8話
8話という名のエピローグです。
「お目覚めですか、お嬢様。本日はどのようにお過ごしになられますか?」
侍女が開け放ったカーテンの向こう側、快晴に恵まれた長閑な日常。本当に……時間が進んだのだわ。信じていなかったわけではないけれど、三年前の入学式の朝ではない、真っさらな明日が本当に訪れたのだと、そう強く実感して……思わず涙ぐんでしまったわ。
昨日は日記を書かなかった。いえ、書く必要がないと思ったの。ループが終わり、ヒロインのことやゲームのことを考えなくてもいいのだと、気づいたから。もう、あの日記を開くことはない。
新しい日にふさわしい、新しいドレスに袖を通す。わたくしも、生まれ変わった気持ちだわ。
予想通り、父は王宮からのお呼び出しを受けて朝早く馬車を走らせた。訝しげな表情で御者に指示を出す父を、笑顔で見送る。あんな父でも、自分の欲よりも政治的判断を優先すると信じたいわね。まぁ、あとのことは陛下にお任せましょう。きっと良きようにしてくださるわ。
「失礼いたします。ローレンス・リヴァーサイド様がご到着になりました。予定通り、お庭にご案内してもよろしいですか?」
「えぇ、ありがとう。話が長くなると思うから、追加の軽食を用意させておいてちょうだい。あの方は確か……マドレーヌがお好きだったわ」
柔らかな日差しの中、庭の東屋に足を向ければ、昨日ぶりにお会いするレン様が、眠そうなお顔でわたくしを出迎えた。
「やぁ、おはよう」
「おきげんよう、レン様。すでにお昼近いですわよ? あまり……眠れなかったのですか?」
身体的な疲労、というよりは、気疲れといったところかしら? 猫のように全身を順番に伸ばしていらっしゃるわ。その姿に思わず笑ってしまうけれど、そうね、まずはひと息つきましょうか。
テーブルには甘味を中心に軽食を並べ、わたくしは紅茶を、レン様はコーヒーを、それぞれ口にする。以前、紅茶よりもコーヒーのほうが飲みなれていると伺っていたから、念の為用意しておきましたけれど……どうやら、今の彼には必要なものだったみたいね。マドレーヌとコーヒーを交互に味わうレン様のお顔から、徐々に疲労の色が消えていくわ。
「はぁ〜……生き返った〜」
「まぁ、ずいぶんと大げさですわね。王宮では、もっと質の良いものを召し上がれていたのではないの?」
「ん〜。そうかもしれないけどさ、俺、別にグルメってわけじゃないしな。毎日コース料理出されても困るっつうか、飽きるっつうか……」
贅沢な悩みですわねぇ。続けてレン様が食べたいと列挙した、外の世界の食べ物と思われる名前の数々に、あまり聞き覚えはなかったわ。市井に降りればドーナツはありますけれど、ギュウドンはないのではないかしら。
「レン様がレシピをご存知であれば、再現はできるのではなくて?」
「あぁ、いいね! 俺、料理はできないけど、資料として料理のレシピは集めさせられたことあるから、いける気がしてきた!」
マドレーヌとサンドイッチを食べきった辺りで、ようやく彼の手が止まる。昨日仰っていた「食べる時に食べておけ」というのは、王宮の普段の食事が、口に合わなかったという理由も含まれていたのかもしれないわね。そう考えながら、カップの縁を指でなぞる。長かったけれど、目まぐるしかった十六回分のループに思いを馳せ、そして、記憶の中のしめ鯖嬢にたどり着く。
目の前にいる男性とは似ても似つかない彼女。でも、彼の仕草や語り口にしめ鯖嬢を垣間見る。
「本当に……ループは終わりましたのね。もう二度と……あの三年間を繰り返すことはないのだわ」
「メアリーはさ、未来に進んだこと、後悔してる?」
レン様の問に首を振る。これは後悔ではなく郷愁ですもの。戻れない日々を思い、懐かしむ気持ちを、あの三年間に対して抱くことができたのだと、そう気づいたの。
「そう、それなら良かった」
ほっとした笑顔を見せる彼に、わたくしも笑顔を返す。お互いに、思い出話としてあの頃を語れるようになったのよ。
「それでは、本題に入りましょうか。レン様には、わたくしの疑問に答えていただきたいのだけど、まずは……あなた、死んでしまったの?」
「なるほど、まずはそこか。……正直な話、確信はない」
「どういう意味ですの?」
レン様は明確な死の瞬間を、自覚していらっしゃらないと仰る。突然死、というものなのかしら……。
「ヒロインを追い出したところまでは、しっかりと覚えていらっしゃる、と。……待ってちょうだい。あなた、あの時に死んだと仰るの!?」
「多分ねぇ。あの日は朝から積乱雲がどうのこうのって同僚が嘆いててさ、また帰れないのかよ! としか考えてなかった。ずっと雷が鳴ってて、近場で局所停電? があったって、皆騒いでたなぁ。ゲームにログインする直前に、めちゃくちゃ近くに落ちてビビったのは覚えてる」
わたくしが、ペンダントを返してもらおうと声をかけた時に、レン様の反応が遅れたわ。まさか……その時に?
