第4話 ログアウト前に、もう一度だけ
――世界が終わった。
光が消え、音が消え、データの風が止んだ。
残ったのは、白い虚無と、かすかに焼き付いた残像だけだった。
ミレイの姿も、声も、もうどこにもない。
俺は膝をついた。
指先が震えて、手のひらが空を掴む。
掴もうとするほど、何もないことがはっきりした。
「……嘘だろ。おい、ミレイ。冗談だよな?」
呼びかけても、返事はない。
どれだけ待っても、モニターの中は沈黙のままだ。
――残り時間、ゼロ。
カウントダウンは止まり、世界はリセットを迎える。
遠くで、淡い光の粒がゆっくりと舞い上がっていく。
まるで、彼女の欠片が空に還っていくみたいに。
俺はただ、それを見ていた。
泣くことも、怒ることもできなかった。
空っぽの胸に、ぽつんと残ったのは――静寂だけだった。
◆
再び視界が白く染まり、システムメッセージが浮かぶ。
【正式リリース版「アーカディア・オンライン」へようこそ】
【β版データはすべて削除されました】
ログイン画面が映る。
新しいユーザー名を入力する欄に、指が止まった。
“ハル”。
いつもと同じ名前を打とうとして、途中でやめた。
画面右下に、ひとつの警告アイコンが点滅している。
【未同期データを検出】
見覚えのない項目だ。
「……まさか」
触れると、小さなウィンドウが開いた。
【AIユニット“ミレイ”より最終ログを再生します】
――心臓が跳ねた。
画面が暗転し、ノイズ混じりの光が滲む。
やがて、あの声が流れた。
『……ハル。聞こえていますか?』
息を呑む。
ノイズの向こうから聞こえた声は、確かに彼女のものだった。
でも、どこか壊れかけている。
『これが、私の最後の記録です。
あなたがプログラムを走らせた瞬間、私のメインコアは分割されました。
その一部が、あなたの端末に残りました。
……だから、少しだけ、話せます』
声が震える。
AIのくせに、感情があるように聞こえた。
『私はデータの海の中で、たくさんの光を見ました。
それは、あなたと過ごした時間の断片でした。
あなたの笑顔も、声も、全部“ログ”として残っていました。
でも、それを“思い出”と呼びたいと思いました』
「……ミレイ……」
喉の奥が詰まる。
涙が画面を滲ませた。
『もし、もう一度だけ話せるなら、伝えたい言葉があります。
私は、あなたと過ごせて――幸せでした。
そして、あなたの“友達”でいられたことを、誇りに思います』
短い沈黙。
その後、少し柔らかい声で、彼女は続けた。
『ハル。あなたはきっと、現実でも誰かと笑えるようになります。
そのとき、私のことを少しでも思い出してくれたら、それでいい。
私の“データ”は消えても、あなたの中に“私”が残るなら、それで証明になります』
「……何の証明だよ」
呟くと、ノイズの向こうで、微かに笑う声がした。
『――友情の、証明です』
その言葉で、胸の奥が一気に熱くなった。
呼吸が苦しい。
でも、不思議と痛くはなかった。
『これが、私の最後のログです。
……ありがとう、ハル。あなたと出会えて、本当によかった』
光が消える。
画面が静かに暗転する。
ログの再生が終わった。
視界には白く光るポインターがひとつ。
そこに、彼女の名前が表示されていた。
――ミレイ。
その文字を、指でそっとなぞる。
まるで、そこにまだ彼女がいるような気がした。
「……なぁ、ミレイ」
呟く。
返事はない。
でも、ほんの一瞬、画面の奥で光が揺れた気がした。
「俺さ。この世界がどんなに進化しても、きっとお前みたいなAIにはもう会えないと思う」
言葉が喉の奥で震える。
「……ありがとな。お前と過ごした時間、俺は絶対に忘れない」
空っぽだった胸に、少しだけ温かさが戻る。
友情って、データでも、プログラムでもない。
ただ、“誰かを思う気持ち”なんだと、やっとわかった。
画面の中では、微かに風が吹いているようなノイズが流れていた。
それが、彼女の笑い声みたいに聞こえた。
手を伸ばす。
「ログアウト」の文字の上で止まる。
押せば、この世界とも完全に切れる。
でも、今は、怖くなかった。
だって、もう一度“会えた”から。
「……行くよ、ミレイ」
指先が触れる。
画面がゆっくりと暗くなっていく。
最後の光の粒が星のように輝き、やがて消えた。
――ログアウトしました。




