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金色のおかゆ

作者: シガ
掲載日:2025/12/03

 夜明け前の台所は、まだ冷たい。 小さな鍋の中で米がふつふつと踊り、やわらかな香りが立ちのぼる。 祖母が木の杓文字でゆっくりかき混ぜるたび、湯気が白い雲のように広がり、眠そうな猫がその匂いに鼻をひくつかせた。


「おかゆはね、心をあたためるんだよ」


 祖母はそう言って、鍋のふちに杓文字を軽く当てた。 その音は、まるで遠い鐘のように響いて、まだ夢の中にいる少年の耳に届いた。少年は布団から顔を出し、ぼんやりと台所を見つめる。 そこには、ただの朝食ではなく、何か特別な予感が漂っていた。


少年は布団の中で身じろぎした。冷たい空気が頰を撫でるたび、夢と現実の境目が少しずつ溶けていく。


「おっきくなったねえ、もうすぐ十三になるんだろ」


 祖母は振り向きもせずに言った。背中越しでも、笑っているのがわかる。鍋の湯気が、朝の薄闇をゆっくり溶かしていく。白い息のようなそれが、台所の梁にからまり、古い時計の針をぼんやりと隠してしまう。時計はもう何年も止まったままだ。祖母は「動いてる時計より、心の時計が大事だよ」と言うけれど、少年にはそれが少し寂しかった。針が止まっても、季節だけは確かに進んでいくのだから。止まらないのだから。


「ほら、もうすぐできるよ。今日はね、特別なおかゆだ」


特別。


その言葉に、少年の胸がざわめいた。


 去年の冬、祖父が亡くなって以来、祖母は毎朝同じようにおかゆを作っている。でも「特別」と言うのは、今日が初めてだった。それだけで、足元に絡みつく冷気が、ほんの少しだけ柔らかくなる気がした。一体何が、どう特別なんだろう?お粥に何か入れるのか?それとも、調理方法が違うのか? 


 少年は布団を抜け出し、裸足で畳を踏んだ。冷たさが足の裏から背中まで伝わる。台所に近づくにつれ、米の甘い香りが濃くなり、鼻の奥がくすぐったくなった。


鍋の前に立つと、祖母が小さく微笑んだ。目尻のしわが、朝の光に銀色に輝いている。


「手を出しな」


 言われるままに両手を差し出すと、祖母は小さな木の椀に、湯気の立つおかゆをよそった。

普通のおかゆとは、どこか違う。


 白い表面に、ほんのりと金色が浮いている。まるで夜明けの光がそのまま米に閉じ込められたみたいだ。匙を入れると、不思議と音がしない。吸い込まれるように柔らかいのに、一粒ずつが澄んだ月の雫のように光っている。


「ばあちゃん、これ……」

「お前のおじいちゃんが、昔、山で拾ったお米だ。たったひと握り分、特別なお米さ」


 祖母は少し声を低くした。少年は息を飲んだ。祖父は山の猟師だった。ある雪の朝、深い森の奥で、光る米の穂を見つけたという。祖父は大事に大事に持ち帰り、土間に小さな壺にしまっていた。それきり、誰も触っていないはずだった。


「なんで……今?」


祖母は静かに答えた。


「お前が、もうすぐあの年頃になるからさ。十三になるとね、人の目に見えないものが見えるようになる子がいる。おじいちゃんも、そういってたなぁ.....」


少年は椀を見つめた。おかゆの表面が、小さく波打っている。まるで、生きているみたいに。


「食べな。これを食べたら、お前はきっと――」


祖母の言葉は、そこで途切れた。


 いつの間にか眠ってしまったんだろうか?周りを見渡すと、おばあちゃんはもういない。外が、急に明るくなった。窓の外、夜明け前の空が、ありえない色に染まっていた。それは、少年が一度だけ夢で見た色。


