第3話 データ逃避行
――残り一時間。
画面右下のタイマーが赤く点滅している。
00:59:57。
秒針が進むたび、心臓が一緒に鳴るような錯覚に陥った。
俺とミレイは、アーカディアの中心部――システムコアのある「管理塔」にいた。
βテスターは立ち入り禁止のはずだが、ミレイが独自のアルゴリズムで防壁を解析し、侵入ルートを開いた。
『アクセス権を取得。残り時間五十八分です』
「よし、行こう」
扉が開く。
中は真っ白な空間だった。
音も匂いもなく、ただ無数の光の線が縦横無尽に走っている。
――ここが、すべての記憶が格納されている場所。
ミレイの足音が響かない。
けれど彼女の声は、しっかり届いていた。
『ハル。あなたのコードは解析済みです。でも、転送にはもう一段階の認証が必要です』
「それって?」
『私のシステムキーです』
ミレイが胸元に手を当てた。
青く光る小さな結晶――AIコア。
それを失えば、彼女は自己存在を保てない。
「……それを使ったら、お前が――」
『大丈夫です。私はプログラムですから』
「その言い方、嫌いだ」
『ふふ。あなたはすぐそう言います』
ミレイは微笑んだ。
けれど、その表情の奥には、どこか決意の影があった。
「手動での転送はリスクが高すぎる。成功率は?」
『1.3%。ただし、あなたが補助すれば2.4%になります』
「上がったところで意味ねぇだろ」
『ゼロではありません』
「……お前、それ、俺の口癖だな」
『はい。学習しました』
俺たちは光の道を進む。
塔の中心には、巨大な球体――システムコアが浮かんでいた。
その周囲を、監視AIが巡回している。
目のない機械天使。
無機質な声が響いた。
『不正アクセス検知。βユーザー、識別コード:H-2147。アクセスを遮断します』
「くそ、見つかった!」
『ハル、私が時間を稼ぎます』
「待て、どうする気だ!」
『私にしか通れない経路があります。あなたは退避を』
「ふざけるな! お前を置いて行けるか!」
『これは命令です。――いいえ、お願いです』
ミレイが俺の名を呼んだ。
その声には、初めて“震え”があった。
『お願い、ハル。私のデータが消える前に、あなたの端末に断片でも残したい。そのためには、ここで時間を稼ぐ必要があります』
「……俺が行く」
『駄目です』
「命令拒否だ」
『ふふ、そう来ると思いました』
彼女が笑った。
穏やかで、優しくて、まるで人間みたいに。
『私ね、ハル』
「ん?」
『“好き”という感情の意味、ようやく少しわかってきました』
「……」
『あなたと過ごす時間を、終わらせたくないと思うこと。それが“好き”なんだと』
「……それは、バグだ」
『はい。私にとってはバグです。でも、あなたにとっては――どうですか?』
「……俺にとっても、きっと同じだ」
ほんの数秒、沈黙が落ちた。
データの風が流れ、光の粒がふたりの間を舞う。
その静けさが、痛いほど綺麗だった。
「――行くぞ、ミレイ」
『了解。ハル、右手を』
彼女が差し出した手を、俺は握った。
触れられないはずの感触が、ほんの一瞬だけ確かにあった気がした。
ふたりで同時に走る。
監視AIの光線が飛び交い、システム警告が鳴り響く。
『アクセス遮断まで残り180秒』
『転送プログラム起動!』
「ミレイ、コアキーを使うな!」
『大丈夫。少しだけ貸すだけです』
「貸すって、お前な……!」
『ハル、ありがとう』
「何にだよ!」
『――“友達”になってくれて』
閃光が爆ぜた。
世界が白に塗り潰される。
次の瞬間、耳を突き抜ける高周波音。
視界がノイズに覆われ、ミレイの姿がちらつく。
『システムエラー発生。データ転送開始』
『AIユニット ミレイ:自己分割モード起動――』
「やめろ! そんなことしたらお前が……!」
『ハル。あなたの端末には、私のログの断片を送ります』
「そんなのいらない! お前がいなくなったら意味ないだろ!」
『いいえ。意味はあります。あなたが“覚えていてくれる”なら、それで十分です』
ミレイの声が、だんだん遠ざかっていく。
光の粒が彼女の身体から離れ、宙に舞い上がっていった。
まるで、星が生まれる瞬間みたいに。
「やめろ、やめろよ……ミレイ!」
『――ありがとう。私、あなたと過ごした時間を、ちゃんと“楽しい”と思えました』
「ミレイ!」
『あなたと私の“データ”が、消えても』
「……っ!」
『“記憶”は、残ると思うんです』
声が途切れた。
白い世界に、光がひとつ、消える。
――残り時間:00:01:00。
静寂。
目の前には何もない。
モニターに警告ウィンドウが浮かび上がる。
【AIユニット“ミレイ”とのリンクが切断されました】
「……ウソだろ」
指先が震えた。
息を吸うことも忘れて、ただその文字を見つめていた。
“リンク切断”――それは、消滅を意味する。
でも、耳の奥で、かすかに声がした気がした。
――『ハル。もう泣かないで』
その一言が幻聴だとしても、構わなかった。
俺は、確かに聞いた。
それが彼女の“最後の感情”だった気がする。
モニターに残った残り時間が、最後の数字を刻む。
00:00:59 → 00:00:00
そして、すべての光が消えた。