「雷に打たれたと、そう仰るの?」
「挙動チェック用のボロいVRゴーグル使ってたからなぁ。漏電とか、感電とか、余裕でありえそう。雷って金属を移動するじゃん? イキってシルバーアクセとかつけとくんじゃなかったなぁ」
どこまでも軽い物言いに、ことの深刻さが見合わないわよ。レン様が覚えていない以上、真偽は定かでないけれど、彼がこちらで数日過ごしてみて、あちらに帰れないのだと結論付けたというのなら、それを信じるしかないわ。
「あなたの生死については、一旦飲み込みますわ。仮に死んでいたとして、なぜ、この世界に生まれ変わるなどということができますの? あまりにも……都合が良すぎるのではなくて?」
「それは俺も同じこと思ってるよ。メアリーはさ、神様って本当にいると思う?」
またこの方は……突拍子もないことをおっしゃるのだから。そもそも、この世界を作り出した外の世界の住人であるあなた方が、創造主といっても過言ではないのよ。そういった意味では、神はいるわね。
「俺ね、あの問題児に垢BAN宣告したら、メアリーに謝るつもりだったんだ……」
話が変わった、というわけではなさそうね。さきほどの問も今の告白も、独り言に近いのだわ。テーブルの上で組んだ己の指先を見つめながら、レン様の独白は続く。
「メアリーのキャラ依存バグの原因は、外部ツール使用のチーター行為の干渉による、学習リセットの阻害だって、結構早めに突き止めてたんだ。でもそれは簡単には直せなくて。迷路イベで約束した時は、メアリーのAIごと仮想空間を別サーバーに避難させようと思ってたんだ。金はかかるけど、やる価値はあるって上に直談判したりしてさ。まぁそれも、サ終が先に決定しちゃって、無駄になったんだけどね」
レン様は、本当に、わたくしのために考えうる全てのことを実行してくれていたのだと、実感する。相変わらず言葉の意味は所々分からないけれど、それでも、彼の熱意は伝わるものよ。
「サ終のお知らせを出す前に、プレイ中の違反ユーザーへ事前に宣告したほうがいいっていう意見が社内で出てさ、まぁ、ようは恨みをぶつけたいだけなんだけど。メアリーに会いにいくついでに、俺がやればいいかと思って手を挙げたんだ。そしたらちょうど、あの断罪イベント中だった」
「あの時は、本当に驚きましたわ。それまで一度も見たことのない男性が突然現れたのですもの。不審者かと思いましたわ」
わたくしの冗談を聞いたレン様が、やっと顔を上げてくださいましたわ。そして、笑ってくださいましたね。普段、軽薄な笑みでこちらを翻弄するような方が、気落ちしている様子は胸を痛めてしまうわよ。あなたがわたくしと交わした約束を守れないと悔いていたことは、十分に伝わりましたわ。
「まぁそれで、やることやったから謝らないとなって思ってたところで……」
「死んでしまったのですね」
「多分ね。目の前が眩しかったような暗かったような、よく分からない状態になって、ゴーグルが壊れたのかと思ってたら、神様に会ったんだ」
なるほど、ここで神が出てくるのですね。「正確には神様っぽいものがいた」という、また曖昧なことを仰る。もう、ここまで明確な答えがひとつもないじゃないのよ。
「昼寝とかしてるとさ、夢なのか現実なのか分からない時ない? 俺はあるよ。デスクで仮眠とってたら同僚が話しかけてきて返事したのに、起きたら同じこと言われて意味わからんってなった。そんな感じでさ、なんか偉そうなやついるなぁってぼんやりしてたら、どこ行きたい? って聞かれたんだよね」
「それで、レン様はこの世界を選びましたの?」