 深い青と金と、どこか哀しみを帯びた紫が、溶け合うような、忘れられない色。猫が急に背中を丸め、低く唸った。


 おかゆの湯気が、ゆっくりと人の形になり始めている。少年は椀を握りしめた。指先が熱い。心臓が、鍋の米のようにふつふつと踊り出す。


――これを口にしたら、もう戻れない。


 でも、少年は知っていた。祖母の目を見たとき、すべてを。だから、震える唇を椀に近づけた。

その瞬間、台所の時計が、何年ぶりかで、かすれた音を立てて動き始めた。


カチッ。


カチッ。


まるで、時間がようやく目を覚ましたように。止まっていた少年の時間が、今、確かに動き出すように。


カチッ、カチッ――。


止まっていた時計の音が、台所の空気を震わせるたび、少年の胸の奥で何かが目覚めていく。


 椀の中のおかゆは、もうただの食べ物ではなかった。 金色の光が波紋のように広がり、湯気の人影がゆっくりと形を整えていく。 それは、祖父の姿だった。


「……じいちゃん?」


少年の声は震えていた。


 湯気の祖父は、にこりと笑った。 その笑みは森で獲物を見つけたときの、あの誇らしげな顔に似ていた。


「よく来たな。大樹。これを食べる勇気を持つとは」


大樹――その響きは、深い谷の向こうから聞こえる風の声のように、どこか懐かしい。


「この米は、ただ光るだけじゃないぞ。食べた者に、森の声が聞こえるようになる。風の囁きも、獣の心も、木々の記憶も。だが、それは同時に試練でもあるんだ。聞きたくない声まで、聞こえてしまうからな、はっはっは」


 少年は椀を握りしめたまま、息を呑んだ。 猫が低く唸り、背中の毛を逆立てる。 外の空はさらに濃く染まり、紫の雲が渦を巻いていた。


祖父の影は、少年の目をまっすぐ見た。


「さあ、選べ。食べれば、もう戻れない。だが、戻らないからこそ見える世界がある。お前の心の時計は、もう動き始めているんだよ」


少年は唇を椀に近づけ、ついに一口すくった。


――その瞬間、台所の壁が消えた。 目の前に広がったのは、雪深い森。 木々の間から、無数の声が重なり合って響いてくる。 鳥の歌、獣の息、風の囁き、そして――人の声。


