「母の相手でもしていろ」と婚約破棄されたので、お義母様と夜祭りへ出かけました
「ノエミ、君との婚約は破棄する。今夜は母の相手でもしていろ」
リュカ様は、私ではない女性に腕を貸したまま、そうおっしゃった。
伯爵邸の玄関には、出発を待つ馬車が見えている。私は彼と夜祭りへ行くつもりでここへ来た。ひと月前に誘われてから、今夜のために空色のリボンを選び、刺繍を一針ずつ足していたのだ。
「……今夜、私とお出かけになるお約束でしたでしょう?」
「だから、予定が変わったと言っている。フロランスと船上の宴に招かれたんだ。婚約の話は、明日君の父上に使いを出すよ」
そんなふうに、訪問の時間を変えるような口調で言わないでほしかった。
隣の令嬢の真珠飾りが、夕日を受けて輝いている。私が彼に選んでいただこうとしたリボンには、「そんな小さなことで呼び止めるな」と、目も向けてもらえなかったのに。
「母は君とのおしゃべりを楽しみにしているから、寂しがらせないでくれ。そういうことは得意だろう」
胸が痛くて、すぐには腹も立たなかった。
お義母様とのお茶は好きだった。けれど、私は伯爵家のお話し相手になるために、リュカ様との結婚を望んだわけではない。
この一年、慣れない家に嫁ぐ私を案じてくれたのは、彼のお母様、ヴィオレット様だった。彼の帰りが遅い午後には刺繍を教えてくださり、私が布の裏を糸だらけにすると、ご自身の失敗した縫い目まで見せて笑ってくださった。
その時間を、今、余った用事のように私へ渡さないで。
「私の相手って、どういうこと?」
廊下から聞こえた声に、リュカ様が振り返った。
ヴィオレット様は濃紺の服を着て、玄関の手前に立っていらした。私たちを見送りに出てきてくださったのだろう。息子の腕にいる令嬢を見てから、私の顔へ視線を移される。
「ノエミさん、何があったの」
「婚約を破棄なさるそうです。今、そう伺いました」
口にすると、ようやく本当のことになった気がした。声が震え、指でつまんでいたリボンの端まで揺れた。
ヴィオレット様が息子へ向き直る。けれど、その言葉が出る前に、私は背筋を伸ばした。
「お受けします。明日、父からもお話をさせていただきます」
私を選ばなかった方へ、選んでほしいと縋ることはできなかった。ここで泣けば気を変えてくださるかもしれないと、ほんの少し考えてしまった自分まで、彼に見せたくなかった。
「そうか。話が早くて助かる。では母上、あとはノエミとゆっくりなさってください」
リュカ様は、面倒が片付いたような顔で馬車へ向かった。
車輪の音が門を出ていくまで、私は立ったまま聞いていた。あの馬車の隣の席を思い浮かべて過ごしたひと月が、ずいぶん長かったことを、今さら思い知った。
* * *
「ノエミさん。あの子のしたことを、私が謝って済むとは思わないけれど……本当に、ごめんなさい」
ヴィオレット様が私の手を取ってくださった。
ついさっきまで、手袋の指先がひどく冷たかった。その温かさにほっとして、困ったことに、涙が一粒こぼれた。
「私、今日を楽しみにしていたんです」
「ええ。知っているわ。そのリボン、先週も縫っていたものね」
見てもらえていた。
それだけのことが嬉しくて、私はもう一度泣きそうになった。ヴィオレット様は私の手を握ったまま、次の言葉を待ってくださった。
玄関の外には、私の実家の馬車が残っている。侍女のエマも、御者も、帰りの指示を待っていた。
このまま家へ帰って、祭りの花火を窓から眺めることはできる。きっと父も母も、好きなお菓子と温かい飲み物を用意してくれるだろう。それを思うと安心したし、家へ帰りたい気持ちもあった。
でも、今夜の川沿いには灯りが並ぶ。
先日、祭りの案内を二人で広げたとき、ヴィオレット様は、あの辺りの屋台の話をずいぶん楽しそうになさっていた。
「ヴィオレット様。今夜、私と夜祭りへいらっしゃいませんか」
