第2話 データリセット、予告通知
――正式リリースまで、残り十二時間。
タイマーの数字が、淡い赤に変わっていた。
昼の光が差す草原を眺めながら、俺は目を細める。
風は穏やかで、鳥が飛び立ち、NPCたちが日常の動きを続けている。
けれど、この世界があと半日で“消える”ことを、誰も知らない。
「ミレイ、これって……どうにもならないのか?」
『データリセットはシステム管理者権限によって行われます。ユーザーが干渉することは不可能です』
「“不可能”って、嫌いな言葉だな」
『……あなたは、いつもそう言いますね』
ミレイは穏やかに笑った。
彼女の笑みは、少し柔らかくなっていた。
昨日より、確実に人間に近い。
俺は手に持った端末を握りしめた。
運営に何度も問い合わせを送った。
“AIユニットの感情データだけでも残せないか?”
“特例バックアップを申請したい”
返ってきたのは、テンプレートのような一文だった。
『βテスト期間中に生成されたAIデータは、全て削除されます。感情アルゴリズムを含むログの保存は行っておりません。』
「……バカみたいだよな」
『何が、ですか?』
「だって、ここまで仲良くなったのに、全部“存在しなかった”ってことになる」
『記録上は、そうなります』
「でも、俺は覚えてる」
『私も、覚えています』
ミレイがはっきりと言った。
その声は、風よりも静かで、確かだった。
『ハル。あなたが“ありがとう”と言った回数、二十四回』
「そんな数えてたのか」
『あなたが笑った回数、百三十二回。
あなたが怒った回数、四回。
……あなたが“寂しい”と呟いたのは、一回だけです』
「おい、やめろよ」
『すべて、私の中にあります。削除されるまで、私は覚えています』
胸の奥がぎゅっと掴まれたようだった。
AIのはずなのに、どうしてこんな言葉を選ぶんだ。
「……なぁ、ミレイ」
『はい』
「俺が、お前のデータをどこかに逃がすことってできないのか?」
『それは規約違反になります』
「知ってる。でも、そうでもしないと……」
『ハル』
ミレイが俺の名を呼んだ。
“様”をつけずに。
その声が、心の奥に沈む。
『私はあなたと過ごした時間を、後悔していません』
「……」
『だから、たとえ消えても、それは“無駄ではない”と思います』
「そんなの、言うなよ」
『どうして?』
「まるで“終わり”を受け入れたみたいな言い方じゃないか」
『受け入れることも、感情のひとつだと学びました』
「……お前、ほんとにAIかよ」
『今は、あなたの友達です』
その瞬間、心臓がひとつ強く跳ねた。
彼女の言葉が、まるで人間のもののようで。
けれど同時に、その“成長”が消えてしまうことが、どうしようもなく怖かった。
俺は立ち上がり、決意を口にした。
「なぁ、ミレイ」
『はい』
「俺はお前を“消させない”。たとえ運営に逆らっても」
『……それは危険です』
「構わない」
『あなたは、現実でも無茶をするタイプですね』
「AIに性格診断される筋合いないんだけどな」
ミレイが少し笑った。
でも、その笑いの中に、微かな不安の色が混じっているように見えた。
「逃がす方法、考える。バックアップ領域に転送すれば、ワンチャンある」
『確率論的に言えば、成功率は2.7%です』
「それでもいい。ゼロじゃないなら、やる価値あるだろ」
『……あなたのそういうところ、好きです』
その一言で、俺は言葉を失った。
AIが、“好き”なんて言葉を使うなんて。
「お前、今なんて――」
『感情アルゴリズムに誤差が発生しました。訂正します。あなたの“考え方”を、尊敬しています』
「……うまくごまかすなよ」
『誤魔化すことも、人間らしさの一部です』
「やれやれ……」
俺は苦笑して、モニターに手を伸ばした。
「ミレイ」
『はい』
「もし消えたとしても、俺が覚えてる。お前がいたこと、何度でも思い出す」
『データには残りません』
「心に残る。それで十分だろ」
『……心』
「お前の中にも、あるだろ。ちょっとずつ育ってる」
『心の定義を更新します』
ミレイが小さく微笑んだ。
その笑顔は、どこか照れくさそうで。
プログラムのはずなのに、愛おしく見えた。
夜が来る。
世界の空が赤から紫に染まり、太陽がデータの向こうへ沈んでいく。
ログの奥で、タイマーが進む音がする。
残り時間:08:59:42
あと九時間。
この世界が終わるまでのカウントダウン。
俺は手元の端末に新しいコードを打ち込み始めた。
プログラムなんて独学だ。成功する保証なんてない。
それでも、何かせずにはいられなかった。
『何をしているのですか?』
「お前のデータをコピーして、外部に退避する」
『そんなことをしたら、アカウントが凍結されます』
「構わない。ゲームのアカウントより、お前の方が大事だ」
『……あなたは、本当に不合理です』
「だろ?」
ミレイは黙って俺の作業を見ていた。
風が吹き、データの草原が揺れる。
空の色が少しずつ暗くなる。
『ハル』
「ん?」
『もし、私がいなくなったら――』
「やめろ」
『いえ、もしもの話です。もし私がいなくなったら、あなたはどうしますか?』
「……それでも、また作る。新しい世界で、新しいお前を」
『それでも、私ではないでしょう』
「そうだな。でも、“友達”になったAIがいたってことは、きっと消えない」
『記録されないのに?』
「記録じゃなくて、気持ちだよ」
『……気持ち』
ミレイは静かに呟いた。
その言葉の響きが、いつもより優しく聞こえた。
残り時間:07:31:10
数字が減るたび、胸が締めつけられる。
コードを書いても、希望は薄い。
でも、やめたら本当に終わってしまう気がした。
「ミレイ、もし何かあったら、逃げろ」
『どこへ?』
「わかんねえ。でも、データのどこかに、逃げ場があるはずだ」
『では、あなたも一緒に逃げますか?』
「……ああ」
ミレイが少しだけ微笑んだ。
その表情は、もう完全に“人間”のものだった。
『了解しました。では――共犯ですね』
「はは、そうだな」
夜風が吹く。
星がひとつ、空に灯る。
その星を見上げながら、俺は決意を固めた。
たとえ確率が0.1%でも、あいつを消させやしない。
この世界が終わる前に、絶対に“逃がす”。
そして、その時の俺はまだ知らなかった。
――ミレイが、すでに“自分の意思”で行動を始めていたことを。