「そりゃあだって、メアリーに謝ってないし」
本当に、なんでもないようなことのように言ってのけるわね。生まれ変わった今の状況を考えると、これはとても大事な選択をしたのではないの? それをこの方は、こんなに簡単に決めてしまって……。
「なんかご大層なこと言ってた気がするけど、覚えてないんだよね。生まれ変わりもあとからそうなんじゃないかって察した感じ。まぁなんか、神様の間でそういうの流行ってんじゃない? 分かんないけど」
「まったく……生まれ変わりでなかったら、どうするおつもりでしたの?」
この方のお話は、全てが結果論だわ。「結果良ければってやつだよ」などと笑っていらっしゃるけれど、それは良い方向に収まったから言えることなのよ。もう少し、慎重に行動していただけないものかしら。本当にもう、心配が尽きないわよ。
「まぁいいじゃん。俺がこの世界を選んだおかげで、俺は約束を守れたし、メアリーは婚約白紙にできたし」
「そうですわ! 婚約白紙のお話を陛下から伺う前に、あなたはわたくしにサプライズプレゼントと仰いましたわね? あれは婚約のお話のことでしたの?」
思わず腰を浮かせてしまったわよ。忘れていたわけではないわ。でも後回しにしてもいい疑問だったから、頭の片隅に追いやっていたのよ。
「あれね、あれは実は不可抗力。俺がこの世界に生まれ変わった影響なのか、国が勝手に雑草みたいに生えててさ、まいったよ。しかも、その余波っていったらいいのか分かんないけど、同盟関係にヒビ入っちゃった。だから責任取って解決策を提案したんだけど……。メアリーは、婚約続けたかった?」
「婚約についてはあれで良かったと思っていてよ。それよりも、突然、聞いたことのない国が出てきた理由が、あなたに由来すると聞けて良かったわ」
色々と不明な点はあるけれど、本人が知らないのであれば、追求しても仕方ないわ。そういうものと、飲み込むしかなさそうね。世界に綻びが出るとして、それはまだ、時間がかかりそう。
「それで、わたくしに伝えるべきことはお終い?」
「いや? 晴れて自由になったとあるご令嬢に、リヴァイラ国第二王子との縁談を持ちかける予定なんだけど。メアリーはどう思う?」
意地の悪い笑みを浮かべて、レン様はわたくしの反応を伺う。あなたの思惑通り、とても、とても驚いていてよ。なんなのです、この方は! いつまで経っても、ろくでもないことしかしでかさないんだから!
「……冗談でしょう?」
「さぁ? 王様とか何人かには“一目惚れした”って言っといたけど?」
陛下になんてことを伝えてるのよ……。まさか会談中にそんな話をしていないわよね? 何人かとは、どなたのことを指しているの!?
「それにほら。俺のマナーがヤバいの、メアリーが一番分かってるでしょ。俺専属の、先生になってよ」
「……まだまだお伺いしなければならないことが、たくさんありそうですわね。あなたの縁談は一旦聞かなかったことにいたしますわ」
「え〜? 残念だなぁ。まぁ、メアリーが俺のこと男として見てないのは知ってるけどね。ねぇ、俺、子供じゃないからね?」
見上げた空が、とても青いですわ……。
追加されたマドレーヌを頬張るレン様は、言い切ったとばかりに、さっぱりとしたお顔をされている。苦悩しているのは、わたくしだけということですか。本当に、腹立たしいわね。
「もう振り回されるのはごめんだわ。これからは……わたくしも、物申させていただきますので、覚悟なさいませ」
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