握られた手の力が、ふっと緩んだ。
「……私と?」
「はい。歩いて見て回りたいんです。お話ししてくださった橋の向こう側まで」
「あなた、あの子に頼まれたことを気にしているなら、何もしなくていいのよ。私は一人でも大丈夫だから」
その気遣いが、かえって悔しかった。
私はこの方を、一人では何もできない可哀想な人だと思ったことなどない。刺繍のほどき方を知っていて、笑いを堪えると鼻に皺が寄って、甘いお茶には少しだけ渋い顔をする、大好きな方だった。
「ご一緒したいのは、私です。お嫌でなければ、今夜は私の遊び相手になっていただけませんか」
ヴィオレット様が瞬きをなさる。
それから、遠慮がちだった口元が、少しずつ上がった。
「それなら、一つお願いしてもいい?」
「もちろんです」
「川岸の輪投げ屋へ寄りたいの。あれは見ているだけじゃ駄目よ。あなたも投げるの」
思いがけないお願いに、私は泣いたばかりの顔で笑ってしまった。
「私、あまり上手ではありませんよ」
「私もよ。だから、夫とはいつも真剣勝負だったの」
三年前に亡くなった伯爵様のことを話す声が、今は弾んでいた。
私は彼女の手を握り返した。今夜を楽しみにする気持ちが、胸の痛みのすぐ隣に戻ってきている。
外出先と同行する方を実家へ知らせる使いを頼み、ヴィオレット様が支度をなさるのを待った。
ほどなく持ってこられた外套は、よくお召しになっていた灰色と、深い葡萄色の二枚。どちらがよいか尋ねられ、私はためらわず葡萄色を指した。
「祭りの灯りに、きっと綺麗です」
「あなたの空色とも似合いそうね。では、こちらにするわ」
玄関の鏡の前で並んだとき、私は初めて、今朝選んだリボンを見て笑えた。
* * *
川沿いには、すでに赤や黄色の提灯が揺れていた。
焼き栗の甘い匂いに、笛と太鼓の音が混ざっている。祭り見物の人たちがゆっくり流れる道へ下りると、ヴィオレット様は私の顔を覗き込まれた。
「先に灯りを買いましょう。迷子になったとき、目印にもなるわ」
手に提げる小さな提灯は、花や魚の形をしていた。
私は青い鳥に目を留めた。隣では、ヴィオレット様が赤い魚を選んでいらっしゃる。丸々と太っていて、正面から見ると、たいそう不満そうな口をしている魚だった。
「そちらがお好きですか?」
「この口がね、夫に起こされた朝の私に似ているの」
思わず吹き出すと、ご本人も魚を顔の横へ持ち上げて笑われた。
大きな声で笑ったあと、私は反射的に周りを見た。リュカ様がそばにいると、声を落とせと注意される癖がついていたのだ。
けれど、今は魚の提灯を持った方が、もっと私を笑わせようとしている。
私はもう一度その口を見て笑い、青い鳥の竿を受け取った。
輪投げ屋は、橋を渡った先にあった。
少し離れた台の上に、木彫りの動物が並んでいる。輪は三本一組で、欲しいものへ輪がすっぽりかかれば、その品を持ち帰れるらしい。
「昔は、あの奥の大きな馬を狙ったものだわ」
「取れましたか?」
「一度も。夫も一度も取れなかったのに、帰る頃には二人とも、名人になったつもりだったわね」
提灯を二つエマへ預け、私たちは三本ずつ輪を受け取った。
ヴィオレット様の一投目は、台の手前へ落ちた。私の一投目は、奥へ飛びすぎた。お互いの投げた輪を見て顔を合わせ、二投目には笑わずに構えたのに、今度は二人揃って台の同じ脚へ引っかけてしまった。
三本目まで投げても、台の動物は一つも減らなかった。
立派な伯爵夫人と、その息子に婚約を破棄された子爵令嬢が、輪を六本使って何も取れずにいる。けれど、ヴィオレット様は悔しそうな顔を隠そうともなさらない。
「今のは、もう少しだったわ」
「私もです。あの鳥の頭に、確かに触りました」
「ええ、触っていたわ。二人とも、惜しかったのよ」
私たちはお互いを励まして、それから、どちらからともなく笑った。
