ってきている。


 外出先と同行する方を実家へ知らせる使いを頼み、ヴィオレット様が支度をなさるのを待った。

 ほどなく持ってこられた外套は、よくお召しになっていた灰色と、深い葡萄色の二枚。どちらがよいか尋ねられ、私はためらわず葡萄色を指した。


「祭りの灯りに、きっと綺麗です」

「あなたの空色とも似合いそうね。では、こちらにするわ」


 玄関の鏡の前で並んだとき、私は初めて、今朝選んだリボンを見て笑えた。


 * * *


 川沿いには、すでに赤や黄色の提灯が揺れていた。

 焼き栗の甘い匂いに、笛と太鼓の音が混ざっている。祭り見物の人たちがゆっくり流れる道へ下りると、ヴィオレット様は私の顔を覗き込まれた。


「先に灯りを買いましょう。迷子になったとき、目印にもなるわ」


 手に提げる小さな提灯は、花や魚の形をしていた。

 私は青い鳥に目を留めた。隣では、ヴィオレット様が赤い魚を選んでいらっしゃる。丸々と太っていて、正面から見ると、たいそう不満そうな口をしている魚だった。


「そちらがお好きですか?」

「この口がね、夫に起こされた朝の私に似ているの」


 思わず吹き出すと、ご本人も魚を顔の横へ持ち上げて笑われた。

 大きな声で笑ったあと、私は反射的に周りを見た。リュカ様がそばにいると、声を落とせと注意される癖がついていたのだ。


 けれど、今は魚の提灯を持った方が、もっと私を笑わせようとしている。

 私はもう一度その口を見て笑い、青い鳥の竿を受け取った。


 輪投げ屋は、橋を渡った先にあった。

 少し離れた台の上に、木彫りの動物が並んでいる。輪は三本一組で、欲しいものへ輪がすっぽりかかれば、その品を持ち帰れるらしい。


「昔は、あの奥の大きな馬を狙ったものだわ」

「取れましたか?」

「一度も。夫も一度も取れなかったのに、帰る頃には二人とも、名人になったつもりだったわね」


 提灯を二つエマへ預け、私たちは三本ずつ輪を受け取った。

 ヴィオレット様の一投目は、台の手前へ落ちた。私の一投目は、奥へ飛びすぎた。お互いの投げた輪を見て顔を合わせ、二投目には笑わずに構えたのに、今度は二人揃って台の同じ脚へ引っかけてしまった。