「ようこそ、森の時へ」 祖父の影が、森の奥へと導くように手を差し伸べた。


 口の中の米は、舌の上で溶け、甘い光となって喉を通っていく。 それは祖母の笑顔のように温かく、祖父の大きな手のように力強かった。


 甘い。でも、それはただの甘さではなかった。雪の匂い、苔の冷たさ、遠い雷の記憶、そして誰かの涙の味までが、一粒一粒に詰まっている。


視界が歪んだ。台所はもうどこにもない。


 足元は、膝まで埋まる新雪。吐く息が白く凍り、木の枝に小さな氷の花を咲かせる。

森は、生きていた。


「聞こえるか?」


 祖父の声が、すぐ横からではなく、木の幹から、雪の下から、風の隙間から、同時に響いた。

少年は耳を澄ました。


――おかあさん、どこ……

――腹が減った……

――また人間が来た……

――逃げろ、逃げろ……

――あの匂い……血の匂い……


無数の声が、頭の中で渦を巻く。


 獣の、鳥の、木の、人の。生まれたばかりの子鹿の最初の鳴き声と、百年生きて枯れゆく杉の最後のため息が、同じ瞬間に耳を打った。


少年は膝をついた。両手で耳を塞いでも、声は止まない。


 胸の奥が、引き裂かれるように痛い。自然の至る所で、悲劇と喜びが同時に起きていることを感じた。

その痛みは、自分の痛みだった。他の生命の痛みだった。自分自身の命と、他者の命が、皮膚の一枚向こうで地続きになっているのだ。


――怖い。


 怖くて当然だと、少年は思った。これほど多くの生命が、互いに噛み合い、引っ張り合い、支え合いながら存在しているなんて。


すると、祖父の影が、少年の肩に手を置いた。


「怖いか?怖いなら、戻ってもいい。このおかゆをこれ以上食べず、茶碗を離せば終わる」


少年は影を見上げ、首を振った。


怖い。でも、それ以上に――


「……みんな、寂しがってた。誰にも気づかれずに、ずっと独りで泣いてた。俺にはその声が、ちゃんと聞こえる。今は、その声をもっと聞きたい」


 少年は椀を見た。残り少ないおかゆが、淡く光っている。

それを、ぐっと飲み干した。森が一瞬、静かになった。


 風が止み、雪が舞うのをやめた。遠くで、狐が首を傾げた。烏が一羽、少年の頭上をゆっくり旋回する。

祖父が微笑んだ。影なのに、その笑みはとても暖かかった。


「いい子だ、大樹。君が最初に救うのは、自分の孤独かもしれないな」


少年は立ち上がった。足が震えている。でも、もう逃げたくなかった。


「じいちゃん……俺、どうしたらいい?」


 祖父は答えない。代わりに、雪の奥から小さな影が駆けてきた。子鹿だった。左の後ろ脚を引きずり、血の跡を残しながら、それでも必死に走ってくる。その背後から、銃声が響いた。耳を貫く鋭い音。


雪が跳ね、子鹿が転がった。少年の耳に、子鹿の最後の声が突き刺さる。


――おかあさん……


少年は走り出した。雪を蹴り、息を切らし、子鹿に駆け寄る。まだ息があった。瞳が、少年を見上げている。


「大丈夫だよ……俺が……」


 でも、どうすればいいのかわからない。ただ、震える手で子鹿の首を抱きしめることしかできなかった。

そのとき、背後から別の足音。振り向くと、そこにいたのは――


 自分と同じ年頃の、少女だった。山吹色の頭巾に、頬が冷たさで赤く染まっている。

手に持ったのは、古い猟銃。


少女は、少年を見て、目を丸くした。


「……あんた、大丈夫?怪我はない?」


 その声は、森の声とは違う。口から発せられた、確かな人の声だった。少女を困惑した表情でジッと見つめると、少年は気づいた。少女の瞳に、自分と同じ金色の光が揺れている。


二人は、同時に呟いた。


「「……同じ、米を食べたの?」」


雪が、また降り始めた。子鹿の息が、だんだん弱くなっていく。森は、二人に問いかけていた。


――おまえたちは、どうする?


時計の針は、もう止まらない。カチッ、カチッ、と音を立てながら、新しい朝が、確かに動き始めていた。


 雪の中で、子鹿の息は細く、細くなっていく。 少年の手の中で、その命の灯が揺れている。 少女は銃を下ろし、懐刀から短刀を抜いた。刃先が、雪の光を受けて鋭く煌めく。


「殺すのか?」


少年の声は、掠れていた。少女は頷く。躊躇はない。


「もちろん。今は冬だもの。そうしないと、村の皆が飢える。蓄えだけじゃ不安だからね。」


 その言葉は正しい。でも、少年の胸には、割れた水晶の欠片が突き刺さった。 子鹿の眼が、濡れた瞳で彼を見上げている。 森がざわめいた。


――人間があの子を殺そうとしてる.....

――また小鹿の血が流れる。

――助けて、助けて。


 無数の声が、二人の耳に押し寄せる。一方は震えもせず、据わった目で短刀を構えている。

もう一方は、子鹿の首を抱きしめたまま震え、怯えた表情で少女を見つめている。


「……止めないでよね。殺すか、死ぬかなの。全部を救うことなんてできない。選ぶしかないんだ。私は自分と村の人たちを選ぶ。あなたはどうなの?」


少女の言葉に、少年は答えられなかった。 その時、祖父の声が風に乗って届いた。


――「森は試している。森の命を守るか、人の道を守るか。両方はできぬ」


 少年の胸が痛んだ。

人の道――それは、きっと正しい。でも、森の声が、自分の鼓動と重なる。 彼は目を閉じた。そして、深く息を吸い込むと、ゆっくりと言った。


「俺は……両方守りたい」


少女は眉を寄せた。


「甘いこと言わないで!そんな器用なことどうやるの?!」


 少年は黙った。確かに今の自分には何もできない。でも、胸の奥で、小さな火が燃えている。動物たちの声が聞こえる以上、もう彼らを今までと同じように見ることはできなくなった。この声を聞くことは、森と共にあるということだ。ならば、共にあるもの同士が傷つけ合わずに生きる道を探したい。