「母上?」
聞き慣れた声が、太鼓の音の切れ間に入った。
振り向くと、リュカ様が道の向こうに立っている。船上の宴の桟橋はすぐ先で、まだ乗船を待つ客が列を作っていた。フロランス様も、数歩後ろからこちらを見ていらっしゃる。
エマが提灯を持って私たちの脇へ戻り、私には青い鳥を、ヴィオレット様には赤い魚を渡した。
リュカ様の視線が、その魚から、お母様の葡萄色の外套へ移る。
「どうしてこんな所に。ノエミ、母には家で休んでもらうよう頼んだだろう」
「私の相手を、とおっしゃったのでしょう。家から出るなとは聞いていないわ」
ヴィオレット様が先に答えられた。
息子を責め立てる声ではなかった。けれど、赤い魚を持った手は少しも下がらない。
「そういう意味ではなくて。ノエミも、母を連れ出してまで何をしているんだ」
「私からお誘いしました。輪投げを教えていただきたくて」
「君まで輪を外していたじゃないか」
「はい。二人とも、本気なのに難しくて」
悔しくなって台の鳥へ目をやると、ヴィオレット様が肩を揺らした。
「だから、真剣勝負になると言ったでしょう?」
「ええ。でも、次は取ります」
リュカ様が黙って私たちを見比べた。
私がこの方と笑うのは、彼が戻るまでの時間を埋めるためだと思っていたのかもしれない。そんなことを考えると、また少し胸が痛んだ。
「ずいぶん楽しそうだな。ついさっき、婚約を破棄されたばかりなのに」
今度は、目を逸らさずにいられた。
「悲しかったです。リュカ様とここへ来る日を、ひと月も楽しみにしていましたから」
彼の口元がわずかに緩んだ。
それを見ると、続く言葉は思っていたよりもはっきり出た。
「でも、ヴィオレット様と来られて嬉しいんです。こんなふうに笑ってくださると、私も楽しくなります」
隣から、そっと腕に手が添えられた。
彼に分からせるために借りている笑顔ではなかった。さっきまで輪投げ屋の前で腹を立てたり笑ったりしていた、私が一緒にいたい人の手だった。
「母上のご機嫌を取るのが、君の目的なのか」
「リュカ」
ヴィオレット様が息子の名を呼ばれた。
「私がここへ来たくて、来たのよ。ノエミさんが楽しそうなのも、私には嬉しい。それを、この子が何か企んでいるように言わないでちょうだい」
リュカ様は、初めて叱られた子供のような顔をした。
フロランス様が「お船の方が呼んでいらっしゃいます」と声をかける。彼はそちらを見て、また私たちへ向き直った。
「では、母上を送ったら、僕が戻るまで屋敷で待っていてくれ。話の続きは――」
「エマと御者が付き添ってくれていますから、ご心配なく。私は今夜のうちに、自分の家へ帰ります」
明日以降のことは父を通して、と添えると、彼の眉が寄った。
私はいつも彼の都合を聞いて、待つ時間を決めていた。今夜はもう、それをしなくてよかった。
「ヴィオレット様、もう一度お付き合いいただけますか。次はあの青い鳥がほしいんです」
今度は、欲しいものをはっきり言えた。
ヴィオレット様は台の鳥を見て、すぐに頷いてくださった。
「では私は、赤いくちばしの方。あんな近くにあるんですもの、届かないはずがないわ」
「そうですよね」
「ええ。今度こそ」
私たちは同じ台へ戻った。
背中へ何か言いかける声がしたけれど、続きは聞こえなかった。少しして見た桟橋には、もう彼の姿はなかった。
* * *
今度の輪も三本ずつ。
提灯をエマに預け直し、私から投げることにした。一投目はまた外れたが、二投目は台の縁で一度跳ねて、赤いくちばしの鳥へすとんとかかった。
「入りました!」
自分で叫んでから、取ったのがヴィオレット様の欲しがっていた方だと気づいた。
私が勢いよく振り返ると、彼女はもう両手を合わせて喜んでくださっていた。
「ねえ、見た? エマさん、今のを見ていた?」
「はい、奥様。しっかり拝見しました」