 三本目まで投げても、台の動物は一つも減らなかった。

 立派な伯爵夫人と、その息子に婚約を破棄された子爵令嬢が、輪を六本使って何も取れずにいる。けれど、ヴィオレット様は悔しそうな顔を隠そうともなさらない。


「今のは、もう少しだったわ」

「私もです。あの鳥の頭に、確かに触りました」

「ええ、触っていたわ。二人とも、惜しかったのよ」


 私たちはお互いを励まして、それから、どちらからともなく笑った。


「母上?」


 聞き慣れた声が、太鼓の音の切れ間に入った。

 振り向くと、リュカ様が道の向こうに立っている。船上の宴の桟橋はすぐ先で、まだ乗船を待つ客が列を作っていた。フロランス様も、数歩後ろからこちらを見ていらっしゃる。


 エマが提灯を持って私たちの脇へ戻り、私には青い鳥を、ヴィオレット様には赤い魚を渡した。

 リュカ様の視線が、その魚から、お母様の葡萄色の外套へ移る。


「どうしてこんな所に。ノエミ、母には家で休んでもらうよう頼んだだろう」

「私の相手を、とおっしゃったのでしょう。家から出るなとは聞いていないわ」


 ヴィオレット様が先に答えられた。

 息子を責め立てる声ではなかった。けれど、赤い魚を持った手は少しも下がらない。


「そういう意味ではなくて。ノエミも、母を連れ出してまで何をしているんだ」

「私からお誘いしました。輪投げを教えていただきたくて」

「君まで輪を外していたじゃないか」

「はい。二人とも、本気なのに難しくて」


 悔しくなって台の鳥へ目をやると、ヴィオレット様が肩を揺らした。


「だから、真剣勝負になると言ったでしょう?」

「ええ。でも、次は取ります」


 リュカ様が黙って私たちを見比べた。

 私がこの方と笑うのは、彼が戻るまでの時間を埋めるためだと思っていたのかもしれない。そんなことを考えると、また少し胸が痛んだ。


「ずいぶん楽しそうだな。ついさっき、婚約を破棄されたばかりなのに」


 今度は、目を逸らさずにいられた。


「悲しかったです。リュカ様とここへ来る日を、ひと月も楽しみにしていましたから」


 彼の口元がわずかに緩んだ。

 それを見ると、続く言葉は思っていたよりもはっきり出た。


「でも、ヴィオレット様と来られて嬉しいんです。こんなふうに笑ってくださると、私も楽しくなります」


 隣から、そっと腕に手が添えられた。

 彼に分からせるために借りている笑顔ではなかった。さっきまで輪投げ屋の前で腹を立てたり笑ったりしていた、私が一緒にいたい人の手だった。


「母上のご機嫌を取るのが、君の目的なのか」

「リュカ」


 ヴィオレット様が息子の名を呼ばれた。


「私がここへ来たくて、来たのよ。ノエミさんが楽しそうなのも、私には嬉しい。それを、この子が何か企んでいるように言わないでちょうだい」


 リュカ様は、初めて叱られた子供のような顔をした。

 フロランス様が「お船の方が呼んでいらっしゃいます」と声をかける。彼はそちらを見て、また私たちへ向き直った。


「では、母上を送ったら、僕が戻るまで屋敷で待っていてくれ。話の続きは――」

「エマと御者が付き添ってくれていますから、ご心配なく。私は今夜のうちに、自分の家へ帰ります」


 明日以降のことは父を通して、と添えると、彼の眉が寄った。

 私はいつも彼の都合を聞いて、待つ時間を決めていた。今夜はもう、それをしなくてよかった。


「ヴィオレット様、もう一度お付き合いいただけますか。次はあの青い鳥がほしいんです」


 今度は、欲しいものをはっきり言えた。

 ヴィオレット様は台の鳥を見て、すぐに頷いてくださった。


「では私は、赤いくちばしの方。あんな近くにあるんですもの、届かないはずがないわ」

「そうですよね」

「ええ。今度こそ」


 私たちは同じ台へ戻った。

 背中へ何か言いかける声がしたけれど、続きは聞こえなかった。少しして見た桟橋には、もう彼の姿はなかった。


 * * *


 今度の輪も三本ずつ。

 提灯をエマに預け直し、私から投げることにした。一投目はまた外れたが、二投目は台の縁で一度跳ねて、赤いくちばしの鳥へすとんとかかった。


「入りました!」


 自分で叫んでから、取ったのがヴィオレット様の欲しがっていた方だと気づいた。

 私が勢いよく振り返ると、彼女はもう両手を合わせて喜んでくださっていた。


「ねえ、見た? エマさん、今のを見ていた?」

「はい、奥様。しっかり拝見しました」


 店主が台から外してくれた鳥を受け取り、私はそのままヴィオレット様へ差し出した。


「こちらは、あなたに」

「いいの? あなたが取ったのに」

「はい。欲しいとおっしゃっていたので、嬉しくて」


 小さな鳥が、手袋の上へ渡った。

 ヴィオレット様は両手に包んで、赤いくちばしを指で撫でる。それから私を見たとき、嬉しそうなのに少し泣きそうな、その顔を見ただけで、私まで胸がいっぱいになった。


「ありがとう。大切にするわ。では、次は私の番ね」


 彼女は鳥をエマへ預け、輪を持って台に向いた。

 一投目は外れた。二投目も、青い鳥の尾をかすめて落ちた。残る一本を両手で持ち直す姿が真剣で、私は思わず息を詰める。


「ノエミさん、そんな顔をしないで。私まで息が止まるわ」

「すみません。でも、お願いします。さっきのは本当に惜しかったです」


 二人で一度笑ってから、ヴィオレット様は最後の輪を投げられた。

 ふわりと飛んだ輪が、青い鳥の頭を越えた。片側が台に当たり、揺れて、それでも外れずに止まった。


 私たちは、お互いの手を掴んだ。


「取りましたね!」

「ええ、取れたわ! なんてこと、私にもできたのね」


 店主が笑いながら青い鳥を渡してくれる。

 それをヴィオレット様が私の手に載せてくださったとき、少し塗りの剥げた翼が、宝石より綺麗に見えた。


「あなたの分よ。連れてきてくれて、ありがとう」

「私こそ。来てくださって、ありがとうございます」


 もう一本残っていた私の輪も、最後に投げた。

 それは見事に台の向こうへ飛んでいき、二人とも笑いが止まらなくなった。急に名人になれたわけではなかった。それがなぜだか、取れた鳥をますます大切なものにしてくれた。


 * * *


 エマから提灯と赤い鳥を受け取り、川の見える広場へ出る頃には、夜空に最初の花火が上がっていた。

 母娘連れも、恋人同士も、幼い子供を肩車する父親も、同じ空を見上げている。私は青い鳥を外套のポケットへ入れ、空いた手でリボンを直した。


「あなたのご実家へは、私からもきちんとお話に伺うわ」


 花火の合間に、ヴィオレット様がそうおっしゃった。


「それから……別の日に、またお茶にいらしてくださる? あの子のことでお願いがあるのではないの。あなたとお話がしたくて」

「はい。私も、またお会いしたいです」


 答えると、彼女の顔が、赤い提灯の明かりの中でほころんだ。


「よかった。息子の婚約者でなくなったら、もう呼んではいけないのかしらと、少し怖かったの」

「それは、私も考えていました」


 あの玄関で別れてしまっていたら、きっと今頃、似たことを思いながら遠慮していただろう。

 私は彼女の袖にそっと触れた。これからもお会いしたいと、自分の口で言えたことが嬉しかった。


 大きな花火が開いた。

 ヴィオレット様が「あら」と声を上げて空を指し、私は急いで顔を上げた。二人で見逃しかけた光の端を追って、次はどちらから上がるのかと、肩を寄せ合った。


 リュカ様との婚約は、数日後、両家の手続きを経て正式に解消された。

 戻る気はないと父に伝えると、父は私の返事をそのまま先方へ届けてくれた。


 その翌週、ヴィオレット様から、お茶の招待状が届いた。

 丁寧な挨拶のあとに、いつもより小さな字が付け足されている。


『庭で練習してみたのだけれど、六本投げて、一つも入りませんでした。当日の才能は、どこへ行ってしまったのかしら』


 私は机の青い鳥を見た。

 返事を書く前に、まず笑ってしまい、それから羽根ペンを取る。


『私がお伺いするまで、上手にならないでくださいね。今度も一緒に、悔しがりたいので』


 封筒に、ヴィオレット様の外套に似た葡萄色の封蝋を落とした。

 お茶の日には空色のリボンを結んでいこう。そう決めて引き出しを開けると、今度は迷わず、いちばん手前から取り出せた。

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