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ジャングルブッキング

作者: Ono
掲載日:2026/03/05

 足の踏み場を探すことさえ、もはや高度なパズルゲームだった。

 身動きすればティーンズ向けコミックの新刊が雪崩を起こし、その下から自然科学の分厚い学術誌が地肌のように顔を出す。音楽レビュー誌のバックナンバーという飛び石を避けながらなんとか進めば、うっかり踏んでしまったレトロゲームの分厚い攻略本がむぎゅっと悲鳴をあげた。

「……熊沢さん、ありましたよ。お望みの『図説ケルト~大陸と島の境界、宗教と美術~』です」

 積み上げられた多種多様な書籍の生態系、広がる大森林の向こう側へ声をかける。返ってきたのはもそもそとシーツの擦れる音と、眠たげな「んー」という鼻声だった。

 私はため息をつき、発掘した資料の埃を払う。まったく、喘息だったらできない仕事だ。


 ここは売り出し中の女子高生作家、熊沢(くまざわ)和香(のどか)の自室兼執筆拠点である。

 彼女は「一歩たりとも家の外には出たくない」という強烈な引きこもり願望を持っている。そしてそれを叶えるために、あらゆるジャンルの資料を買い漁り、いつでも確認できるよう部屋の中に集めたのだ。

 結果として熊沢の部屋は図書館要らずの蔵書の森となったが、同時に人外魔境のジャングルの奥地で物語の鍵となる資料が迷子になってもいた。

 整理整頓からは程遠い有様を見てもう一度ため息をつく。


「本当に、よくこれだけ集めましたね」

「儲かってるから」

 ストレートな言葉に笑いそうになる。

 新人編集者である私が彼女の担当に指名された理由は至極単純だった。編集長自らなんとか近くの喫茶店まで引っ張り出して取りつけた交渉の席で熊沢が放った「編集さんが男性だったら契約やめます」という一言、つまりは消去法的に私が白羽の矢を立てられたのだ。

 引きこもりかつ男性を嫌がる女子高生作家。当初はきっと現代的な繊細で壊れやすい感性の持ち主なのだろうと身構えていた。だが、蓋を開けてみればなんてことはない。

 彼女は単に「異性に散らかった部屋を見られたくないし、そのために片づけるのも面倒くさい」という、筋金入りのずぼらなだけだった。……ある意味、私に向いている仕事だった。


「……いとさん、お疲れさま。そこ、お茶置いてあるから」

 シーツに包まって枕元にノートパソコンを置き、ぼさぼさ頭の熊沢がのんびり顔を出した。

 私は姓を貝取(かいとり)というが、彼女は私のことを関西弁のようなイントネーションで「いとさん」と呼ぶ。熊沢はべつに関西人というわけではない。だから私は、そう呼ばれるたびに少し動揺してしまう。

 仕事は早い。催促しなくても原稿はあがってくる。多少意見が対立することもあるが、こちらの要望にも基本的には柔軟に応じてくれる。編集者としてはこれ以上なくありがたい作家だ。

 だから私はいつの間にか、担当編集というよりはこの森の管理人、あるいは探検隊のガイドのようになっていた。


 よそよそしかった初対面を思い出せないほど、今では交わした言葉が増えていた。

 彼女の書く物語の鋭さと、目の前で着古したジャージのままごろごろする少女の無防備さ。そのギャップに私もいつしか心地好さを感じているようだった。


「あ、そうだ。これ」

 不意に熊沢が銀色の小さな何かを差し出した。冷たい金属の感触。ここ、彼女の家の鍵だった。

「予備の合鍵ですか?」

「ううん、マスターキー」

「えっ!?」

 思わず取り落としそうになった鍵を慌てて握り直す。落としたら終わりだ、資料に埋もれさせるわけにはいかない。

「受け取れません。それはさすがに行き過ぎていると思います。私がくる時は事前に連絡を入れますし、他人に容易く鍵を預けちゃだめですよ」

 至極まっとうな担当としての、あるいは大人としての倫理観でそう諭すと、熊沢はなぜか気まずそうに視線を逸らした。彼女の頬がほんのりと染める。


「いとさんだったら、勝手に入ってくれていいし。っていうか」

 彼女は消え入りそうな声で、けれどはっきりと続けた。

「……っていうか、うちに住んでてもいい」

 部屋を埋め尽くす紙の匂いが急に濃くなった気がした。乱雑な文字の群れが混ざり合って私を目眩の中に突き落とす。

「熊沢さん、それは……」

 それは。言葉が詰まった。


 彼女の視線が、私の手元にある鍵と私の瞳を往復する。

 仕事の相手、年下の友人、私はただの片づけ係。自分の立場が分からなくなっていく。熱を帯びた彼女の言葉によって見えていたはずの形が崩れる。

 野放図に広がった知識の森で境界線を越えさせるのは、いつだって原始的な欲だった。このまま彼女の手をとって、ジャングルの奥へと連れ去られてしまいたくなる。


 鍵を握りしめて彼女の隣にそっと腰をおろす。線なんて始めからどこにも引かれていないことを、本当はとっくに知っていた。

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