店主が台から外してくれた鳥を受け取り、私はそのままヴィオレット様へ差し出した。
「こちらは、あなたに」
「いいの? あなたが取ったのに」
「はい。欲しいとおっしゃっていたので、嬉しくて」
小さな鳥が、手袋の上へ渡った。
ヴィオレット様は両手に包んで、赤いくちばしを指で撫でる。それから私を見たとき、嬉しそうなのに少し泣きそうな、その顔を見ただけで、私まで胸がいっぱいになった。
「ありがとう。大切にするわ。では、次は私の番ね」
彼女は鳥をエマへ預け、輪を持って台に向いた。
一投目は外れた。二投目も、青い鳥の尾をかすめて落ちた。残る一本を両手で持ち直す姿が真剣で、私は思わず息を詰める。
「ノエミさん、そんな顔をしないで。私まで息が止まるわ」
「すみません。でも、お願いします。さっきのは本当に惜しかったです」
二人で一度笑ってから、ヴィオレット様は最後の輪を投げられた。
ふわりと飛んだ輪が、青い鳥の頭を越えた。片側が台に当たり、揺れて、それでも外れずに止まった。
私たちは、お互いの手を掴んだ。
「取りましたね!」
「ええ、取れたわ! なんてこと、私にもできたのね」
店主が笑いながら青い鳥を渡してくれる。
それをヴィオレット様が私の手に載せてくださったとき、少し塗りの剥げた翼が、宝石より綺麗に見えた。
「あなたの分よ。連れてきてくれて、ありがとう」
「私こそ。来てくださって、ありがとうございます」
もう一本残っていた私の輪も、最後に投げた。
それは見事に台の向こうへ飛んでいき、二人とも笑いが止まらなくなった。急に名人になれたわけではなかった。それがなぜだか、取れた鳥をますます大切なものにしてくれた。
* * *
エマから提灯と赤い鳥を受け取り、川の見える広場へ出る頃には、夜空に最初の花火が上がっていた。
母娘連れも、恋人同士も、幼い子供を肩車する父親も、同じ空を見上げている。私は青い鳥を外套のポケットへ入れ、空いた手でリボンを直した。
「あなたのご実家へは、私からもきちんとお話に伺うわ」
花火の合間に、ヴィオレット様がそうおっしゃった。
「それから……別の日に、またお茶にいらしてくださる? あの子のことでお願いがあるのではないの。あなたとお話がしたくて」
「はい。私も、またお会いしたいです」
答えると、彼女の顔が、赤い提灯の明かりの中でほころんだ。
「よかった。息子の婚約者でなくなったら、もう呼んではいけないのかしらと、少し怖かったの」
「それは、私も考えていました」
あの玄関で別れてしまっていたら、きっと今頃、似たことを思いながら遠慮していただろう。
私は彼女の袖にそっと触れた。これからもお会いしたいと、自分の口で言えたことが嬉しかった。
大きな花火が開いた。
ヴィオレット様が「あら」と声を上げて空を指し、私は急いで顔を上げた。二人で見逃しかけた光の端を追って、次はどちらから上がるのかと、肩を寄せ合った。
リュカ様との婚約は、数日後、両家の手続きを経て正式に解消された。
戻る気はないと父に伝えると、父は私の返事をそのまま先方へ届けてくれた。
その翌週、ヴィオレット様から、お茶の招待状が届いた。
丁寧な挨拶のあとに、いつもより小さな字が付け足されている。
『庭で練習してみたのだけれど、六本投げて、一つも入りませんでした。当日の才能は、どこへ行ってしまったのかしら』
私は机の青い鳥を見た。
返事を書く前に、まず笑ってしまい、それから羽根ペンを取る。
『私がお伺いするまで、上手にならないでくださいね。今度も一緒に、悔しがりたいので』
封筒に、ヴィオレット様の外套に似た葡萄色の封蝋を落とした。
お茶の日には空色のリボンを結んでいこう。そう決めて引き出しを開けると、今度は迷わず、いちばん手前から取り出せた。
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