「今は無理かもしれない。けど、いつか絶対見つけるから。両方が生きていく方法。それを見つけるまで、俺は諦めない」

「……」


 少女の目が揺れた。 雪が、再び強くなる。 少年は、子鹿の額にそっと触れた。 少女の短刀は、宙に浮いたまま。 二人の間で、時間が凍りついた。


 少女は短刀を懐にしまう。気持ちが通じてくれたのかと、少年が安堵して胸を撫で下ろすと、少女は冷たい目線を向けたまま、銃口を少年の額へと合わせる。


「あなたみたいな考え方の人って、とっても迷惑なの。両方が生きていく方法なんて模索してるうちに、人が何人餓死すると思ってるの?」


ガチャリと音を立て、引鉄に指がかけられる。 


「私も、私だって迷ったの。いつも、いつもこんな声が頭に響いてるから……でも結局、最後までこの指は止まらない。結局こうして殺すのがとっても楽なことなんだから……!」


少女の目からは涙が溢れ落ちる。


「だから、ここで考えを改められないならあなたは死ぬべきなのよ。私たちの生き方を邪魔するなら、どんな理由があっても許されない」


 少女の指に力が入る。少年は息を呑む。少年は震える手で子鹿の首を撫でた。幼い頃からこうして動物たちと触れ合ってきた。彼らから感じる温かさを知り、声が聞こえるようになったことで彼らの思いを知ることができた。彼らの思いを知ってから、少年の心の中で沸々と湧き上がる怒り。少女に対してではない。この世界に対してだった。誰かを傷つけないと生きていけない世界なんて、間違いだ。考えを変えることが出来ない。貫くしかない。自分の根底に基盤としてある思想を捻じ曲げ死んだように生きるなら、潔く今殺された方が良い。


「俺は……誰も傷つけたくない」


 その言葉が雪に溶けた瞬間、引き金が引かれ、乾いた破裂音が森に響いた。森が息を吹き返す。 風が舞い、鳥が鳴き、木々がざわめく。 少女の涙が頬を伝い、雪の上に落ちた。


新しい朝は、もう止まらない。


 雪が音を立てて降り始めた。非情に冷たく、容赦なく、少年の顔に降り積もる。真っ白な雪は、大地へ流れゆく鮮血さえも隠してくれる。その赤を隠してくれる。少年は、膝を折って倒れた。温もりを感じさせるはずの血潮は、むしろ骨まで凍えさせ、体から熱を奪う。


 少女は小鹿に手を付けることなく、その場から離れた。山吹色の頭巾が風に揺れ、雪を蹴る足取りはもう迷っていない。少年は、雪に沈みながら少女の姿を見送った。後悔なんて微塵もない。後悔がないことを誇りに思う。確かに自分の意思は、僅かな時であれど存在した。


 雪の上に仰向けで寝転がる少年の意識が、薄れていく。そのさなか、走馬灯のように流れるのは、木々しげる森の景色。その中を進むとやがて、木々が開け、巨大な杉の根元に、小さな祠があった。苔むし、古びた鳥居は傾き、鈴の紐は風に千切れて宙を舞っている。祠の前には、ひとつの石が置かれていた。

石の上に、小さな木の椀。


 そして、その中に――まだ湯気の立つ、おかゆ。

椀の底に、文字が彫られていた。


『次の者を待つ』


きっとこの世界は自分が亡くなっても変わらず続いていく。


誰かがまた、十三歳の冬を迎える。


誰かがまた、夜明け前の台所で、金色のおかゆを前に迷う。


そして、選ぶ。


雪が止んだ。

東の空が、鮮やかに赤く燃えている。


少女は歩き続けた。銃の重みを、懐刀の感触を、確かに感じながら、金色の瞳に、朝の光が宿る。


遠く、どこかの台所で。

また、小さな鍋がふつふつと音を立て始める。


止まっていた時計が、カチッ、と動き出す。


誰かの、新しい朝が。


確かに、始まる。

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